はてなキーワード: 感情移入とは
遠くない人が亡くなっても、悲しめない自分がいる。「悲しい」とは思うのだけれど、思うだけであって、何かこう表面的に、悲しんでいる自分を演じている風になってしまう。
例えば親類が無くなって、生前はお世話になっていて、まだ若くして亡くなった人のお通夜や葬式に参加した時、本気で悲しんでいない自分を冷静に客観視できてしまう。嫌悪してしまう。悲しまなければならないのか? などという無駄な問答をする。そういう問題じゃないと思う、本当は。悲しい時は悲しいし悲しくない時は悲しくない。
だけど、人が死んでいて、且つそれが遠くない人なのに、なぜ涙が出ないのだろうか、本気で悲しいと思わないのだろうか。
それはその人が悲しむに値しない人だからなのか? 違うと思う。だって、人が死んでんねんで、冗談ではなく。例えば、もう年をめして、静かに逝った、というのであれば「あぁ、良かったね」と笑顔で送り出せるのかもしれない。いや、これは若い人でも同じか。「いい笑顔してるでしょ」と仏さんの顔を見ながら仰る近親の人の言葉の中には、間違いなく哀しみが含まれている。ただ、立ち直りに時間がかかるかからないだったり、切り替えられるだったりの部分の話であって、悲しんでいることは本当なのだ。
身近な人の死に対して本気の涙を流したのがいつなのか思い出せない。マンガや、アニメでは、結構泣くのに、身近な人の死で泣けない。泣かなければならないという義務感に苛まれているのではない。なぜ、人の死を客観的に捉え、さらには「悲しんでいる自分」を無意識に演じている自分がいて、さらにそれを深く考えようともせず放ったらかしにしているのか。
そう、これまでこういうことすら考えることすらしてこなかった。そして多分それは興味がなかったからなのかもしれない。余りに自分を周りから突き放しすぎていて、人の死に対して鈍感なのかもしれない。
よく、フィクションの作品で、人の死を悲しめないキャラクターというのが登場する。一番直近で出会ったのは、西尾維新さんの最新「伝説シリーズ」に登場する空々空というキャラクターだった。彼は人の死をとても客観視する。怒らないし悲しまない。そして「悲しんでいる演技をする」のだ。それはト書きでも書かれている。空々空という人間は「そういう人間なのである」と冷静に、ト書きでツッコミが入る。
こういうフィクションの、想像上のキャラクターに対して多くの人がどう思うのかは分からないが、私は、この空々空というキャラクターに完全に感情移入していた。だから、冗談ではなく、「うんうん、そうだよね」と強く同意をしながら読み進めたのだ。だからこそ、分厚い三部作をいつの間にか読みきっていたのだと思う。
そして思う。私は、家族が死んでも悲しめるのだろうか、と。とても怖い。それが怖い。家族が死んでも涙が自然と流れなかったら、死んだほうがいいかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20130825162009
元増田です。
前回はいろんな人のいろんな意見をトラバやはてブのコメントで貰ってとても参考になりました。
すぐに続きを書ければよかったのですが、やはりある程度、結果が出てからまとめようと思い、だいぶ時間が経ってしまいました。
結論から言うとフラれました。
今週、動物園(向こうが動物好きだと聞いていたので)に誘ったメールを送ったのですが、その返信が
「彼氏ができたので、二人でどこかに行くというのはできない。」
というような内容でした
メールを見た当初は意外と悲しみは湧いてこず、どちらかと言えば諦観に近い感情を持ちました。
あるいは生来、感情が表に出てこないタイプであるからかも知れません。
いずれにせよ、その日は仕事を通常通りこなし、いつもと変わらず過ごすことができました。
しかし、やはり心のどこかに悲しみが燻っていたのか、昨日は同期と飲んだあと、部屋に帰っても飲み続け、
気づけば朝になっていました。そこから眠ったのですが、10時には盛大な二日酔いと共に目覚め、
連休初日はグロッキー状態でほぼ終了。先ほどようやく体調が戻ってきて、この増田を書くに至っています。
今でも彼女の顔がふと浮かんだり、断られたメールの一節が思い出されて、ひどく憂鬱な気分になります。
そして、あの時はこんな言葉を返すべきだったのだろうか、とかいろいろなifを考えてしまいます。
まぁ、きっと時間が解決してくれるだろうと楽観視していますが。
あるいは何か別のこと(仕事の関係で弁理士資格に興味があるのでその勉強など)に打ち込んでみるのもいいかなと思います。
しかし、今回初めて人を好きなるということを体験して世界が広がったというか、得られたものも多くありました。
