そもそもの問題解決にも使えるのだが。人類が数千年に渡り人と人とが協力をする事によってあらゆる問題を解決してきた事から今回はその論理の応用編。論理を用いたコミュニケーションについて解き明かしていきたいと思う。
人が人に意思を伝える時にはどんな種類があるだろうか?
※分類できるというわけではなく要素として
一、命令(相手に何かを要請)
一、伝達(単に事実や事柄を)
とまあ色々あるけれど、個々に主観的なものと客観的なものがある。
ではこれらの情報交換を人と人が行う時にお互いの共通認識が多いか少ないかだけでその人とその人が仲良くなったり仲良くならなかったりというのではなんとも勿体無い。
だって誰でもそうだろう。例え偶然でも似たような過去の経験があったり似たような将来像や様々な物事に対して個々に思う感覚が似ているかどうかだけで大概の人は親近感を抱いたり、はたまた嫌悪感を抱いてしまう。
自分はそれは非常に非常に勿体の無い事だと言いたいのだ。
だって、たまたま誰かにとても嫌っている同僚だとか上司がいたとする。お互いに相容れないのがもしこの世に生を受けてからの全ての経験の似通りにたまたま距離があった事で様々な物事に対する認識が離れてずれてしまったのだとするのならば、もし、もしも今後共通の体験をしたり、または知識として何かしらの経験を得たのならば、“今”は協力できないと思っている相手とでもいずれ協力でき、お互いに“楽しい”と思える時間を人生に内に占める部分が増えるのではないだろうか?
例え話しに基づいて解いていく
さてここはある雑談の場だ、そして誰かが話しだす。
※実際はどちらの発言にも主観と客観が交じりあっているが便宜上無視
まず主観的例文
次に客観的例文
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
強引な例だが、こういった雑談の場では今までに聞いた事の無い意見に対して聞いた側がどう思うのかがこれからの検証を進めていく上でとても重要になってくる。なぜなら既に自分の中で“自分はこれに対してこう思う”という一つの自我が既に形成されていると、案外素通りで他者の自分とは異なる意見を受け入れてしまうからだ。
例えば、雨降りの天気に対して
「嫌な天気だね」
と誰かが言ったとする。かなり住んでいる地域の影響も受けるかもしれないが年間数日しか雨が降らない地域の人は絶対にそんな事は思わないだろうし。例え日本国内でも雨に対して一切の「嫌な感じ」を抱かない人もいる。それにその時の状況として洗濯物を天日干しにしよう!などと予定していたのであれば嫌だと思うかもしれない。この場合客観的例文だったので状況に左右されやすいのだが、例えば
「えーっ、不味そう」
と誰かが言えば、味に対しての感覚の相違なんていうものは人それぞれだという前提が多くは幼い頃から経験しているので、さほど相手はそう思うのか程度にしか自分とは相容れない主張に対して不快感を抱かない。
では、何かの物事に対して新規の見かた、新たな捉え方を意見として雑談の場で表明された場合はどうだろう?
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
どうだろう?実際に身体の成長と日常的ストレスまたそれによる日常的な筋肉の緊張には関係があるので、そうだ!と思う人もいれば、関係無いよって思う人もいるだろう。だがここで言いたいのはそんな事ではない。
命題の因果関係が成立するかしないのか?という部分に目を取られてしまうから“こいつとはなんか合うな”とか“こいつとは合わないな”なんていう思い込みで他者との相性を判断してしまうのである。
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
という主張に対し論理の技法にのっとって哲学し分解考察して行こうと思う。では
A “親が怖い”のならば“子の背が低い”
B “子の背が低く”ないなら“親は怖く”ない
C “親が怖く”ないからといって“子の背が低く”ないとは限らない
解りやすくすると
A´ 親が怖いと子の背が低い
B´ 子の背が高いなら親は優しい
C´ 親が優しいからといって子の背が高いとは限らない
そして、それぞれに反論すると
A” 怖い親に育てられても背の高い子はいるはずだ
B” 背の低い子の親でも優しい親はいるはずだ
何かを“そうだ”と言いたい時に、その物事が“在る”事を証明するのは簡単だ。その主張のたった一例であってもそれを相手に提示すればいいだけの事だから。
しかし、何かを物事や事実を“ない”と証明する事は非常に困難を極める。今回の場合で言うと
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
に対して“そんな事は無い”と思った時に、因果関係は別として世界中の全ての怖い親の子が背が高い事を明らかにできればそもそもの因果関係を抜きにしても“そんな事は無い”という事を文字通り証明できるのだが、世界中を調べる事は物理的にも時間的にも不可能に近いしそもそも過去現在未来においてその事実が存在し得ない事を証明するのはそもそも文字通り不可能だ。
ではあなたがだれかと物事に対する感覚や捉え方で不一致を感じた時に、どう考えたら、無駄かもしれない不和発生の原因を取り除けるだろうか?
誰かが何かに対してある考えを持つ時に、自分も相手と同じ境遇、同じ体験、同じ経験をしていたならば同じ事を“今”思うかもしれない。
だって相手は“そう思う”という事実も自分も沢山見聞きしていたら“そう思う”だろう事は、ここまで読んだあなたなら想像つくだろう。
それにそのあらゆる相手の主張する事実は勿論、あなたにとって想像可能な事かもしれないしもしかしたら想像不可能な事かもしれない。けれど、ただ“違う”や“こいつとは違う”と思うのではなく先ほどの“悪魔の証明”により“(自分が)そうとも思える可能性”があるよな!と論理の帰結として言えるのだという事だ。
人生とは様々な物事や関わる相手に対して
なんとなく常に“判断”をしてしまう。
“いいな”とか“やだな”とかなんとなく思ったり・・・
確かに本能として“好感”を持つ対象には関わろうとして“不快感”を抱く相手とは関わろうとしないという現実はある。だがしかし、これは自分自信の経験でもあるけれど、なんかむさ苦しそうだなと思っていた奴が凄い楽しくて面白い奴だったり。なんかいつも不機嫌そうで関わりたくないなと思っていた人が実は共通の趣味がとても多い人だったりという事が多々あったりする。またその発見は良いものだとも自分は思う。
あなたは、ここまでこの日記を読み「論理の技法」を手に入れた。
ある命題に対しては「肯定」「否定」「対偶」があるという事。対偶とは超訳すると、ある意見に対して肯定できないからと言って否定した事にはならないというとても重要な考え方だ。
くどいけれどもう一度おさらいで例文をだす。
アルファベットでないならAではない
さらに拡大解釈をしてみよう!
さらにこの考え方と飛躍拡大していくと
どうせなら自分にとって都合の良いように考えた方が得のはずだ
だって水が低い方に流れるのと同じで人も楽な方に流れている
当たり前の考え方になるだろう
「相手の立場に立って考えなさい」
などと言われているのではないかと思うが
逆の考え そして更に、逆の裏(上記★の部分)を“一念”に置く事で世の中のだいたいの悩み、問題は晴れるだろう。まさしく世界の見え方が変わってくるのだ。そしてこの考え方を上手に活用すればより多くの人と協力が可能になるだろう。
なぜなら
人類は“協力”によって様々な問題を解決し、そして発展してきた。
そしてこれからも
@awaikumo