はてなキーワード: ミクロとは
某バトロワFPSを数千時間PADでやって、そこからPC移行して初キーマウでvalorantに挑んだらめちゃくちゃ負けた。と言うかPADのエイムの質とマウスのエイムの質が遥かに違う事を初めて理解した。(超上位帯になればPADでもエイムに差が出るだろうが、せいぜい現ダイヤ,上位6,7%程度の世界なら、PAD使ってアシストに指合わせるだけで撃ち合いは大体勝てる)
まずマウスで小さな的に照準を合わせる事。果てしなく難しい。時に180度後ろの相手に撃たれ、そのまま振り返って撃ち返す事もある。またvalorantはほぼ頭一発なのでHSラインの維持が求められる。そして蘇生もほぼない。回復も微々たるもの。よってエイムがこのゲームでは最重要になる。
PADとはいえ一応数千時間やってたので、エイムが伸びにくいのは体感としてわかっている。だからこそ、少しでもエイムが良くなったら嬉しいものだ。ストッピングやフリック、マイクロフリック、切り返し撃ちとか、技術的な要素はたくさんある。登る山が最初から高いからこそ、少しずつ登っていく過程で、都度小さな達成感を味わえる。PADのエイムは、人並みになるまでは結構すぐなれるものだが、PADの中で上級者になろうとすると途端に難しくなる。
あとvalorantはエイムゴリ押しが一番強いゲームではあるものの、そこまでエイムの差がない相手同士の戦いだと、マクロが大切になる。立ち回りにミクロとマクロが両方求められる。某バトロワはマクロなんて1000時間もやってれば猿でも獲得出来たが、valoはどうにも難しい。多分自分は今800時間くらいやってるが、全然マクロの立ち回りが分からない。
valorantは何というか押し引きの駆け引きが難しい。何処まで詰めるか、詰めないか。ミッドを取りに行くにいしても本隊の動きを待つ必要があるし、本隊が動いても言った先のサイトに4人もスタックしていたらローテートを視野に入れる必要がある。相手の癖を読むこともわりと大事で、そんで攻め方や守り方はワンパじゃダメで色々と工夫する必要があるし、ラーク/ベイト/フェイク/リテイク/挟み/ラッシュ、とバトロワにはない概念が色々とある。
某バトロワ以外にも色々と浅く触れてきて、その中で最も難しく感じたFPSはR6Sだったが、valorantは二番目に難しいかなと思う。
権力勾配というのは、理論と社会運動が精緻化して正しくなればなるほど、間違いしか生まなくなる。
黒人のほうが弱者だと思ってた連中は、白人弱者労働者を見捨ててるし
そもそも、権力がない白人とか男性とかに「あなたは潜在的に権力者ですから、弱者にやさしくする義務がある」というのが、その手の権力論だった。それはマクロとしては正しかったが。
でも、潜在的に権力者とされた人間は、ミクロ=個々の現実において、権力とか持ってない。
マクロで考えるってことは、取りこぼしを許容するということであって、それを福祉だとか寛容だとか個人の幸福を考えるリベラリズムと組み合わせるのは最悪だった。完全に発想から矛盾している。
MMTの人か。よく読まずに、社会主義・共産主義系の人と思ってしまった。MMTはさっぱりわからないのでこれを機会に少し学んでみようと思う。
ちなみに、資本主義という思想自体が部分最適と言っているのではなく、「現に世の中が資本主義である以上、資本主義に適応すること」が部分最適であって、この仕組みをぶち壊してもっといい仕組みを作るための動きが全体最適だ、という話をしていた。君がさっきまで相手をしていた自己責任論増田「個人」の利益を考えるなら、資本主義に適応した方がいいというのはたぶんほぼ確実だと思う。(なので、本来自己責任論増田は君の相手なんてせずに労働に励んだり起業したりするといいんだが)
基本的に、ミクロレベルでは仕組みに抗うのは不利になるからな。それを超えて、信頼できないプレイヤー同士の信頼を醸成して世の中の仕組みを変えるのは「全体最適に基づく」合理的な行動だと思う。
追記:言いたいことがふわっとしてしまったかもだけど、ASDとカミングアウトしたりプロフに書いてる人はここで書いてるような「擬態」をやって来てる可能性が極めて高いので、概して普通にコミュニケーションは取れるし、妙な垣根は設けて欲しくないかなとは思う。
