はてなキーワード: ポジティブとは
大体同じ理由で子供が欲しくなくて、10年付き合った恋人と別れるべきかどうか考えてる。
ちなみに自分は28の女性、同い年の彼氏は絵に描いたように素敵な家庭で育った素敵な人で、何度も話し合ったけど子供のことだけどうしても折り合えない。自分の気持ちが変わるのを待ちつつ、変わったとしてもこれまで子供が苦手だった歴史は変わらないから不安も拭いきれないよなぁと思いつつ、他にいい人がいるわけでもないし現状維持で付き合いつつ、お互い他の人を探すなら早い方がいいよなぁとも思う。
以下は結論のない吐き出しです。
「毎月XX万払うから子供を諦めて(そのお金で楽しく暮らそう)」 vs 「毎月XX万払うし離婚時に親権は自分が持つから産んで(子育てに耐えられなかったら離婚して、キャリアの損失や養育費はそこから捻出すればいい、後戻りできるよ)」という交渉をしたことがある。彼に「いくらでも払うし念書も書くし、専門家を頼って法的に有効な書面を残してもいい。君が僕や子供を不幸にして去っていくとは思わない。いくら貰おうと子供がいる人生の方がいい」というようなことを言われて(惚気)、「確かに私は彼らを不幸にして去っていくことはできない。子育てが嫌でも耐えるんだろうな。でもそんな人生は嫌だな」と思って決裂したけど、彼が折れてくれればお金で解決できるかもしれない。なんか嫌ではあるけれど。
自分の場合「産んだら取り消せない」という不可逆性が嫌で、カジュアルに取り消せるなら試してみてもいいかな、と思っている。かつ親が健康で孫を強く望んでいるので、産んでみたもののどうしても育てたくなかった場合には全面的に子育てを引き受けるという約束を親として、産むだけ産んでみる?祖父母に育てられて幸せな子供もいると思うので、いかにしてそれが可能か模索する?責任とか倫理とかはもちろん考えるけど、だから自分としても実行のハードルはかなり高いけど、「社会で子育て」って言うし、こんな大きなリスクを個人が背負って十分な保険もない社会システムもおかしいと思う。子育てで不幸になったらお金がもらえる保険がほしい。
「幸せはお金で買えないが、大抵の不幸はお金で回避できる。」 そして不幸のない人生はまぁまぁ幸せだと思うので、とにかく仕事を頑張る。
経済的に自立していて、寂しがり屋でも恋愛体質でもない、結婚式も新婚旅行もどちらかというと億劫。友人がみんな家族と過ごすようになった将来ふと寂しくなるのが怖くて、それで結婚を意識して子供について考えているだけで、今は別に、結婚したいわけじゃない。寂しくはあるけど別れて一人になっても大丈夫。彼が他の女性と幸せになれるなら、それはそれで、望ましいことだと思う。
私は同人活動が好きだ。
それほど多くのファンがついているわけでもないし交流にもあまり積極的な方では無いが、マイペースに細々と活動している。
前述の通りそれほど多くのファンがついているわけではないので、たくさん反応が貰えるわけでもない。たまに貰えればいい方だ。それでも自分が描いたものが本になった時の感動が大好きで、もう何年も活動している。
弱小サークルなので毎回それほど多くの部数が売れるわけでもないが、同じジャンル、同じカップリングの同志たちが集う同人イベント特有の空気感が大好きだった。
世の中には思ったよりも優しい人が多くて、こんな私でも時折「新刊楽しみにしていました」などの温かい声をかけて頂けたりもした。相手側としては何気ない一言で特段深い意味も無かったのかもしれないが、そういった生の声を直に聞けたときは望外の喜びを感じた。
少々生々しい話になってしまうが、交通費を活動経費に含めるとするなら私のサークルの収支は毎回赤字だった。
趣味なので採算については気にしていない。そもそも商売やお小遣い稼ぎのつもりであればややマイナーな現ジャンルでは活動していないだろう。
私はきっと会場でしか得られない""実感""が欲しくて同人イベントに参加していたのだと思う。
大好きなジャンルの二次創作本を頒布するだけなら、通販だけで充分事足りた。
ところが2020年2月後半辺りからコロナ渦によって日常は大きく様変わりしてしまった。
同人界隈も相次ぐイベントの中止で苦境に立たされているという情報は逐一目に入ってくる。