例えば、恋愛小説とか映画を見て感情移入ができるようになったこと。
今までは自分とは全く関係のない世界の話として捉えていましたが(そもそもこのジャンルにあまり興味がなかった)、
今回をきっかけに本や映画で出てくる色恋沙汰を実感として味わうことができる様になりました。
今までは洋服といえば、ユニクロかライトオンで買うことが多かったです。
ですが、さすがにもうちょっとおしゃれに気を使おうと思い、近所のアウトレットに足を運んで、BEAMSやSHIPSやらに入ってみました。
一着一万円のシャツなんてものがこの世に存在するんだと初めて知りました。
あとは、食事のおいしいお店やきれいな景色の見えるレストランなんかも調べるようになりました。
人生が広がったという意味では今回の失恋も無駄ではなかった言えるかもしれません。
「人を恋するというのも、なかなか大変なものなんだと改めて痛感しないわけにはいかない。」
村上春樹氏はまた今年も取れませんでしたが、それで彼の作品の価値が変わるわけではないですから。
アドバイスや叱咤激励下さった皆様、本当にありがとうございました。
http://anond.hatelabo.jp/20131021172902
そしてマコの存在。色んな天然キャラは居るがこの天然の感じがどうも不快だ。
理由はこれこそ生理的なものだと思うが、存在そのものがご都合的で記号的で「馬鹿」な「女」を娯楽として楽しむためのものだからだ。
男女問わず、あのアニメにご都合的で記号的じゃないキャラなんか居るか?
居るなら挙げてみなよ。
どうだ、「ご都合的」じゃない「記号的」じゃない「馬鹿みたい」じゃない男が居るか?
こんなこと言い出すならな、
あれだってお前の言い方すれば存在そのものがご都合的で記号的で「馬鹿」な「男」を娯楽として楽しむためのものだろ。
あれについての批判を昔書いたから暇なら読め。
すごく表層的な部分で「熱血」に呼応して見るだけ。
登場人物にしっとり真面目に感情移入しようと思って裏切られたって言うなら
それはその視聴者の方がアホなだけだ。
そういう意味で俺のカミナ批判だって作品自体の価値を毀損出来る物ではなく
タケコプターに「首折れるんじゃねえか?」なんつって遊ぶ程度の、ズらした批判なんだ。
自分はこの笑いのツボを持ち合わせていない。
それは俺やお前の個人の感性であって
公論に付すような話じゃない。
気になるのは「こういう作品」なのに、まるで万人に喜ばれてるように、手放しに評価されている点である。
これこそ余計なお世話だろ!
俺のように敢えてズれながら部分的にツッコんでいくならまだしも
「こんなものを楽しむ奴が多いなんて!」とか言い出して何になる?
これは女性が(製作者も消費者も)もっと頑張りましょう、おわり、ってだけの話じゃね?
で、お前が納得して感情移入できる女性主人公なりエロエロお色気サービス男性主人公なりが実現すりゃいいというまで。
(『ミチコとハッチン』はお話が退屈で観るに耐えなかったね。)
じゃあ珍奇な意欲作をちゃんと買え。
お前みたいな思考のまとまらないもやもやした馬鹿を満足させるためにやってんじゃねえんだよアニメ製作スタッフは。
余裕なんか全然無いんだ。
きっぱりはっきり「こういうの作れば売れるぞ!」ってビジョンにまとめろ。
まとまったら企画にして売り込みにいけ。
話は逸れるが「東のエデン」についても同じような引っ掛かりを感じていたことを男性ファンに話したことがある。
自分が「ヒロインが好きになれない。女性として感情移入出来ない行動をとる。それでいて女性主人公の恋愛をメインに描くとはどういうことだろう。」
あのヒロインて男にも人気ねーじゃん。
王子様のほうも気持ち悪いし。
ガジェット部分とかサブカル的な雰囲気が一部に面白がられただけで
キャラ人気なんかねーだろあれ。
「そこじゃないでしょ、この作品はー!」
と返された。
そりゃそうだ。
もう男女論ですらなくなって、純粋にお前がピンボケなだけその件は。
でもそういう風に引っかかってしまう人間も、いるんだよと、頭の片隅に入れていていただけると、一石ならぬ砂利ですが投じた甲斐があります。
意味がわかりません。
どうして欲しいのかぐらい言え。
「こうすべき」ってはっきり言え。
それぐらいまとめられないのは醜態だと自覚してくれ。
いい大人なら自分の主張をまとめろよ。
結局レスポンシブルな「これ!」って主張なり要求なりにまとめられない、
「なんかわかってよ」「よろしく私のキモチの為に努力してちょ」みたいな雰囲気漂わせて終わり、
ってクズだろそれは。
言いたくないんだけど
フェミっぽい人ってこういう
「結局どうして欲しいの?」って言わざるを得ない、
物をちゃんと言い切れないモジモジちゃんが多くねーか?
