はてなキーワード: 大元とは
僕が上京したいと思うようになった原体験は中学時代にあると思う
当時オタクの世界に浸かり始めた僕の住んでいた地域では民法が2局、フジと日テレしか映らなかった(今もケーブルテレビに加入しない限り2局のままだが)
当然深夜アニメなんてまったく観れないので
書店で取り寄せてもらっていた月刊のアニメ雑誌の中にある「○○アニメ化!」なんて記事は遠い世界のものだと諦めていた
今のようにネット上で気軽にアニメが見れるサービスは普及していなかった、もしくはあっても知らなかったし、我が家はスカパーにも入っていなかった
そんな日々を送る中購読しているアニメ雑誌のひとつの記事が目に飛び込んだ
やったぞ!フジテレビならうちの県でも映る!
もうかれこれ15年くらい前の話になので正確に覚えてはいないが
そのアニメは別に原作が好きだったわけでもないし、内容に興味があったわけでもない
アニメ雑誌やネットで話題になっているあのキャラやこのキャラの「現物」を見ることができなかった僕にとって、そのフジテレビ系列てで放送する深夜アニメは、(オタク)社会と自分を繋ぐ蜘蛛の糸のような儚い希望だったのだ
で、迎えた放送当日
だいたい予想つくと思うけど
新聞のテレビ欄に載ってなかったのを「アニメだから載せないんだろう」と超解釈して夜更かししていた僕の目の前に突きつけられたのは
その後「いや…全国の小学生が夢中になったポケモンやデジモンですら再放送しかやってなかったじゃないか…きっと一週遅れでやるに違いない」
そしてうちの県ではこのアニメはやらないんだと気づいた時僕に残ったのは強烈な憎しみだった
うちの県で放送してくれないフジテレビ?アニメ会社?側に対する憎しみもあったが
それ以上にフジテレビの電波に乗って確かに来ているはずのアニメをあえてカットする地元に対しての憎しみが強かった(現実的にはそんな単純な理屈ではないが当時の僕にはそう感じられた)
そう言われている気がした
その反面簡単にオタクコンテンツを浴びるように触れることができる東京には
僕みたいなキモヲタでも存在を許される場所として強烈な憧れを抱くようになった
あのときの想いは、見きれないほどの深夜アニメが放送されている東京や関西に住んでも、ネットでアニメ見放題の時代になっても、そしてなんだかんだで地元に戻ってきてアニメなんかまったく観なくなった今でも残っている
アニメの経済効果が無視できなくなり、町おこしアニメなんか作ってアニメに媚びたり
放送してないアニメの映画が田舎ではまずありえないほどの観客動員数を記録しブッチギリで映画ランキング一位をとっていたりするのをみて
「ざまあみろ」
という気分になっている
(そもそも15年前だったら県内の映画館では例のアイドル映画は放映されることはなかっただろう)
…とまあ長くなったけど
「SMなんてするやつ、人格疑うわ」http://anond.hatelabo.jp/20151124132957を書いた増田です。トラバありがとう。
http://anond.hatelabo.jp/20151124135007
http://anond.hatelabo.jp/20151124141101
http://anond.hatelabo.jp/20151124175900
読みました。なるほど。言及する価値もないクズ、ごく一部のやばいやつに過ぎないということで、誰も本気で反応しなかったということね。
http://anond.hatelabo.jp/20151124142814も読みました。「かわいい子には旅をさせよ」w
”苛愛ずる”(←動詞つくってみた)はジャパニーズカルチャーである、と? はー。
”苛愛ずる”は子どもや猫等を対象に老若男女が嗜むエンターテインメントであり、そこにはなんら美学や矜持といったものはなく、多かれ少なかれ、いきものすべてがもつ単なるサガである、と? ひー。。
”苛愛ずる”というサガに自覚的で理性の弁を開放しているのがSM嗜好の人々で、対象が子どもや猫にとどまらず、BBAを虐待して可愛いと思うのがご主人様、おっさんを虐待して可愛いと思うのが女王様である、と? ふー。。。
可愛い子を殴りたいという元増田は、なんら特別な人間ではない、と? へー。。。。
非性的パートナー(プレイの同意を得ていない相手)を強制的に”苛愛ずる”のは、社交界に集う紳士淑女の嗜みである、と? ほー。。。。。
まみむめもー、ばいばいきんたじたじ…;;(´﹏`);;
個人的な感想としては、とにかくもう、「悪趣味…」のひとことであるのだけども。。。(当然伝わってると思うけど、悪っていうのは善悪というより、私の美意識からするとかっこ悪いみたいな意味。大元の増田、最近私が遭遇した人間の中でも1,2を争うレベルでかっこ悪いわ。。。)
先日増田でホッテントリしてた「親から子供への冗談が大嫌い」http://anond.hatelabo.jp/20151025173243を読むにつけても、今回のトラバを読むにつけても、SM嗜好って闇教育の産物っていう側面があるんじゃないかという疑念を強くするわ。 ※「闇教育」については、アリス・ミラーの著書を参照のこと
増田氏の意図するところは良く表現されていると思いますが、おそらく意図しない副作用によって少々残念なことになっているように見受けられます。これは異なる文化圏の問題かもしれません。
オープンなソフトウェア開発では、荒削りのものを積極的に公開し、フィードバックを受けて改善してゆくということが良く行われています。SICP改訳に関しても、大元の訳および真鍋版は、そういったソフトウェアの協業を支援するプラットフォームであるgithubで作業が行われており、その文化を共有していると考えられます。
