はてなキーワード: デリカシーとは
改めて「この親戚一同が嫌いだなあ」と思った。
「〇〇ちゃん」「〇〇ちゃん」とまあみんなフレンドリーにしてくれる。
しかし彼等と心の通じ合う気分を持ったことが一度もない。
些細なことで笑いあって少し心が通じる、その程度のこと、
そういうのすらあの親戚達に対しては一度もない。
彼等なりに気を使ってくれてるらしい配慮はこちらには全然響かない。
彼等親戚同士のコミュニケーションを見てもぶっきらぼうぶっきらぼう、
あれでどんな風に心が通じ合うのか想像もつかない。
笑いのネタや話題も「誰々が〇〇した」ばかりで抽象的な会話やジョークは皆無。
(たまにしかいかない私にはその”誰々”の解説をしてくれるが、興味ないし知ったこっちゃない。)
「血が繋がっててもここまで絆を感じないこともあるんだなあ」
と毎度感心する。
そしてとっても居心地が悪い。
旅行で泊まる民宿でもあの親戚一同と一緒にいるよりはよほど心が休まる。
評論家の町山智浩は自分の田舎の親戚一同が嫌な奴等だったからという理由で
あの映画のことも「現実はクソなのに美化している」みたいに言って叩いていたが、
私は自分の親戚一同が嫌いだからこそあの映画に夢を見て満足した。
年に1、2回集まるなら十分楽しい親戚一同で
すごい智慧と慈悲のある家長がそれをまとめ上げてるファンタジー。
そこに少し緊張しながらも迎え入れられて一員になるあの話は楽しかった。
そりゃ「できない人がマイナスである風潮」を多少でも感じている本人に、自分はそんな考えではない、けどもやっぱり「出来る人は凄い」とだけ伝えたら傷つくよ。
もやもやするのもわかるけど。ライフステージの違いはあるけど、持てる者が持たざる者に向かって発言する時は、気をつけないといけない。デリカシーだし、それが持てる者に必要な品格だと思う。でないと持てる者は、口を開く度に恨みを買うばっかりだよ。
とは言いつつ、子供生まれた所なんだから嬉しいし、伝えたいよね。そういう所からもう、「子供が生まれなければわからなかった事」を知る機会が始まっていくんだと思う。ご出産おめでとう。
基本的に女性の味方だけど、女性が嫌がれば何でも男性が悪いという風潮にはいい加減立ち上がらないといけないと思う。
セクハラはひどい、デリカシーがないのはひどいと言う意見は100%理解できるけどだからって何でも女性の感情中心に考えるのは違うよ。
理解しようという思いやりはお互いに必要で、言う事が「理不尽」になってはいけない。
「そのうち髪を切ったことに気づかなかったことやその話題を避けたこともセクハラになる」
来週から働かなくてよくなったわけだけど、やっぱり残った社員には悪いと思ってる。
特に一番下っ端の子。一番怒られてたししわ寄せがいっている子。私から見てもちょっとへっぽこだなあとは思うけど、でもそれって十分なサポートを受けれてないからだよな。
やっぱり怒る人って怖いし、近くにいたくない。
前の職場も士業だったしお給料もあまり良くはなかったけど、社長が率先してなんでもやる人だったし、残業は本当にしない主義だったし、残業した場合はちゃんと出してくれたし、賞与もちゃんと払ってくれていた。
そういえば、始業開始30分以上前にくると嫌な顔をする人だった。なのでみんな15分前から5分前に来ていた。
あと、文房具とか必要な物はじゃんじゃん買ってくれる人だった。資料をまとめるファイルも綺麗に紙が収まる範囲で次のファイルに移行していた。当たり前だと思ってたことが当たり前じゃなかったのが今の職場で分かった。
デリカシーはあんまりない人だったけど、尊敬できてたし、よっぽどじゃないと怒らなかった。そんな人だから辞める前にちゃんと話したし、引き継ぎもきちんとした(つもり)。
社長、自分は優しいとか思ってるんだろうけど、全然優しくないからね。ちょっとでも対応間違えると烈火のごとく怒るし。自分は怒られなかったけど、そういうのを見て良い職場だと思うわけないじゃん。
親に連絡するっていうと素直に従うと思ったんだろうけど、従うわけ無い。ていうか派遣にそんなこと言うの馬鹿かな。派遣元の人がしっかりしてて良かった。
さっさとあの職場なくなればいい。
今日のあらすじ。
でも、参加した地元の男どもがマナーとかデリカシーなさすぎ(トイレに虫がいて嫌がってる女性を後ろから押して面白がる・嫌がる女性の肩にでっかいヒキガエルをのせる等)て、女性陣をぶちギレさせた。
その後女性のひとりが激流にアクセサリー落としてピンチ!ってところで、男どもがここぞとばかりに奮闘して救出!