(ビシバシと「こうしろや!」ってキッパリ言う田島陽子がもてはやされた理由がわかる。
内輪の外に行っても話になるのはあの人ぐらいだったってことだろう。)
キルラキルはそのアニメーション作画はもちろん色もキャラデも演出もお芝居もコンセプトも他を圧倒し素晴らしく、30分息もつかせぬようなアクションに毎週興奮している。
もちろん世の評価も高く、非の打ち所が無いというか「あれイマイチだよね」と言おうものなら「萌えヲタには解らないだろう」もしくは一周して「何すかしてんだよ」という視線を浴びてしまいそうな程の作品と言おうか。
なのでちょっと言いにくいのだが、自分はこの作品を見ているとどうも引っかかる。作品自体と世の中の評価に。
何を当たり前のことをとお思いだろうが、恐らく皆さん(男性的視点で見ている皆さん)が思っている以上にこの作品は男性向けなんだと思う。
一つ一つ理屈をこねても仕方ないくらい生理的なものだと思うのだが、挙げるとするとまず「視点」。
主人公の流子は強く格好良くて魅力的で、気持ちの良い主人公だと序盤は楽しく見ていた。
ところが戦闘ごとに露出度の高い制服を着せられ、毎回恥らいながら戦闘しているではないか。
今まで彼女の視点で世界を見ていたのに、いきなり彼女が好奇の目に晒されることとなる。
急にお茶の間に引き戻される。悲しい境遇の中でも強く生きる彼女に感情移入して見ていたら、辛い気持ちになってしまった。
この辺りでやっと「ああこういうことを楽しむ娯楽アニメなのか」と気づかされる。
そしてマコの存在。色んな天然キャラは居るがこの天然の感じがどうも不快だ。
理由はこれこそ生理的なものだと思うが、存在そのものがご都合的で記号的で「馬鹿」な「女」を娯楽として楽しむためのものだからだ。
自分はこの笑いのツボを持ち合わせていない。
と、くどくど語っているが別に作品を批判しているわけではない、「こういう作品なんだ」と思っただけだ。
そして萌えアニメと呼ばれる作品以外でこういうお色気作品というのは最近確かに少なくなっていると思うので、そういう意味であえて往年のドラマやアニメのオマージュとして要素を入れているのだろうということも理解している。
気になるのは「こういう作品」なのに、まるで万人に喜ばれてるように、手放しに評価されている点である。
従来からエンターテインメントにはお色気シーンはつきもので、女性もそれを幼い頃から見慣れているため普通に楽しめるようになっているのだろう。
だから多くの女性がこの作品に何も違和感を抱かずに楽しめていると思う。多くのエンターテインメント作品を見てきた(言ってしまうとアニヲタの)女性ほどその傾向が強いだろう。
むしろ頭の固い女だと両側から叩かれるのも目に見えているが、なかなか言う人を見かけないので言ってみました。
こんなことに引っかかっていて、じゃあ男女問わず楽しめる題材と表現を…云々言っていたら娯楽の表現の幅が縮小してしまうのも解る。
そこで思うのは、じゃあこの手の意欲作に、もっと男性的でない作品が増えてもいいじゃないかということだ。
ノイタミナの登場によりそれでもかなり増えたが、世間的に注目される意欲作ではまだまだ男性向けが多く感じる。
もちろん全てを把握している訳ではないが、アニメーションの良作と言われている作品の多くは男性的な作品であるように見える。
戦う少女、(男性的目線での)純愛、不思議な少女、銃声に跳ねる女性の死体、エロ、暴力、メカニック…
どれも面白い題材だが、もう少し幅があってもいいのではないか。
話は逸れるが「東のエデン」についても同じような引っ掛かりを感じていたことを男性ファンに話したことがある。
自分が「ヒロインが好きになれない。女性として感情移入出来ない行動をとる。それでいて女性主人公の恋愛をメインに描くとはどういうことだろう。」
と話したところ、
「そこじゃないでしょ、この作品はー!」
と返された。
そこじゃないのか。
今回のキルラキルの引っかかりも「そこじゃないでしょ!」ということなんだろうな。
そしてそう思う人口の方が多い。
でもそういう風に引っかかってしまう人間も、いるんだよと、頭の片隅に入れていていただけると、一石ならぬ砂利ですが投じた甲斐があります。
お粗末さまでした。
アニメとかドラマにおける「恥をかくシーン」がすごく苦手:ろぼ速VIP
こんなんが先日ホッテントリにあがってた。
