はてなキーワード: 教会とは
表現の自由を守りたいという意見は、それを原則論として語りつつも、背後にある危機感はなんだろう。
ようするに、「快不快」によって表現の流通が左右される社会が是か否か、ということが動機のように思えた。
そうであれば、すごくよくわかる。いや、わかるというのは、同意しているわけじゃなくて、なるほどな、だから日本の表現の自由ってふわっとしてるんだなということ。
振り返ってみる。
日本の表現規制の有り様は、戦前のエロ・グロ・ナンセンス発禁にあるように、当局が国民の大多数が不快と思うであろう「不健全」で「公序良俗」に反する表現を対象としてきた。
つまり、割り切った言い方をすれば「健全」と戦っているのが表現の自由の戦士だというふうに思える。
でも、ひとたび、「表現の自由」の思想的な出発点をヨーロッパやアメリカの歴史から振り返ってみると、戦士の動機づけとしてはあまりにも心もとない。
表現の自由とひとことでいっても、思想的な背景は、それぞれ背負っている歴史が異なる。
この国の憲法や憲法判例が示してきた表現の自由は、ヨーロッパのそれとはかなり異なる。
17世紀にアメリカに最初に渡ったピルグリムファーザーズの世代は特に、当時のヨーロッパのプロテスタントに対する不寛容の被害者であった。
メイフラワー号の協約に象徴されるように、お互いに異なるFaith(信条)を持つ者同士が、どちらが正しいとして糾弾することなく、社会を構築しようという、社会の多様性の確保が原点だ。
1970年代には、ヘイトスピーチを巡ってさまざまな紛争が連邦最高裁まであがり、不協和音こそ社会の強さとまで判決の意見で述べているものがある。
当時の裁判官のたとえを援用すれば、空気を浄化しようとするやつが社会の敵なのだ。
人間は不完全なのだから、正しいものなど、最初から先験的に決められない。ということから、この国では、思想の自由市場などという言い方も生まれてくる。
しかし、他方で伝統的な価値観や習慣もそれなりに強い。いやかなり強い。
そういう土地柄では、動機づけとして、多様性の確保というのは、正直、あまりピンとこない。
むしろ、彼らの原点は、教会から弾圧された経験であり、その反動としての「神を冒涜する権利」だ。
伝統的にカトリック教徒でありながらアンチクライストを叫ぶ、そんな権利を求めている。
とくにフランスでは、公共空間を設計するにあたり、真理の判断権を持つかのように振る舞う教会がとてもまずい存在だった。
権力をふるいたがる教会に口出しをさせないことが重要なテーマだった。
それゆえ、その解決のため、一方では、表現の自由というコンセプトで権利を宣言し、他方で、政教分離という原則を確立して、公共空間設計のための理論武装をしていく。
だから、イスラムのスカーフを公立学校から排除しようとしたりする動きが起きるし、
ひとたびムスリムの神を冒涜するような表現をしたことで、襲撃を受けたりすると、社会は「涜神の権利はいずこに」とがぜん盛り上がるわけだ。
アメリカにしても、フランスにしても、それぞれ動機づけは異なるものの、表現の自由を守ろうとする信念というか確信の力は、
極めて強い。テロがあったり、社会情勢の変化で揺れ動いたりするものの、いざ事が最高裁までいくと、
じゃあ、国づくりの原点に戻ろうじゃないかという話になって、17世紀の悲惨な経験が思い出として蘇ってくる。
その動機づけの強さにこそ、新大陸にしても、旧大陸にしても、表現の自由を将来に渡って確保しようとするエネルギーの再生産があり、いわば持続性がある。
翻って、日本。
快不快のような勝手な基準で決めつけられたくはないよね、誰しも。
でも動機づけとして、やっぱり弱いんだよね。
ここで、仮に、日本は、アメリカ式の表現の自由を真似っ子しているのだ、としようか。
でも、日本社会は、アメリカほどには、多様性を求めてないでしょ。むしろ移民なんか大嫌いでしょ。
多様な意見なんか、どの組織でも出てこないでしょ。会議でも右に習えでしょ。
普段から多様性を確保しようというマインドがベースにあって成り立っている社会とは全く違う。