私も一日も早く事態が収束して欲しいと願いながら、オンラインや通販を利用して細々と同人活動を続けている。
このところ緊急事態宣言が解除され、自粛ムードも和らぎイベント会場にも少しずつ人が戻り始めたという話を目にするようになった。そういった状況の中で、ここに来てイベント参加に対して前向きなレポートやツイートがだんだん重荷だと感じるようになってきた。
現在地方で家族と暮らしている私は自分の趣味と万一感染した際のリスクを天秤にかけると、まだ参加は難しいと感じてしまう。
やむを得ない事情で自粛を続ける、続けざるを得ないという人はきっと私の他にも大勢いると思う。
意識の高い人達がイベントに参加する事で同人文化の火を絶やさずにいようとしてくれている事はありがたい。
けれど、イベントに参加しない・出来ないからと言って別にジャンルへの愛や熱意が無いわけではないのに……と荒んだ気持ちになってしまう事も増えてきて、正直すごく疲れてきた。
ほんの些細なポジティブな言葉も同情圧力に感じられるようになってきたので、そろそろ辞め時なのかもしれないと考え始めている。
あの人ってどうしてああいう風に言うんだろう。
私は考えることが好きだし、考え始めるとなかなか止められない。
加えて、自分が考えていることについて他人と話し合うのも好きだ。
それでも、あまり考えるのが好きじゃない人に向かって誤ってそういう話題を振ってしまったときには、
"君は考えすぎなんだよ"と一蹴されてしまい、"考えるのは好きだけど、考えない方が効率がいいよなぁ"と思い始めてしまう。
"考えすぎだ"と言う人は、"他人について考えたって答えが見つかるとも思えないし、時間の無駄だ"と言う。
じゃあ、他人の考えや行動に疑問が湧いたときにはどうしているのか?と聞くと、
"この人はこういうシチュエーションの時に、こう考えやすいんだなって考えて、それから先は考えない"と言う。
事実、現象だけを理解して、その理由は考えないようだ。たしかにこの考え方は効率が良いし、対人関係も上手くいきそうだ。
私は"わたしって考えすぎなんじゃない?"と思うことが多々あり、その度に[考えすぎる]で検索をかける。
そうすると先人たちがネットに綴った対処法がたくさん出てくる。
それらは"ネガティブに考えすぎること"への対処法が多いように思える。
自分は他人の思考への興味から、ポジティブな感情にもネガティブな感情にもならずにひたすら考え続けてしまう。
しかし、世の中にはネガティブに考えすぎて悩んでいる人が多い。
それ故に、わたしが何かに対して考えまくっている時に、ネガティブに考え込んでいると勘違いされることが多い。
この世界に、わたしと同じようにポジティブでもネガティブでもなく、単純な興味で他人の思考について考え続けてしまう人がどれだけの数いるかはわからないが、
ちょっと大げさかもしれないし、あくまでうちら夫婦に限った話かもしれないけど、割と目からウロコな話だったので聞いてくれ。
結論を先に書くと、「してもいい?」という言葉を「したい」に変えたということ。
同じと思うかもしれないけど、結婚して10年、前者はいつも使っていたけど、後者を使うことは多分一度もなかった。
その歪みが積もり積もって夫婦の関係を冷ややかなものにしてしまっていた。
なぜ「してもいい?」という言葉を使っていたのかと言われれば、夫婦とは二人いて初めて意味のあるもので、何かしらの決定は常にお互いの承諾が必要だと考えていたからだ。
おそらく、その考え自体は間違ってないと思う。
しかし、その承諾を得る方法として、自分が選んだのは「してもいい?」という問いかけだった。
この言葉は、一見自分の要望を丁寧に伝えているだけの言葉とも取れる。少なくとも自分はそのつもりで使い続けていた。
ところが、この言葉にはうっかり見落としてしまうような落とし穴があった。
それは、自分の要望に対する責任を相手に依存してしまっているという点だ。
例えば、「今日の帰りに飲み会に行ってもいい?」と聞くとする。
少し難しい話をすると、これに対して「いいよ」と答えれば、それは”承諾”だけではなく”許可”が行われたことになる。
同じと感じるかもしれないが、大きな違いとして承諾ではなく許可をした以上は、飲み会に行っことに不満を持つわけにはいかないし、後になって飲み会に行ったことを咎められれば、聞いた側も「許可を得たのにどうして?」となってしまう違いがある。