こういう感情移入しすぎるのってなかなか理解されないと思ってたけど、思ったより賛同者がいたからじゃあこれはどうかっていうのを自分もひとつ常々感じてたから増田に書いてみる。
で、タイトル。
ヒロインが押しかけ女房なんだけど、主人公がそれを鬱陶しがるんだよね。
それだけならまだいい。まだよくある。
(それでも好意を向けられてるのに嫌がるっていうのが女の子に失礼すぎるだろ、嫌なら断れ、ホントは楽しんでるんだろ? それがみえみえだからムカつくんだよ。調子に乗りやがって、とは思うけど)
でもニャル子さんの場合、主人公がニャル子さんをフォークで刺すんだよ。
いくらギャグでもいくらニャル子さんが強いからって言ってもそれはやりすぎだろとドン引きしたよ。
それが見てられなくてニャル子さんはとても見ることが出来なかった。
ニャル子さんがかわいそすぎる。めちゃくちゃけなげで、好意ばんばん向けて主人公を敵から守ったりもしてあげてるのに、恩を仇で返されてる感じ。
もっと広義に、ヒロインや女の子を不必要なまでに虐げるっていうのが苦手なのかもしれない。
だって考えてみろよ。そんなことされた女の子は、その場では「う~意地悪~」みたいに冗談交じりにしてるかもだけど、内心すげー傷ついてるぜ。
自分だったらどうよ?
好意を一所懸命に相手に向けて発信してるのに、ないがしろにされるどころかDVチックなことまでされるんだぜ?
そんでいとしのあの人のために頑張って頑張って、たまーーーーーーーーーーーーーにだけ、目を逸らしながらひとことぼそっとようやくお礼を言われるだけで、それだけを糧に生きていける!と考えたりできるか?
悲しすぎるだろ。
そもそもそれでへこたれないメンタル持ってりゃアニメなんかにまず傾倒しないっていうのはあるだろうけど。
現実じゃ女を虐げるどころか袖にすることもできない、それどころか袖にすることができる女すらいないから、せめてフィクションでは女に言い寄られて困るわ~ちょっとDVチックなこともしちゃったりしてもへこたれずにずっと自分に好意を向けてくる女がいて困るわ~みたいなのをやってるだけか。
それさあ、好きなキャラのBLに置き換えてみなよ。
そこで相手にしがみつく受けに感情移入しないのかよ。
所詮ラブコメしか書けないエロゲ畑出身者が原作だしと思うとまあ納得もできるんだけど。
少年漫画としてもB級アクションマンガとしても中途半端に感じるんだよなあ。。。
なんでだろ。
あと大筋の話が進まないのがでかそうだな。
国を変えるみたいなこと言ってるのにしょぼいことばっかりやってる印象。
仲間が死んだりするけど、そのキャラに感情移入する間もなく死んでるだけだから、マンガの中ではなんかすごくシリアスだったり泣き叫んだりしてるのに、それが読者には伝わらなくて置いてけぼり感がすごい。
掘り下げがいろいろ薄いんだな。
キャラの掘り下げとか国とかの設定とかナイトレイド自体の仕組みの掘り下げとか。
上っ面の登場人物がマリオネットみたいに動いてるだけで、説得力を持たせる描写が少ないんだ。
主人公の立ち位置もなんか微妙で、割りと最初から強いからすんなり暗殺集団に溶け込んじゃうから、ますます読者置いてけぼりなんだよね。
普通そこはなんらかのしがらみなり摩擦があってそれを乗り越えて初めてどうこうってところだと思うんだけどねえ。。。
いろいろすんなりいきすぎて読者の心にひっかかりを作ることなく進んでいっちゃうから、読みやすいっちゃ読みやすいけどまったく印象に残らない。
終わっちゃったのが悲しすぎる。
ささちゃんの頭をなでることもできない。
まこちゃんに感情移入して切なくなることもできない。
さおりんにジト目でなじられてずばずば図星を突かれることもできない。
俺はもう一生独身でいるんだと思うけど、そんな俺に子供ができたような錯覚をしていた。
自分の子供たちの成長を見ているようで、歯がゆくも幸せな時間を過ごした。
俺はこれから何を生きがいにすればいいんだろう。
おじさんには愛が必要なんだ。
一人でも生きていける愛が。
絶賛ばかりですが正直な感想を申しますと、「おもしろくなかったけど、何度か観たい映画」というところでした。
批判的な感想をあまり目にしないので、この一週間、絶賛に対して指摘したい部分を時々考えました。それを時間書けずに一発で書きます。荒くてごめんなさい。
・ストーリーに波がない。
「生きねば」と書いてあるポスターや、ボロボロに燃えてしまった後の戦闘機っぽいものと、それを見て呆然と佇む主人公の絵に、
