はてなキーワード: 自殺とは
お互いの家に泊まりに行ったり、2人で遊びに行ったり。
会う頻度は多くなかったが、こまめに連絡を取り合っていた。
その日私は遅くまで酒を飲んでいて、深夜家に帰って昼過ぎまで寝ていたため、朝方に友達(以降A)の彼氏(以降B)からXの着信が来ていたが、気づかなかった。
私がその着信と、BのXの投稿内容に気づいたのはその日の夕方だった。
「夜中口論になって、これ以上彼女と喧嘩をするのが嫌で自分は睡眠薬を飲んで寝てしまった。朝起きたら彼女が僕の部屋で自殺してしまった」
詳しくは書きたくないが、詳細に一連の流れを書いていた。
B自身、かなり凹んでいるようだった。
私はあまりの現実感のなさに何も受け入れられないまま、Bにお悔やみのDMを送った。
「Aは君のことをよく僕に話してくれていたよ」「Aと仲良くしてくれてありがとう」
コイツ、Aのことを完全に自分のモノだと思っているのだろうか。
そんな気持ちになったがグッと堪えて、どうか気を落とさないで、と声をかけた。
そこから数ヶ月、あの子との思い出が何回も蘇って、やるせなさと苦しみがずっと続いている。
Aのご両親にもよくしてもらっていたので、私が彼女の心の支えになってあげられなかったことを悔やんで悔やんで仕方がなかった。
時間が経てば経つほど、Bへの怒りが増していく。
Bはフォロワーが10000人以上いるインフルエンサーで、多くの人の目に触れるアカウントで彼女の自殺の詳細を書いたり、彼女が死んで辛いお気持ちを俳句(意味不明)などにしたためたり、自分は弱者男性だから彼女の人生に責任が持てないなどと書いたりしていた。
それに対して「自分の家で自殺すればよかったのに。迷惑」「(Aが)メンヘラできつい」といったコメントもついていて、とても心なく、自分の大事な人間の死がコンテンツ化されていくことがあまりにも悲しかった。
Aはちょっとした人気商売をやっていて、ファンの間では急な失踪で心配する声が上がっていたが、BがAのグッズの写真を彼女の遺品と書いてXにアップしたため、たぬきでAが自殺したことが書かれてしまった。
本当に彼女のことを大切に思っていたのなら、口を噤んでおくべきこともあるのではないか。
まあ、ここに私が思いを吐き出しているのも同類だろうけど。
Bのことは早々にブロックしたが、どうしても気になってしまって、覗きに行っては怒りと悲しみでどうにかなりそうになる。
Aは美しくて繊細で優しくて、とても精神的に不安定な子だった。
Bはかなり年上で、経済的に豊かでないこととやはり精神が不安定だったため正直不安に思うことがあったが、AとBがお互いに幸せに暮らしているように見えたのでそれは口に出さなかった。
でも言ったほうがよかったかな。
とても後悔している。
もっといっぱい連絡を取って、街コンとかに誘えばよかったのかもしれない。
付き合っている男性に影響されやすい子だったから、ポジティブな人と一緒にいればもうちょっと違っただろうと思う。
俺は何のアレルギーも持ってないから詳しくないけど、蕎麦アレルギーって少量でも死ぬんでしょ?