さらに言えば、許可を求められた側は断ることに対してほんの少しの罪悪感を消費する。(もちろん相手が思いやりのある人だという前提で。)
このほんの少しの罪悪感が、10年も経てば積もり積もって離婚の原因となるほどの大きな歪みに十分なり得るのだ。
それならば、これが「今日の帰り飲み会に行きたい」という投げかけになればどうだろう。
そこには返答に対する責任は存在せず、行きたければいけ、その代わりどうなっても自分で責任を持てよということになる。
ここに一方的な依存はなく、たとえ嫌な反応を示そうとも、それは素直な感情の表現でしかなく、罪悪感の歪みが生じることもない。
それどころか、受け入れれば相手に対してもポジティブな貸しをつくることもできるのだ。(もちろん自分が身勝手ではないとした上で。)
つまり、「してもいい?」の問いかけは受け入れて当然、断れば罪悪感が残り、「したい」という問いかけは、断ろうが勝手、受け入れれば相手への貸しを一つ作ることができるという大きな違いがあるのだ。
同じ承諾をするにしても、片やリスク、片やメリットがあるという大きな隔たりがそこにはあった。
これは承諾を得る側にも言える。
「してもいい?」という問いかけは比較的リスクが低く断られてもダメージが少ない一方で、「したい」という問いかけは一方的な要望を押し付けることになるので、承諾を得られたときに相応の報酬を与えなければならない。
つまり、ある意味では相手の良心の呵責に問いかけるようなずるい言い回しとも言えるのだ。
しかし、夫婦間での歪みはすでに危険なレベルにまで達していたのは事実だ。
こうしたやり取りを繰り返していくうちに、妻は断る自分ばかりが罪悪感を感じていることに馬鹿らしさを感じるようになった。
その結果、妻はこちらからの提案に対して、冷たくそっけなく返事をするようになる。
それに対して自分の受け取り方はこうだ。
こちらは相手の顔色を伺って平身低頭お願いをしているのに、それを聞こうともせず冷たくあしらうとはどういうことだ。
事実、こうしたいらだちがお互いに溜まりに溜まって、結婚10年目にしてはじめて食卓がひっくり返るような喧嘩をした。
その後一週間、子供の前以外では全く口を聞くことすらなかった。
昨日今日始まったことではない問題の根深さは理解していたので、もしかするとこのまま決別ということもあり得るかもしれないと、割と本気で考えるほどだった。
気軽に言っているわけではない。今までさんざんお土産を買ったり、喜ぶようなことをしたり、事あるごとにありがとうと言葉を返したり、できる先回りして家事をやっつけたりと手を変え品を変え関係改善に努めてきたつもりだったのに、その結果がこうなのだからもう改善の余地はないのではないかという絶望すら感じていた。
しかし、今回こうして感情的にお互いの気持をぶつけてみて、現状に対する認識に対してズレがあると感じたのも事実だ。
ならばそのズレの原因、認知の歪みはどうして発生してしまったのだろうか。
そんなことを口を利かない一週間の間にずっと考えてみた。
実を言うと、先日話題になった依存症の漫画を読んだことが一番のきっかけだったのだけど、そこで改めて”Iメッセージ”とは何かを考えたときに、自分の使っていた「してもいい?」は、実は”Iメッセージ”ではなかったのではないかという疑問に行き着いた結果、言い回しを変えてみたらどうだろうということになった。
発信は確かに”I”にあるのだが、決済責任が”I”にはない、あっても希薄だということに気づいたのだ。
それならば、ストレートに要望を伝える言葉を選んでみたらどうだろう。
最初は、これすらも冷たくあしらわれたらどうしようと不安だったけど、いざ「~したい」と、自分の要望を言い切りで伝えてみたところ、妻は一瞬はっとしたような顔をしてからむしろとても嬉しそうに快諾してくれた。
なんだ。こんな簡単なことだったのか。
そう思うと、ほっとしたのと同時に、久しぶりの妻の笑顔が見られたことが嬉しくて涙が止まらなくなってしまった。
まともに喋れる状況ではなかったけど、そこではじめて妻に謝ることが出来た。
「今までごめん。多分、僕の要望の伝え方はずるかったよね。窮屈な思いをさせてごめんね。」