「戦争に揉まれながら、どんな恋や葛藤があるのかな〜!」と思ってしまいますが、はじめからわかってた展開をただ踏まえてるだけな気がしました。
予告編では泣けましたが、本編では泣こうとおもっても、、、、?なかなか泣けない。
とにかく長いです。一緒に行った人は寝てました。最後のユーミンの歌の、長い長いPVみたいでした。
幼少の頃から非凡な存在として描かれていて、そのままです。しかもお坊ちゃま。
人格も優れている主人公がどんな壁を経験して、奮起するドラマなのかと思いましたが、、、右肩上がりのまま、、、右肩上がりにフライ。
これは厳密には違う指摘ですが、菜穂子と再開する避暑地の重要なシーン。
あれも「なんで今は仕事しないの?オフでも飛行機のこと考えてるキャラが何してんの?」と内心思いながらでした。しかも、これも長い。
それを消してくれる説明も無かったような気がします。
・SEが口
これはなんかの朝のニュースでやってたのを着替えながら見たので知ってましたが、どうやらSEのほとんどは口で人が作ってるようです。
でも、それが耳障りなんです。なんの意図があったのか知らないので残念ですが、その意図を知らない私からすると違和感で集中できないのです。
途中から、製作者側が「今回のSEは人の声が作ってるんですよ」とドヤ顔で言ってたらと思うと、それをどうやって論破するか。。。そんな怒りの妄想に集中力がいってしまいました。
・庵野秀明の声
幼少期が終わって、いきなり声が変わります。それで「『ジブリの主人公の声をエヴァ監督の庵野秀明が担当』なんていうニュースを何かで見たが、これか・・・」とその時に思い出しました。
とにかく、びっくりするほどスムースな口調で人間らしさゼロ。10のテンションで話してきたキャラに対して、4くらいのテンションで返す主人公。しかし、相手は自然に10のテンションを保ったまま会話している不自然さ。
例えて言えば、片方は大男が体をうねらせて豪速球を投げているのに、それを受け取る主人公は直立不動でボールをキャッチし、腕だけ動かして投げて緩いボールを返している感じ。その不自然なキャッチボールはラストの一言まで続きます。
製作者の意図としては「理系の人っぽさを出したかった」ということですが。理系独特のドライさってのは違うと思います。
成功に仲間や上司が昂ぶっている時にタバコ吸ってどっか見てたり、菜穂子が王子様アピールしてるのに「晴れてきました」とかいってるだけで理系っぽさは出たと思います。
その点、同じ理系でも今放映中の福山雅治のやつとかは、たしかに理系っぽい感じはします。
百歩譲って、理系な人が抑揚のない声で話すとしましょう。でも、見る側としては少なくとも僕は違和感で集中できないんですね。不自然なコミュニケーションを意図的に作ってドヤ顔してる制作側に本当にいらっとした。
ヒロインが嫁入りするシーンで、嫁が高橋留美子の漫画のキャラにしか見えない。
そもそも、結核の嫁が病院抜けだして来て嫁入りを済ませるっていうのはとてもむずかしいと思う。
ただの美談ですよね。ちび上司が普段と違ってお祝いしてる方が胸を打たれました。
これは単純すぐり僕の勘ぐりでもあるのですが、いちいち飛行機とか鯖の骨とかに「美しい・・・」とかいうところに、デザインに対して強いこだわりを思っていたジョブズを投影させてたのかなって思っちゃいました。
シンプルに美しい見た目=優れてる、という考え方を持っている二郎アピールが多いんですよね。
もしジブリもジョブズに敬意を表すなら、普通に「敬意あります」とか言えばいいんであって、作品にわざとらしく言わなくてもいいんじゃないでしょうか。
とにかくうるさいんですよね。忘れた頃に出てくる。「また!?そんな(にデザイン好き)なの?」みたいな
でも、まあ、ジョブズが話題になる前からsimple is the best的な価値観はありましたので、あんまり強気で言えることじゃないです。
以上を踏まえて「風立ちぬ、傑作!」みたいな空気は、なんかつっこみたくなります。
「ジブリがやったことならすべて良し!たとえ理解できなくても良しと言う!白も黒と言えば諸手を上げて黒に賛成」みたいなダサい空気です。
確かにジブリの過去作は素晴らしかったです。でも、今作はどうでしょう。ほんとうにそうおもってますか?と。いや、過去作も実は「良さげ」雰囲気だけの作品だったのかも… ?