その心意気(笑)を見て、女性陣はころっと態度を変えて仲良くごはんを食べる♪
極端にバカっぽく描かれる田舎の男への偏見と、あまりにもテンプレすぎる展開と手のひら返し。
支部の三角関係(当て馬)小説とか見てると受けが性格悪すぎて「ああ悪女萌えか」とか思ってたら「○○キュン天使…尊い…」とか言っててそのクソ性格悪い奴を本当に天使と思ってるのかしらと疑問に思うことがよくあるけどあれは本気で天使だと思ってるのかなあ。
一次でやったらそれこそ断罪とかヘイトとかやられるレベルの性格の悪さなんだけど。
明らかに好意を向けられてるのに気がつかずにそんなの知りません私攻めキュンがすきなんですぅーと当て馬さんの前でデリカシーなくいちゃいちゃ見せつけ。
それにキレて当て馬さんが手をだしたら攻めキュンの「俺の受けに何すんだこの屑が」。
受けの「攻めキュンごめんなさい…攻めキュン以外に感じちゃったよぉ…」からのお清め。
ただし受けキュンは感じる感じない以前に体格も夜の作法も何もかも違うはずの当て馬さんの姿が確認できない状態でやられて「やだー攻めキュンってばー(はぁと)」とか言ってた。本当に攻めが好きなら気づけよ。べつに薬も何も盛られてないだろ。
自信をもって生きることって人生にとって大事なことで物事をうまく進めていく上で大事なことだと思います。何をやるにも引っ込み思案では、そこらにあるチャンスを逃してしまうと思うから。サッと手を挙げるとか、重い腰を上げて何かを始めることって自分が成長することができるチャンスだと思うんです。つまり、積極的に動けば、自分の土台になる経験を自ら得ることができるはず。
手を挙げること避けてきた人は自信を持つことができくなっていくはず。何かを乗り越えた成功体験をつかみ損ねているから。昔の人はよく言ったものですね、【若いうちの苦労は買ってでもしろ】と実際にその通りだと思うんだけどね・・・。
自信満々でバイタリティのある人とその逆の人をみて思ったこと
人生において難事を避けてきてしまった人を【拗らせた人】とすると、拗らせた人に対して、厳しくものをいう人がいる。ただでさえ、拗らせているのに、より拗らせることをいう人がいる。それは、当然のごとく物事に対して挑戦し、内なる自信をもった人からすれば、イライラすることもあるだろうって思う。でも、拗らせた人からするともっと深い闇に落としかねない立ち振る舞いとしか言えないんだよね。もっと自信を無くし、自分はだめなんだと逃げ癖をつけるようになる。負のスパイラルですね
まあ、当人が悪いわけであれなんだけどちょっと考えて接してあげてほしい。無限に落ちていくんだろうなって感じてしまう。
ましてや、拗らせている人をいじって遊んで楽しむのはいい趣味とは言えない。趣味の悪い遊びだなと思ってみていたけど・・・。
人の気持ちを理解するのは本当に難しいと思うし、その人の立場でものを見ることができないから心に触れることができないことは確かですが・・・。
自分が考えている事がみんなが考えている事と一緒である。みたいな感覚で話をする人はもうちょっと広い視野やいろいろな人の考え方を知った方がいいかなと思う事もある。
沢山苦労したひと、沢山傷ついてきたひとは人の気持ちがわかると聞いたことがあるけどそうなんだろうなと思う。それも現在進行形の人は特に
まとまりがないけれど、自分もどちらかというと拗らせている方の人間なので辛かったので書きました。
なにグチグチ言ってんだよ、今すぐ難題に立ち向かい、乗り越え、自信をつけて魅力的な人間なれよ。その通りです。返す言葉もございません。
前提条件:「小用を足しているとき隣に人が来ると落ち着かない。ただし万人がそうであるとは限らない」「位置取りの最適については、自分だけを考察の対象としない」
状 況:誰も居ない便所で、右が入り口、上が壁、左が窓として奥から「○○○□」と便器が並んでいる。□は障害者用の手すりが設けてあり少し用を足しにくい。
考 察:一定の割合で人が来るとして、この場合最適の位置取りとはどこか?……これを、我が職場における実践と観察を素材に考察してみた。
