はてなキーワード: 教会とは
母親は妄信というほどではなく程々に、母方祖母は毎週のように教会へ通っている。祖母は、「神様が見てるから悪いことはしちゃいけないのよ」という旨の説教を度々メールや手紙に綴る。無害なので放置している。
「俺は選ばれた人間だ」
「もし、神様がお前達を殺して捧げよと言ったら実行する」(この言葉を母は鼻で笑っていたが)
「教会へ行け」
「(身内がシスターか神父になれば俺が天国に行けるから)お前はシスターになれ」
帰省の度に「教会へ行け」「聖書を読め」「教会へ行って友達をつくれ。俺はそうした」
大学入ってから一度だけクリスマスの日に教会へいった。行ったことを報告したら「偉い!」と褒められた。ばかばかしい。
いい加減にしてくれ 私はキリスト教にも教会での人間関係にも興味ない 時間の無駄
勝手に幼児洗礼受けさせたくせに!信仰の自由の侵害じゃないの?…と、私は声を大にして言えない
父親が殴る蹴る当たり前のDVクソ野郎であるのも理由の一つだが、私は中学生の頃に「堅信」を受けることを薦められ、断ることなく受けた。 私は生まれてから一度も聖書を読んだことがない、本当に本当に信仰心どころかキリスト教に興味すらない名前だけの信者である。だのに何故堅信なんて受けてしまったのかというと父親の機嫌をとるためである。 あと、今も昔も私はバカなので、「けんしん」と聞いて献身的に教会へ通うとかそういう意味だと思い、私のキリスト教への信仰心くらい軽い気持ちで受けた。これで父親になぐられる頻度が減るかもと思った。
堅く信じる誓いを立てたからにはもう逃げられない。 「行きたくない」「時間がない」 それらの言い訳は「堅信受けただろ」で一蹴される。
彼家は寺の檀家である(彼自身は空飛ぶスパゲッティ・モンスター教を自称している)。結婚を機に仏教にでも改宗したとでも言って教会から逃げようと考えていた。
こないだ、父親と会う機会があった。
「教会へ行けよ」(また始まった)
「△△(今住んでる地区)に永住するなら教会の籍移すぞ」(はいはい) ここまでは私が煮えくり返る腸を抑えればいいだけの話だった。
「〇〇くん(彼氏)もクリスマスとかだけでいいから連れて行くんだぞ」 「彼は仏教徒だよ」 「檀家ってだけだろ。結婚したあとは改宗させろよ」
無視していいよね? この調子だと生まれてくる子供にも幼児洗礼を強要しそう あんたが教会だの聖書だの発する度に虫酸が走るって言いたい。
周囲の信者に尊敬できるような人がいないって言ったら人間のクズと罵られるだろうな。
教会通ってるような人間と友達になりたくないって言ったら今までお前に使った金返せって言うだろうな。
あんたに入学祝いにもらった分厚い聖書はとっくにゴミに出したって言ったらぶん殴られるだろうな。
多分この手の話をしだすと、行きつく先はすべての伝統的儀式ムダじゃんという展開になるんだが
古代に遡ると日本に限らず王侯貴族は宗教的儀式ばっかりやってて、教会だのモスクだのに寄付するのが立派な王様や貴族みたいに思われてた
で、日本という国は、他国がもうやめた古い伝統(元号と改元も)を残していることを自慢している国で
それを言い出すと近代以前の大部分の伝統に合理性などなく、合理性などない物をあえてありがたがるのが伝統を大事にするという行為
皇室が昔ながらの儀式を全部やめるべきというなら、同じように、五月に鯉のぼりを飾るのも合理性ゼロで馬鹿馬鹿しいし
1990年年代に入ってから関西のローカル風習をわざわざ全国区にした恵方巻きなんてもっと馬鹿馬鹿しい、ハロウィンもクリスマスも、夏に浴衣を着るのもみんな然り
となってしまう
(これらに宮内庁は関わってないけど、自治体で税金つっこんでそういうのを盛り上げてる地方もあるし)
が、そーいう合理性ゼロの伝統風習が現代でも残ってる理由のひとつは、それで商売してる人がいて、経済効果とやらがあるからなんだろう
皇室の儀式に使われるお金も、使ったら消えて無くなるわけでなく
十二単をつくる業者だの、儀式の道具を作る業者だのの懐に入って、その業者がまた飲食したりして日本経済の一部になるのだろう
そう考えれば無駄な儀式も日本経済の何かになってるのかも知れん
まあ、俺も心情的には同じ税金なら震災復興や困窮児童に回せよ、とは思うけど