そんな社会では、エロい表現のときだけ急に表現の自由だのと盛り上がるのは、歯が浮くような思いがする。
公共空間におけるエッチなものの取扱なんて、はっきりいって、社会が合意していればどっちだっていい。
じゃあ今度は、大陸が17世紀に経験した熾烈なコンフェッショナリズム、この思想的な背景を
表現の自由として日本国憲法が参照している、と仮に想像してみる。
この場合、仮想敵は、いってみれば、国家神道とファシズムかな。
(*ところで大河ドラマの「いだてん」って、健康ファシズムの視点でみると面白いらしいね。みてないけど)
「国によって右へならえを強制され続けた結果、自分たちが戦争に動員されてひどい目にあった思い出」とでもいうべき動機づけは
定期的に思い出す機会があるかぎりは、ある程度は持続的たりうるのかもしれない。
でも、第二次世界大戦を思い起こしてみると、国民が国家のキャンペーンに煽られて動員させられる、というのは、
なにも敗戦国のドイツや日本に限った話じゃないし、アメリカ含め、あちこちの国でウイルスのようにファシズムが蔓延しかけていたのが現実。
またファシズムをコントロールできた国もない。その意味で、真の意味でファシズムに抗し切った国はないように思う。
表現の自由っていったところで、自然の摂理かのように、神がバランスをとってくれるわけじゃないんだよね。
そうすると、いざ日本にとって対外的な脅威(例えばアジアの隣あたりの国らへん)が増せば、
表現の自由なんか、どうでもよくなっちゃう程度のものなんじゃないか。
このあたりの感覚は、動機づけとしては重要なんだけど、日本の場合、ちゃんと思想として、自分たちの言葉で自分たちを守る武器として昇華してないんだよね。
敗戦で混乱していた時期にすかさず、日本国憲法を戦勝国からもらった、というところで思考停止になった、という面はあるかもしれない。
もらったもので、とりあえず勉強して運用してみよう、という時期が最初はあってもいいかもしれない。
でも、戦後30年、40年、とりいそぎ運用していたものが定着していく、という過程で
例えば「思想の自由市場」ってよくよく考えてみると、日本社会では、あまりピンと来なくね?みたいな気づきがあっても良かった。正直、「思想の自由市場」って日本社会じゃ、なんの役にも立たない理屈だと思うんだよね最近。
また、フランスの公立学校でのムスリムのスカーフ論争。大方の日本人は、何あれ?状態。背景となる歴史が違うんだから
それを知らずに無理やり、政教分離って憲法に書いてあることを適用しようとしてきて、実は消化不良を起こしているんだけど、
そういうことがよくわかったという話。
数ヶ月前、外国に行ったんだけど。日本人って海外でも礼儀正しいみたいな所謂「古臭い日本人像」をぼんやり持ってた自分が打ち砕かれた話をする。
お互い顔見知りでない数人の集団でとある外国へ行ったんだ。ツアーみたいなやつ。
最初の数日はぎこちなさがあって、そこまではなかったんだけどある時か親しくなりグループが形成され、少し陽気な感じになってきた。
それだけなら良かったんだけど、だんだん横柄な行動が出てきて、インスタ映え?ストーリーとか言う存在もその時初めて知ったんだけど、そういうの撮りたいのか混んでる道のど真ん中で急に立ち止まったり、
「へーwwww」(ゲシっ)
みたいなのが出てきた。いやっ日本国内でも連日態度の悪い若者の動画とかで炎上したりするんだから、行儀の良いという国民性って言う物自体が幻想だとはわかってたつもりだけど、実際に目にするとキツイ…
公共の広場や公民館を兼ねた美術館を集合場所にし散々うるさくしといて、一銭もお金を出さずにゾロゾロ出ていったり、教会とかに行くのはいいんだけど、ズカズカ入ってカメラのシャッター音をそこらじゅうで鳴り響かせてから、寄付箱には目もくれず出ていく様を気持ち悪く感じるあたり、集団行動に向いてないのかもしれないけど。
え、騙すって話だったっけ? 木で鼻を括ったような、誠意のない態度だった、って話じゃなかったっけ?
