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2021-07-15

anond:20210715214436

上級国民の御子息ゆえの万能感では?

なにをしても罰せられないみたいな

大名奴・旗本奴・太陽族カラーギャング

国立高校でもセミ食わせて骨折させてたぞ

  

子が親にやられて嫌なことをできる相手にしているとはよくいわれるよな

子の荒れは家庭の荒れ

青山学院中等部でも男子生徒2名を2万円で買収して同級生女子生徒に対しレイプするよう依頼し、

男子生徒は女子生徒をトイレ個室に追い込み、そこへ押し入って服を脱がし動画撮影してたぞ

 

まぁ進学校ボンボン学校から特別いじめが多いってことは無いが

 

  • 金に困ってないのに家庭が荒れてる>子も荒れているとか闇深そう
  • 荒れてる公立校でも聞かないレベル事件が揉み消されがち

anond:20210715202444

下級国民だろ 皮肉でもなんでもなくて

 

オリンピック大名奴・旗本奴の祭典

 

日本は町奴はいなくなったからどうにもなんないね

海外なら町奴が暴れる案件

また一つ新しい言葉を覚えたw anond:20210715134332

はたもとやっこ 【旗本奴】

江戸時代旗本青年武士集団をなし,はでな服装をして,無頼を働いたもの。神祇組(じんぎぐみ)・白柄組・六法組などが知られ,首領株に水野十郎左衛門がいた。

へー。高校日本史履修してたら、こんなの常識なのかな?

オレ世界史しかやってなかった〜 残念w

anond:20210715133911 anond:20210716084747

学歴コンプ貧乏人が見る夢は卑屈過ぎてな。カラーギャングだって私立校人間だったし

旗本奴・太陽族じゃないけど古代から上級のアホガキほど悪いヤツだいたい友達やりたがるぜ

親が猛毒なんだろうな

国立高校でもセミ食わせて骨折させてたぞ

  

親にやられて子が嫌なことをできる相手にしているとはよくいわれるよな

子の荒れは家庭の荒れ

青山学院中等部でも男子生徒2名を2万円で買収して同級生女子生徒に対しレイプするよう依頼し、

男子生徒は女子生徒をトイレ個室に追い込み、そこへ押し入って服を脱がし動画撮影してたぞ

 

まぁ進学校ボンボン学校から特別いじめが多いってことは無いが

 

  • 金に困ってないのに家庭が荒れてる>子も荒れているとか闇深そう
  • 荒れてる公立校でも聞かないレベル事件が揉み消されがち

2021-07-09

コメ価格に基づく購買力平価名目GDP

物価の違いを反映させるために、GDP購買力平価為替レートで計算する方式がある。

実際には購買力平価は様々な品目から算出されるようだが、今回は米の値段のみを用いた絶対的購買力平価によって名目GDP計算してみよう。


名目GDP

ドルよりも石高のほうが分かりやすいという人に配慮して単位ドルと石(1石=米150kg)の2つを用意した。

順位国名単位:10ドル単位:百万石
1
43331
79799
2
20933
38550
3
14420
26557
4
8446
15554
5
7526
13861
~
-
3528
6498


1人あたりの名目GDP

順位国名単位:ドル単位:石
1
259433
478
2
247937
457
3
173801
320
4
170737
314
5
166182
306
~
-
63416
117
-
30855
57
-
28056
52

(通常の為替レートでは上位に位置するアイスランドサンマリノは、米価のデータ存在しなかったため1人あたりの名目GDPを算出することができなかった。)


日本は豊かになったといえども、1人あたりの石高は50石程度であり下級旗本ほどの石高しかない。


データ引用元

https://www.imf.org/external/datamapper/datasets/WEO

  • GlobalProductPrices.com

https://www.globalproductprices.com/rankings/rice_prices/

2021-02-08

anond:20210208102707

貧乏旗本の三男坊・徳田新之助 は、徳さんじゃなくて、新さん って呼ばれてるゾ。

2020-08-02

武士道批判序説(6)

