はてなキーワード: 無責任とは
別に金が無くても
ちゃんと子どもを愛せる、すべてを子どもに捧げることができるなら
誰もが作ってもいいんだが?
貧乏で子どもを持つということは自分の全てを捧げることだという自覚は強く強く持っていただきませんと
子育てやってられない、俺私の人生は子育てだけか、金がない暇がないと、
自己決定から逃避してご家庭の闇をネットに撒き散らす。赤ちゃんみたいに
草 そもそも何言ってんだ😔って話なんだが?
地方でひとり暮らしでもケチケチしなきゃフツーに30万使う(anond:20210711025814)
子ども3人+ペットも有で贅沢できるとか夢見んなって話をしてんだが?(anond:20210711035359)
そして贅沢をする予定なら1200万でも論外だが、
贅沢はせず子どものためにすべてを捧げる覚悟があるなら年収なんて少なくたっていい
先進国において子どもが困窮するのは親が毒親・メンヘラ・無責任な場合のみ
うぇーん大変ぴえん🥺とかやる毒親メンヘラ親じゃ無いことの方が
これは煽りでもなんでも無くマジレスなんだけどそういう無責任なゴミカスは絶対に親になるなよ
親の愛とまともな食事とまともな家事と無借金さえクリアできれば良い
年収が少ないから困窮するのではなく親がメンヘラ・無責任だから困窮するんだぞ
そしてその生活に耐えられない><とか年がら年中やってんのは子どもじゃなくて
親だぜ?(自分の時間がないー、自分のものが買えないーetc)
あと稼げないゴミクズは他力本願のカスが多いからこれも貼っておく
■ [ブクマカ] ぼく「キミたちは結婚しない方がいいのでは?」
妻が稼げない仕事ばかりして家事もろくにできない(anond:20191229162032)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20191229162032
率直に申し上げましてブクマカは頭がおかしいのでは?と思いました。
頭がおかしいポイントその1:仕事
パートナーなのに悩み事を打ち明けられなかったのが寂しい/悩みに気づけなかったのが悔しいならともかく、仕事に関する相談は妻からありました。
なぜ妻に「辞めていいよ」と言わなかったんだ?以外に思うところがありません。
被害者ぶる要素が皆無です。
これは旦那が苛烈なパワハラを受けていても体調に不安を抱えていても職業人生に違和感を感じていても、
「貴方の方が大事だから明日にでも会社を辞めてきて」なんて口が裂けても言わない嫁ですね。
頭がおかしいポイントその2:金銭的な話
また、労働収入で生活をしているのにも関わらず、なぜ2馬力前提で生活設計ができるのでしょうか?
サイボーグかなんかでしょうか?無責任/無計画にも程があるのでは?
そもそも一緒に暮らす相手の職業や経済レベルを気にするのは、どちらかが倒れた時にいまの生活レベルを維持出来るかを考えての話ではないのでしょうか?
節約しても自分ひとりの時の1.5倍の生活費が掛かると試算した時に、
現状額面24万の人が数年で51万稼げるようキャリア構築するのが厳しいから同じ経済レベルの人なのでは?
好きで好きで仕方ないので全然違う経済レベルの人と一緒に暮らすことを決めたのであれば、
当然収入が低い方に合わせて生活をサイズダウンするべきではないでしょうか?
可及的速やかに不労所得を用意するよりは現実的で取りやすい手段です。
『今の生活の快適さ>相手と暮らす幸せ』 なら一緒に暮らさず恋人同士として近くに住んでいるべきです。
頭がおかしいポイントその3:収入が少ない方が家事をやるべき
ハウスキーパーでも雇いましょう。1人で暮らしていた時は働いて家事もしてましたよね?
是非またそうしてください。あなたが手にしたのは無償・格安のハウスキーパーではなく妻/夫のはずです
あと、相手の経済レベルを問わず、コスパは考えず、全自動ドラムと食器洗い機は必要経費だと思って買いましょう。
それに納得ができないのであれば、近くに住んで一緒に暮らすべきではないでしょう
くれぐれもお願いしたいこと
こういう男女が子作りとかマイホームローンとか悪夢だから辞めてね
メンヘラ親ってこういうのだぜ?↓
子育てやってられない、俺私の人生は子育てだけか、金がない暇がないってな
自己決定から逃避してご家庭の闇をネットに振り撒りまくってるじゃん。赤ちゃんみたいに
今時のキッズはネットネイティヴなんだけど本当にどうしてもネットに垂れ流して誰でも見れる状態にしておかないとダメですか?