逆に言うと、普段その手の福祉目的みたいな税金の使用を渋る経済国益第一優先の新自由主義連中が、宮内庁の内廷費にけちを付けないのは不思議でならない
そもそもキリストは、自分の教えを広めるために、あんな豪華絢爛な大聖堂をたてることなど望んではいない。
聖書には「金持ちが天国にいくのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と書いてあるそうじゃないか。
再建のための寄付とやらで、金持ちがポンと出せる大金があちらこちらに潜んでいることが明らかになりつつある。
その方が神の御心にかなうはずだ。
大聖堂は、いろいろな意味で人間の愚かさを示す象徴として、焼け落ちた姿のままで保存することを希望する。
地上に天国を再現しようなんていう、人間の奢り高ぶった欲望が、無惨にも焼け落ちた姿なんて、痛快じゃないか。
自分が遅刻しそうになると子供の保育園への送り出しを押し付けてきたり、仕事が遅くなることを言わずに遅くなったりして食材を無駄にしたり、掃除や炊事をきちんとこなせなかったり、夜の頻度が減ったりそのまま眠ってしまったり、子供の幼児教育の面倒を全く見てくれなかったり、とにかくストレス溜まることばかりが続いてた。
だから私も本当に頭にきて、何日も無言で無視したりとか、帰ってきてもチェーンロック閉めたタママにしてドアを開けずにいたり、臭い革靴を廊下に放り出したり、ベッドに自分のゴミを置いたり、いつもゆっくりしてるソファーに大量のファブリーズを夫がいるときに発射した。本当にイライラして仕方なかった。選択すると加齢臭が私の服にも移りそうだった。(何度洗っても枕の加齢臭が取れないのは何故なの?)
ある日泣きながら掃除をしていたら、夫が心配したらしく私の親と連絡を取っていて、親が私を迎えに来ることになった。とても裏切られたと思った。夫婦二人の生活なのに、夫は親を使って逃げようとした。本当に卑怯な男。そういえばまだつきあいたての頃に生でしてしまった後に、もし、赤ちゃんできたらどうするのか聞いたら、下ろしてもらうことを頼まれた。そんなクズなやつなんですよ。
数ヶ月ぶりにクズと親子三人で過ごすことになったんだけど、あれっボディタッチがない。すぐ寝る準備、ベットが分かれてるんだけど、そのまま寝てしまったみたい。何かそのこと自体が寂しくて泣いた。だって数ヶ月ぶりに一つ屋根の下になってセックスしないの?悲しくない?
それでまた頭にきたので無視することにして実家に帰った。そのまま年末年始に入ったけど、うちの実家には一応元旦だけ来られるようにしてやった。針のむしろのように居心地が悪そうだった。その日の夜に帰っていった。
ずっと合わない日が続いた。電話も取らず、別居で、一年くらい経った。
久しぶりに子供に合わせることになり、話すことになった。聞くところによると夫はキリスト教のカトリックという分野の教会で洗礼を受けたらしい。とてもたくさんのお恵み?をいただいたといっていた。とにかく癒されたようなことをいっていた。何か別人のようになってしまった。
あんなにイライラして怒り返してきた夫が怒りづらくなってる。私がムカついたことがあって責めても、ムカついたことに同情されるところから始まって調子が狂ってしまう。
でもなんか夫が変わった気がした。
なんというか前より大らかになって話を聞いてくれるようになった。心はキリスト教のことばかりみたいだけど、霊操とかexamenのことばかり勉強してる。これで心を強くしてるんだってさ。よくわからないけど、良い方向に変わったんだから許してあげようかな。
世界幸福度ランキングが発表になった。しかし、例えばニコニコの記事でいかにも同一のやつがしつこく「こんなランキングは意味がない!」と粘着して大量に批判してる。
しかも、これ英文の元を読まずにただ因縁つけたいだけだろ?みたいな内容の批判も多い。
他にも、一人あたりGDPも大概因縁付けられるな。これは物価差を見ていない!と言い出す。じゃあ購買力平価一人あたりGDPなら?というと、曖昧なデータを元に撹乱している!と。
大学ランキングもそうだ。これはもう日本のアカデミックは致命的に衰退している。
それらの懐疑主義者にとって国際比較のランキングで信頼されるものってのはあるのだろうか?