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。
人間が生物である以上その最大目標は子孫を残すことであるから、だから父は私を作った。が、私は、生物以前に私でありたいと思う。
そもそも他者の存在すら不確かなこの不可解な世界で生物としての自己を認識できない。生物としての意識はわかないむしろ子孫を残さないという非生物的な選択によって人間としての感覚を強めたい。だからとっとと自殺したい。しかしそうできない。私は母が好きだからだ。
大学に行くのも、就職について考えるのも、誰かを刺さないのも、全て母がそう望むからだ。落胆させたくないからだ。
母に支配されているとは思わない。
私は母の一部であった過去がありだから彼女は世界中のあらゆる他者よりも強い関係にある他者だ。私は母の大切な娘を殺してはいけないからで、私という存在は私の自由意志でどうこうして良い対象では無い。と、私は私の意思で考えている。
だから、私はこの生を母の望む形で完遂する。就職をして、結婚をして、股から可哀想な人間を出してその人に残りの人生を捧げなければいけない。
とはいえ現状の私はそういう人生設計に抵抗がある。私は子供でいたい。母の子でありたい。だから、この体はいやだ、この扱われ方は嫌だ、結局全部母に帰る。しかし私の身体は母になれる、そう望まれる、それが耐え難い苦痛だ。
若いから、思春期だから、まだそういう愛せる人に出会っていないから、というのは言葉を否定したくない。私の手が私のものになって腕が目が背中が私のもとに帰ってきて、社会と肉体と精神を正しい形にはめ込める日を待っている。待ち続けている。だが、私はもう私の体で20年いきている。スカートを履きたかった時などなかった。誰々君誰々ちゃんと付き合いたいと思ったことはなかった。私の体で誰々君誰々ちゃんと性交渉したいと思ったことは無かった。
別に男になりたいとは思わない。もちろん殴って強い方が、面白い方が、飾らない方が、たくさん食べる方が、羨ましいこともある。だが、子孫を残すかどうかという究極の選択が己の手にあるというただ一点で女でもいいと思う。心に性別などないとおもっているから、自分の体が女であるというそれだけを認識している。
私は、男になりたいのでは無い。ずっと女になりたいと考えている。今もそう考えている。
性的なものはなべて気持ち悪い。性交渉という常軌を逸した行いが社会の根幹を支えるのは何故か。何をどうしたら好きな人間に素っ裸で抱きつきたいと思うのか。耳に小さな穴を開けることも怖いだの痛いだのいう人間が何故股に異物を突っ込める?ゴキブリも触れないのに粘膜接触をロマンチックにカウントする?
大体人を作り出す行為が何の規制もなされないで人を殺すことが最大の禁忌であるそのアンバランスがどうして有史以来続くのか。
何もかも理解ができなくてその不可解な構造に自分が組み込まれることが恐ろしい。だから私は性的な冗談を繰り返す。記号化された性を手玉に取って自分から切り離そうとする。見苦しい足掻きで人を不快にさせる。
私を恋愛対象として見るな。
私はネクラだからネクラとしか話せないがそれを簡単に勘違いするのは私が悪いのか?私が女の身体で女の一般的な格好をしているからいけないのか?体を傷つけたり飾り立てることで、おのが身体を支配している気持ちになる。それに後者に関しては綺麗でいることで随分真人間に見えてくる。私はこんな性格だから、それを取り繕うことも出来ないから、見た目を社会に迎合させないと関係の浅い他者と関わることが難しい。
好意の発露を恐れないその自信が理解できない。自分が愛される対象であるとその足で立てる姿が羨ましくて仕方ない。私は興味のある人間のことは全て調べ尽くすがその過程を飛ばして簡単に他者に近づく人間が大嫌いだ。けれど私は私が嫌いだから私のことが好きな人間のことは嫌いだ、とも言えない。だって私の相手をしてくれる人は優しいから。
と、うだうだと己をこねあげたところで私の体の曲線は直線にはならない。
みながそれぞれ敵としての体を生きる中で私はどうか殺さずにありたい。
周りに出た自殺者とやらも、知事を陥れるために自殺に見せかけて他殺された疑いが強い
暇空茜
@himasoraakane