キッズたちがどう言う感情を抱くか考えたことある?って何時も思ってるわ
年収が少ないから困窮するのではなく親がメンヘラ・無責任だから困窮するんだぞ
大学も年収380万円未満の世帯は大学費用を無償化されたぞ。生活費も出るそうな
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
まあマスコミのやり方はどうかとも思うが
自分達の意思で人ひとり生み出しておいて、成人したらお役目ごめん、あとは本人の自己責任ですっていうのはあまりにも無責任では?
生まれた子供は一生責め苦を味わう以上、親だって死ぬまで責任を負うのは当然では?
もっとも今80歳くらいの人達の世代ならば皆婚社会で皆子供を生んで当然だったんだろうから酷だという気持ちも分かるけれど
辛くて吐き出し
これは別に危ない思考になっている訳ではなくて、ちゃんと生きるし道も間違えるつもりもない。
でも真面目に思うんだけど、感情がなくなる薬が切実に欲しくて色々探してしまう。あくまで健全、合法的なの。
生きる上で避けては通れない怖いものに対して後天的に怖くなくなるなら生きやすいし、もっと生きようと思える。
理不尽に怒られるコト、虫、注射、雷。この四つだけ、せめて最初の二つだけ、もう虫だけでも良いから、これらに対する恐怖の感情を完全に無にしたい。ただの虫じゃんという人が多数かもしれない。そんなことに恐怖症なんていっていいのかわからないけど、とにかく怖くて怖くて駄目なんです。終わりにしたいくらいに駄目なんです。
私がもう終わりにしたいと思うのはこれらが原因だし、それらに打ち勝ってでも、なんて思ったのは好きな作品と出会ってからだからまだ頑張ってたけど、その最後を見届けるのにいつまで頑張れば良いかわからないのが最近しんどい。好きなことはある。やりたいこともある。でも、今はそれを上回るくらい怖いに対してが辛くなってしまって困る。
まだやりたいけど、怖い思い乗り切らなきゃ駄目で、生きてる限り付いて回るならなんて挫けそうになる。
怖いをなくしたい。怖いと対峙しなきゃならなくなった瞬間、戦わずして逃げて終わりにして楽になりたくなる。
趣味もそうだけど、実は一番は産まれて育ててもらってしまったので、私を二十(以降家を出て就職したので二十年分)まで生かすのに使わせてしまったお金に対しての借金がまだ少しあるから逃げ出せないけど、こっちだってもう逃げたもの勝ちなのでは?なんて無責任なことまで考え出してしまう。
家族思いな人からすれば私は最低で、というかそれが当たり前なのかもしれないし、お子様いらっしゃる方なんて特にお前はなに言ってんだ恩知らずの親不孝ものって感じだろうけど、私は家族計画的に予定外の子なので、誰が育ててやったと思ってるんだとか、お腹痛めて産んで頑張って世話してやったのに、なんて言われても、予定外と言われている身からすれば頼んでないしおろすなりどっかにやるなり選択出来た筈なんだから自分等のミスを押し付けないで欲しいなんて思ってしまう。最低ですみません。
それでもやっぱりそれは駄目なのだと叩き込まれているし、頑張れば予定外でも良かったと思って好きになってもらえるかもしれないから頑張りたい。でも最近は頑張った先に本当に意味があるのかわからなくなってきた。
こんな風に生きなきゃいけない理由が根付いて取れないから薬物に手を出す人がいるんだろうな、と最近思う。それぞれだけど、そうやって行き着いてしまった人は逃げずに生きようと選択した人なんだ。薬物は駄目絶対!だけど、そこまで行っても生きるためにそれ選択したんだと。逃げて終わりにしたい自分とは違う。
でも私がそれを選択しないのは、依存や体が壊れる云々より、怖いが増幅する可能性がもう怖いから。夢に怖いの出てきたら嫌だからなんて情けない理由。
でもどうにか怖いの感情をなくしたくて、そうじゃないとこの先ずっと怖いの苦しいし、どうしようどうしようと今も眠れない。あと数時間後には仕事に行かないといけないのに。
実は合法的にこんな薬や方法、選ぶにはきっと最終手段だけど、実は手術もあるんだよって知ってる方居たら教えてください。まだ生きて働かないといけないので、お願いします。
辛くて吐き出し
これは別に危ない思考になっている訳ではなくて、ちゃんと生きるし道も間違えるつもりもない。
