はてなキーワード: モーゼの十戒とは
先日からこんなブクマが次々とホッテントリに入って戸惑っています。
■ツール・ド・フランス、クソ観客のせいで大規模落車 - Togetter
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3354342
■ツール開幕ステージで大クラッシュ、主催者は観客訴える意向 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3353664
■ツールの大クラッシュ、原因つくった観客逮捕 写真13枚 国際ニュース:AFPBB News
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3354342
あまり熱心とは言えないけれどNHK BS時代から30年近くツール・ド・フランス(TDF)をテレビ観戦しているいちファンとして、こういうかたちでTDFが俎上にのぼるのはあまりうれしいこととは言えないし、寄せられたコメントを眺めていて感じるところもあったので、少し思ったことを書こうと思います。
古代マケドニアの歩兵みたいに密集して50km/h以上のスピードで驀進してくる集団を、手を伸ばせば触れる位置で一般観客が観戦できるというのは、あらためて考えるとかなり異様な光景ですよね……。
なぜ観客を柵とかロープとかで規制しないのか、この疑問へのおそらく一番単純な答えは「距離が長いから無理」だと思います。
3週間にわたって行われるTDFの各ステージの走行距離は大半が150km~200kmの間です。3週間合わせて、ではないです。1日にそのくらいの距離を走り、それを3週間続けます。最終的に全行程は3,000kmを超えます。
TDFに限らず、一般公道で行われる自転車ロードレースは1レースの距離が200km前後あります。たとえば、もうすぐ開催される東京五輪の自転車ロードレースは調布だか府中だかをスタートして、富士山がゴールです。244kmあります。コースの左右両側に規制が必要ですから、ロープを張るとしたらその総延長は488kmになりますね。おそらく安全運営にやかましい日本の東京五輪でも、全コースロープ規制などしないと思います(つまり東京五輪は、誰でも・タダで・選手に触れる場所で観戦できます!)。
どこに行っても車道と歩道がきちんとガードレールで分けられた日本の道路事情に慣れているとあまりピンと来ないかもしれませんが、ヨーロッパの道(少なくとも自転車レースのコースに使われる道)にはガードレールという無粋な調度がほとんどありません。そもそもTDFは「田舎町を出発し田舎道を通って隣の田舎町に到着するのを繰り返してフランス一周する」というコンセプトのレースなので、スタートからゴールまでガードレールというものをほとんど目にしない日も多いです。
コースの最初から最後まで野放しというわけではなく、スタート地点やゴール地点、ポイント賞のチェックポイント付近、町中のタイトコーナーなど、選手も客も白熱するエリアや走行上の危険があるエリアには鉄柵やバリケードが置かれ、安全対策されます。
とは言っても、柵のないところで観たい人はたくさんいるわけです。安全対策の手は及んでいないが勝負が白熱しそうなところ、観戦に慣れているファンたちはそういうポイントに集まります。
下り坂の広い一本道なんかは選手たちは80km/hくらいでカッ飛んでいくので、集団は秒で通り過ぎてしまいます。そんなところで待っていても面白くないですよね。
逆に、峠道の急勾配では走行スピードが20km/h以下まで落ちるし、勝負のかかった叩き合いになっていることが多いのでお客さんが集まります。そういうところではコース上いっぱいにまで観客があふれ(コースぎわじゃないですよ、コース「内」です)、選手の接近とともにモーゼの十戒みたいに群衆が左右に割れていく光景をよく目にします。「ラルプデュエズ オランダコーナー」などで画像検索していただくと雰囲気がわかるかと思います。
距離が近いだけでなく、選手と観客の関係性もほかの競技からするとびっくりするくらい近いのが自転車ロードレースです。
上り坂でへたばりかけている下位の選手を観客が手で押してやったり(審判団は見て見ぬ振りをするのが普通)、転んだ選手を観客が介抱したり転がったマシンを脇にどけたり、沿道の客が差し出す水のボトルを選手が受け取ったり(何が入っているかわからないので飲んだりはしない・身体にかけて冷却に利用する)。
このように、勝敗に直接関わらないようなかたちで観客がレースにある意味「関与」することは当然のように行われてきましたし、その関係性は100年以上かけて育んできたサイクルロードレース文化の一部と言えます。