維新後、江戸山の手言葉標準語ベースになったけど……山の手に住んでたんは旗本。以前、人工日本語である標準語は『戦犯ポエム弁』『ジークジオン弁』て言いましたが、同時に『腰抜け弁』やないのかと」

貴族化してながら武士道言い続ける建前は滑稽やわ」

藤原正彦先生の言われる『武士道精神』は、キリスト教まで混じったフィクションとしての武士道やないのか、ていう話やけど……」

空想的な歴史想定して、それ裏付けに論じるんやから手法的には『江戸しぐさ』に近い? 『たとえ史実に反しても、ええもんはええんやからええねん』ていう」

武士道」は鎌倉時代以降、特に江戸時代に多くの日本人行動基準道徳規準として機能してきました(日本韓国国家の品格文藝春秋2019年10月号)

鎌倉時代……正しくは『後期平安時代』やろけど、それ以前の日本人のこと藤原先生はどう捉えてはるんやろか? 平安、平城難波……これらの時代をどう思てはるんやろ?」

儒教仏教もとうに伝来してるやんな」

施薬院や十七条憲法をどう思てはるんやろ?」

武士道発生の遥か昔やけど、仁や惻隠の思想合致してる」

「さかのぼっても千年に足りない鎌倉まり……歴史を深掘りできんせいで、あちらは老いる一方なんやいか……?」

マラソン苦し紛れの暑さ対策に、打ち水朝顔て」

ドラマの史劇フィクションと言えば鎖国時代の一つ覚え……。味のせんガムを噛み続けてる」

室町、平安、平城飛鳥難波国生み神話……振り返るたびに精神リフレッシュされますわ」

鎌倉自体推したいのか推したないんか中途半端やわ。推しすぎると江戸が相対沈下する……。話を戻すと、武士道には大別して二つの潮流があります。一つは兵学者・山鹿素行が説いた道徳律としての武士道。もう一つは鍋島藩士・山本常朝の談話を記した『葉隠』にあるような強烈な行動原理

2020-07-18

武士道批判序説(5)

「『今大切なのは武士道精神ユーモア』とおっしゃる藤原正彦先生やけど、失礼ながら先生の実演されるユーモアは……」

例えば清の時代の記録によると、李氏朝鮮は毎年、金を百両、銀を千両それから美女・馬・豚・牛などをそれぞれ三千ずつ貢がなければなりませんでした。美女差し出せなどと言う中国は本当にひどい国です。羨まし過ぎて絶対に許せません。(日本韓国国家の品格」・文藝春秋2019年10月号)

「これが何であかんか、ほんまにわからんのやろか?」

ユーモアとは「距離感覚」です。いったん自分と状況との間に距離をおき、状況を俯瞰することで客観を取り戻し、事を上手く運ぶことが出来るのです。

「間違いです。ユーモアがそんなものでないことは、上方落語聴いて、少し考えてもらえればわかります

関東的やなあとは思うで? 『俯瞰』『客観』言うときながら、笑わせ方に余裕がない」

徳川期、『人は武士』の見本は旗本衆やろけど……彼らの3分の1は無役の暇人やし、それも家禄の多い者ほど役に就かへん。役職に就いた者も、実務は旗本家を渡り歩く渡用人頼り。幕府という武断政権最後有事に役立ったんは、旗本株を金で買った祖父を持つ勝家の海舟さんや、京都守護職預かりのバラガキら即製の幕臣

「ほぼ『名誉武士』やんな」

2020-07-07

正統な日本語を話そ

大野晋 日本語は、もともと関西で発達したんですね。〔……〕関東はね、元来、別の言葉をしゃべっていた。そこへ日本語が入ってくるわけです。だから発音の習慣だけは以前の言語の習慣が残り、関東母音を落とす。関西母音が多い。母音を落としちゃ、日本語はいけないんです。〔……上方漫才は……〕日本語の正統な流れなんですよ。