でも真面目に思うんだけど、感情がなくなる薬が切実に欲しくて色々探してしまう。あくまで健全、合法的なの。
生きる上で避けては通れない怖いものに対して後天的に怖くなくなるなら生きやすいし、もっと生きようと思える。
理不尽に怒られるコト、虫、注射、雷。この四つだけ、せめて最初の二つだけ、もう虫だけでも良いから、これらに対する恐怖の感情を完全に無にしたい。ただの虫じゃんという人が多数かもしれない。そんな()恐怖症なんていっていいのかわからないけど、とにかく怖くて怖くて駄目なんです。
私がもうやめたいと思うのはこれらが原因だし、それらに打ち勝ってでも、なんて思ったのは好きな作品と出会ってからだからまだ頑張ってたけど、その最後を見届けるのにいつまで頑張れば良いかわからないのが最近しんどい。好きなことはある。やりたいこともある。でも、今はそれを上回るくらい怖いに対してが辛くなってしまって困る。
まだやりたいけど、怖い思い乗り切らなきゃ駄目で、生きてる限り付いて回るならなんて挫けそうになる。
怖いをなくしたい。怖いと対峙しなきゃならなくなった瞬間、戦わずして逃げて終わりにして楽になりたくなる。
趣味もそうだけど、実は一番は産まれて育ててもらってしまったので、私を二十(以降家を出て就職したので二十年分)まで生かすのに使わせてしまったお金に対しての借金がまだ少しあるから逃げ出せないけど、こっちだってもう逃げたもの勝ちなのでは?なんて無責任なことまで考え出してしまう。
家族思いな人からすれば私は最低で、というかそれが当たり前なのかもしれないし、お子様いらっしゃる方なんて特にお前はなに言ってんだ恩知らずの親不孝ものって感じだろうけど、私は家族計画的に予定外の子なので、誰が育ててやったと思ってるんだとか、お腹痛めて産んで頑張って世話してやったのに、なんて言われても、予定外と言われている身からすれば頼んでないしおろすなりどっかにやるなり選択出来た筈なんだから自分等のミスを押し付けないで欲しいなんて思ってしまう。最低ですみません。
それでもやっぱりそれは駄目なのだと叩き込まれているし、頑張れば予定外でも良かったと思って好きになってもらえるかもしれないから頑張りたい。でも最近は頑張った先に本当に意味があるのかわからなくなってきた。
こんな風に生きなきゃいけない理由が根付いて取れないから薬物に手を出す人がいるんだろうな、と最近思う。それぞれだけど、そうやって行き着いてしまった人は逃げずに生きようと選択した人なんだ。薬物は駄目絶対!だけど、そこまで行っても生きるためにそれ選択したんだと。逃げて終わりにしたい自分とは違う。
でも私がそれを選択しないのは、依存や体が壊れる云々より、怖いが増幅する可能性がもう怖いから。夢に怖いの出てきたら嫌だからなんて情けない理由。
でもどうにか怖いの感情をなくしたくて、そうじゃないとこの先ずっと怖いの苦しいし、どうしようどうしようと今も眠れない。あと数時間後には仕事に行かないといけないのに。
実は合法的にこんな薬や方法、選ぶにはきっと最終手段だけど、実は手術もあるんだよって知ってる方居たら教えてください。まだ生きて働かないといけないので、お願いします。
マジでこれ
従属することで平穏を保とうするが、本質的に自分の人生を選び取る意思が無い方々は
"いつも誰かに攻撃されている"、"いつも誰かに強制されている" という謎の被害者意識を持っているよ
だから、機会があれば “誰かにやり返したい” と思っており、より弱いものを叩くという謎の選択肢が常に傍らにある
なろうのザマァ小説の構図そのままに、スカッとジャパンそのままに
だからお病気の人は「優しくして」と人には言うけど<本人は他者に優しくない>よね
どうしてできないんだ?気合いが足りないのでは?甘えでは?と言っても仕方ないこと、
こういうお病気の人たちは『生きる力が弱いけど、無責任だけど、人の気持ち寄り添うことが出来る人たち』だと考えていたけど、
生まれつきの個性を理由に配慮をしても何も生まれないんじゃないかな?ってのが結論
単純にクズ
弱いヤツはせめて他人に優しくあって欲しいけれど、
彼・彼女らは自分の行動すらいつでも誰かのせいなのだから返報性は微塵も期待出来ないのが実際のところだろう
優しさは強さとはよく言ったもんだね
ただ、クズはクズのまま存在しても別にいいし誰に遠慮することも無い。それが多様性