件のプラカードガールは訴追されることになりましたが、大会運営がこのように厳しい措置をとるのは珍しいことです。長く観戦していますが、初めてのことかもしれません。
近年、セルフィーを撮影するためにコース上に身を乗り出したりカメラを突き出したりして選手と接触する事例が目立ち始めて問題視されたりもしていますが、選手と観客が接触するのは(まったく歓迎できない出来事とは言え)TDFでは毎年必ず起こる事故のひとつであり、それを理由に観客を沿道から締め出せとか選手と観客をきっちり隔離しろといった議論にはなっていません。100年かけて育んだレースと観客の関係性にクサビを打ち込むことは選手も望んでいないでしょう。良識ある観戦マナーの周知を徹底する、というのが大会運営の基本方針かと思います。
観客との接触事故は時折起こるものの、落車の原因としてはまれなケースです。大半の落車は普通の原因のアクシデントです。
普通の原因というのは、選手同士の接触です。前輪が前走者の後輪と触れ合って転んだり、ゴールスプリントで絡んだりといったものです。
中でも近年のTDFで増えているのは選手の不注意による落車で、よそ見していてほかの選手とぶつかったり、ほかの選手が投棄したボトルを踏んで転んだりといったものです。ひと昔前はこういったアクシデントは今より少なかったように思います。レースのハイレベル化・高速化が進んでリスクが高まっているのかもしれません。
第4ステージではスタート後しばらく選手たちがレースをせずにスロー走行のデモンストレーションをしました。
が、このデモは実はプラカード落車とは関係ありません。選手たちの抗議のメインテーマはコース設定の安全性であり、沿道警備の強化ではありませんでした。プラカードの件も少しはあるかもしれませんが比重はかなり小さいと思います。
コース設定の安全性というのは、第3ステージではゴール付近のコースレイアウトが狭くてカーブが多く、事故を誘発しやすいものだったことを指します。ゴール寸前の選手集団は制御のきかなくなったオッコトヌシ様のようなもので、そんなものを狭くてくねくねした道に突っ込ませたら何が起こるかわかりません。少なくとも万が一そこで転んでもタイムを失わないような特例を設けよ、というのが彼らの主張です。
大会運営に対して選手たちが一丸となってこのような抗議行動をとることは珍しくなく、私も過去に何度か目にしたことがあります。
プラカードの女性がマフィアからひどい目に遭うのでは、と心配するコメントがいくつもありましたが、いったい誰が言い出したことだろうという感じです。
様々なブックメーカーがTDFを賭けの対象にしているのはきっと事実でしょうが、マフィアがもしそれに関与しているとしても常識的に考えて胴元の側でしょう。そもそも、3週間にわたって不確定要素が連続し続けるTDFの、それも初日に起きた落車事故で賭けを台無しにされたと腹を立てる人などいるでしょうか? レースは始まったばかりです。これから先にだって何が起こるかわかりません。
そして、ここが大事なところですが、プラカード落車に巻き込まれて転んだうちの一人、ジュリアン・アラフィリップはそのステージで優勝しています。選手たちがペースを落とし、落車に巻き込まれた人たちを待ったのです。このように、自転車ロードレースでは不測の事故で不平等が起こった時はそれを是正するようにわざと脚を止めてレースを仕切り直すことがよくあります。
プラカード落車でリタイヤすることになった選手もいましたが有力選手ではありませんでしたし、後続車に頭を轢かれたトニーマルティンも続くステージを元気に走っています。つまり落車は大規模でしたが、レース全体に及ぼした影響は軽微だったと言えます。
というわけで、プラカードガールがマフィアに消されるなんて話は噴飯ものの与太話です。
あと、プラカードガールが自殺してしまうのではと心配している人がたくさんいることにも驚きました。イマジネーションが豊かなのは結構ですが、そんな微粒子レベルの可能性を心配するくらいなら実際に転んで実際の怪我をして実際の痛みを抱えて走ることになった選手たちのほうを思いやってほしいと思います。
今年のツール・ド・フランスはまだ2/3ほどの日程を残して開催中です。
アマゾンプライム有料チャンネルやJSPORTSオンデマンドで視聴できます。いずれも登録料は2000円ほどです。
選手には長身痩躯、金髪碧眼の美丈夫も多くいるので女性の方もお楽しみいただけるのではないかと思います。
この機会にぜひ。
つまり噛み砕いて言えば「伝統」や「文化」だから、どんな危険な事態が起ころうと、外野はとやかく言うな、と。甲子園の支持者とかが喜びそうだな。
さっそくこんな頓珍漢なコメントがついてしかもそれに星がつき始めてるのを見ると、自分の文章力のなさが本当にイヤになります。
沿道をロープで規制しないもっとも単純な理由はレースの距離にあるとかなり前のほうで書いたのですが、ご理解いただけなかったのはひとえに私の筆力不足です。