司馬遼太郎 『日本書紀』の天智〔……〕五年〔665〕に「百済人二千余を東国に置く」、天平十八(七四六)年に「新羅人武蔵に置く」。この聖武時代あたりが関東あけぼの〔……〕。それが大きな集団ものですから坂東武士先祖は、やはり入植渡来者と非常に関係があると思うんです。

 〔……〕日本人は、とくに上方人間は、子音が詰まった形では発音出来ない。ところが東京の人は、それを平気で発音出来る。「なんちゃって」と言うでしょう。そしてトゥングースの言葉も子音を子供ときからどんどん言うんですよ。

永井路子 やはり気候の差があると思います関東からっ風というのは、特殊作用をしている。はっきり言えば、口を開いていられないんですよ。〔……〕口をまともに開けてはしゃべられない。話をするにも、優雅母音発音しているひまがないくらいに、タッと早く喋るわけですね。ですからだんだん詰まっていく。

「口をまともに開けてられんなら、まともに笑うこともできん。まともにしゃべれん、笑えんとなると、思考感情も育ちにくい気がするけど……いわゆる標準語は、旗本言葉切り貼りした人工日本語戦争演説に適した『ジークジオン弁』。大阪児童学力が低いて言われるけど、『欠陥語』教育本能的に反発した結果ちゃうの?」

「『普段正統な本物の日本語話しとるのに、何でデチューンした偽物の日本語教わらなあかんねん』て、感覚にわかるんやろなあ。どちらを標準語採用すべきやったかというと……」

「小籔さんを起用した例の厚労省人生会議ポスター』が中止された時、こんな意見が報じられました」

死や死にゆく人を茶化すような表現は、関西弁を使ったり、お笑いの人が登場したりしていることを考えてもおかしいですし、関西の人だって死や病気になって生きることに真剣に向き合っているはずです〔BuzzFeed News

「これもう別の国か別の民族意見やろ……上方言葉を何やと……」

2020-06-27

武士道批判序説(2)

「『国家の品格』を著した藤原正彦先生の『今こそ武士道を』ていう御意見への反論やけど……まず現実武士を云々する前に、先生の論説のあり方が理屈としておかしい」

勇気あるなあ。数学先生にそれ言うん?」

文藝春秋2019年10月号『日本韓国国家の品格」』で、先生はこうおっしゃってます

朱子学の教えでは、序列が上の人間に対して「礼を尽くす」のが最大の美徳となります朝鮮はこの教えに徹底的に倣って、中国に対して礼を尽くしていました。〔……〕こうして朝鮮は「主体的国家であることを放棄していたため〔法や秩序の意識が育たず〕その延長線上で、今でも簡単国家間の約束事を破ってしまうのです。

「これ、鎖国時代のお侍に聞かせてみたいわ」

「て言うと?」

上野の学寮、湯島聖堂昌平坂学問所……時代は移れど、武士の中の武士であろう旗本御家人の頭に注入されてたんは、その朱子学徳川時代中期、松平定信以降は朱子学以外の儒学が実質禁じられてさえいた」

「それもう国教ちゃうの?」

徳川期の武士道の中心には朱子学がある。そして武士道を推す藤原先生念頭にあるのは、徳川期の武士

武士道」は鎌倉時代以降、特に江戸時代に多くの日本人の行動基準道徳規準として機能してきました〔……〕

「『国家の品格』が2005年出版されベストセラーになってから今まで、藤原先生徳川幕府における朱子学地位について知ることがなかったなど、考えにくいんやけど」

先生文藝春秋編集者さん、先生に近しい人……誰もこの破綻に気づいてへんとか、ありうるんやろか?」

2020-06-26

正統な日本語を話そ

大野晋 日本語は、もともと関西で発達したんですね。〔……〕関東はね、元来、別の言葉をしゃべっていた。そこへ日本語が入ってくるわけです。だから発音の習慣だけは以前の言語の習慣が残り、関東母音を落とす。関西母音が多い。母音を落としちゃ、日本語はいけないんです。〔……上方漫才は……〕日本語の正統な流れなんですよ。