俺はマスコミの空気があまりにきな臭いのでと最初から一貫して言ってる
「テレビ局にも怒りの声が…」兵庫県・斎藤知事の“おねだり疑惑”続々でワイドショーは視聴率アップ!(FRIDAY) - Yahoo!ニュース
これ、心折れてたら斎藤知事が辞任してたらまさにマスコミによるキャンセルでしょ
あり得んよ
なので、非モテを叩くつもりなんかないので、冷静に聞いてほしい。
「ソープに行け」これはセックスがしたいならば、ソープに行けと言う意味ではない。
ソープで童貞を捨てたのは、26歳の頃だった。それまではというと、オナニーで十分だった。風俗を知らずに二十代後半まで過ごした。
童貞を捨てたのは、知人が自殺して、葬式に出るために地方都市に出かけた時のことだ。なんとなく、このタイミングで経験しとこうと思った。その年は、2人も知人が死んだ。
オナニーで十分と書いたとおり、それほどこだわりはなかったのだけど、人間はいつ死ぬかわからないものだし、高いもんじゃないから経験しておくかという軽い気持ちだった。
今思えば、思わせぶりな態度に舞い上がっただけだ。
SEXを知るまでは、SEXをなんか意識したことなかったのに、たいしたもんじゃないSEXさえできなかったということが、すごく惨めに思えた。
そこで、立ち直るために使ったのも風俗だった。SEXにドラマなんかない。金で買えるサービスってことを再認識するために風俗にいった。それから、嫌なことがあると、風俗にいくようになった。
大金持ちの遊びだって、結局は高い酒と女に行き着く。底辺でも大金持ちでも変わらない。いくら美味い酒って言っても、100倍の値段で満足度が100倍になるわけじゃない。
みんなが羨む場所で、みんなが羨む酒を飲むことが楽しいだけでだ。
コンビニのつまみと缶ビールで満足できないのは、ビールの質のせいじゃなく、心の問題でしかない。目の前のビールに感謝すれば、四畳半和室で飲むビールだって美味いのだ。幸せになれるかどうかは、何を食べる、何をするじゃなく、幸せを感じる自分の問題。
酒だとわかりにくいかもしれない。講釈を垂れる俺が六本木や銀座で飲んだことがないので酸っぱい葡萄みたいだし。例えを変えよう。
グリコのパピコは、氷菓なのに驚くほど食感滑らかで、チョココーヒーのフレーバーも絶妙。設計されつくした味だと思う。一方で、スターバックスコーヒーのフラペチーノはパピコと4倍くらいの価格差があるが、氷は粗く、生クリームのヌルヌルと氷のジャリジャリが喧嘩してる。でも、人々はスターバックスコーヒーでフラペチーノを求める。
考えをかえれば、パピコで満足できるということ。SEXはSEXでしかない。
金で買ったSEXも金のやり取りがないSEXも、美人とのSEXも不美人とのSEXも、気持ちよさとは関係ない。好きな人と心を通わせることが人生の喜びでその証がSEX、と思っていたら、そんな考えは捨てていい。
存在しないものに憧れて盲目になってるから、道端に咲く花もコンビニのパピコも自分を想ってくれる異性も目に入らないんだ。
童貞を捨ててから17年、ソープ、デリヘル、出会い系、あれからいろんなところで女を買った。金で買う関係が初体験だったけど、ひょんなことで普通の彼女を作れたし、なぜか
何人の女性とSEXして、通算何回SEXしたのか、今となっては覚えていない。
記憶に残るSEXは、数えるほどしかない。しかも、美人とのSEXでも好きな人とのSEXでもない。
SEXなんかそんなもんでしかない。嘘だと思うなら、ソープに行ってくるといい。好きな相手じゃなくても勃起できて、射精できるはずだ。それて、感動は別にない。
愛というのは、過程なのだと思う。愛してるからこれこれする、プレゼントをする、優しい言葉をかける、労わる、デートに誘う、SEXする、結婚するというのは虚構。
相手に優しい言葉をかけた、助けた、愚痴を聞いてあげた、そういう行為を後から振り返って、名前をつけた時に愛と呼ぶだけだ。愛してるから行動するということだと、先に愛がないといけないし、愛が生まれるためには相手に先になにかを与えて貰わなければならない。エサを待つ雛みたいにしてるうちは、愛なんて与えてもらえないし、そもそも愛なんて虚構。