私の想像ですが、ロープ程度の規制なら大会運営側もできるだけやりたいと思っているだろうと思います。去年のTDFはコロナ蔓延下での開催だったためそのような措置がとられている区間もありました。が、やはり距離200km、両側の沿道400kmをロープで規制するとなるといささか非現実的です。たとえばモノタロウで売っているトラロープは一巻き50m、約3kgです。400kmの規制をしようとするとこれが8千ロール必要ということです。重さにして24トンです。
文化があるから規制しないのではなく、物理的にそんな規制ができないためにいつしかそういう文化が育まれた、という順番です。
問題のプラカード落車は198kmのレースの残り45km付近で発生しており、スタート直後ではありません。スタート直後と誤認したコメントをよそでも見ましたが、もしかしたら「ツール・ド・フランス開幕直後」を「スタート直後」と読み間違えているのではないでしょうか。問題の出来事は3週間のツアーの初日に起きています。
なお、スタート地点はたいてい大きな町だしセレモニーなどもあって観客も多いので、バリケードで規制があります。が、スタート地点からしばらく集団はのんびりとパレード走行をするので、バリケードはあってもなくても基本的にたいした危険はありません。交通整理程度の意味合いです。数キロ走ったあたりで号令がかかり、実際のスタートとなります。フォーメーションラップからのローリングスタートみたいなもの、と言えばわかりやすいでしょうか(わかりにくい)。
予想以上に多くの方に読んでもらえたようで光栄です。あたたかい感想をたくさんいただき、書いてよかったーと思いました。個人的には徳丸浩先生(Webセキュリティのとても偉い人)から文章をおほめいただいたのが特にうれしかったです。心臓がでんぐり返るかと思った。
私の不徳からご批判をいただいた箇所もあり、それらの点については言い訳がましいことは申しません。真摯に反省いたします。
中途半端な知識でとんでもない勘違い・知ったかぶりをやらかしていないかが心配だったのですが、どうやら今のところそういったツッコミはわずかなようで一安心しています。
加えて、
(抜粋)言いたいことは伝わったけど、じゃぁ今後どうするの?感が拭えないな。
というか、〈議論のスタートラインを揃えるための現状把握〉を目的にまとめた記事なので、そうなるのが当然というか。基本的には、TDFがどんな催しかを客観的に知った上で語ってほしい、そのための参考資料のひとつ、という位置付けです。いささか無責任なスタンスではありますし、ところどころ私自身の思想が漏れ出てしまっているところもありますが……。
そして! 多かったのが! こういう疑問!
ですよねー不思議ですよねー!(興奮)
マラソンのような個人競技を見慣れていると、200kmも集団がほぐれずに固まったままでいるのは不自然に感じると思います。でも、みんな仲良くサイクリングしているわけではなくて、これにはちゃんとした意味があります。そして、これこそが自転車競技のもっとも特徴的なところなんです。
ただ、ここでそれをご説明するには紙幅が足りません。いずれ稿をあらためてサイクルロードレースの基本的な仕組みや楽しみどころをご紹介できたらなあと思っています。(誰かが代わりにやってくれてもいいです)
ツール・ド・フランスの楽しさ
https://anond.hatelabo.jp/20201206124933
この方、体が大きいにも関わらず、人とぶつからないための努力を続けていてえらいなって思いました。
かくいう自分も、体はそんなに大きくないながら人混みでよく人にぶつけられる人でした。
こちらが頑張って避けようとしても相手に避ける気持ちがなければ解決しないだろ!と何度も心が折れそうになりました。
そんなあるとき、なにかのテレビ番組だったと思うのですが、そこで目からうろこの回避方法が紹介されていました。(ソースを検索したけど見つけられませんでした。)
半信半疑ながら、ダメ元、わらでも掴む思いで実践してみたところ効果てきめん。
結論から書くと、その方法とは、「自分で行きたい方向の一点を見つめて歩く」です。(※追記 目線だけより、顔ごとその方向に向けるとより効果的です。)
皆さんの議論を整理すると、人混みを歩く上での分類は以下のようにされています。
「わざとぶつかってくる人」
「避けない人」
「頑張って避ける人」
そこに、もう一つ分類を加えてほしいのが「避けたいけどどうしていいかわからなくなる人」
そして、自分はそこに分類される人でした。
なぜそのようなことが起こるかというと、その一番の理由が増田に指摘がありました。
そうです。
目があっているからです。
逆じゃないの?って思うかもしれません。
違うんです。逆じゃないんです。