なんちゃって、それは言いすぎな気がしますが、否定なんかしたら自分がバカっぽい立場になるって思ってませんか?
僕もそうゆうのが怖いのですが、これを書いた反響とかを楽しみたくてネットに書きました。
以上です。
ちなみに、個人的に一番良かったシーンは、幼少期の夢の中で雑誌に出てた有名なイタリアの設計士と出会い、刺激をうけるところです。
あの夢の中には、生まれや、能力や、物理法則すらも超越した、ピュアな(実現したい世界としての)夢だけでした。
そしてあの空間にいる間は、「自分のヴィジョンは世界の偉人と共有できる程のものなんだ」という高揚感は、とてもこんなことを言うのは憚られますが、僭越ながら共感できました。
色々文句もありましたが、終わってみると、確かになんだかスッキリした映画でした。
それが何かは、わかりません。それが不思議な魅力でしょう。
自分はジブリと育ってきたような年代で、現在は「アラサーw」と自虐を言う時期に入った年代です。
「風立ちぬ」は今回の作品で初めてです。
一番好きなジブリ映画は「もののけ姫」。理由は興奮するからで、メッセージ性などはあまり気になりませんでした。
一番心躍った映画は「バトルシップ」。一番泣いたのは「アイ・アム・サム」。という単純な人間です。
最近のファンタジーは現世からの転生や召喚モノが多い気がする。
90年代の多くの作品は
2000年台以降の多くの作品は
異世界の中だけで物語が進行していくというものが少数派になったといってよい。
更に最近では日常ものといわれるストーリーに山も谷もないモノが
持て囃されているが想像力の欠如に繋がらないか不安に感じるほどである。
追記
異世界だけで繰り広げられる作品が減ったよなという点です。
追記2
ラノベにおける現代人のいないファンタジー作品の受けの悪さは異常 - アニメ見ながらごろごろしたい
http://d.hatena.ne.jp/taida5656/20130330/1364572827
検索したら他の人も書いてた。
追記3
マーケティングの関係や導入部での世界観の引っ掛かりを無くす為のナビゲータ役、
主人公に共感・感情移入しやすくする為、あとはアニメ化した時に一期で世界観が理解出来る、尺の関係、
アニメ化のしやすさの問題(テンプレ化で共通認識があれば導入部を省ける)
があるように思える。
(5分アニメや二時間映画が成り立つのも多くはテンプレや共通認識が出来上がってるからではないか)
追記4
その世界だけで完結した物語が多く生まれたという意見がありました。
多分その通りだと思いますが2000年代に学園物が流行ったのは
ToHeartやラブひな→恋愛物からの萌えへの転化と繁栄によって
ファンタジーの層が薄くなった結果、世界完結型の作品も少なくなったと見るべきか。
追記5
【小説家になろう】誰でも主人公になれる制度。なぜ異世界召喚や転生ものが流行るのか? | サブカル・カムカム
ラノベは、日常ものばかりで、ハレコメばかりで、転生召喚ものばかりなのか - REVの日記 @はてな
http://d.hatena.ne.jp/REV/20130704/p1
スコッパー速報 小説家になろう:転生とか召喚モノでなくおもしろい異世界ファンタジーってない?