大恋愛をして結婚しても離婚するときは離婚するし、好きでもない相手と結婚しても一生添い遂げること大半。愛は動機じゃなくて、与えるものであり、行動の過程を未来から過去に振り返って名づけるもの。行動しているときに愛はない。
なので、他人に優しくすることに理由なんかいらないのと同じように、デートに誘うことに恋愛感情なんかいらない。匂いに誘われてラーメン屋に入るように、一緒にいたかったらデートに誘う。そのくらい気楽に行動するといいと思う。そういう雰囲気になればSEXすることもある。
話は逸れるが、他人に優しくすることに理由は要らないと言ったものの、いい人戦略はやめなさい。いつか自分の良さがわかってもらえる的な話はドラマのなかだけだから。人として、親切であれというだけの話。いいなと思ったらデートに誘うこと。
そういうわけで、ソープに行け。
高齢童貞には、なんでもいいから経験しろと書いたものの、高齢処女は適当に捨てるのはやめたほうがいいと思う。
こんなことをいうと叩かれるけど、最初に関係を結ぶまでは女性からぐいぐい来ることはないけど、2度目からは女性のほうが積極的だ。女性は好きな相手とSEXするのではなく、SEXした相手を好きになる仕組みがあるらしい。処女だってセカンドバージンだってあっという間にSEXの虜になった。恋愛経験がないままのめり込むと、ろくでもない男に惚れ込む可能性がある。
どうしても、付き合った先のSEXに拘るなら、マッチングアプリとかでもいいんじゃないかな。
彼女は俺を好いてくれたのか?俺の収入をみて結婚相手として狙われただけなのか?みたいなことを悩んで二の足を踏むのだろうけど、自意識の問題でしかないよ。
既婚女性と一回、同性と一回、付き合った経験がある。いうまでもなく、結婚の可能性はゼロで、その2回は最初からバッドエンドしかないことがわかりきってた。
もしも、「俺の収入や社会的な地位や学歴じゃなく、ありのままの俺自身を愛してほしい」と願うなら、既婚女性や同性と付き合うといい。苦しいだけだよ。
神田沙也加の逝去から3年が経ち、ショックで療養していた恋人の前山田が復帰した
すると「恋人が死んだのになんでまた表に出てこられるんだ」と罵声の嵐
ついには、舞台で前山田の相手役を演じる予定だった女優が叩かれすぎて役を降りた
前山田は確かに生前の神田に対して「死ね」と罵る音声が流出したりはしているが
口論の中でそのような言葉が出るのは世の多くのカップルや夫婦も経験していることだ
自分の言葉が引き金を引いてしまったかもしれないという辛さなど、前山田はアンチに言われるまでもなく感じているだろう
神田はかつて元夫への依存が激しく、舞台仕事などやって他の女にキャーキャー言われては不倫に発展しかねないと仕事を辞めるよう頼み、
元夫は実際に仕事を辞めて主夫業をメインでやり所帯じみた刺激のない男になった
前山田に対しても元夫の時のように仕事の制限を求め、前山田に無断で前山田の事務所や家族のもとへ訪問したと報道されている
神田は男に対して要求が多く重いわりに、ふと気分が変わったら一気にフットワーク軽く別の男に走る
前山田としては、「軽く遊べる女」ぐらいの気持ちで付き合ったら「束縛してくる重すぎる女」で、
仕事の邪魔をされ別れ話を突きつけても応じてもらえず更に知人友人に勝手に仲裁役をするよう連絡されれば「死ね」という言葉ぐらい出るだろう
思いやりのある優しい彼くんならそんなことは言わないかもしれない
だが、バツイチで派手な男性遍歴の神田に真面目で優しい男は引っかからない
男と女が喧嘩をすれば男が一方的に悪いことにされる、片方が自殺すれば生きてる側が一方的に悪いことにされる
もうこんな不毛なことはやめるべきだ
辞職するしないはそういう制度設計なんだからしょうがないでしょ
本人が辞職しないと言い切ればそれが通るルールなんだから、おかしいことじゃない
兵庫県民は文句言うならさっさとリコールに向けて動けばいい。そんな報道はさっぱり見かけないけど
人殺し呼ばわりとか誹謗中傷のライン越えてるでしょ。直接手を下したわけじゃないよ、自殺だよ?
斎藤知事だけの問題じゃなく、兵庫県庁が組織として終わってるから起きた事だよね
分かりやすい誰かを集中砲火して辞めさせればそれで事態が好転するの?
百条委員会だって、あれは客観的に事実を明らかに場でしょ? なんで斎藤知事を詰問する会になってるの?
