はてなキーワード: 原付とは
昨日、目の前で車同士の事故が起きた。
付近で作業をしていて、衝突音の後に断続して聞こえるスキール音に何事かと思い道路に出ると事故をした2車両が停止していた。
事故のあらましは以下の通り。
信号のない十字路で、細い道の一時停止線で止まっていた車両Aが、右から法定速度+20km/h程度で走行していた車両Bに気づかず停止線を超えた瞬間に車両Bの左側面に追突し、車両Bはバンパープッシュのような状態で反時計回りに反転し反対側の縁石と標識にぶつかり停止した。
車両Aは交差点内で停車していて、運転者は70才過ぎの老人で、パニックからかアクセルを踏んでいたものの、車両前方が潰れていたためタイヤハウスが潰れ部品が挟まって走行不能状態。
かたや車両Bは40代の女性で、こちらもパニックから縁石を跨いだ状態でアクセル踏んでタイヤが空転していた。
距離的に近かった車両Bへ近づき怪我が無いかを確認し、アクセルから足を離すように伝えた。
その後、交差点内の車両Aの老人にも怪我が有無を確認し、近くの退避できるスペースへ車を移動してもらった。
車両Bが直進していた道路は交通量も多く、車両A・Bともに道路を塞ぐ格好で停車していたことと、冷却水などが漏出していたため、車両Aを移動してもらった。
その後、警察へ連絡し、事故発生から約20分ほどで原付に乗った警察官が到着。
待っている間にも通行する他の車両が散乱していた破片を踏み、その割れる音が響いていたため、近所の方にほうきとちりとりを借りて回収した。
警察官へ事故の当事者が誰かを説明し、車両Aの後方で停車していた目撃者にも現場に残ってもらうことをお願いして、自分は次の用事のために現場をあとにした。
2.現場に散乱したレンズの破片や部品類を、警察官が到着前に回収したことは正しかったのか
3.警察官が到着後に説明だけをして現場をあとにしたことは正しかったのか
調べると「車両は動かすな」「現場の掃除はするな」という意見も見つかった。
次の用事までの時間がなかったこともあるが、説明さえすればその予定をずらすことは可能であったし、目撃者には警察官への証言のために残ったもらったにも関わらず、現場で動き回ってしまった自分だけがいなくなったことで、より一層混乱させた可能性はないだろうかと思っている。
警察が到着するまでなにも触らず待っていればいいんだろうか。
原付(2種88cc)乗っててタクシーに轢かれそうになった。片側2車線の広め道路。
私の前を走ってたタクシーが客を拾うために停車、その時私はタクシーの後ろで待機。
その後タクシーがノロノロと右車線にウインカーだして移動していったので、私は左車線をそのまま走行。
すると自分がタクシーの横に並んだところでタクシーが左ウィンカー出してこっちに寄ってきた。
幅寄せされてぶつけられて死ぬ、と思い加速して逃れたけど、あっぶねえなあ、と友達に話をしたら・・・。
「タクシーは悪くない。リスク予測できないお前が未熟」とか「追い越しは駄目なんだよ」とか言ってくる。
はあ?
リスク予測の話は理解するが、道交法守って運転してぶつけられそうになったのに、確認不足で車線変更
してきたタクシーはなんで悪くないの?
それにと同一車線を走行してるから追い抜きに該当するが、この場合警察は黙認するし(法的に定義がない)、
母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。
僕の昔住んでいた田舎の実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。
その後、父と母と、一緒に住んでいた次男は一時的に市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎが放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。
父はぶっ壊れていた。
僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージを試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。
しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。
そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事、洗濯や、子どもが病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。
父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。
一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。
あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費をほとんど持ち出してしまったこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日は地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。
中学、高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分の人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校であんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。
高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。
進学は田舎から遠い関東の大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。
結局僕は関東の大学に合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽な文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着ける空間だった。
外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学のサークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。
そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。
色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。
それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。
僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しかし自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しかし思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。
僕は自分の普段の生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたま母から電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。
とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。
結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。
しかし、施設の費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。
そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。
僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。
それから数年が経った2019年の年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。
しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。
年末になり、実家へ帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。
さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。
母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。
部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。
父はたしか僕の子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。
そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。
最後に大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。
それから半年ほど経った。コロナが流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日。
妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段の生活をおくらせてあげたかった。
しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。
とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。
葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日が告別式ということも忘れそうだった。
次の日、起きて甥っ子たちはフォートナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。
葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休みや冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢でマリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんにはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休みに大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。
おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我の治療は前頭葉があるため、簡単にはいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。
しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。
その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。
導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイクと全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフが誘導したのがおかしかった。
おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。
そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまったこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。
元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまったことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。
母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかわからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。
そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。
その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。
その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。
焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。
次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフがボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。
そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。
その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当にバラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。
しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。
しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。
スタッフに説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。
そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。
僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故で死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。
父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。
父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。
昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。
その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親の介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂、トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通の生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。
女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達とショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームのキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルのライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。
父のため仕方がない、と思いながらも、女性が毎日どれだけ苦しいかを想像をするだけでも苦しくなる。
その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分の介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分の娘。小さな頃から育てながら思うことは、この子が楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分の未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。
しかしその全ての未来を自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇にさらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。
でも、死ぬということは難しい。自分で死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さらに介護されている状態で自分で死ぬこと自体がそもそもできない場合もあるだろう。
この世には安楽死が必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度が必要。綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。
とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。
コロナのせいで自転車がどうのこうのって多少使う人が増えて、便乗してバイクも少し増えたっぽいけど、正直バイクはダメかなって不安しか無い。
まず根本的に駐輪場がなさすぎる。車の駐車場を使っても法律違反でもなければ、店主さんがOKといえばOKなんだけどイメージは悪い。
駐輪場が無いってのに違反切符を切る事に夢中になっている警察の存在が悪すぎる。駐車場の場所は答えられるのに駐輪場を聞くと首をかしげてんじゃねーよ。
街中にあるバイク屋のボッタクリが酷い。正規店より安いよー安かねー。整備料も安いよーあれこれ付けて安かねー。オイル割引しないよー正規店はするじゃねーかー。
あとね、客が買いに来ているってのに偉そうにするから売れない。3人ほど友人のバイクを選びに行ったら、それぞれ別店舗だったんだけど上から目線で職人みたいな対応されて
みんな買わないで終わったという。結局最初からホンダドリーム行ったほうが良かったという結果が二人。ヤマハ一人。
そして煽り運転されやすい。すり抜けたら煽り運転、すり抜けずに運転しても煽り運転。ドラレコ付けているのを視認した途端に車間距離大幅広げって流ればかり。
バイクだからドラレコついてないと思うの今どき古いんだよね。それが車に乗るドライバーには分からんのですよ。
なお、初めて通報してみたらあっさりと捕まった。ドラレコつえーです。
でも、煽り運転されやすい。安全に運転したい。アイツラは鉄の箱で生身を脅かす。そしてまたバイク乗りが一人減る。
次に盗難。やべーよ地球ロックなんて今どきもうダメだよ。この間もロック弄くられた跡あったよ。
デイトナのストロンガーロックを新たに取り付けたら来なくなったけど、パクる気満々すぎる。隠しカメラも付けたけど今の所映ってなかった。
道路交通法守らんやつが多すぎる。自分の身を守るのに道交が大事だって気づいてくれない。バイクだからどこでも通れるみたいな自転車の感覚で乗る人増えすぎ。
ビクスクでそれをやろうとして、車体の幅も理解できてない子が車の側面擦った挙げ句に車のドライバーとやり合いになってるのを、最近何回か見かけた。
何のために教習所行ったんだよって思う人多いんよ。
原付もそう。自転車の感覚が残っているんだろうけど、だからといって歩行者と同じ道を走っていいわけじゃないってわかるよね。
名指しで言うけど、ウーバーイーツお前です。何度も見かけたぞ。
MTに乗るライダー、あんたたちも大概や…。バイパスなんかでトラックの横とか平気ですり抜けるけど…死ぬし、ネズミ捕り居るって教えてるのに捕まってしまうのはなぜだ。
俺のバイク速いだろーってドヤ顔で走ってるのか知らないが、俺の目の前で華麗に事故って動かなくなったライダーが居たよ。
まずはじめに、この動画の内容としては
「黒いタクシー側が合図不履行及び安全不確認の危険な車線変更で、直進の自転車に接触し転倒させた。」
となる。この場合、自動車側のほうに遥かに重い責任があるのが道路交通法的な現実。
それに撮影者の自動車も煽り運転で摘発に該当するぐらい接近もしている。
ウーバー配達員 スマホ見ながら... “危険運転”で衝突の瞬間 ←自動車タクシー側の合図不履行及び安全不確認の危険な車線変更が原因で衝突したのにタイトルからして恣意的すぎる
https://www.youtube.com/watch?v=OXYeDl_mqA0
この動画は道路交通法的に見れば自動車側の過失がおおむね9割とみて間違いない。
動画を見ればわかるように自動車側が合図不履行及び安全不確認の危険な車線変更で自転車に加害をしているケースである為。
あのような自動車危険運転をされたら自動二輪や原付だって危ないし、自動車同士の重大な事故にもつながる。
なのに被害者である自転車配達員側が誹謗中傷されているのが理解できない。
コメント欄で被害者である自転車配達員側を誹謗中傷して危険運転タクシー側を責めない人が多すぎて海外の人が見たらどう感じるだろうか?
「日本人は過失割合が重い人を責めずに被害者を責める異常な人たち」だと見られてしまうだけなのではないだろうか。
46歳女、独身、細実家持ち家住み、関西在住、年収180万円ほど。
月4万+両親の携帯代を家に入れてる。
朝夜は基本的には母が作った料理を家で食べる。昼はおもにプロテイン。
店員さんとのコミュニケーションが面倒で外食は嫌いなので、外でお腹が空いたら公園などで一本満足を食べる。
仕事や趣味の宴会は会費4000円以内なら参加、それ以上なら不参加。
お酒は好きではないので飲まない。基本的に飲食には興味がない。
カジュアルブランドのちょっといいやつをメルカリや古着屋で探す。
袖を通したかどうかもわからんような新しいのをユニクロ価格以下で売り払ってるおしゃれ上級生が世の中にはいっぱいいる。
キックボクシングに通ってる。
市民体育館でやってるようなやつなので月謝(施設利用料)は月5000円。
今はコロナで休止中。Stay homeでもなわとびと筋トレは続けてる。格闘技が好きだけどもう無理か。
原付。
月2万円貯金してるが30万円ぐらい貯まると海外旅行で使い切ってしまう。今は12万円ぐらい。
2〜3年に一度のペースで東南アジアを回る。10年に1度ぐらいヨーロッパ。
収入ベースで国民年金は免除されてる。国保は最低ラインだけ払ってる。
年収180万でもそれほど不自由は感じてない。好きなことをやって欲しいものは買えてるから問題ない。
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https://anond.hatelabo.jp/20200530164357
年収増田に底辺からも参加してみました。何カ国かの男性と取っ替え引っ替えおつきあいした国内留学経験で日本語+3ヶ国語ほど話せるので、通訳、翻訳、語学教師、外国人交流NPOの下働きなどで生きています。