先日からこんなブクマが次々とホッテントリに入って戸惑っています。
■ツール・ド・フランス、クソ観客のせいで大規模落車 - Togetter
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3354342
■ツール開幕ステージで大クラッシュ、主催者は観客訴える意向 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3353664
■ツールの大クラッシュ、原因つくった観客逮捕 写真13枚 国際ニュース:AFPBB News
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3354342
あまり熱心とは言えないけれどNHK BS時代から30年近くツール・ド・フランス(TDF)をテレビ観戦しているいちファンとして、こういうかたちでTDFが俎上にのぼるのはあまりうれしいこととは言えないし、寄せられたコメントを眺めていて感じるところもあったので、少し思ったことを書こうと思います。
古代マケドニアの歩兵みたいに密集して50km/h以上のスピードで驀進してくる集団を、手を伸ばせば触れる位置で一般観客が観戦できるというのは、あらためて考えるとかなり異様な光景ですよね……。
なぜ観客を柵とかロープとかで規制しないのか、この疑問へのおそらく一番単純な答えは「距離が長いから無理」だと思います。
3週間にわたって行われるTDFの各ステージの走行距離は大半が150km~200kmの間です。3週間合わせて、ではないです。1日にそのくらいの距離を走り、それを3週間続けます。最終的に全行程は3,000kmを超えます。
TDFに限らず、一般公道で行われる自転車ロードレースは1レースの距離が200km前後あります。たとえば、もうすぐ開催される東京五輪の自転車ロードレースは調布だか府中だかをスタートして、富士山がゴールです。244kmあります。コースの左右両側に規制が必要ですから、ロープを張るとしたらその総延長は488kmになりますね。おそらく安全運営にやかましい日本の東京五輪でも、全コースロープ規制などしないと思います(つまり東京五輪は、誰でも・タダで・選手に触れる場所で観戦できます!)。
どこに行っても車道と歩道がきちんとガードレールで分けられた日本の道路事情に慣れているとあまりピンと来ないかもしれませんが、ヨーロッパの道(少なくとも自転車レースのコースに使われる道)にはガードレールという無粋な調度がほとんどありません。そもそもTDFは「田舎町を出発し田舎道を通って隣の田舎町に到着するのを繰り返してフランス一周する」というコンセプトのレースなので、スタートからゴールまでガードレールというものをほとんど目にしない日も多いです。
コースの最初から最後まで野放しというわけではなく、スタート地点やゴール地点、ポイント賞のチェックポイント付近、町中のタイトコーナーなど、選手も客も白熱するエリアや走行上の危険があるエリアには鉄柵やバリケードが置かれ、安全対策されます。
とは言っても、柵のないところで観たい人はたくさんいるわけです。安全対策の手は及んでいないが勝負が白熱しそうなところ、観戦に慣れているファンたちはそういうポイントに集まります。
下り坂の広い一本道なんかは選手たちは80km/hくらいでカッ飛んでいくので、集団は秒で通り過ぎてしまいます。そんなところで待っていても面白くないですよね。
逆に、峠道の急勾配では走行スピードが20km/h以下まで落ちるし、勝負のかかった叩き合いになっていることが多いのでお客さんが集まります。そういうところではコース上いっぱいにまで観客があふれ(コースぎわじゃないですよ、コース「内」です)、選手の接近とともにモーゼの十戒みたいに群衆が左右に割れていく光景をよく目にします。「ラルプデュエズ オランダコーナー」などで画像検索していただくと雰囲気がわかるかと思います。
距離が近いだけでなく、選手と観客の関係性もほかの競技からするとびっくりするくらい近いのが自転車ロードレースです。
上り坂でへたばりかけている下位の選手を観客が手で押してやったり(審判団は見て見ぬ振りをするのが普通)、転んだ選手を観客が介抱したり転がったマシンを脇にどけたり、沿道の客が差し出す水のボトルを選手が受け取ったり(何が入っているかわからないので飲んだりはしない・身体にかけて冷却に利用する)。