最近は、一般書はもちろんのこと色々なWebページで発達障害について書かれるようになってきたので、これを見てる人のほとんどが発達障害については聞いたことがあるだろうし、なんなら身近にそういう人もいると思う。ただ、当事者としては発達障害、特にASD(旧称アスペルガー)については発達障害専門でもない医師などによる誤解が蔓延してて、ひどくめんどくさい。てわけで、当事者目線から見たASDへの誤解について書いとこうと思う。一応、正式な診断はないけどWAIS-IV知能検査は受けてて、ADHDよりはASDの方が傾向強めという感じで言われたくらいだとは書いておく。
幼い頃って意味ではかなり正しいんだけど、結構多くのASDが思春期辺りで「あれ?俺ってなんか浮いてる?」てことに気づいて「擬態」という形で定型発達の模倣をするようになる。成人して社会に溶け込めてる発達当事者は擬態をかなりの精度でやってのけるから、字面のまま受け取るタイプのASDは存外少ない。むしろ、擬態がうまいタイプは相手の言葉をかなり疑り深く分析してることも多い。発達当事者の多くは擬態をやってることに自覚的で「擬態」の他にも「ASD修正パッチ」、「模倣」とか色々な言葉で表現するのだけど、近年の発達障害研究でようやくこの模倣行動が知られるようになったみたい。参考: https://www.city.himeji.lg.jp/bousai/cmsfiles/contents/0000020/20708/zidou3.pdf ここで「カモフラージュ」て書かれてるやつのことね。カモフラージュ行動が記されるようになったのは発達研究でもかなり新しいらしく、まだまだ当事者にとっては当然のことでも知られてないことが多いと感じる。
性質が悪いのは「ASDへの配慮として」字面通りに受け取ってあげましょうとか、率直に言ってあげましょうみたいなマニュアルが一部で出来上がってることで、思春期から訓練してむしろ「字面通りに受け取らないように」してるタイプにしてみればそういうマニュアルで行動されるのはたまったものじゃない。TwitterでプロフにASDと書いてる人に「字面通りに」伝えたり、相手の言葉を受け取ったりして当事者の神経を逆撫でするなんてのも見たことがある。
前述の擬態を過剰にやるタイプだとむしろ、(たぶん)定型だと普通やらんだろってくらい相手の意図を深読みしたりもする。人間って案外その時点での感情を意識してないことが多いのだけど、このタイプの人は滅茶苦茶深い精度で理屈で考えて他者の感情を読み取るから、すっごい気遣いさんになることも多いし、頭いいタイプのASDだとこの予測精度は定型より高いことも多い。
知る限りでは、これは全く事実に反しているのだけど何故かそう思ってる人は多い。もちろん、共感能力が低いASDも少なくないけど、むしろ極めて高いタイプもいて、弱者に対して普通以上に思いやれる人も多い。それゆえに普通そこまでやる?くらいの自己犠牲型になることもあったり。この辺は今だ未解明ではあるけど、ASDであるかどうかと共感能力については直交概念じゃないかなあ。
もちろん、「傾向としては」そういうのが見られる人も多いんだけど、それはASDの症状というより成長過程で社会不適応に気づけなかった結果として現れる感じ。
じゃあ、ASDの本質とは何よって言われるとこれはまだ研究途上で色々難しいんだけど、「物事をパターンで把握したがる」傾向じゃないかなあってのが個人的な仮説。ゆえに、
みたいなのが表面上現れる感じ。ただ、これも擬態してる人は元来の傾向を理性で巧妙にセーブしてたりするから、そもそも発達当事者と気づかれないことも多い。周囲から見た時に、「なんかこの人、毎日同じような行動をしてるなあ」とか、多人数での飲み会なんかだと無口になってたり消極的になってたりして「ちょっと人付き合いが苦手なのかな」程度に見えることも多いってのが実感。
他の問題として、知的障害と発達障害がしばしば混同されるというのがある。知能が一定水準を切るといずれにせよ「空気が読めない」ので外から見ると発達障害と区別がつかないのだろうけど、とある発達当事者の精神科医のツイートを見る限り、このケースは結構多いらしい。実際、巷で「発達」「アスペ」と呼ばれてるタイプの人(こういう蔑称は好きじゃないけど)は知的能力が低いというか境界知能じゃないか?レベルのケースが散見されてて、それが発達障害、特にASDへの偏見を増す結果になってるなあと思う。
さらには、精神疾患と発達障害の混同、パーソナリティ障害と発達障害の混同なんてケースもある。これは発達障害のせいでイジメや親からの虐待を食らってその結果精神疾患を患ったみたいなケースもあるので、あながち無関係とも言えないのだけど、二次的な障害と元来の傾向による苦労が混同されるのもややこしいことだなあと。