多分、そんなようなことを言葉になるかならないかギリギリのところで話をしたと思う。
恐る恐る妻の顔を見ると、微笑みつつも瞳から大粒の涙をこぼしながら突然強く抱きしめてきた。
実は、妻からもそうしたストレートな要望を聞いたことがなかった。
それも妻の遠慮がちな性格がそうさせていたのだと思うと、妻にもつらい思いをさせていたのだろうと悔やんだ。
これからはお互いを信用して、自分の要望に対して素直に相手に伝えあえるようになろう。
そんな提案をすると、妻はとてもうれしそうに、恥ずかしそうにうなずいた。
ここからは確証がもてないのだけど、おそらく、どちらかに偏ってしまったことに問題があったのだと思う。
自分の素直な要望は素直に伝えるべきだし、もしかして相手を傷つけてしまうかもしれないようなことは「~してもいい?」と相手の考えを口にできるきっかけを作り出すことが必要なのだと思う。
あんまり上手に説明できてないかもしれないけど、もしどちらかに偏ることで大切にしたい人との距離感がギクシャクしてしまっている人がいるなら、何かの足しになればと思い文字を起こしてみました。
冗談にマジレスするけど、すると思うの?中華プロダクトを好む人が中国人の政治的思想にも共感してると思うのはネトウヨくらいだよ。
中国人視点では一つの中国にしたいという考えがあるだろうということは「理解」するとしても、台湾は実際ひとつの政治的に独立した地域として長年立派にやっているんだし、中国の主張を安易には「支持」出来ない、そういうのが俺を含めた一般的な日本人の感覚だと思うね。
いいモノはいいモノ。モノはモノで正当に評価されるべき。背後のものと何がなんでも病的に結びつけようとするのは、「かぶれてる」だけだと思うね。人々はそんな仮想的なバトルよりも、プラグマティックな価値を重視する。もちろんプロダクトの背後にある思想的意図が実害を伴って浮かび上がってくる状況では価値が反転することは充分ありえるし、警戒感がないワケではないけど、そこまで全部が全部を信じられない訳じゃない。よく知っていけば、多くの民間企業は誠実だと分かるし、実害なくモノの良さを享受できることは多い。そういうポジティブな実体験を俺だけじゃなく世界中の人が積み重ねているから、中華プロダクトは経済的にも評価が高いわけ。
ん?? 親のポジティブさ見て良いと思ったのはどこか、って話?
親が増田みたいな感じの人
実際、ポジティブなのは良いことだな、と親を見ていて思うことも少なくないが
一方でその親の行動に色々と振り回された(と感じている)自分は、ハードとかイージーとかじゃなく人生=嫌なものと思っている
虐待されてないし金に困ってないし大きな病気もしてないから、恵まれているかいないかで言えば恵まれているんだろうけどな
主観では嫌な事ばっかりなのに「恵まれてるじゃん!」的なことを言われるのも嫌だし(だから良いことも悪いことも人には言わない)
自分は人生が嫌でその理由に親が絡んでいる(と思ってる)のに、当の親は自身の人生が良いものと思っているのも腹立たしい
知ってる知ってる
内向きな傾向にある人が気軽に過ごせる場をということで作ったんだけど速攻で投げた
原因は3つ
1つ目、
内向きの人の中でも更に内向きかつ傷付きやすい人たちがどんな書き込みを見ても
『だから私はダメなんだ』『ここにいてはいけないと感じる』『XXXって○○○って言えるのかな』
『壁打ちみたいで悲しい』ってサイト内だけでなくTwitterなどで綴っちゃう。
基本的にみんな内向きなのでSNSサイト内では面と向かって説教やポジティブの押し付けをする人はいなかったが
場外乱闘は起きてた(激しい言葉は使ってなかったけど)、あと何なら書いても良いのか?みたいな雰囲気になった。
2つ目、
メンタルを病んだ人の過剰な要求。仕事でもなく有償サービスでも無いので過剰な要求はサクッと無視していてたんだけど、
まぁ諦めないよね。本気で言っていてしかもまったく悪気が無いのが見て取れる。
これはめちゃくちゃ荒れた。例によって例のごとくSNSサイト内は平和なんだけど場外で荒れる荒れる。
内向きな人が気軽にという趣旨なのに過剰な要求をする人に対する個人攻撃まで始まってしまって、
サイト外でもそういう行為は控えるようにとルールを追加するはめに。もちろん増田民的な自由を愛する人から大不評だった。