そろそろ異常だよ、この雰囲気
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。
趣味を楽しむためにはエネルギーが不可欠だ。物理学的に言うと、これは熱力学の基本法則に根ざしている。
熱力学第二法則を思い出してほしい。孤立系のエントロピーは常に増大する。この法則は、宇宙が無秩序に向かうことを示している。
趣味という活動は、ある種の秩序を生み出す行為だ。例えば、僕が模型を組み立てるとき、バラバラのパーツを整然と配置する。これによってエントロピーが減少するわけだ。
だが、エントロピーを減少させるためには、外部からエネルギーを投入しなければならない。つまり、趣味を楽しむにはエネルギーが必要なのだ。
さらに、趣味を楽しむためには脳や筋肉も動かさなければならない。脳内のニューロンは電気信号を生成するためにATPを消費し、筋肉は収縮のためにATPを分解する。
これらのプロセスは、化学エネルギーを運動エネルギーや電気エネルギーに変換するものだ。
結局、趣味を楽しむためにはエネルギーを消費することが必然だ。これは物理学の基本法則から導かれる明白な事実だ。
もし誰かがエネルギーを使わずに趣味を楽しめると言ったら、それは単なる幻想か、量子力学的な異常現象の可能性を示唆しているかもしれない。
(アンチャーテッドの映画版はあまり面白くなかった。派遣のおっさんが「はい死んだ!」とか一一突っ込みを入れてて白けた)
「お局さんは小塚舞子に少し似てる。名器度70」とか
「高卒新卒の女の子の住んでるマンショの近くのスーパーに帰りに行ったら、カゴに米を入れてた。3年前にカゴを覗いた時は2kgだったが、今回は5kgだった」とか
10時くらいになって派遣のおっさんと雑談しても得が無くなったことに気づいて寝ることにした
俺と派遣のおっさんとババア先輩の弟の2人でリの字に並んだんだが、派遣のおっさんが真ん中に陣取ってドン引きした…普通遠慮するだろと思った
タイトルの通り。
客観的に見てわりと辛い半生を送っているにも関わらず、鬱病どころか心療内科にかかるような症状がまるで無い。
症状が無いことが症状です、と言われたら納得してしまうレベル。
でも泣きも笑いもするし、日々楽しいし飯はうまいしセックスは気持ちいいからやっぱりなんも悪くないんだと思う。
日々辛いことがないわけじゃない。でも病的な症状にならない。なぜだ。不幸度が足りないのか判定して欲しい。
こんな感じ。
あらためて書いてみると子供時代のことはどーしよーもないし、大人になってからは運良く仕事途切れたことは無いし、金はまぁ親にとられなきゃもっと資産築けただろーけど生活に困るほどは全然困ってないし、やはり鬱病になるには不幸度が足りないのかもしれん
正確に言えば、私の関心を俗世に繋ぎとめておく軛として配偶者より適当な仕組みがこの社会に存在しないんだ。
心底では他人に関心がなくて、素面では他人と対等の付き合いしか信じることができないからしがらみとしての結婚が必要なんだ。
結婚でなくてもいいが、しがらみが。
あなたがたの言いたいことはこうだ。他人に興味がない社会的欠陥動物が無理して結婚など目指すな。一理ある。
結婚に向かない人というか、一人でいることが最も心地よく、もしかすると周りにとっても善であるような性質の人間がいることは承知しているし、私もそのようであるという自覚がある。
だが同時に、いみじくも『最強伝説黒沢』でゲストキャラのおっさんが独白するように、人間は強制されてかろうじてまともだ。私もそのようであるという自覚がある。
人間に目指すことができるのはせいぜい短期的な報酬だけだ。長期的な野心を抱く人間も短期目標の積み重ねそれ自体を報酬として野心を維持しながら長期目標を目指すのであって、我々はそういう作業ができる人間のことを解決力とか実行力があるとか呼んでいる。
私はまとまったカネを要する種類の欲をまったく持たないので、短期的に私が心地よいようにするとあまりにも失う社会性の量が過大になってしまう。後に社会に復帰するのに必要な弾性ごと失うほどに。
もし社会性を完全に捨て去った私が幸福の最大値を目指すなら、私のすべき行動は今すぐ退職して生活保護費を申請し、読書と惰眠、自慰、あるいはPCで完結する創作趣味に明け暮れながら自殺までの時間を気ままに遅延することになる。