SNS(主にTwitter)では子連れ(正確には育児世帯)を『子連れ様』と揶揄してバッシングする人達がそこそこの勢力で存在している。気になるのであれば、Twitterで子連れ様と検索すれば育児世帯や育児アカウントを口汚く罵る人達がワラワラと出てくるので調べてみると良い。しかもこいつらのたちが悪いところは自分達だけで盛り上がっていればいいのに育児アカウントにイナゴのように群がって叩くところで、ヘイト集団として社会に認知されて欲しいと思っている。
以下では、育児ヘイトクラスタ(とこの記事内では便宜的に呼称する)の典型的な主張を紹介する。ついでに該当しそうなTweetも張っておくが、本当に氷山の一角で類似ツイートは大量に存在する。
育児は個人が勝手にやっていることなので税金や国債でまかなうのはおかしい、という半世紀遅れた価値観で他人に暴言を投げつけている。国内の主要政党は程度の差こそあれ皆出産・育児支援の拡充を公約に為ているにも拘わらず、自分たちの意見が正しいと信じて疑わないのは頭が非常に残念。
https://twitter.com/gupzrdmvlnmrhuh/status/1576930178135379975?s=46&t=ysedq4CrtR7MX4dRGCbk3Q
https://twitter.com/ymshadows0320/status/1577952954182561792?s=46&t=ysedq4CrtR7MX4dRGCbk3Q
例のスタバ増田を邪悪にした奴とか、公共交通機関ではベビーカー畳め、エレベーターでベビーカーが優遇されるのはおかしい、といった主張を繰り返している。主張は自由だけど、自分たちが社会の流れに反しているということは自覚した方が良い。
https://twitter.com/obakabokumetu/status/1559461624028602368?s=46&t=ysedq4CrtR7MX4dRGCbk3Q
育児アカウントのちょっとした愚痴に対して、イナゴのように乞食だの親失格だの出産は免許制にしろだのといったコメントを引用RTで投げかけているのをよく見る。これについては叩かれている育児アカウントを晒すことになるので引用は控えたいが、まあ探せばふつうに見つかると思う。昨日も発達障害の子供を育てている母親に集団で噛みついていて気分が悪かった。
当たり前の話として、出産・育児の行われない社会は持続的ではないです。元増田は子供たちが将来納税をして現在の非子持ち世帯を支えるという点に着目していますが、仮に日本中から石油が噴き出して納税の必要がなくなったとしても子供が産まれない社会はいずれ滅びます。社会が自らを持続させるためには、出産・育児のコスト(これには税金を使ったサービスなどの見えやすいコストだけではなく、子連れに対して寛容な公共空間の構築などを含みます)を払い続ける必要があります。
一方育児ヘイトクラスタの中には出産や育児のような個人的な行為のためになぜ自分たちが損をしなければいけないのか、というような主張を恥ずかしげも無くする人達がいます。確かに出産や育児はミクロな観点で見ると自身の子孫を残す個人的な行いですが、マクロ的に人口減少は大きな社会的問題であり、社会の有 あり方を議論する際に個人的な側面のみを持ち出すのは詭弁です。はてなでも似たような主張を展開する人が居ますが、今後は「俺は社会の持続性には興味がないので出産・育児コストを負担したくない」と主張してください。また選挙の際には同様の主張をしている政党に投票されることをお勧めします。まあそんな政党があれば、ですけど。
舞台設定に関しては、テッド・チャン「不安は自由のめまい」の《プリズム》で観測できる平行世界というのが元増田の
やりたいことに合致してそうな気がする。
未読だったけど、おもしろそうなので調べて見たら、むちゃんこガジェットが似てて草
ちなみにPrismaticallization(プリズマティカリゼーション)がどういうギャルゲーかというと、
・・・と、だいたいこんな内容。めっちゃ似とらん?www (まぁ、さっきも書いた通りタイムリープ物ならみんなどこかしら似るか)
マクロなスケールで考えれば原理的に始まりから終わりまで決まっているよね
⭐️やはり前回書いた増田(https://anond.hatelabo.jp/20221012002410#)同様に "大差ない" と "時戻し" の定義による⭐️