司馬遼太郎 『日本書紀』の天智〔……〕五年〔665〕に「百済人二千余を東国に置く」、天平十八(七四六)年に「新羅人武蔵に置く」。この聖武時代あたりが関東あけぼの〔……〕。それが大きな集団ものですから坂東武士先祖は、やはり入植渡来者と非常に関係があると思うんです。

 〔……〕日本人は、とくに上方人間は、子音が詰まった形では発音出来ない。ところが東京の人は、それを平気で発音出来る。「なんちゃって」と言うでしょう。そしてトゥングースの言葉も子音を子供ときからどんどん言うんですよ。

永井路子 やはり気候の差があると思います関東からっ風というのは、特殊作用をしている。はっきり言えば、口を開いていられないんですよ。〔……〕口をまともに開けてはしゃべられない。話をするにも、優雅母音発音しているひまがないくらいに、タッと早く喋るわけですね。ですからだんだん詰まっていく。

「口をまともに開けてられんなら、まともに笑うこともできん。まともにしゃべれん、笑えんとなると、思考感情も育ちにくい気がするけど……いわゆる標準語は、旗本言葉切り貼りした人工日本語戦争演説に適した『ジークジオン弁』。大阪児童学力が低いて言われるけど、『欠陥語』教育本能的に反発した結果ちゃうの?」

「『普段正統な本物の日本語話しとるのに、何でデチューンした偽物の日本語教わらなあかんねん』て、感覚にわかるんやろなあ。どちらを標準語採用すべきやったかというと……」

「小籔さんを起用した例の厚労省人生会議ポスター』が中止された時、こんな意見が報じられました」

死や死にゆく人を茶化すような表現は、関西弁を使ったり、お笑いの人が登場したりしていることを考えてもおかしいですし、関西の人だって死や病気になって生きることに真剣に向き合っているはずです〔BuzzFeed News

「これもう別の国か別の民族意見やろ……上方言葉を何やと……」

2020-06-19

正統な日本語を話そ

大野晋 日本語は、もともと関西で発達したんですね。〔……〕関東はね、元来、別の言葉をしゃべっていた。そこへ日本語が入ってくるわけです。だから発音の習慣だけは以前の言語の習慣が残り、関東母音を落とす。関西母音が多い。母音を落としちゃ、日本語はいけないんです。〔……上方漫才は……〕日本語の正統な流れなんですよ。

司馬遼太郎 『日本書紀』の天智〔……〕五年〔665〕に「百済人二千余を東国に置く」、天平十八(七四六)年に「新羅人武蔵に置く」。この聖武時代あたりが関東あけぼの〔……〕。それが大きな集団ものですから坂東武士先祖は、やはり入植渡来者と非常に関係があると思うんです。

 〔……〕日本人は、とくに上方人間は、子音が詰まった形では発音出来ない。ところが東京の人は、それを平気で発音出来る。「なんちゃって」と言うでしょう。そしてトゥングースの言葉も子音を子供ときからどんどん言うんですよ。

永井路子 やはり気候の差があると思います関東からっ風というのは、特殊作用をしている。はっきり言えば、口を開いていられないんですよ。〔……〕口をまともに開けてはしゃべられない。話をするにも、優雅母音発音しているひまがないくらいに、タッと早く喋るわけですね。ですからだんだん詰まっていく。

「口をまともに開けてられんなら、まともに笑うこともできん。まともにしゃべれん、笑えんとなると、思考感情も育ちにくい気がするけど……いわゆる標準語は、旗本言葉切り貼りした人工日本語戦争演説に適した『ジークジオン弁』。大阪児童学力が低いて言われるけど、『欠陥語』教育本能的に反発した結果ちゃうの?」

「『普段正統な本物の日本語話しとるのに、何でデチューンした偽物の日本語教わらなあかんねん』て、感覚にわかるんやろなあ。どちらを標準語採用すべきやったかというと……」