このように、勝敗に直接関わらないようなかたちで観客がレースにある意味「関与」することは当然のように行われてきましたし、その関係性は100年以上かけて育んできたサイクルロードレース文化の一部と言えます。
件のプラカードガールは訴追されることになりましたが、大会運営がこのように厳しい措置をとるのは珍しいことです。長く観戦していますが、初めてのことかもしれません。
近年、セルフィーを撮影するためにコース上に身を乗り出したりカメラを突き出したりして選手と接触する事例が目立ち始めて問題視されたりもしていますが、選手と観客が接触するのは(まったく歓迎できない出来事とは言え)TDFでは毎年必ず起こる事故のひとつであり、それを理由に観客を沿道から締め出せとか選手と観客をきっちり隔離しろといった議論にはなっていません。100年かけて育んだレースと観客の関係性にクサビを打ち込むことは選手も望んでいないでしょう。良識ある観戦マナーの周知を徹底する、というのが大会運営の基本方針かと思います。
観客との接触事故は時折起こるものの、落車の原因としてはまれなケースです。大半の落車は普通の原因のアクシデントです。
普通の原因というのは、選手同士の接触です。前輪が前走者の後輪と触れ合って転んだり、ゴールスプリントで絡んだりといったものです。
中でも近年のTDFで増えているのは選手の不注意による落車で、よそ見していてほかの選手とぶつかったり、ほかの選手が投棄したボトルを踏んで転んだりといったものです。ひと昔前はこういったアクシデントは今より少なかったように思います。レースのハイレベル化・高速化が進んでリスクが高まっているのかもしれません。
第4ステージではスタート後しばらく選手たちがレースをせずにスロー走行のデモンストレーションをしました。
が、このデモは実はプラカード落車とは関係ありません。選手たちの抗議のメインテーマはコース設定の安全性であり、沿道警備の強化ではありませんでした。プラカードの件も少しはあるかもしれませんが比重はかなり小さいと思います。
コース設定の安全性というのは、第3ステージではゴール付近のコースレイアウトが狭くてカーブが多く、事故を誘発しやすいものだったことを指します。ゴール寸前の選手集団は制御のきかなくなったオッコトヌシ様のようなもので、そんなものを狭くてくねくねした道に突っ込ませたら何が起こるかわかりません。少なくとも万が一そこで転んでもタイムを失わないような特例を設けよ、というのが彼らの主張です。
大会運営に対して選手たちが一丸となってこのような抗議行動をとることは珍しくなく、私も過去に何度か目にしたことがあります。
プラカードの女性がマフィアからひどい目に遭うのでは、と心配するコメントがいくつもありましたが、いったい誰が言い出したことだろうという感じです。
様々なブックメーカーがTDFを賭けの対象にしているのはきっと事実でしょうが、マフィアがもしそれに関与しているとしても常識的に考えて胴元の側でしょう。そもそも、3週間にわたって不確定要素が連続し続けるTDFの、それも初日に起きた落車事故で賭けを台無しにされたと腹を立てる人などいるでしょうか? レースは始まったばかりです。これから先にだって何が起こるかわかりません。
そして、ここが大事なところですが、プラカード落車に巻き込まれて転んだうちの一人、ジュリアン・アラフィリップはそのステージで優勝しています。選手たちがペースを落とし、落車に巻き込まれた人たちを待ったのです。このように、自転車ロードレースでは不測の事故で不平等が起こった時はそれを是正するようにわざと脚を止めてレースを仕切り直すことがよくあります。
プラカード落車でリタイヤすることになった選手もいましたが有力選手ではありませんでしたし、後続車に頭を轢かれたトニーマルティンも続くステージを元気に走っています。つまり落車は大規模でしたが、レース全体に及ぼした影響は軽微だったと言えます。
というわけで、プラカードガールがマフィアに消されるなんて話は噴飯ものの与太話です。
あと、プラカードガールが自殺してしまうのではと心配している人がたくさんいることにも驚きました。イマジネーションが豊かなのは結構ですが、そんな微粒子レベルの可能性を心配するくらいなら実際に転んで実際の怪我をして実際の痛みを抱えて走ることになった選手たちのほうを思いやってほしいと思います。