今現在の私が不本意にもそのような理想的生活状況にないのは、既にして私は本当には一人ではないからだ。
カネを必要としていない私が曲りなりにも職に就いているのは、あえて両親を泣かせたくはないというのと、学生時代に得た数少ない友人との付き合いに負い目を作りたくないという気分が理由のおおよそになる。
資産を持たず、浮世を捨てたほうが心地よいと信じているのにそうしないのは、数少ない私が気にかける人がもし困窮したときに私が伸ばせる手がなくなるからという、いうなれば不安のためだ。
これは災害的、ポアソン的なイベントに対する備えのようなもので、「その時」に至るまでの報酬は何もない。
マメな友達付き合いというのも好まないから、本当にない。ただ生活の荒野があるだけだ。この空白地帯を超える術をしがらみの慣性力のほかに私は知らない。
ところで、ここまでの話に配偶者は登場しなかった。既にいる私の気にかける人たちが目的であり、同時にしがらみであったからだ。
次に私が恐れているのは?いずれ私が生活に摩耗する間に彼らの存在が後者として機能しなくなったのに、前者としてのみ残ってしまうような事態を恐れている。
私は多分、両親や友人を無視することを容易に合理化できる。自己都合で私を生み落とした両親がどうなっても究極的には自業自得だし、対等な立場であるべき友人の人生にお節介であまり立ち入るべきでもない。
とはいえ自分の内心についての予断はロクなものではなく、いざその時を迎えて、実際に私が不幸ではないかどうかは、したい賭けではない。今はそういう判断をしている。
いや、あなたがたの言いたいことは分かる。互いに迷惑をかけるのが健全な人間関係だと。
しかしながら、互酬的なフェアネスを想像することは難しい。私が物理的に距離の遠い彼らに対して望むことなどほとんど何もないから。
書いてるうちに気づいたがつまり、どこかで生きている友人に対して、勝手に幸せになってほしいと勝手に思っているという事態が私の友人関係の内実なのではないか。それはどうなんだろうか。
ともかく私は両親には義理と友情を感じているが、おそらく愛してはいない。友人に抱く情はいくぶん愛かもしれないが、強いしがらみを望んではいない。
必然的に私は物質的にはフェアでありつつ、同時にその枠の外に置くことのできる一方的で独善的な、強い愛の対象を求めざるを得ない。私の言語では独善的なものだけを愛と呼んでいるといったほうが近いかもしれない。
思うに、それは観念的なものではどうしても強度が不足していて、臭気芬々たる、不愉快極まる肉の質量でなければ私のような凡人を長く捕らえておくことは難しいんだろう。
今いる友人たちをそのようなものに貶めるよりは、いずれそのようになるものと思って新たな人との付き合いを求める方が、かろうじて私は我慢ができるはずだと今は考えている。現実的な相手とのすり合わせ可能性を踏まえても。
ハタチあたりの頃に私は人に対して愛しているといった言葉遣いをしたことが一度だけあるが、それさえもやっとネットの友人で顔も知らぬ半回り上の男を相手にしてのことでだ。
彼はこの世に数少ない愛すべき人たちが肉のある人間であることが残念でならないといつも考えていて、私もまったく同意見だった。
現在の彼は私が単に気にかける友人のひとりで、ここ数年私はアプリで知り合った女性の一人と習慣として会話を続けている。アプリ自体は疲れたのでやめた。
お互い遠くに住んでいるわけではないと知りながら、半年に一度のペースを超えては会う気にもならず、焦点のぼけた会話の中から彼女の趣味のよさを探そうとしている。そんなのをずっとやっているだけで精一杯なんだ。
しがらみを追い求めるふりをしながら、回避的にしがらみから逃げ続けているわけで、傍目には奇行としか言いようがない。
私が同じところで回って何も進んでいかずとも爪は伸びるし身体が衰えるのを感じる。今夏には低い視力がまた落ちていたが、道行く他人の顔をよく見ずに済むように矯正視力は0.6で止めた。
分裂した私の間でいたちごっこを続けつつ、結局は騙しだまし、私が死ぬまで私の延命を続けるようなおもしろくもない羽目になるような予感がしている。現実はひどい。