「小籔さんを起用した例の厚労省人生会議ポスター』が中止された時、こんな意見が報じられました」

死や死にゆく人を茶化すような表現は、関西弁を使ったり、お笑いの人が登場したりしていることを考えてもおかしいですし、関西の人だって死や病気になって生きることに真剣に向き合っているはずです〔BuzzFeed News

「これもう別の国か別の民族意見やろ……上方言葉を何やと……」

2020-05-12

吉原繁栄の裏で「身売り」された貧困家庭の娘たち

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8905/

旗本と思われる匿名の著者の筆になる『世事見聞録』(文化13年)は、農村の身売り事情にについて――

 国々の内にも越中越後出羽辺より多く出るなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るといふ。

 と述べ、越中富山県)、越後新潟県)、出羽山形秋田県)の貧農が幼い娘を三~五両で女衒に売っている、と。

 不作などで困窮した農村女衒がまわり、女の子仕入れていたのである

 

コロナが終息したら絶対面白いことがある。美人さんがお嬢風俗嬢)をやります。短時間お金を稼がないと苦しいですから。今はお金を貯めて踏ん張りましょう」

2020-05-11

ルールルールを逸脱することによる報酬

社会組織ルールで成り立つ。ただ、ルールといっても端っこのほうでは多少裁量余地はある。

ルールルール通りに運用すれば過ちがない代わりに、事情を加味してくれないから冷たいとなる。ザ・官僚

後、讒言にはかなり弱いな。

そこで裁量を生かしたり、事情を加味すことにより恩を与えて忠誠心を持たせたりする。ザ・狸おやじ

ザ・官僚VSザ・狸おやじで争われたのが関ヶ原の戦い

といっても、ザ・狸おやじばかりになれば社会は腐敗していく。ザ・狸おやじもそれはわかってるから大名たちの移動で大大名は遠く、かつ、中間譜代大名を配置する。関東近くは旗本譜代のみと反乱を起こしにくいようにしたんだろうけど。

けどさあ、被害者がいるのに、「こいつに恩を与えたいから」でもみ消したりとか法律を無理やり運用するとか、

あるいは「今やばいから」とあんまり恩を与える価値にない奴を血祭りにあげるのとか心象良くないよ。

ましてや普通人間に対するレイプとか、撥ね殺しみたいなのは被害者に同情しかまらんじゃん?

その意味で、黒川は「何とか恩を与えたい奴」なんやろねー。それは「今まで恩を与えた奴が処罰されないため」にも。

2019-11-17

吉良上野介の話

最初

吉良姓を受け継いだ吉良上野介の子はいない。(後に別家が吉良の名を継いだ形で、子孫の方は上杉家や畠山家等におられる)

三河地方に吉良の領地があったのは元禄16年(1703年)までで、それ以降は吉良と三河地方との関係は無い。

 

 

吉良上野介は名君?

忠臣蔵で悪役として扱われている吉良上野介

近年「実は吉良上野介地元では名君」っていう話をよく聞くようになった。

歴史秘話みたいな感じでテレビでも取り上げられるので、

吉良上野介は名君」って言う説を知っている人も多いだろう。

 

 

で、その「吉良の地元ってどこだ?」って話になると

案外、知ってる人が少なかったり誤解している人が多かったりすると思う。

 

 

恥ずかしながら私もそうで、

三河地方っていうのは知っていたのだけれど

漠然と、今の西尾市だろうと思っていると、

年配の西尾市出身の人から変な顔をされた。

 

地元歴史的経緯 

この辺には歴史的な経緯があるそうで、

そもそも三河に持っていた吉良上野介領地というのは

幡豆郡吉良庄の中のうち、八か村が飛び地の形であった。

いっても吉良は旗本なんで、そんなに領地は大きくない。

吉良は赤穂事件の後、三河領地没収されて

その後、これら土地は、あちこちの藩やら寺社旗本領地なんかに吸収されて

明治からは村の統廃合が続く。

(こういう状態で「吉良の地元」という意識が受け継がれてきたというのには少し無理があるような) 