あと披露宴こそ金かかるというのはその通りですね。教会の場合で言うと、ブライダル事業に強い業者と
組んでいたりして、教会の周囲のパーティースペースみたいなところで割安でできたりするところもあります。
昔ながらの円卓並べて……みたいなのが望み(カップル以外の望みだったりするわけだが……)ならば、
旧来の結婚式場だろうけどね。
相手に寄り添うことは顧客の為にはなるんだが、結婚式場ってリピーターっていないのね。勿論悪評が立ったら困るわけだが、たとえばある結婚式場が良かったとして、友達とかにガンガンそこ紹介して、皆そこを使う……という状況は、あまりあるとも思われない。だから、相手が食いついてくれるようなマテリアルを少しでも多く提示して、目前の客に少しでも多く金使ってもらおう、って、そういう態度になるんじゃないのかねえ。それがいいとは思わないし、もし私だったらそんなやり方はしないけどね。
しかし、結婚式場ってお金かかるよねえ。私はクリスチャンなので教会だったけど、教会はいいですよ。費用安いし、信徒でなくてもやってもらえます。まあ披露宴というかパーティーというか……は考えないといけなくなるから、全部ワンパックの方がお金あれば楽だろうけどね。
うーん。それは違うかなあ。そもそも貧困生活云々とか書いていないので、オッサンに関してのみ書きますが……先に書いたように、私が観たのは昭和30年代の映像でしたけど、それを観たときには「こういうのも幸せだからいいね」って思ったんですよ。あの後、お土産ぶらさげてあの映像のオッサンは帰ったんでしょうけど、それはそれでいいように思うんです。実は今でも、クリスマスイブには教会にカップルや酔っ払いとか来るんですね。でも、彼らが何か騒ぎを起こすことはまずないし、帰るときの様子を見ていると、クリスチャンでなかったとしても、それはそれで何かよかったなあ、って感じなのです。
私は子供の頃からのクリスチャンで、今も毎週教会に行っています。日本ではクリスチャンが自らそれを公言することってあまりないように思うのだけど、私は知人連中にも職場の同僚にも公言しています。で……あるとき、知り合いの家に行ったら、そこの子供が東京ディズニーランドのディズニー・クリスマスがどうとかいう話をしだしたんですね。で、当然のように聞かれたわけですよ。
「クリスマスってどうしてるの?」
「クリスマスはね、教会に行って、その後は家族で食事しながら色々話をするの。だからディズニーランドとかには行かないなあ」
そう話したら、その子、何て言ったと思います? 私の方に向き直って、こう言ったんですよ。
「かわいそぉ〜」
……私は何か、こう、悲しくなってしまって。別に人がどうクリスマス過ごそうが勝手なのかもしれませんけれど、あるひとつのかたちだけが正しい、って、一体この子どんだけ傲慢なんだろう、そう思ったわけです。この子がどうっていうよりも、そうやってキリスト教の宗教的祭事が商業アイテムにされて、そちらの方が正統扱いされるんじゃたまらないよなあ……って、まあこれは昔っから言われてる話ですけどね。でも、昭和30年代のニュースフィルムで、クリスマスイブの銀座のクラブから三角帽に鼻眼鏡で上機嫌に出てくるオッサンの映像を観ても何とも思わないのに、この子の「かわいそぉ〜」は妙に堪えたんですよね。
いや、何故この時期にそんなこと書くかっていうと、次にやってくるイースターの件です。イエスの復活を祝うこの日、今年は4月21日なんですが、もう早速東と西で手ぐすねひいて待ってるわけなんですね。
東京ディズニーシーと東京ディズニーランドでは、2019年4月4日(木)から6月2日(日)までの60日間、ヘンテコ楽しい春のスペシャルイベント「ディズニー・イースター」を開催します。今年は2年ぶりに2つのパークで、それぞれテーマの異なる「ディズニー・イースター」を開催するほか、ディズニーホテルやディズニーリゾートラインでも心躍るイースターのスペシャルイベントを実施します。
UNIVERSAL EASTER CELEBRATION
こういうのが何年も続くとどうなるのか……おそらくこんな感じでしょう。子供にイースターの話をされて、やれうさぎガー、たまごガー、って言われて、それに対して「イースターは教会に行って、それから卵を貰ったり交換したりして家に帰るの」って返答すると……「かわいそぉ〜」。いや、かわいそうなのアンタラだから、とか言いたくなりますけど、それは我慢しているわけです。でも。宗教的祭事は宗教的祭事なので、あなたたちが馬鹿騒ぎするのを止めはしないけれど、それが「正しい」なんて思うのも、言うのも、お願いだからやめてくれませんか。ずーっとこうやってお祝いしているのに、私達は。
宮崎駿が「タッチパネルきもい」と言ったら絶対に叩かねばならず
「俺もスマホ嫌いだわあはは」とは決して言ってはいけない雰囲気
「新しいもの」「俺たちの時代のもの」は須く良いものでなければならず
それを否定するものは例外なく老害であるという脊髄反射の拒否反応
こんな現状肯定しかできない連中に未来を作る若い力があるかと言ったら当然ノーだ
にもかかわらず本人たちはこれが若さだ柔軟さだと本気で信じている
多くはとうに三十路も越えて
ブイチューバーがテレビに出たからって何故みんなでお祝いみたいな雰囲気にならなきゃいけない?
エロゲ広告が都心の駅に貼り出されることの何がオタクの勝利なんだ?
やはりというか、こういう連中の政治傾向は当然自民党絶対主義だ
労働環境に不満を言いながら福祉政策に不満を言いながらその元凶である現政権は意地でも維持
ネット戦略で煽動されただけのことを「ネットで盛り上がった政治運動」と簡単に信じ込み
「オタク」というのは一時期「こだわりのある人」という意味ですらあったが
今では世の中でいちばん「何の芯もない引っ掛けやすいカモ」を意味する言葉に成り下がった
ただの「カモ」で十分だ