自由意志は現代の標準的な物理的世界観と論理的に矛盾する。お前と言う存在(自由意志)は気のせいだから"我"があるように振る舞うな😡以前に、
そもそも、我々が現在、"日常" と認識する世界においても、単純に I/私 は連続していない
過去の自分・今の自分・未来の自分は組織からして物理的に違うし、人間の記憶は同じだから連続した存在(同じ存在)とするのもだいぶ無理がある
記憶は五感を伴うものであり、身体の組織が違っていれば、思い出しても当然感じ方は違うし、
(似たような環境で育てたとしても完全に同じ個体にならない理由がまさにこれ)
そもそも記憶のインディックスを失い、正しく記憶を読み取れなくなるかもしれない(いわゆる"忘れる")
早い話が人間は、身体も記憶も連続していない。少なくとも、連続性を保証するものは何も無い
しかし、それでもなお、誰も "I/私" を無い物として放り投げやしないでしょ。ワイはそれを『希望』と呼んでいる
もちろん、現代の標準的な物理的世界観と論理的に矛盾するけど自由意志はあると思ったらある!としても、
壁をすり抜けたりとかトンデモないことは出来ない
(もしかしたら出来ちゃったりするのかもしれないが、1秒間に100億回壁にぶつかりつづければ、宇宙が始まってから現在までに1回ぐらい壁抜けが出来るかもしれないみたいな類に
我々が現在、"日常" と認識する世界でチャレンジする予定は今のところ無い)
でも、ボタンをただ押すみたいな単純で小さな小さな事なら出来ると思って生きているし、それがどんな変化をもたらすのか非常にワクワクして楽しい
それは不確定な未来について不安に思うとかではなくて、 "I/私" は世界に介入する力があるのだから、
世界で認知し得るすべての不幸は、 "I/私" の行動・望んだ結果だからだ
言うても壁をすり抜けたり等トンデモな事は出来ない(と思われる)ので、ボタンをただ押すみたいな単純で小さな小さな行動しかできないけどね
どちらも非常に難しいでしょうね。能力主義 FUCK だよ
だからこそ、口にするほど出来てはいないけれど、自分に足りない物を嘆くのではなく、自分が持っているものに感謝したいし、
自分の能力でできる範囲(出来ないことしようとしたら潰れる) で困っている人は助けたい
あと単純にもっともっと楽しくワクワクしたいので、今よりも少し自分も世界も良くしたい
しかめっ面しながら、うぉぉぉぉぉぉ積み重ねるぞーとやっても何も楽しくないので自分が認知している今を楽しみながら、
でも、出来たらちゃんとなんらかの積み重ねが出来ているようにバタバタやっていきたい
ほんと『言うは易く行うは難し』だよな
結局あらゆる事は自分がどうありたいかってだけの話でしか無いは常に自分の中心に据えたいと思っている
現在、VTuberグループのにじさんじが、幕張メッセを3日くらい使って、グループあげてのオフイベントであるにじフェスというのをやっている。
盛り上がっているようだし、スタッフもVTuberも力を込めているようである。
が、俺はにじさんじを活動スタートの頃から追ってるオタクのくせに、いまいちそれにノれない。
地方に住んでる上にひきこもりだから東京のオフイベに行けないというのもあるが、そもそも、肉体接触でみんなで盛り上がるというのが猛烈に苦手なのである。
「にじフェスはまるで文化祭みたいだ」というのはVTuber自身がちょくちょく口にするのだが、実際まあそういう盛り上がりであり、そして俺の苦手意識も、文化祭や体育祭がキツかったことに近い。
中学高校の文化祭は人のいない場所に逃げ込んで時間を潰していた。修学旅行も苦痛だった。
そして俺の厄介な所は、イベントに参加するのは苦痛なくせに、悠々自適なひとり学生生活に満足しているわけでもなかったということだ。
ワイワイやっているクラスメイトのノリが嫌いだったが、しかし楽しそうなそいつらを見てルサンチマンや疎外感や不公平感は強く覚えるのだ。
にじフェスについても同じだ。にじさんじ、ないしいちからが成長するのはよいことだし、マクロかつ客観的にはオフイベは成功してほしいが、ミクロで主観的な俺は、ひたすら置いてきぼり感がある。
月ノ美兎は言うまでもなくにじさんじのメインどころの一人であり、ここしばらく私生活の事情で休止していたが、にじフェスでもライブを二本もこなすように、しっかり箱イベントにコミットしている。
だが彼女は、今回のイベントのイメージソングである、じんが文化祭をモチーフに作詞作曲した『Hurrah!!(フレー!!)』という曲を紹介する時に、こんな風に言っていた。