 

 

その後、昭和三十年に 横須賀村と吉田町合併して吉良町生まれる。

(余談だが吉良には雲母の意があったという)

吉良町の中に、かつての吉良上野介領地も含まれてた感じ。

  

そして平成23年にこの吉良町西尾市編入合併される。

  

もともと西尾市には西尾藩というのがあったわけで、

歴史を知っている人でも、吉良上野介は大昔の隣の殿様という扱いで

古くから西尾市の人に「吉良上野介地元」と言われると変な顔をされたわけだ。

 

 

もう少し西尾市の人に話を聞いてみると、

んで、もう少し突っ込んで話を聞いてみると、

吉良上野介時代に、西尾藩には土井利意という名君がいて

西尾藩領民が、吉良が作った堤防により水害が発生して苦しんでいたので

大二重堤防を作って、これを防いだという逸話があるという。

 

 

こういう歴史上の逸話は、どこまで本当かどうかはワカランが

こういう逸話があるぐらいなんで旧西尾藩地域の人にとっては、

吉良上野介地元では名君とされている」と言われるのに抵抗があるみたい。

 

 

名君の作り方

ただ近年、西尾市教育委員会とかが、

積極的に「黄金堤」などを吉良上野介の治績として

吉良上野介地域の名君として賞賛する教育西尾市の全域で行っているとのこと。

 

それで地元とは言えない所の子供達にまで「地元の名君」と教えられているそうな。 

(吉良の堤防による洪水で、エライ目に遭ってた所だったりしたら洒落にならんな)

 

調べてみると、

吉良上野介黄金堤を作って地域の開発に役立ったのかからして怪しいという。

そもそも吉良上野介の治績を裏付ける文献や史料は無く、

どうも大正時代に作られた怪しい逸話が元になっているらしい。

 

 

残された絵図面なんかをみると、この地域にあった鎧が淵の新田開発で

しろ周辺とトラブルを起こしていたりしてる。

 

 

どうも旧吉良町との同化政策の一環として、

近年になって「吉良つながり」で、吉良上野介が担ぎ出されてきたっぽい。

 

 

実際に吉良上野介が名君であったかどうかはともかく、

消えてしまった「吉良町」という名前を、

なんとか別の形で残そうという人の思いかも知れないね

 

でも、そういう都合で「新しい歴史」をつくっちゃて

教育を利用して子供達に広げるのはどうなのかなぁと。

 

 

また吉良上野介と同時代に、その地域

地震被害の救済に尽力したり色々と善政をおこなった土井利意や

堤防などの治水等で名代官と言われる鳥山牛之助(さきほどでた新田開発のトラブル調停もしている)

なんかの話が、わりとしっかり記録や文献をたどれるのに殆ど注目されなくて、

「らしい」という話しかない吉良上野介けが地元の名君」って言われて教育現場で広められている状況は、

なんだかなぁって思ったりする。

 

 

吉良の赤馬

吉良上野介が名君であったという話に「吉良の赤馬」という郷土玩具をセットにする人が多い。

愛知県ホームページにも、

吉良上野介義央は治水事業に心を寄せ、領内の水害を防ぐため、黄金堤を築き、自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたりました。その姿は威風堂々とし、愛馬も大変立派であったので、領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。領内の村に住んでいた村人が江戸天保年間に子ども玩具として作ったのが始まりです」

とある

しかしこの記述は、よく読むとあやしい

天保年間というのは、1831年から1845年までの間だ。

いわゆる赤穂浪士の討ち入りが元禄15年末(1703年の1月)。

三河領地を取り上げられる裁定が下ったのが元禄16年(1703年)になる。

 

 

まり天保年間というのは、130年ぐらい後の話になるわけで

「領内の村に住んでいた村人」と言っても、

その時には吉良領は跡形もなくなっている。

昔、吉良の領民だった人も既に死に絶えた後のはず。

 