『なぜSNSサイト外の行動を指示されなきゃいけないの?』的なことを非常にマイルドな表現でチクチクと。ごもっともで。
しかしそれでも過剰な要求がは止まらず、そしてそれに対する攻撃も止まず、それを目にするのが辛いという反応でも止まらず、
もうどうにもならねぇなって思って第三者を装って『意見を出すのは自由』『お互いを尊重しましょう』的なことを書いて鎮火を試みた。
概ね、思惑通りいったのだけど、なぜか最終的に運営者(自分)の判断を仰ごうという流れに。
なんの判断だよ、”要求にすべて応えることはできない“、”個人攻撃はやめましょう“ってSNSサイトに書いてあるじゃん?って思ったが、
まぁ仕方ないそのまま返そうと待てど暮らせど、SNSサイトの公式フォームにその判断を仰ぐご意見とやらは来ない。
場外でのやり取りをSNSの公式リリースとするのも変だし、なにこれ?放っておいていいの?と思い放置。
やーめた\(^o^)/
3つ目、
運営するにあたり基本的になにも考えていなかったこと。仕事じゃないしお金も取ってないしみたいな
わたしは何色が好き?って言われたら黄色や緑などと答えることが多いのです。
ですがその度に父親(このたび古希をお迎えいたしました)に「色キチ」と言う言い方をされます。
というかこっちからしたら、普段着を上下ビビットな空色でコーディネートする人物に「色キチ」とか言われる謂れはない。
ただ疑問なのがなぜ黄色=色キチなのかという話。
わたしが黄色と言われて思い浮かぶのは「黄色い悲鳴」「黄色のハンカチ(映画)」「金運アップ」「バナナやレモンなどの鮮やかなフルーツ」「明るく元気」と言ったポジティブなイメージが多い。
父も「そう言われたら確かにそうかもしれないが、なんだかいけない色というイメージがある」とのことだった。
なんとなく思い至るネガティヴなワードといえば「イエローモンキー(蔑称)」「黄色い救急車」などだろうか。だが後者については父自体に知識がなかったためちがうことかとおもわれるが。
「2次元」っていうクソほど幅の広い概念を使いながら、語ってるのがなろうアニメに出てきそうな「都合のいい女」についてだけなのがマジでナンセンス
2次元のいい子感というのは、ハイティーンの年齢でありながらも低学年の少女のように純真で人を疑わず、つとめてポジティブに受け入れようとするような、そういう感性のことだ。現実の人間は世慣れしてしまうから、どうしてもそのようにはならず、他人を警戒することを覚える
「2次元に出てくる良い子」じゃなくて「〇〇に出てくる〇〇ちゃん」として語れよ
都合のいい妄想を繰り返してるから「身体的に成熟しているけど、気持ち悪い自分を受け入れてくれる少女性も欲しい」と読み取れちゃうわ
あと世間に云々とかVtuberとかいう直喩的ペルソナを被った活動を例に出しちゃうのマジでセンスない、そんなん昔のアイドル幻想とアニメキャラクターの間の子だろ、肉体のあるアイドルではアイドル像の維持が出来ないから、2次元の皮をかぶせただけで中身一緒じゃん、それをもって「てロールプレイすることを良しとする世界の象徴」っていみわからん、そんなん演技やタレント性で売ってる芸能界とかわらんし、現実と乖離した話だろ
たぶん2次元に詳しくないせいでニュアンスが伝わっていないと思うんだが、2次元的ないい子感は、リアルの人間には存在しない。
リアルの人間的にあり得る範囲で現実にいい子はたくさんいるし、話したらほとんどの人がまじめでまともで良い人であることは当然ながら実体験込みで分かっているんだが、2次元的ないい子でないことをもってリアルを「悪い」と言っているわけでは一切ないんだよね。
2次元のいい子感というのは、ハイティーンの年齢でありながらも低学年の少女のように純真で人を疑わず、つとめてポジティブに受け入れようとするような、そういう感性のことだ。現実の人間は世慣れしてしまうから、どうしてもそのようにはならず、他人を警戒することを覚える。それはいいことだ。けれど多感ゆえにそれが行き過ぎて、人へ容易に悪意や偏見を向けるようになりやすい。ネットではよく可視化されている、攻撃的な言動などがそれにあたる。なんなら君もそういう傾向がある。