A「1○○□」:(1が一人目として自分が入った場所である。)この位置取りの優れた点は、次の自分と同じような入場者にも「1○2□」or「1○○2」と二通りの選択を用意している点である。つまり「優しいポジション」といえる。しかしながら、逆に言えば選択の余地がある時点で弱い。次に入った人間がベストのポジションを取るとは限らないからである。この点は後で考察する。
B「〇1〇□」又は「○○1□」:これは一見等価なポジションだが、相手に残す選択肢が「○」か「□」かの点で大きく異なる。相手に「□」しか残さないのは、感心しない。従って、左は考察対象としない。右は、左右が広く空いて非常にフリーな感じであり、また、相手にAのポジションを与える点でとてもよく見える。「バランス型ポジション」として多くの利用者に用いられているポジションであり(便器の汚れからからそれは想像がつく)、私も愛用者であった。しかしながら、後述するようにこのポジションには大きな欠点があり、それが、そもそも私がこのような考察を始めた理由にもなっている。
C「○○○1」:自分に不利を強いるという意味では「自己犠牲のポジション」と言える。もし、第二段階以降で他者が素晴らしいポジション取りができるならオススメできるが、一方で自分が出るまで誰も来ず、結局無駄な自己犠牲に終わる危険性もある。やはり、初手を与えられた利点は生かすべきだという考え方は十分ありである。
A-1「1○2□」:これは、Aからの理想的な展開である。一見、自分が奥においやられて2が偉そうに中央を陣取ってるかのように見えるが、「3」が来た時点でその印象は覆る。多くの場合、この状態で入った「3」は、奥で二人に挟まれるポジションよりは、多少使いにくくても、入って直ぐのポジションを選択し、「1○23」という状況が発生しやすいからである。つまり、混雑した時間帯にも強いのが最大の利点である。
A-2「1○○2」:これは、Aを採用した場合のリスクである。2がシャイな場合、あるいは最大限気を遣った場合、この状況になりがちなのだが、この状況は、次に来た利用者を大変迷わせる。結果として、「13○2」となる可能性は半々よりやや大きい(理由として、手前の2をスルーして奥にきた段階で3にとって2の存在感が大きいためということが挙げられる)。だが、この状況は、単に「隣り合わせた」以上のBADシチュエーションである。なぜなら、3が来た段階で1である自分はほぼ用を足し終わっており、3が隣に位置しておもむろにファスナーをおろす頃に席を離れるため、「一方的にチンコ見られ状態」に陥りやすいからである。いわば不戦敗であり大変不公平な感じである。Aがよいポジションであるにも関わらず、軽々にこれを取れないのは、このA-2リスクがあるためである。状況によりこのリスクをどの程度に見積もるかが、ポジション取りにおいては大変重要な点だ。
A-3「12○□」:こんな状況あるのか?と思われるかもしれないが、実際にあったからとしか言いようがない。世の中には、デリカシーとは無縁な、あるいは単に「奥から詰めるのがルールなのか」とか、無駄に空気を読んでくだらない行動をする輩が一定数いるものなのである。確かに、依然として片側は空いているのだから、心理的圧迫は最悪状況(「312□」)に比べればいくらかマシではあるものの、窓際に追い詰められた後がない圧迫感はなかなかクルものがある。これに比べれば、まだしも「○○21」の方が、出口側がフリーなだけ心理的負担は少ない。
以上を踏まえると、Aは危険もあるが、いきなり一番奥とかねーわ!というイメージの割には、バランスも良く展開もよい、悪くない初手である。
B-1「2○1□」:Bを取った時の基本状況であり、理想型である。体験的に6割はこの状況にもちこめる。だが、言い換えれば「6割しかもちこめない」でもある。また、6割でこの理想型状態に持ち込んでも、次の一手で確実に隣が埋まる、というところが、このバランス型の欠点である。次の3人目は、自分の隣のどちらか以外に入る場所が無く、A-1型に大きく劣るのである。