 

実際の記録では吉良上野介三河領地を訪れたのは生涯一回だけだったらしい。

直に吉良上野介を見た村人が、後に玩具を作り出したとかいう話なら、

まだなんとなくわかる気がするのだけれど、

百年以上前に一回だけ訪れた殿様の馬を、

わざわざ玩具にしようというのいうのは変だよなぁ。

天保年間には別の殿様が治めている状況なのに。

  

  

調べると、さらに興味深い話が出てきて、

吉良の赤馬は近年になって愛好家から要望で、

商品に「白馬」と「殿様」というのが加わったという。

この時点では「白馬」なのね。

もし本当に赤馬と吉良上野介の話が元になっていたのなら、

突然、殿様に白馬ってのは出てこないよなぁ

  

まりそもそも赤馬と吉良上野介関係なく、

「自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたった」という話自体が後から出た感じがする。

 

 

もちろん、こういうのは商品を開発したり売る人が、

色々面白おかしく「いわれ」を主張するのは別に良いと思うのだが、

愛知県をはじめとした自治体がそういうのに乗っかって、

曖昧根拠のまま紹介するのはどうなんだろうね。

実際、どうなんだろう?

このエントリーは「吉良上野介地元では名君」という説が「ちょっと変」っていう話で、

からといって、これだけでは「名君ではない」とまで言えない。

(西尾藩領民洪水被害を出した伝承とかは、ちょっとふれたが)

 

  

んで、赤穂浪士研究している団体の中には、

「名君だと言うならもその根拠資料を出せ」と言っている所もあるそうな。

 

吉良上野介が名君だった」という人は、きちんとした資料を出してやれば良いと思うよ。

 

 

それを元にして、地域教育とかを書き直していく必要があるんじゃないのかな。

少なくとも教育委員会とか自治体が、根拠に疑問が持たれる話を持ち出して

へんな形で「地元の名君」を作り出そうとするような状態は良くないなぁと。 

 

 

たぶんメディアとかでは広がらない話。

もっとも「実は、吉良が名君という話は怪しい」というのは、

中々メディアとかでは取り上げにくい話だと思う。

 

 

実は「正義の味方だった」と言うのは受けるだろうが

例えば「イメージ通りの悪い人でした」と言っても、

そこには話題性も何も無いわけだ。

 

 

この点は、なかなか興味深くて、  

「誤った情報」と「正しい情報」っていうのを比べてみても

必ずしも同じように拡散するわけでは無くて、

広がりやすさには非対称性が生まれてる。

 

たぶん「地元では吉良上野介は名君」って話は

このまま誰も異議を唱えないまま残ってしまうんじゃ無かろうか。

 

とか思ってたら、wikiかにもわりと詳しく書いてあったわ。

 

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

幕府を作りたいのですが 単行本 – 2007/9

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q135521548

まずあなたが、「内閣総理大臣」になる。

憲法改正して「内閣」を「幕府」へと呼称改正する。

公務員」を「旗本」、「自衛隊」を「旗本八万騎」とする。

これで、名実共に「幕府」を「組閣」できる。

総理知恵袋質問してた

名前がばれるとまずいかIDを非公開にしていた

歴史的資料

2018-10-09

職業選択の自由とか職業に貴賎はないという概念適用されるのはせいぜい銀行員肉屋までであって、食い詰めた人間の落ちる娼婦テレビタレントという道はこの平等のうちには入れないってのは、極めて一般的で主流派かつ後進的な主観だよなぁ。

例の件、北原みのり辺りより下の層だと思うんだが、今のところ悪評も評なりという状態しかなっていない。誰か旗本は担げんのか? もっと上を取り込んで挟み討ちにせんのか?

2018-06-30

anond:20180630185359

うそ

いまだにコンビニFCだって無職バイト立場が苦しいか身分を金で買いたいわけだろ

江戸時代に金で旗本になったのと同じ

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