なぜなら、お互いの視線が合っているということは、お互いがどちらに進むかの予測ができない状態になってしまっているからなんです。
その結果、お互いが気づいているにも関わらず、避けられないという事態が発生します。
自分は避けようとしていたのに相手が避けなかったと、お互いが考えてしまう原因にもなります。
そのテレビ番組では、人同士がすれ違おうとするときに、同じ方向に何度も避けてしまう状況を回避する手段としてまず紹介されました。
実験で、お互いの目を見たまますれ違おうとすると、先程述べたとおり、何度も同じ方向に避けるということが起こりました。
その次に、どちらか一方だけに、相手の目を見ずに、自分の進みたい方向だけを見て歩くように指示をしました。
すると、その実験ではそれ以降一度もぶつからずにすれ違うことができました。
片側が相手を見ていなくても、片側が相手の視線によってどちらに進みたいかがわかるので、避けることができたのです。
ここで、行き先の一点だけを見つめてぶつからずに渡りきれるかどうかという実験です。
顔に取り付けられたカメラの映像を見ると、まるでモーゼの十戒のように人混みが目の前で割れていくシーンが映っていました。
今までぶつからないように相手の動きを観察しようとしてきた自分にしてみれば、まさに魔法でも見させられているかのような気分でした。
それならばと自分でも試してみたところ、本当に、笑ってしまうくらい人が勝手に避けてくれるようになりました。
もちろん、こちらを全く見ないで突っ込んでくる人は一定数いました。しかし、その人達は見ていないだけなので、避けるのは簡単でした。
この日以降、どちらに避けていいかわからずにぶつかるということは本当に、一切なくなりました。
ただし、この実験は今ほど歩きスマホが当たり前になっている時代でありません。
当時のスクランブル交差点のように一点を見つめるだけで人とぶつからずにあるききるということはできないかもしれませんが、最低限の回数を避けるだけで人とぶつからずに渡りきれるはずです。
「わざとぶつかってくる人」=いずれにしてもどうしようもない
「避けない人」、「あんまり避けない人」=くやしいけど自分から避けるしかない。
「避けたいけどどうしていいかわからなくなる人」=自分が行きたい方向の一点を見つめて歩けばぶつからない。
これは、あくまでぶつかりたくない人はどうすればよいかの話であって、ぶつかってくる人をどうにかする話ではありませんのであしからず。
ただ、増田が「わざと目を見て、目があってるのに避けない」と言っていたので、それは誤解でむしろそれがぶつかる原因になってるかもしれないと思って書いてみました。
狭い通路で相手側がどう動くが凝視して観察するよりも、平行に進めるように進行方向の一点を見てすれ違ったほうがぶつからずに安全にすれ違うことができます。
ただし、そんな自分も一度だけ自転車同士で立ち往生してしまったことがあります。
自分は一点だけを見て進んでいるつもりでしたが、あまりにも相手の表情がわからず、最後まで自分を信じきれずに進路を変えてしまったところ、相手も同じ方向にハンドルを切ってしまうことが起こってしまいました。
サンバイザー、まじでクソ。滅べ。
※追記
一点だけ見つめて、とは言っても、周りを全く見てなかったら当然ぶつかります。
普段どおり人は避けつつ、どうしても相手の行動が読めないときに、自分からまず視線や顔の向きで向かいたい方向に対しての意思表示を示してみましょうというお話です。
相手が同様に一点だけを見つめて向かってきたら自分から避ければいいだけなのでぶつかりません。
ここに書いたのは、人にぶつからないように努力してるけど、どうしてもぶつかってしまうことが多い人の手助けになればと思ってのことで、誰もが人混みで絶対にぶつからない方法ではないです。
「こんな撮られ方はイヤだ」富士フイルム『X100V』公式動画が炎上。公開後すぐ削除に→お詫びを発表(篠原修司) - 個人 - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20200205-00161880/
https://twitter.com/photorockwell/status/1224920297385496576?s=19
なんだろこのurl
こっち。
免許制の導入で良いのでは。
なんとかかんとか撮影免許。なんとかの部分には今回のような事例を当てはめたい。
無免許撮影の罰則と頭のてっぺんに「撮影中」のQRコード付きでっかい看板乗っけて。
いや例外を上げていったら切りがない。違法行為を限定していく方向になる。
これだと写される可能性のある人の嫌悪感は和らぐのではないか。回避しやすくもなる。
現行のプライバシー権、迷惑防止条例などでもじゅうぶんに対処可能?