さらに、これらのランキングは1つの軸に基づく結果だ。ランキングを信用しないとすると、何を信頼するのだろうか?
とすると、「権威を信じる」ということになるんだろうな。科学は明確と分析によって成り立つ。各種ランキングもランキングを付けれる範囲で基準を作ってその元分析している。
所詮1つの軸にしか過ぎない。その軸の範囲で改善はしていける。
科学以前は全て権威が正しいという世界だった。教会なり王なり。
王が言うことが正しいのだから、王が日本が素晴らしいといえば、素晴らしい。これほど楽な治世はないな。さらに、そこに教会=神道カルトの権威のもとに従えば良き治世になると。
無論、懐疑主義は科学の要素の1つではある。しかし、何を目的にして、何が正しいかを考えながらでないとすべての意見を否定して、権威主義に陥るだけ。
そもそも、日本人自体が、個人と、意見を分離できていないということもあるだろう。
だから、日本について悪い意見、ランキングが下がったということを言われれば、それは日本を貶めるインボーである。なので、相手を全否定しないとならない。
世俗権威と宗教権威が好き放題出来て、日本を全面的に褒め称える言葉であふれる世界。それがランキングに因縁つける奴の理想世界ななんだろうかな。
anond:20190315022042 の続き。
本当にTV版からガラッと変わった。途中まで、ギャラクシーの侵入作戦が始まるところまではだいたい同じだった。しかし正直なところ名前と髪型でクーデターに失敗する噛ませ犬だと舐めていたレオン三島がまさかここまで有能であったとは。TV版から反省会を繰り返したのか三島よ。本作におけるTV版との分岐点はできる三島とついに人の心をインストールしたグレースである。まあ最終的にやっぱり三島は死ぬけど。
そして何より本質的な違いは二つ。オズマによる自分を演じることへの肯定と終盤のランカとシェリルの役割の裏返り。この二つの変更点により驚くほどすんなりとシェリルがメインヒロインに固定された。
劇場版で役割と設定が整理されストーリーが単純化したことで、TV版の中盤までの流れ(病に弱るシェリル、シェリルに惹かれるアルト、スターダムを駆け上がるランカ)から終盤への流れ(シェリルが行方不明、ランカからアルトへの告白)が一気にスムーズになった。というかTV版でも密かに思っていたけど、明らかにアルトくんシェリルのこと好きだよね!そうじゃないといくらなんでも終盤のあの展開はないよね!!つまりあの矢三郎めがいなければ(主にシェリルが)あそこまで苦しむことはなかったのだよ!!!
ちなみに好きなシーンは、アルトに会えなくなってもいいのかと優しく問うグレースと答えに詰まるシェリル、アルトの病室での包丁を巡る不器用な二人のやりとり(イチャイチャ)、放課後オーバーフロウのイントロに合わせて閉まっていくマクロスクォーターの外装。
ところで劇場版ではオミットされたTV版終盤でのランカとシェリル:バジュラと交感できる声をしているせいでミンメイの再来と政治的に担ぎ上げられ生体兵器としての運用に疲れていくランカ、病に犯されながらも自分にできる最大のこと(ランカの代わりに死を覚悟して歌う)を選ぶシェリル、という無駄に重い展開も増田はかなり好き。特に歌ったら死ぬことに気づいているから最終決戦の前にアルトに恋人ごっこは終わりと告げる(= 強がる)シェリルとそれを聞くアルトのシーンがとても好き。そういえば劇場版はこの「今は答えないで。歌えなくなってしまうから」部分はランカのセリフになっていたな。どっちのシチュエーションでも振られる流れだよなあ。
冒頭のバジュラの巣の攻略や大気圏内でのマクロスクォーターのサーフィンマニューバ、やたらと陽気で軽そうだがシリーズファンからするとこれ以上ない安心感が得られるYF-19からの声、S.M.S大隊によるマクロスキャノン斉射、そしてアンタレス1との熾烈なドッグファイトなどなど見所だらけだった。増田が一番グッときたのは、実はバジュラの巣攻略戦での隧道内のブレラの操縦テク。このシーンは狭い隧道を先行するブレラをアルトが追いすがるという形なのだが、驚くべきことに狭い上にバジュラも向かってくるのに、ブレラは一度も変形を行っていない。可変戦闘機バルキリーのセオリー(様式美ともいう)通り、垂直方向への移動や複数体のバジュラの掃討にガウォーク変形で対処し即座にファイターへの変形で高速移動を行うアルトに対して、ブレラはファイター形態のままインプラント特有の反応速度をもって、機首の向きをわずかに調整することでノンストップでバジュラの殲滅と移動を行うのだ。マクロスの様式美を否定するような非常に地味ないぶし銀の描写がよかった。
TV版の不満点であった超時空二股エンド。アルトくんはっきりせいやと前の感想に書いたが、劇場版ではズバッとアルトくんの男らしい告白で三角関係に決着がついた……ついたのだけど……ついたのだけど、だけど、
思いが通じ合って両思いになった恋人たちが次の瞬間に離ればなれになるなんて、そんなことは望んでなかった!