http://scoopersokuhou.blog.fc2.com/blog-entry-455.html
「今のゲームは…」というのは、年寄りの繰り言っぽく聞こえるかもしれない。けど、なんにせよ「遊び」って大事だなーとは思います。自分の中の原体験は、大昔の「ドラゴンクエストⅣ」の初プレイ時。
主人公は、自分が何者とも知らず、名もない山奥の村にひっそり村人に隠されて暮らしていた勇者の末裔。第五章冒頭で、その村は魔王の軍勢に発見され、幼い主人公を守るべく、幼馴染みのシンシアが主人公のフリをして、身代わりになるシーンがあるのですね。で、当然軍勢に敵うわけもなく、死ぬ。というより、あえて死んで「勇者の末裔は死んだ」と思わせることで、主人公の命を守ろうとするわけです。
全てが終わり、魔王の軍勢が去った後、廃墟になった生まれ故郷の村を隠れ家から出てきた主人公は見る。ぼーぜんと村を歩くけれど、足が向くのはシンシアといつも話していた…そしてシンシアがついさっき殺された、村の中央の花畑。で、そのシーンに感情移入していればしているほど、シンシアの死んだその場所を「しらべる」せずにはおれないのですね。そうすると、そこには「はねぼうし」という頭用防具が落ちている。
当たり前ですが、「何か落ちたようだ」とか、そういうフリは一切無い。でもって、「はねぼうし」を見つけようが見つけまいが、話の展開には何の影響もない。ゲームの進行上、完全な「遊び」に過ぎない。でも、このシーンがあったことで、自分にとってはドラゴンクエストⅣは忘れられないゲームになりました。もちろん、私の主人公が、デスピサロを倒すそのときまで「はねぼうし」を被り続けたことは言うまでもありません。(ちなみに、数値上はこれも完全にムダ。所詮「はねぼうし」は「はねぼうし」であって、店で普通の値段で買える単なるアイテムに過ぎないし、後々いくらでも強力な頭用防具は登場するので。)
ドラゴンクエストⅣのこのイベントも、もちろん制作者側の狙いに基づくものだし、今となっては陳腐な演出の一つなのかもしれません。ただ、当時の感覚として、このとてもひっそりとした仕掛けは、RPGとはそもそもなんだったかということを訴える制作者の姿勢として、とても好ましく感じられました。シンシアの羽根帽子は、ドラゴンクエストⅣの提供するものが、紙芝居ではなくロールプレイである、というメッセージだったのだと思っています。そういう「遊び」って、多分いまはあんまり理解もされないし流行らないんだろうなと思うと、まあ、確かになんだか残念ではありますね。それが、一般人の感慨なのか、ゲーマーとしての感慨なのかは自分にはよく分かりませんが。
昨晩は、終電ギリギリまで友人らと酒を飲んだ。自分と仲が良い女友達がわりと酔っぱらっていたので、駅の改札まで見送って別れた。
その後どうやら彼女は電車を降り過ごしたらしく、自宅からずいぶん離れた駅まで行っちゃったらしい。「歩いて帰宅しようとしたら迷子になっちゃったよー」というような連絡があったので、近くにある大きな道路を探してタクシーを拾ったほうがいいとメールした。
しばらくしてから、「結局タクシーで帰宅したけど、迷子になってうろうろ歩いてたら知らない男に顔射されるし、顔射され損だよー」というメールが彼女から送られてきた。
どういう言葉をかければいいのか、よくわからなかった。すごく嫌で腹立たしい出来事のように思うのだが、自分自身がそういう目に会ってないのに、勝手に感情移入して腹を立てるのは違う気がした。でも自分の友人が嫌な目に会うのは勘弁してくれという気持ちは、自分の中に強くある。
夜道を歩いてたら顔射されるような社会は勘弁してほしいよねということと、明日出かけられるくらいに気力が回復したら一緒に遊ぼうと、僕は返信した。「じゃあまた明日ねー」というメールが返ってきた。
自分は男でガタイもいいせいか、あともしかしたら運が良いせいか、夜道で嫌な目や怖い目に会ったことがない。男というだけで、そういう目に会う可能性が低いのだろう。女はそうじゃないのだろう。それがいいとはまったく思わない。でも現実はそうなのだということを、男の僕はときどき忘れてしまう。
■一般人編
まず前提として自分がアニメが好きだと宣言すると、もれなく「オタク」か「腐女子」かそれに近い分類だと思われる。
そして「可愛い(カッコイイ)キャラクターに萌えてんだろ?」ってなリアクションをしてくる。
キャーキャーブヒブヒ黄色い声だして叫んでるのがアニメ好きだろうと見られるし、
異様にアニメについての深い知識を持ってるんだろ?みたいな感じになる。
これが非常にめんどくさい。
お前らがドラマや映画みる感覚でアニメ見てるんだよダボが!!!!!!!!