けれど、最近の若い子はアニメ文化に小さな内から親しんで、しかも昔より格段にそれでネクラだなどと言われにくい環境にある。そうすると、どうなるか。
一番いい例が、Vtuberだと思う。Vtuber的な振る舞いこそ、リアルな人間が2次元的ないい子感をもってロールプレイすることを良しとする世界の象徴そのものだ。
中には露悪的な、ファンの前で悪態をつくような個性をもつVtuberもいることとは思うが、やはり「見られる」「楽しませる」をパーソナリティに組み込んで、フリでありながらも純真にポジティブなキャラクターを演じることを楽しんでいるのだ。そして現実と2次元の境界はシームレスだ。そういうことを端的に表現したのが最初の文なんだよ。
最初、まさにそう思ってメルカリで価格上げてみたんだけど、もともと当初売りたかった価格で売れれば自分的にはOKなのでは?という気がしてしまったのよね。
転売を潰したいという気持ちはあるのだが自分のメリット・デメリット考えると無視しちゃってもいいかなと。
ちなみに ebay には同じ写真でいくつか出てたんだけど、メルカリで出品を停止してみたら律儀に消えたやつもあった。同じような業者(?)はたくさんいる模様。出品しつづけてる業者のフィードバック見ると、案の定「キャンセルされた」とか「商品がないのに売ってる」という苦情がかなりあった。しかしそれをはるかに上回るポジティブな評価があったので、たぶん総体では成立してるのだろう。
でも、「最新の動画面白かった!」「マシーナリーとも子、〇〇〇(ポジティブな感想が入る)……」
まず、それが目障りだったな
なんかこう、「みんな大絶賛してる!」みたいな印象操作しようとしててさ
批判的なツイートをRTして「晒し上げ」とか「ファンネル飛ばしてる」とか言わない?
あとTwitterには「フォローするけどリツイートだけオフにする」っていう設定あるよ。
出来る限り可愛くしよう!みたいな意気込みが見える見た目にしなきゃダメでしょ
そうか?
池袋晶葉をちょいブサにしたような見た目が合ってるんじゃないの。
知ってるなら、話は早いんだけど
マシーナリーとも子とは、池袋晶葉(アイドルマスターシンデレラガールズ)を応援することを存在目的とする謎のサイボーグである。(pixiv大百科引用)
っていう個人でやってるバーチャルYouTuberなんだけども、この人がすごい苦手
苦手というか、好きになれないというか、まぁ良い印象がなくて
バーチャルYouTuberは、にじさんじとか追ってる程度には好きだし、そこに問題は無いんだけど
なんか、本人の「自分は常にみんなの中心にいて当然」「自分が人気者なのは当たり前」みたいな、そう見える振る舞いがすっごい苦手なの
マシーナリーとも子の中の人がバ美肉する前から、Twitterフォローしてたんだけど、そういう振る舞いが多くなって苦手になった
それやってるバーチャルYouTuberなんていっぱい居るし
でも、「最新の動画面白かった!」「マシーナリーとも子、〇〇〇(ポジティブな感想が入る)……」
まず、それが目障りだったな
なんかこう、「みんな大絶賛してる!」みたいな印象操作しようとしててさ
あと視聴者も視聴者なのよ、マシーナリーとも子でTweet検索したら、9割はポジティブなTweetで
RTしてくれるから面白い面白いってTweetして、媚びを売って、すり寄って、長い物に巻き付きたいだけなんじゃない?
そんな気がしてくる
それが嫌になって、ミュートにしてから凄いTwitterやるのが快適になった
でも今度は、ハンバーガーちゃんって人が目障りで、ミュートもすり抜けてくるんだけど……
って話は置いといて
まず、バーチャルYouTuberは見た目で勝負する訳だけども
マシーナリーとも子は可愛い可愛くないどちらかと言うと、可愛くないかな……
少なくとも前者ではないと思うんだよね
なんか、立ち絵も手抜き……というか一日かけて作ってアレならともかく
数時間くらいじゃない?ってなくらいだし、最悪一時間で作ってんじゃね?って思っちゃいそうで
そりゃね、個人でやるバーチャルYouTuberだからさ
にじさんじとかみたいな企業と違って、バーチャルな肉体を用意するのも一人でやらないといけないわけだし
流石に企業勢のバーチャルYouTuberと比較したら分が悪いのは分かるよ?