B-2「○21□」:B-1に次いで起こりやすいのがこの状況である。体感では3割はこの形になる。理由としては、奥に押し込められる危険、また、「どうせ片側に人が来るんなら、平等に分かち合おうぜ」という変な平等感などが挙げられる。オレも我慢するからお前も我慢しろよ、というヤツである。また、この形になると、自分が去った後の形が最初に考察から外した「最低の初手」の状況になるのも感心しない。立つ鳥後を濁す形で、後々尾を引く敗戦と等しい引き分けと言えるだろう。
B-3「○○12」:またまたこんな状況あるのか?だが、2のポジションが入り口に近いということを考えると、余裕なく飛び込んできた2がいる場合には十分考慮しなくてはいけない陣形なのである。ただ、これは見た目ほど悪い状況ではない。余裕無く飛び込んできた2に対しては、隣とは言え心理的に優位な状況に立ち得るし、また3がやってきても隣にくる可能性が低い(人間というのは奇妙なもので、さすがにこの状況で「○312」と並ぼうとする人は余りいないのである。「あ、奥空いてるやん」と気付いた時点で、一番奥=一番空いてる=気付いたオレ賢い!となって、距離の不利を気にせず奥へ突っ走ることが多いのである。)
以上を踏まえると、Bはバランス型を標榜する割には危険も多く素人向けでない初手であると言える。相当に状況を読んだ上でないと使うべきではない。
C-1「2○○1」:Cを取った場合に一番多いのがこの形である。この形になると、1と2は、お互いに「使いにくさ」「距離の遠さ」という不利を分け合った形になり、妙な紳士的連帯感が発生する。しかも、物理的距離があるので、その連帯感が妙な感情へと結びつく可能性も低いのである。また、A-2の丁度逆で、3が来たとき「23○1」という状況になるケースが、半々よりやや大きいのもメリットである。そんなメリットだらけなら、もうC一択でいいんじゃね?と思われるかもしれないが、そこはそれ、障害者用手すりがついているとガードが甘くなり、やはりなかなか使いにくいものなのである。
C-2「○2○1」:これもA-1と同じく、理想的な状況と言える。弱点が見当たらない。ただ、自分が最高であるこのポジションは、同時に、「最悪の初手」を残す形でもある。折角Cという自己犠牲的ポジションを選びながら、残すのは最悪の初手…というのは、自己矛盾であり、なんのために犠牲をはらったのか分からない。
C-3「○○21」:「ハッキリ言うけどお前狙ってるだろ」と言いたくなるのがこの状況である。デリカシーなどという言葉では説明できない。A-3ではこのポジションを「いくらかマシ」と書いたが、それは逃げ場があるからという消極的な理由であって、障害者用手すりによるガード値低下は、間近に迫られた時にときとして致命的なダメージに結びつく。頼むからこの形にならないで欲しいと祈る状況である。ただし、この後の展開を考えればおそらく「3○21」であり、自分が去った後、2が去った後に残る形は悪くない。
以上を考察すると、Cは自己犠牲を払いすぎるか払ったのに意味がないという展開に陥りがちで、自己満足の初手だと言える。
以上の考察から、現在のところ私は我が職場ではもっぱら人の多い時にA、人の少ない時にCを採用しているのだが、さらに4手目、5手目への変化を考えると、まだまだ多様な展開が考えられるのであり、これはあくまで現時点の仮説に過ぎず、実践と検証は引き続き行われていることをお断りしておく。
静音系ファンクってなんだ?って話ですが、ファンクをあれこれ聴いていると、アッパーに持って行かない曲を耳にすることがあります。
数は多くないけど。
個人的にそうした曲を静音系とかダウナー系、あるいはイントロ曲って呼んでいます。
ヒタヒタとした感触の抑制されたリズム、デリカシーのあるホーンアレンジ、スペイシーなシンセ類、象徴的なフレーズを執拗に繰り返すメロディ楽器類。そうしたもので構成される静かでダウナーな雰囲気を持つ曲。
あるいは、今にもはじけ飛びそうなテンションをぐっと抑え込み、ひたすら熱をため込んでいく長い長いイントロのような曲。
それらは、ガツンとぶつかってくるのではなく、静かに体に注ぎ込まれ、内側からおれの体の中にある"動物/生物としての何か"を強烈に揺さぶるわけです。ファンクはもともとそうした部分を刺激する音楽ですが、これらはダイレクトに内面にリーチしてくるため、ファンクのコアを感覚として理解しやすいと思っています。