だからこそ今回の件が問題になったしプロモーションビデオを取り下げられる程度に問題化できる、今のままでじゅうぶん。そういう意味で免許性にも待ったがかかっている?
まあそうかもね。
法整備な方向は「それでも人の行き交う町並みを撮影したい」って人こそ求めるものかもね。
撮影していることを悟られると本当の絵が映らない、みたいな。
カメラ文脈における観測者効果の弊害をうたう派閥も「写してますよ~!」な免許制には文句ありそう。
他にも
プロモーションビデオを見るとストリートフォトグラファーのある種のかっこよさを演出しているので、
免許以前に自主的に撮影中看板ヘルメットでいいじゃん、なんて思ったけど
なりすましには無力?
モーゼの十戒のように人混みを海に例えて真っ二つに割りたいので、撮影の意思なく撮影中看板ヘルメットをかぶる。
・・・あるかも。
30歳にもなって友人と久しぶりに顔を合わせると、気まずいことに半分くらいが禿げ始めてくる
先日も10年ぶりくらいに友人数人と顔を合わせたのだけど、その内の一人がまた見事に禿げ上がっていた
最近突如として進行したのかまだ開き直れているほどの禿っぷりではなく、おでこから始まったそれはモーゼの十戒を思わせるように中心から左右に広がり、それでも中心部に申し訳程度に残る毛髪がかろうじてヘアースタイルを演出しようと意気込む姿が哀れだった
いわゆるヌクミズ型である
お互い触れないでおこうという暗黙の空気が流れる中、幸いながら地雷を踏むことなく食事は終わり近づいたところで彼が口を開いた
「久々にあってもみんな変わってなくて何よりだよ。ま、俺はちょっと禿げたけどね」
誰がどう見てもちょっとどころの騒ぎではない
おそらく誰にも触れられないことで気を病んでしまった末の一言だと思われるのだが、その一言によって周囲は完全に沈黙してしまった
結局誰一人として気の利いた返しも出来ず、重い空気のまま解散した
これからますます増えてくるシチュエーションを先回りして対策を用意しておかなくてはいけないと強く思わされる事件だった
あの時どんな返しをすれば彼も傷つけず場を和ますことが出来たのだろう
教えてはてなーの皆さん
偽ユダヤ好みの11・11前日に茨城震度5、自衛隊幹部緊急待機継続だそうである、中露による米原潜の
「偽ユダヤ好みの11・11前日に茨城震度5、自衛隊幹部緊急待機継続だそうである、中露による米原潜の監視が必要である」
明日は全米で停電テロ対策演習で偽ユダヤがテロを起こすか中露が米本土に討ち入りするかと言われている日である。
そしてモーゼの十戒を嫌う偽ユダヤが好む11が二つ重なる日で全世界で追い詰められた連中が日本で悪さをしてもおかしくない状況である。
またおおまにによると自衛隊幹部が緊急招集という待機状態が発令されて年末まで解除されないそうである。
そこへ東海村狙いのような震度5で我々のあずかり知らぬ所でチャンバラが始まっているようである。
日本は連中に従っても逆らっても八つ当たりのように悪さをされる境遇にあるが願望半分で書くと自衛隊が米英時代から中露時代に移行する流れを読んで311パート2を阻止する動きのように映る緊急待機である。
米軍は今や偽ユダヤ系と良識派の真っ二つに割れているようで自衛隊が後者や中露と組んで防御にあたるというのは有り得る話であり自衛隊も偽ユダヤ系偽キムチと日本人系に割れて後者が主導権を握っての行動ともとれる訳である。
偽ユダヤは衆参不正選挙がバレる事を恐れているようでそれを誤魔化すにはショックドクトリン詐欺しかなく今日にも明日何かが起きるのか鎮圧されて起きないのか地震以外にもテロ詐欺などが起きてあたりを掴める筈である。
あの衆人環視の大所帯で、事前に「◎◎を勝たせるために●●はチョキを出すように・・・」なんてチャチな真似はできない
まだ10代のメンも、精神的に幼いメンも多くいる中でそんな強要はできない