今年のツール・ド・フランスはまだ2/3ほどの日程を残して開催中です。
アマゾンプライム有料チャンネルやJSPORTSオンデマンドで視聴できます。いずれも登録料は2000円ほどです。
選手には長身痩躯、金髪碧眼の美丈夫も多くいるので女性の方もお楽しみいただけるのではないかと思います。
この機会にぜひ。
つまり噛み砕いて言えば「伝統」や「文化」だから、どんな危険な事態が起ころうと、外野はとやかく言うな、と。甲子園の支持者とかが喜びそうだな。
さっそくこんな頓珍漢なコメントがついてしかもそれに星がつき始めてるのを見ると、自分の文章力のなさが本当にイヤになります。
沿道をロープで規制しないもっとも単純な理由はレースの距離にあるとかなり前のほうで書いたのですが、ご理解いただけなかったのはひとえに私の筆力不足です。
私の想像ですが、ロープ程度の規制なら大会運営側もできるだけやりたいと思っているだろうと思います。去年のTDFはコロナ蔓延下での開催だったためそのような措置がとられている区間もありました。が、やはり距離200km、両側の沿道400kmをロープで規制するとなるといささか非現実的です。たとえばモノタロウで売っているトラロープは一巻き50m、約3kgです。400kmの規制をしようとするとこれが8千ロール必要ということです。重さにして24トンです。
文化があるから規制しないのではなく、物理的にそんな規制ができないためにいつしかそういう文化が育まれた、という順番です。
問題のプラカード落車は198kmのレースの残り45km付近で発生しており、スタート直後ではありません。スタート直後と誤認したコメントをよそでも見ましたが、もしかしたら「ツール・ド・フランス開幕直後」を「スタート直後」と読み間違えているのではないでしょうか。問題の出来事は3週間のツアーの初日に起きています。
なお、スタート地点はたいてい大きな町だしセレモニーなどもあって観客も多いので、バリケードで規制があります。が、スタート地点からしばらく集団はのんびりとパレード走行をするので、バリケードはあってもなくても基本的にたいした危険はありません。交通整理程度の意味合いです。数キロ走ったあたりで号令がかかり、実際のスタートとなります。フォーメーションラップからのローリングスタートみたいなもの、と言えばわかりやすいでしょうか(わかりにくい)。
予想以上に多くの方に読んでもらえたようで光栄です。あたたかい感想をたくさんいただき、書いてよかったーと思いました。個人的には徳丸浩先生(Webセキュリティのとても偉い人)から文章をおほめいただいたのが特にうれしかったです。心臓がでんぐり返るかと思った。
私の不徳からご批判をいただいた箇所もあり、それらの点については言い訳がましいことは申しません。真摯に反省いたします。
中途半端な知識でとんでもない勘違い・知ったかぶりをやらかしていないかが心配だったのですが、どうやら今のところそういったツッコミはわずかなようで一安心しています。
加えて、
(抜粋)言いたいことは伝わったけど、じゃぁ今後どうするの?感が拭えないな。
というか、〈議論のスタートラインを揃えるための現状把握〉を目的にまとめた記事なので、そうなるのが当然というか。基本的には、TDFがどんな催しかを客観的に知った上で語ってほしい、そのための参考資料のひとつ、という位置付けです。いささか無責任なスタンスではありますし、ところどころ私自身の思想が漏れ出てしまっているところもありますが……。
そして! 多かったのが! こういう疑問!
ですよねー不思議ですよねー!(興奮)
マラソンのような個人競技を見慣れていると、200kmも集団がほぐれずに固まったままでいるのは不自然に感じると思います。でも、みんな仲良くサイクリングしているわけではなくて、これにはちゃんとした意味があります。そして、これこそが自転車競技のもっとも特徴的なところなんです。
ただ、ここでそれをご説明するには紙幅が足りません。いずれ稿をあらためてサイクルロードレースの基本的な仕組みや楽しみどころをご紹介できたらなあと思っています。(誰かが代わりにやってくれてもいいです)
ツール・ド・フランスの楽しさ