「この曲のいいなって思うのが、明るいんだけど、陰の感じもあるの。私はそう受け取ったの。文化祭ってやっぱ、一部のお祭りになったりするじゃん。でも、なんか、救いがあるんだよね、この曲」
じんはこの曲にそのような救いをこめたのかもしれないし、そして、それを感じ取って明言してくれる月ノ美兎は俺のような人間にとって救いである。
月ノ美兎は今までのグループイベントを楽しんでいるようだし、彼女自身のプライベートでの文化祭も楽しむ側だったことは、何となく伝わってくる。
だがそれでも彼女は、彼女の人生で疎外感が発生した経験や、主流の生き方をできなかったときのキツさを覚えているのだと思う。
(そもそも彼女はVTuberとしても特殊だ。活動初期は3D動画勢がVとして当然であり、2Dで生配信のにじさんじは邪道的であった。その後彼女たちの活躍によって生配信系Vが大きなブームとなるのだが、ゲームや長時間配信を得意としない彼女はやはり特殊だった。ぱっと見は脚光を浴びているのに、主流派やマジョリティとしての振る舞いができない、「ステージ中央にいる異端」として5年間活動しているのがVTuber月ノ美兎である)
そしてにじさんじが、あるいはVTuberが、ネットが、オタク文化自体がメジャーになり陽キャやアイドル的になりキラキラした「マトモな人間達」のものになっていっても、「マトモに生きられないし他者と関われないので、一人で部屋でオタクコンテンツを摂取することでしか生き延びられなかった人間」の存在を認識してくれていて、どんどん派手で幸福そうになっていく界隈の賑やかさの中で、たまにモールス信号のように、あるいはradiko以前の深夜ラジオのように、月の光のように、彼女から俺たちへ密かにメッセージを送信してくれているように感じる。
それは相互理解なんかではなく一方通行の送信であり、それどころかそもそも月ノ美兎はそんなメッセージは意図しておらずオタクにたまたまそう聞こえただけの偶然のノイズなのかもしれないが、とにかく、俺はそう受け取っているのである。
書いてる本人も女憎しで知能下がってよく分かんなくなっちゃってるんだと思うんだけど
記事で引っ張り出されてるデータの中でマトモなものだけ読むならタイトルみたいな結論になるんだよな。
ここに反論できるやつ居るのか?
ブコメとか見てもミクロ・マクロの話以前にだいたい「すきなひとと結婚したから幸せです!!」みたいな、アホな筆者の煽りにアホな脊髄反射しただけの自称反論で埋められててキツい。
(社会科学系研究のレビューをやったことがない50過ぎのオジサンが募らせた怨念の勢いそのまま、つぎはぎの記事を生産し続けてしまう悲しみみたいなものはどうでもいいので全部横に置いて考えろ)
「態度を改めろ」はどミクロな話では?
一つの大きな前提を忘れている人がいるので注意しておきたい。
資産形成を考えるにあたって一番大事なことは「将来のある時点でどの程度の資産を形成していたいのか」です。
お金は多ければ多い方が良いという人がいる一方で、将来への備えは最低限で現在使えるお金を最大化することにメリットを感じる人もいます。
例えば自分の場合は、10年後の100万円より今使える10万円の方が価値があると考えて生きています。
金融理論からすれば今の10万円より10年後の100万の方に価値を見出すには余程の利率でないとおかしくなってしまいますが、人の考え方はそれぞれ。
10年後に投資で形成されうる資産や損失、あるいは投資をしなかったときの資産を比較した時の人生の幸福度の差、更には自身が10年後に生きている確率、これらは全て個々人の認識によって異なる変数です。
これらが人によって異なるのに、一概に投資を勧めるのは明らかにおかしいというのはわかるでしょうか。
あえて極論するならば、10年後に死ぬ確率が100%の30歳に対してインデックス投資を勧めるのかという話です。
国はマクロの視点から考えるので、金融理論に則った政策を考えてそれを個人に適用しますが、マクロで正しいことが個人というミクロで正しいのかは全く別なのです。
1円のお金は誰にとっても1円ですが、その価値は相対的であり、さらに未来という時間軸が加わると更に個人的なものになってきます。
これらを無視して誰にでも投資を勧めることは、価値観の多様性を否定しているということに他なりません。
投資を勧める連中は中途半端に頭がいい連中が多いため、投資をしていない人はそれが間違っていることかと不安になるかもしれませんが、金融の理論と個人の価値観すら分けて考えられない脳みそないので大したことはありません。