もし八百長なんてものを強制したら、ぐぐたすで八百長を思わせぶりに書いてしまうメンもいるだろうし
「ガチ」を売りにしているグループがもっとも恐れている「ヤラセ」「事前調整」みたいなものが表出してしまうのはリスクがでかすぎる
ファンや観客が面白がるのは結局、美少女達による生の残酷ショー
しかも無名メンが優勝したらしたでなんとかそれっぽい形にしてしまうのが、秋元康だ
(給料がかかっている秋元以下の幹部にとっては楽しめないと思うが)
今回の珠理奈は、秋元がいうような「神様が指を指した」状態にあったのではなく
対戦相手が「珠理奈に勝ってまでセンターになりたくない」と意思表示をしただけなのだ
「選抜になりたい」
という思いは大体一緒
ただ無名メンにとっては選抜入りが確定したあとのメンタルがちと違う
今回決勝で負けたNMB上枝恵美香のように「支店の公演に毎日出て踊ってる(=メディアとは無縁)」のような無名メンにとっては、
「選抜には入りたいが、センターになって次のシングルの顔(責任者)にはなりたくない」
というところに落ち着いてしまう
秋元康に「10年に1度の逸材」などと呼ばれ、実際にAKBシングルのセンターも経験している選抜常連メンだ
観客の応援も珠理奈にかたよってしまっている
もし自分が勝ったら自分のファンの数十倍はいるだろう珠理奈ファンに叩かれまくった挙げ句、AKBの連続ミリオンを途切れさせてしまうだろう
全盛期からゆるやかに降下中のAKBの決定的な凋落原因にされるかもしれない
もうこれは「勝ちたくない」どころか自分は「勝ってはいけない」と理解する
決勝場面での映像を見返してみると、上枝ちゃんは完全に決勝の空気に飲まれている
肩が強ばり、ビビって弱々しそうな苦笑いをしている
選抜メンを前にした上枝ちゃんがまとっているのはアイドルオーラなんかではなくて、一般人のそれそのものだ
「いきなりこんな大舞台に担がれちゃって・・・私のせいじゃないんです、じゃんけんのせいなんです」と
誰も求めていないのにどこか言い訳がましい表情(失礼。でもそう見えちゃった)。
2人とも全然勝ちたくなさそうな上に困ったような顔をしていて
グーによるあいこが5回続いた後、
大場美奈がチョキを出して負けている。
これなんかもう、大場美奈は完全に負けにいったよね
せめてパーを出しに行ってほしかったが
少なくともこの子は勝ちには行ってない
そして勝敗がついた後は両者とも嬉しそうでも悲しそうでもない
ひたすら困惑したような顔をしている
でもグループ内の序列にとらわれず、
自分を応援してくれたファンを背負って勝ちにきてたね。
「相手が珠理奈さんだろうがなんだろうが、私と、私のファンのために勝ち上がってやる」って目をしていた。
メンバーはグループ内の序列とか、自分がどこらへんの位置にいるかってのにすごく敏感で
だからこそ格上の珠理奈に勝って、グループのセンターになるだなんてとんでもないってことが分かっている
実際、第一回で内田眞弓っていう無名メンバーが勝ったシングルではシケた売り上げだった
第2回では篠田麻理子、第3回では島崎遥香が勝ち、こちらはミリオン達成
ちなみに島崎遥香も第3回ではチョキを出し続けて優勝している
勝てば嬉しい、負ければ悲しいというものではない
AKBセンターの座をかけた運試しは、そんな単純なゲームでないのだ
来年はどうなるかって?
AKBじゃんけん大会のこういった独特の空気をいち早く察知した何人かの「若手の推されメン」が同じ手を出し続けるでしょう。
選抜(ベスト16)までは運まかせ。
でも運良く選抜に入りさえすれば、あとはモーゼの十戒のように対戦相手が負けてくれるんじゃないでしょうか。
A.誰も変態と呼ぶべきではないよ
良くわからないのが「世の中そうなってはいない」という事実が存在したとして、それが一体何を物語るというのだろう。
世間がそうだからといって「あなた」がそれに即した思想信条を持たなければならない理由は?