そんなわけで、しずかに、しかし熱く、おれにファンクを注ぎ込んだ曲たちを紹介しようかと。
https://www.youtube.com/watch?v=n6DAqMFe97E
ファンクのオリジネイターでありかつ到達点であるJB。70年代に彼の音楽的な足元を支えていたのはフレッドウェズリー率いるJB'sだったわけですが、JB's名義で何枚かアルバムが出ており、どれも良いです。その中で最もおれを揺さぶった曲です。
注意深く刻まれるハイハットから始まり、小刻みに揺れ、上に向かうフレーズを繰り返すサックス、抑制的なロングトーンでスムーズな流れを強固にするトロンボーン。ドラムとベースは1拍目を強調するスタイルで、ハネのエッジもきっちり立っていてこの曲がファンクであることを主張します。
何度聴いても、曲が終わりに近づくと「ああ。この満たされた時間はもう終わってしまうのか。」という喪失感を味わいます。
Kool & The Gang - Summer Madness
https://www.youtube.com/watch?v=2SFt7JHwJeg
一定以上の年齢の人にはディスコブームの中心的バンドの一つとして記憶されていることが多いであろう K&G ですが、この曲はファンク期の名曲中の名曲。
トレモロの効いたスペイシーなシンセが揺れ重なりあい、おれの体をひたひたと満たしていきます。やがてコンピーな音で物憂げなソロを取り始めるギター、後半それにとってかわるシンセソロ。曲はそのまま最後のシンセの上昇シフトで締めくくられます。そして曲が終わった後の一人ぼっち感。。
この曲が入っている Light of Worlds はアルバムタイトル曲をはじめとして名曲が多いので是非。Light of Worlds 以外でもファンク期のアルバムは良いものが多いです。一時期入手性が悪くなっていたアルバムもありましたが、最近はそんなこともないし。love&understanding を海外のショップから購入したらカセットテープだったのは良い思い出です。
roy ayers everybody loves the sunshine
https://www.youtube.com/watch?v=M36OGCfYp3A
純粋なファンクというよりはジャズファンクですね。後にレアグルーブなどと呼ばれたりもしましたが。ヴィブラフォンの人であるロイエアーズの代表曲。
印象的なボイスの繰り返しが極上のトリップ感を与えてくれる一曲。ボイスが印象的ですが、シンプルにコード進行を支え、間を多くとりつつもところどころで動きを見せるベースも良いです。
先に挙げた JB's の生き残りや K&G は最近は衰えを隠せないのに比べて、ロイはいまだに元気なステージを見せてくれるので、機会があればライブもおすすめ。ツアー毎にメンバーを入れ替えていてるようで、その辺もプラスに働いているのではないかと。
Parliament Chocolate City
https://www.youtube.com/watch?v=DZaVA3NS7zE
P-funk の名盤 Chocolate City のタイトル曲でありオープニング。「さあ、はじまるぜ!いくぞ!やるぞ!」とはじけそうな期待感をこれでもかとじらす長い長いイントロのような一曲。ドロドロのファンクをブーツィーがニヤけ顔でおれの腹に注ぎ込んで、そして「もっとだ!もっとくれ!」と言わせる。そんな光景を想像させます。
こうした半開の状態を長く続けるのはファンク勢が得意とする手法で、その中でも p-funk のそれは抜きんでているのではないかと。
ほぼハイハットだけのリズムの上に、ピアノやらボイスやらホーンやらが出入りするのだけれど、それらがいちいち気が利いています。そしてモゴモゴ動き回るエンベロープフィルタの効いたベースは、もう「これがファンクです。」としか。
そして2曲目 Ride On で心置きなくはじけ飛べるので、忘れずに下記を!