ただ思い合う二人がイチャイチャしているところを見たかっただけなのに……
初見のときはこのエンディングで完全に固まった。そしてエンドロールの「dシュディスタb」(願いは叶うとヒロインズが歌う)を聞いてすわビターエンドの先のハッピーエンドかと沸き立ったのだが、生命維持装置に繋がれて昏睡しているシェリルの脳内想像ライブという可能性に思い当たりより消沈した。しばらくアルトがシェリルのことを愛している設定でTV版世界に戻ろうかと考えていたのだが、絶対に救いはあるはずだと考えて二週目へ。そしてなんとか一つのこじつけに思い当たった。
そう、眠り続けるシェリルは眠り姫のモーチフであり、王子様(アルト)のキスで目を覚ますのが必然であるのだ。TV版ではシェリルとランカの両方から唇(一部R18)を奪われていたアルトであるが、運命付けられたように劇場版ではシェリルにされた頬へのキスしかない。これはもうそういうことだろう。運命だよ。よって増田の中では、アルトくんが(アイくんとかで)なんとかしてフロンティアのシェリルのもとへ戻ってきてシェリルの目を覚ましたあと、二人で幸せになることが確定しました。多分アルトの病室での一幕のように互いにからかいあってイチャイチャするのだろう。よかった……。
サヨナラノツバサでも「禁断のエクシリア」から始まり、二人の掛け合いと会場のバタバタ具合が楽しい「Get it on〜光速クライmax」、めちゃめちゃイントロが格好よく演出もパーフェクトな「放課後オーバーフロウ」、そしてエンディングのお祭り「dシュディスタb」と素晴らしい曲ばかりである。ただ、劇場版を代表する曲となると「ダイアモンドクレバス」だろう。イツワリノウタヒメでのバジュラを呼び寄せてしまったことや、ギャラクシー軍のミッション開始の合図だったこと、墜落したフロンティの教会跡など劇中の要所で美しくも悲しいこの歌が効果的に使われていた。
それから見ていて気になったのがライブの演出。演出といってもすごく手のかかったCGの方ではなくて(これもすごかった)客席の後ろからステージを映すカメラワーク。カメラが歌手を追うPV型ではなく観客との一体感を深めるライブ型の演出を選択したのは興味深い。ミュージックシーンがPV中心からライブ興行中心へ転換しつつあったことと関係しているのかもと考えた。なお増田はPCモニターで見たからそこまで臨場感はなかったのだけど、当時劇場で見た人は自分がライブに参加している感覚を味わえたのだろうか。またサイリウムなどを持ち込んで応援上映のようなことができたのだろうか。
そしてもう一つ気になったライブがアルカトラズ刑務所での「星間飛行」からの流れ。何と言っても慰問ライブに参加していた/できなかった囚人たちが声を合わせてこの歌を合唱するのだ。正直はじめはなぜランカ中島リーさん以外の声を入れてせっかくの星間飛行を邪魔するのかと思った。ただ、よく考えるとランカ・リーの星間飛行を聞きたいのならばCDやPVなりを聞けば良いことに気がつき、そこでようやくこのシーンがマクロスの伝統である歌の力を素朴な形で描写していることに気がついた。
増田の理解としてはマクロスのメカニズムというのは武力と歌の相互補完にある。武力では暴力は防ぐことができても心(世界)を変えることはできない。歌は心(世界)を変えることができるけど暴力に対しては無力。しかしその二つが合わさることで等身大の人間が奇跡を起こすことができる。そのリアリティがSFをコアに持つマクロスのメカニズムであり、非対称なこの関係性に三角関係が加わることで豊かなドラマが生まれてくるのだと思う。
この歌の力という面からフロンティアという作品を見ると、二つの場面が思い浮かぶ。TV版の星間飛行ライブと先ほど挙げたライブ@アルカトラズだ。前者は言わずと知れた、ゼントラーディー部隊の反乱を歌とキラッ☆のみで熱狂の海に沈めた伝説のライブである。このライブの演出は、最初は戸惑っていた兵士たちが曲が進むにつれ武器を投げ出し鼻血を噴きそして最終的にクァドランが肩を組んで踊るという実にアホなものだが、歌が心を変える様子をこの上なく描いていた。アルカトラズのライブはというと、先に書いた通りランカを知っていた知らなかったに関わらず荒くれ揃いの囚人たちが自ら歌を口ずさみ心を一つにする。これが星間飛行のすごさであり歌の力であるのだ。なおこのライブ、この後のクランのアジテーションから囚人たちと看守たちの大乱闘がGet it onに乗せて始まるというやっぱりアホな展開になるのだけど、やっていることは単なるテロである。そして最後の「ランカちゃん〜」と「ジェリ゛ル゛さ゛〜〜ん゛」のコールに吹き出すのである(何度見てもこの部分で笑ってしまうのだけどエキストラなのかな?)