進め一億火の玉だ、お国の為に戦うぞ、というのが「世間」の風潮だったら竹槍でB29に立ち向かう訓練をするタイプだよね。
そして「それ」は現実にちょっと前の日本という国で起きた話なんだ。
戦争で日本が勝てるとか本気で思っていた国民が何割いたのか私は寡聞にして知らないのだけれども「お国」が怖くて多くの人達は従うしかなかった人もいるんじゃないのかな?赤紙、という召集令状が来るのを誰もが恐れていたのに送り出す時は涙を隠しながら万歳三唱をしていたという話はいろんな文献に載っている。
「世間」というのは、だから恐ろしい、というよりは「世間」を理由にしてはならない、と思う。ましてや「思想」を行政に委ねるなどという行為は余程慎重にしなければ危険極まりない行為だと思う。
とてもではないのだけれども「感情」によって思想を委ねるような大事なことを決定するような事は避けるべきだと思う。
勿論、「未成年者が性的な陵辱を受ける行為を肯定的に描く行為」を気持ち悪いとか怖いとか言う気持ちは十分に理解するし、そうした事を言いたかったり法の整備を願う気持ちを否定はしないよ。
個人的には他人に肉体的・精神的危害を与えない事なら何をやっても良いと思ってる。
SMだって怪我したり死んだりしなければ良いんじゃねえのと思う。八王子の監禁王子の裁判がこないだ開かれて話題になっていたけれど、ドアを部屋の中から出られないようにしてるとかは流石にどうなんだろうねえ、と思う。檻に閉じ込めるプレイはあるけど何日も監禁するのは流石にどうよ、と思うからね。余程当事者同士の了解がなければやったら裁判になる事だってあるでしょ。
小学生の女の子が30歳の年齢差がある男の人と恋愛沙汰になっていいかについては法律云々を除外して考えるなら精神的に未発達な部分があるからもう少し待ちましょう、としか言いようがない。日本国籍を所有しているなら16歳になれば婚姻出来る。
逆に言うなら16歳で婚姻出来るのに18歳未満の「未成年者」が性行為をする事は法律で認められているにも関わらず、その表現を抑止しようとする合理的理由が説明されていないのは謎といえば謎だよね。
で。同性愛。まー、釣りで書いてるのかなって思うけど、これは趣味とか嗜好とかじゃなくて生まれついてのものだから。中には思想的理由から同性愛に走る人もいるんだけれど、同性愛というのは左ききとかと一緒で「なおす」とか「かくす」ものではないし「いけない」ものでもない。個人的にはスカトロだろうがSMだろうが隠さなくたって良いと思ってるし、私も散々はてなダイアリで書いて来たように女装をして外出とかしてた人間なんだけど、恥というのは「世間」という構造が産み出したものであり、その世間というのは何処に存在するかというと「人からどう見られているのか」という眼差しそのものであり、結局は「私を眼差す私」なんだって事に気づいたりする。それを「世間」という存在するかしないマジョリティに肩代わりさせて言ってるに過ぎないって思ってる。世間という曖昧もこもこな、それこそ非実在世間とでも言えば良いんだろうか、「みんながそう言ってるから」っていう「みんな」って誰と誰と誰なんですかって話なわけで、そもそも数的に多かったら正解なのかとか従わなければならない具体的根拠は何よって話なわけですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20100324111235に「感情論で人を裁くのか」という話が書かれているのだけれども感情で人を裁く事があるという事実をもってして、気持ち悪い、怖いという「感情」で思想を法の下にひざまずかせて良い根拠にはならないと思うよ。
気持ち悪いとか怖いというのは個人の価値基準でしかなくて、それを言い出したら「怖いというあなたが怖いので、怖いというのをやめてください。そうしないと私の恐怖を取り除く事はできません。どうしてもやめないのなら法にするべきです」と言ってしまう事だって出来るでしょ。
先ず、いろんな「人」と逢い、話を聞くこと。趣味や嗜好以外の「人」の部分で話し合えない人というのは殆どいない。
少なくとも私は出逢った事はない。
大抵の意見の相違は「ぼたんの掛け違え」を超えるものではない。人はそれをエゴと呼ぶ。
例えば私はうんこは食わないし、食いたいとも思わない。目の前でうんこを食うプレイを見たいとも思わない。
同じように「未成年者が性的な陵辱を受ける行為を肯定的に描く行為」を見たいとも思わないし、極端な話そんな描写満載の漫画とはこの世の中から抹殺されてしまっても構わないとすら思っているよ。
だけれど東京都((ではなくてもどの行政でも良いけれど))が「法律で」表現に対して「あれは駄目、これはオッケー」と決めるのってどうなんだろうね、本当にそんな事をして良いの、という疑問がある。だからちゃんと話しあおうぜ、というのが私の考え。