だけどさ、もう少しこう……
出来る限り可愛くしよう!みたいな意気込みが見える見た目にしなきゃダメでしょ
次にバーチャルYouTuberで見られる所は声なんだけども、機械音声なのね
「サイボーグだから敢えて無機的な声にしました!」って言うなら簡単だし
確かに自分の声に自信がなくて、ゆっくり音声に頼るみたいなのは分かるけども
前述の見た目でこれじゃ、人気出ないよねって
なんで……?って思うわけじゃん?
しかも、「バーチャルYouTuberは嫌いだけど、マシーナリーとも子は好き」とかこういうTweetを見た事あるんだけどさ
にじさんじとか他のバーチャルYouTuber見てみなよ、マシーナリーとも子なんて足元にも及んでないと思うぞ
自分は自分の声が好きじゃないから、自分の声出してああやって配信なり実況やってるバーチャルYouTuberの人達ってみんなすげぇなって思うの
だから、なんかマシーナリーとも子はその他バーチャルYouTuberより面白いみたいな評価には納得いかなくてさ
それはホント、贔屓に見過ぎだぞって
あと活動方針なんだけど、あの人デレマスの池袋なんとかちゃんって娘に声を付ける為に活動してるの
でもさ、設定の段階で「アイドルマスターシンデレラガールズの池袋なんとかちゃんの声を付けるべく〜」みたいなの入ってちゃ駄目じゃない?って思って
でもさ、普通にバーチャルYouTuberとしてやってるよね?
バーチャルYouTuberだってさ、好きなアニメとか漫画とかゲームあるけどさ、設定の段階でその作品の名前は入ってない訳なのよ
一人のバーチャルYouTuberとして、その人の世界観を作ってるの
それじゃあ、二次創作じゃんって
マシーナリーとも子が(ある程度は)有名になってくるとさ、「池袋なんとかちゃんと言ったら俺だよな!」みたいなアピールする為に活動してるようにも見えてさ
やっぱり良い印象が無いわけよ
そうすると、自然と池袋なんとかちゃんのイメージにも大なり小なり影響与えてくる訳で
デレマスやってるんだけど、なんか池袋なんとかちゃんが好きになれないんだよね
あと、関係があってもこじ付け感あったり
活動方針がブレブレじゃねぇかって
ただ、「池袋なんとかちゃんのPはマシーナリーとも子だよね!」みたいな印象を付けたいのか
それとも、お金が欲しいだけなのか
バーチャルYouTuberになる前は面白かったし
ふーむ、なるほど。拙者が想像するところによりますると、女性というのはおそらく自分の行動の責任を自分で負うことに慣れておらぬ。それゆえ、自分が撤退の判断を下した時に、それを自分の内なるものとの不一致にあると判断することができず、外部の要因に責任を負わせることで納得しようとするものではござらぬか。あるいは、そのように未練をのたまう場合は自分が好いたモノや過去抱いたポジティブな内心を完全には否定できぬまま、現実的な状況判断として去るという判断を選ばざるを得なくなった事態に対する認知的不協和の解消のために、対象を貶めることで離脱を図るのござろう。他を貶めることの品の無さを意に介す余裕がないほどに、おそらく不協和の解消は切迫した問題として当人の中で大きく膨らんでしまっているのでござらぬか。しらんでござるが。
批判いっぱい貰うとなんかあんだけ嬉しかったコメントがすっごい怖くなるわけ。
なんかなーPTSDみたいな何かだよね。炎上慣れしてる人たちはマジすごいわーー私だったらストレス耐性低いから人格否定みたいなの来たら何日も何日もすごーい嫌な気分になって耐えられないもん。
ま、私は私で落ち度が無かったわけじゃなかったとは思ってる。そこは真摯に反省しないとね。
でもそんなボロクソに言われるのは辛いよ。
その攻撃的な言葉の一撃は、褒めてくれるコメントの100倍くらいインパクトがある。そう書くと褒めてくれた100人に申し訳なくて仕方ないけど、でもそうなんだから仕方ない。怖い。
プッシュ通知来るのが好きだったけど怖い。
コメント見て回るのも好きだったけど怖い。
マシュマロもコメント欲しさにネガティブOKにしてたけどもうポジティブオンリーからは外せないだろう。中立コメントくらい欲しいんだけどな。
なんだかな。
世界に公開したらそういうのも全部許容しないといけない?(これは残念だけどそうなのかもな。だとしたらちょっと悲しいね)
私が悪かったかもしれないけど辛くて悲しいって誰に言えばいいの?
あーあ。やだな。