一々登場人物に感情移入してる共感覚ビンビンおったち丸だけがアニメみてると思うなよ糞野郎が!!!!!!!!!
アニメオタクに対してアニメ好きだよと宣言すると、今度は「●●って知ってる?」と挨拶のように聞いてくる。
なんだこれは。
なんでディープな話題しらなきゃ速攻にわか認定なんだよ!!!!!!!!!
知識が無ければアニメ好きとしてやってらんないみたいな糞内輪乗りがアニメを狭いモノにしてんじゃねーの!!!!!!!!!???
そんなのはどうでもいいんですけど、
女のアニメ好きだと「腐女子」か「ノンカプ好き」か「ディズニーorジブリ好き」みたいな分類しかされないんだよなあ
単なる「アニメ好き」には辛い世の中すぎる
アニメ好きって宣言しても今のところ得が無い
一人で楽しむしかなさそう
きっとそういう人多いと思う
形容と結果に持論が挟まっているもしくは形容から連続して持論しかない文体に、一体なにの本を読み重ねたら至るのでしょうか。
本を読んだら他人の語彙が増えて自分の口から出せるタイミングが増えるということになにか意味があるのでしょうか。
本を読まない人
持論
ツマラナイ
判断
多いです
形容 持論 判断 持論
本を読まない人って、ツマラナイ人間が多いです。正直見下しています。
持論を展開するために情報を収集するのに本に限定する意味がわかりません。ニュース記事だけヘッドラインだけみても「有名ブロガーに意見する人はおおいけど」という概算的な形容はできると思います。
本を読んでいるといいたげに表現するのであれば、形容に例から結果をつなぎ結果から別の結果への接続を持論として文章にするほうが「読んでいない」との表現と差別化が図れるのではないでしょうか。
例
イケダハヤト氏の記事「○○の××における△△」の一節にある
ちきりん氏の著書「●は◇」に見る
形容(他者視点)
「□は▽」という見解
という表現
まさに
この場面が一致するのではないだろうか
形容 例 形容 形容 持論
イケダハヤト氏の記事「○○の××における△△」の一節にある「□は▽」という見解についてちきりん氏の著書「●は◇」に見る「▼からみた■」という表現に、まさにこの場面が一致するのではないだろうか。
だれでも知ってるフレーズをマネするだけが本を読んで記憶するメリットであるまたは、自己視点を持論で判断した結果を伝播することを主眼とするならば的を得た文章かもしれないと、増田さんの主張について思います。
私の個人的な感想ですが、本を読めといわれる人の表現したい必要性という欲求の具体的な形としては「どうしたらそんな発想、表現、思考ができるの?」と興味をもたれる頭脳の構造になるには本を読むことが有効といった内容かと想像していますので、読者という視点で複数の筆者の断片的な要素を複合的に当てはめ、判断について持論を展開する折に「以前に使用された観点」を踏襲して理解を連想から興し理解に関して情報伝達のほか感情移入を誘発できる可能性から理解から行動するという結果にまで誘導する効率を高めるというのが、読書した人間の「本を読んだメリット」になるのではと考えます。
簡単に喩えると、
おまえにだって子供のときから教わってきた常識があるだろそれしていいことかわかってんの?
と
他者視点形容 例 持論
初めて幼稚園で泣かされたときのこと覚えてる?小学校のときプール嫌いだったよね、今、その気持ちをお友達に味合わせていいのかな?
では発言者の希望する結果は同じかもしれないけれど伝達される側には行動喚起に関して感情の有無から判断方向がかわる、それをコントロールできるのが本読みではないかというのは、あるとおもいます。
で、本を読めと。何の本を読んだら自己完結で読本の大切さを伝えようって行動喚起に至ったんですか。
私おもうんですけど、さよなら絶望先生とか涼宮ハルヒとかみたいな、自己視点の紹介と自己感想を常に独り言している系の作品とか、お好きでないですか?