個人的には子供にロリエロを見せる事はないでしょう、と思うんだけど、じゃあビニール袋に封入したらロリエロ野郎が減るわけじゃないよね、とも思う。ロリエロ読めないと犯罪しちゃうぞゲヘヘヘヘって言うわけじゃなくて、増える事はないかもしれないけれど減る事もないんじゃね、と思う。規制されたら減りましたとか増えましたって数字は知る限り存在しなくて、じゃあ規制しても良いだろって事を言い出す人もいそうなんだけど規制しても「隠される」だけで、まあそれで安心っていうのはなんか変な話っていうか、臭い物に蓋をしたらもう安心みたいな何も解決になってないじゃんっていう。まあ解決しようもないんだろうけれど解決しようもない事にわざわざ法律という網を被せなければならない理由が「怖いキモい」はどうなのかなあ、と思うし、エロロリにビニール袋被せても状況は変わらないと思うよ。ハレンチ学園は禁止にならないって話もあるように絶対「漏れ」る表現が出て来て、じゃあそうした「漏れたもの」を見て不快に思ったらどうするの?規制強化を訴えるの?その先にあるのは何?って思わないのかな、思わないか。
で。ちょっとだけ寄り道的に自分語り。
私はローマンカトリックをあつく信仰している両親の元に生まれた。
従って幼児洗礼を受け、物心ついた頃には「日曜には教会にいくもの」と決まっていた。
キリスト教の事について知らない人もいると思うけれど、当たり前のように東京都の青少年うんたらなんかよりずっと厳しい戒律がある。知ってる人もいると思うけど「汝、姦淫をするな」というアレね。
まー、アレはモーゼの十戒って奴でキリスト以前に存在した言葉なんだけど、って話をしはじめたら長いんで省略するんだけど、「汝、姦淫をするなかれ」の「姦淫」をどう定義付けるかというのかって言う話なんだけど「結婚したら貞操を守れ」とか「レイプすんじゃねーぞ」って思われてるかもしんないんだけどそうじゃなくて結婚する迄貞操を守りましょう、一度相手を決めたなら、他の異性を性的な眼差しで見たり、あるいは心の中で「良いな」と思ってはならない、というのが「姦淫するな」という事です。
結婚する迄貞操を守れとかって、某掲示板の人達が手を叩いて喜びそうだけど、じゃあ「あのコかわいいな」ってちょっとでも思ったら姦淫の罪っていうのも大変だよね。でもまあそれが当たり前だと思っていた私にとっては助平な話をするクラスメイトとかその手の本を持ってくるクラスメイドが大嫌いだったし憎んでもいたし反発もした結果、いじめを受けた。
で。18歳になるくらいまでこうした事の意味がわからなかったりしてロクに友達も出来ない儘、図書館にある本だけが自分にとっての情報源だったんだけど((私が子供の頃はインターネットなんて存在しなかったからね))、いろいろと読んでいるうちに「自分の考えは間違っているのではないか」と思うようになった。
その理由の一つに「自分は左ききである」というのが起因している。キリスト教は特段に左利きに対して定めているわけではないのだけれど「神の偉大な右の手」みたいなフレーズが出てきたり十字を切るとか聖体拝領とかを左手でやると物凄く怒られたのね。自分はだから、自然に左手を使ってしまう自分を「悪い子」だと思っていた。
そんな体験を持つ私が敢えていう。思想信条は国家が抑制してはならない。どんな神を信じるのかが自由であるのは、神を信じない自由が保障されてこそなのだ。あなたはキリスト教を信じる事が法律で決まったら、それに従うのだろうか。こういう書き方をするとキリスト教を馬鹿にしていると思う人がいると思うのだけれど、決してそうではない。私の父はキリスト教と共に生き、教会とともにあり、キリスト教に多くの貢献をし、多くの人に愛されながら逝った一人だからである。私の父は父なりの人生を歩み、幸福であったと確信している。
しかし、父は父、私は私なのである。
それぞれの人生が異なるように、何を信じ、何を信じないのかを決めるのは、その人に委ねられるべきであり、決して行政の手に委ねられてはならない。
さて。私は自称売れない絵描きとプロフィールに示している、利害関係者の一人だからポジショントークだと言いたい人もいるらしいんで、可能な限り利害関係にないと思われるところから発せられている反対表明のリンクを書いてこのエントリを締めたいと思います。勿論、下記のリンクを示す事が私の言説の正しさを示すものでも、未成年者児童に対しての表現抑制を主張する人の意見が間違っている事を証明するものでもありません。単純に「こういう人達が、このような立場から意見を表明している」という事実を示したうえで「どう考えるのか」を皆さんが考える一助となれば、と思い、示しています。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/data/100318_3.pdf
日本弁護士連合会による反対表明。
http://www.jla.or.jp/kenkai/20100317.html
http://miau.jp/1268478000.phtml
miauによる反対表明。
http://nbi.sfc.keio.ac.jp/files/statement_20100312.pdf
ネットビジネスコンソーシアムによる反対表明。