増田がマクロス7のサウンドブースター演出に違和感を持ったのは、サウンドブースターにより視覚化・数値化された歌が武器(ビーム兵器、バリア兵器)のように使われていたから。それと力と歌をバサラ一人が担当するのにも関わらず王道のマクロスフォーマットでストーリーが作られていたため、最終的にバサラ一人で世界を平和へ導くという一人の人間を超越した行いをさせてしまったことも同様。作品テーマとして武力を否定しラブアンドピースを狙っていたのは理解できるのだが、武力の代わりとしてサウンドブースターというまた別の武力を持ち出し、バサラ一人に全てを背負わせたため普通の若者の織りなす物語というセオリーを壊してしまったように見えた。洗脳されたバロータ兵を初めから出すのではなく、初めは市民トラブルを歌で解決するというような入りかたでもよかったのかなと思う。
最後になぜ増田がシェリル派なのかというとプロフェッショナルであることの誇りと責任さらにケー鯛(口からアンコ出る)を愛用するセンスを持ち、泥水をすすっても生き抜く根性があり、たとえ死を迎えることになっても自らの役割を全うする覚悟をまとい、でも支えを失うと心が折れそうになる繊細な所があり、そしてアルトくんをからかう姿がとても楽しそうなシェリルが好きだからです。
次はIIかデルタを見る予定。アイドルものと聞いてあまりデルタには興味が湧かなかったのだけど、たまたまワルキューレの歌を聞く機会があり、メインボーカルの声にぶっ飛んだので俄然興味が湧いた。アイドルものであのガチ音圧の人がメインを張るってかなり攻めてると思うのだが、どういう狙いがあるんだろ。
科学技術予算にAI重機を使ってトンネルを作ったらトンネルの工事まで科学技術予算みたいな形で統計破壊が進む昨今。
昔は、王様が言うもの、あるいは教会が言うものは絶対的に正しいという考えだった。
そもそも絶対的に正しいものというものさし自体がない。それでも何らかの正しさを元に正しいことを選び判断しないとならない。
だから、権威を作り、その判断のもとに動くということで、王様や教会の言うことが絶対的に正しいという前提のもとに社会を作っていった。
その中で、出版というものが生まれ、いや、教会より聖書のほうが正しいんじゃね?と教会否定が始まった。ルターによるプロテスタントの起こり。
ついで、明確、分析、総合、枚挙をなしたものを積み重ねて正しいものを作っていこうというのが始まった。デカルトによる科学の起こり。
初めは自然科学だけだったが、統計や、各種社会科学理論、法理論の積み重ねで、社会学にも科学が入っていった。
近年、新自由主義の小さい政府化が叫ばれ、その元、国が関与するのは良くないという理屈のもとに、国が関与している様々な分野の予算削減が叫ばれている。
だが、大学基礎研究はその次の科学技術、そして産業の礎でもある。
だが、「権威が正しい、権威が今までやってきたほうが正しい」と言いたいがために、
統計で嵩上げして「国は金を出している」と取り繕う。「国はやることをやっているがうまくいかないのは、現場が非効率で能無しだからだ!」と権威が正しいという形にしたいがために。
しかし、データの改ざんなぞ、科学に対する背徳でしか無い。明確の根源が崩れる。「権威が正しい」には出来る。
強いのは文部科学省公務員、弱いのは大学研究者。強い奴は無謬で、弱い奴が誤っているから正さないとならない。改ざん故にそう主張できる。