https://www.youtube.com/watch?v=8PbK48jMyxc
Bossa Nostra - Home is where the hatred is
https://www.youtube.com/watch?v=69GGjbITB6k
最初からこれも入れようと思っていたんだけど、改めて聴いてみたら静音系というにはちょっとうるさいですね。ただ、内側から来る感じはちゃんとあるし、良い曲なので入れておきます。
JB のバックダンサーだった ヴィッキー・アンダーソン(カーリーン・アンダーソンのカーチャン) が歌う ギル・スコットヘロン という面白い 1 曲。
アレンジは今日的で洗練されており、ファンクそのものというよりはファンク色の強いソウルといったところ。エレピののっぺりと抑制されたプレイがダウナーな雰囲気をかもしつつ、ヴィッキーのアッパーさが曲をピリっとさせます。
ドラム/パーカッションとベースは洗練されつつもマッチョに曲を下支えしてファンキーさを強く感じさせます。ワウを踏んだギターがさらにファンク感をあおっています。
派遣で色んな職場を知る友人が言っていたのだが、異常にデリカシーの無い女というのが必ず一人はいるらしい。
例えば、同性の同僚に初対面で「歳いくつですか?」「彼氏いるんですか?」とか、まず初対面という距離感では訊かない事をずけずけ質問してくる奴。
年配の女性に「子供いるんですか?」と訊いた時は「いないけど、代わりに犬飼ってるの」と答えられたら「子供いないから犬飼ってるんですね」と返したそうな。
性格的に全然悪い子じゃないらしいが、ここまで来ると訊かれた方は怒りを通り越して「この子バカなんじゃないの」と呆れてしまうのも無理は無い。
他の所では、答えたくない質問をやんわりはぐらかしたら、別の機会に更に2回も訊かれた上、通算3回目の時は皆の前で質問されたので、流石に
「嫌だっつってんだろ空気読めよ」とキレざるを得なかった女がいたとか。
こういう女って、職場でのポジションというか、周りからどうみなされているんだろうか。
基本的に女のほうがコミュ力に対する評価は厳しいのに、30過ぎてここまで病的なコミュ障でよく生きていけると、ただ驚くばかりである。
テレビもワンセグスマホもないので、結局は帰ってもらうことはできた。
はじめてだったのは、スマホを見せろ見せろってしつこく言ってくること。
朝から勝手に来られて迷惑な上にいちいち言うことにデリカシーないし、
スマホ(ワンセグついてない機種)を取りに行くのも面倒なので断った。
私がスマホを見せるか見せないかは完全に私の自由だし、それを強制される法的根拠なんて無い。
そうすると法律でそうなってるから見せろとうるさくて、反論し続けると
「じゃあ大人としてのお願いですが、逆に写らないならなんで見せられないんですか」まで撤退。
今まで言ってた法律ってなんなんだよって思ったし、お断りしてもなおしつこい。
結局徴収員は「じゃあもういいです」と言って勝手に来て勝手に帰っていったけど、
ふとご近所にうるさかったかなとか、よくわからないブラックリストとかがあって、
翌日さらにめんどうな人が来るとかがあると嫌だなと思い直し、
まだ駐車場にいた徴集人に結局スマホ(ワンセグついてない)を見せました。
論理だけでどうにかなるものごとなんて世の中そんなに無いなという感想です。
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
「昭和の基準に照らしたら今の人はほとんどビッチになってしまう」
て言ってるのにどうして「今の女全員ビッチ」って言ってるように思うの?
「デリカシーのない女性」だからババアだって言ったのに、どうして年上の女性について全員ババアだと言ってることように思うの?
価値判断がブレブレでロクに考えることができない、から顔の美醜に関係なくブスだと称したのにどうして顔のことだと思うの?
ババアは性的に奔放じゃないことだけが取り柄の女が多かったからその弊害で息子が辱められることが多かったんだろうけど
今どきの若い女の子は昔の基準でいえばほぼビッチみたいなもんなんだから
息子を辱めるようなお母さんはこれから減るんじゃないかな この言い分は無理があるな
信頼関係があるならともかく、そうでない、ギャグで済ませられるような関係じゃないのに性的な部分を暴露して追求する、ってよくある話として済まされちゃうけど、親子関係としてかなり不適切だと思うんだが。プライバシーの侵害だし、デリカシー無い。無神経。
で、その話と盗みに関してはまるっきり別の話で、たとえ息子でも性犯罪者の入口のような確実な犯罪行為してたらもはや自分でどうこうするより通報すべきなのは当たり前。
「こんなのが普通なら男は全員おかしい!」ってヒスるネタ探しばっかしてるブスは一度落ち着けよ。極端にヤバイ奴見て間に受けてんじゃねーよ。結婚詐欺デブス見て女はヤバイ!って言ってる童貞と思考回路が一緒だぞ。
水道水は、沸騰させたまま5分くらい沸騰させ続けて、それから冷ますとかなりなめらかな舌触りになるよ。鉄瓶とかだと酸化反応促進されるから余計になめらかになる。
一度沸騰させた程度じゃ味はモロ水道水のままだと思う。
増田がテストで挙げたものはそれぞれかなり味違うと思うんだけど、わからないならわからないでもいいと思うけどな。安上がりだし。
情弱で格下だと思ってた奴に舌で負けてショックなのかもしれんが、これからミネラルウォーター買う奴を馬鹿にしなきゃいいんじゃないかな。
余談だが、件の彼が、アサヒの富士山のバナジウム天然水(まずい)とスタバに売ってる高倉健が愛用してた富士山のバナジウム天然水(おいしい)の違いとか、フィジーウォーターとハワイアンウォーター(どっちもかなりアッサリで美味しい)の違い、他にも硬水同士の違いやらがわかるのか気になる。みんなどの程度判別できるんだろう。