この文化においては、著作権とライセンスを明確に取り扱う手続きがかなり整備されています。既にご存知なら釈迦に説法ですが、「翻訳含む改変や再配布はこの条件に従っていれば自由にやっていいですよ」と明示されてることが多いのですね。今回取り上げられている翻訳についても、原文や元訳はそれぞれLucent Public LicenseおよびCC-BY-(NC-)SAというライセンスになっています。貢献者がこのライセンスに同意し条件を守っていれば、オープンで自由な改善のスパイラルが可能になります。
ところで、匿名による書き込みであっても、誰がやっても同じになるトリビアルな誤植修正を越えるものについては、書いた人に著作権が生じ、その書き込みをどう扱うかは書いた人が決められます。何も条件が書かれていないのなら、原則として他人が勝手にその書き込みを転写、改変、再利用することができません。程度問題の話で、増田内でコピペしたり改変ネタを作るのに目くじらを立てる人はほとんどいないでしょうが、明確なライセンスでもって許諾されている派生プロジェクトにその成果を取り込むとなると、慎重にならざるを得ません。この文化では、一般的に、「ライセンスが明示されていない著作物は利用できない」がコンセンサスになっています。
(もし私が見落としていたなら申し訳ないのですが)増田氏の校正には利用条件が記されていないようです。そうなると、せっかく良い指摘をして、真鍋氏もそれに納得したとしても、その成果を真鍋氏が利用することはできないということになります。
増田氏は「間違いの指摘を受けて訂正するというプロセスが働いている限り、誤訳というのはたいした問題ではありません」と書かれています。しかし現状、増田氏自らそのプロセスを阻害しているという形になっています。
これは意図したものではないだろうと推察します。増田に書き捨てるようなものなど勝手に利用すれば良いと思われているかもしれません。誤訳の「指摘」だけなら著作権は発生しないとお考えなのかもしれません。その解釈は微妙なところですが、増田氏の翻訳案はたとえ数文であってもアイディアを具体的に表現した著作物です。こういった一見些細なことにも小煩い文化圏があるということをご理解いただけたらと思います。
一口にIT土方と言っても色々な仕事があるが、その中でもブラックという悪名の大元になっている、開発の仕事を新卒から手がけて10年になったタイミングで、上司から「人の上に立つキャリアに行かないなら、技術者として横への広がりを」と勧められ(加えて開発の仕事があんまり取れない事情もあり)、そこから数年ほど運用チームの一員として業務をやってきたが・・・俺にはこの仕事のセンスがまるっきり無いことが判明しただけに終わった。
というか、今はもう運用という仕事に対して憎悪の感情しか沸かない。心底嫌気が差してしまった。
以下、色々向いていなかった系の主張メインの言い訳。
俺が長く手がけた開発は必ずゴールがあり、それを踏まえた細部への落し込みの段取りが仕事の核となる。そしてこの段取りを進める忙しさが常にあり、上手く行かなくなった時はブラック激務が待っていると。
一方の運用は、開発と比べたら桁違いにヒマで、しかもゴールがない。しかし、その緩やかな時間の中で日々業務改善に頭を巡らせ、より上手い回し方を工夫することが肝要である。
まず俺は、この時間感覚・仕事感覚の違いに、結局どうしても慣れなかった。ヒマに任せてひたすら惰眠を貪ってしまい、働かないオッサンに成り果ててていた。
多分このまま行ったら、給料泥棒としていずれ切られるだろう。
それから、今時のシステムにはサーバやスイッチのみならず、大小様々なアプライアンスが含まれる。それもアプライアンスが基幹装置だったりすることは全く珍しくないので、こいつらの監視は非常に重要なのだが・・・俺はこのアプライアンスというやつに全く興味が持てなかった。
真面目な運用者なら仕組みや機能を率先して調べ、業務改善や次期システムの提案に噛ませるなんてするんだろうけど、俺の場合「よくわからんブラックボックスで、でもなんかよろしくやってんだね、じゃあそれでいいんじゃね?」程度にしか思えず、出来れば障害の1つも起きないなら無視したいものだった。
これはもう運用者としては致命的にダメなセンスだろう。開発で例えるなら「ミドルウェアに興味ない」とか「クラスライブラリやフレームワークに興味ない」と言っているようなものである。
そうそう、開発と運用の違いと言ったら、確実に対立するポイントがある。
それは非機能要件の取り扱い。
開発にとって非機能要件というのは「障害発生時の検証用や、機能要件の異常系処理など、恙無くシステムを動かすのに最低限必要な仕組み以外は手を出したくないもの」だったりする。基本的に手を入れ始めたらキリがないので、やればやるほど仕事が増えてしまうのに、それに見合ったカネも時間も用意されていないことが多い(というかそんな見積もりを客に出すのは無理)からである。
一方の運用にとっては「機能要件は満たせていて当たり前で、その上で特に障害時の対応を中心とした非機能要件はきちんと作られるべきもの」である。システムトラブルで矢面に立つのは運用者であり、そこで手も足も出なければ存在意義を問われるのだから当然だろう。
このように非機能要件だけ取っても、同じシステム屋なのに見ているポイントが全く違う。
「正直気にしたって仕方ないような細かいところまで質問してきて、いちいちこっちの回答を言質に取って、その上で文句ばっかり付けてくる面倒な奴ら」
「いつも中途半端なモノを作り逃げし、いざという時も要領を得ない曖昧なことしか言えない、信用出来ない奴ら」
となる。
こういう、ともすれば対立の原因になる認識の違いを踏まえ、身も心も運用者になることが、俺にはできなかったと言ってもいい。
というわけで、これから俺はまた開発に戻る。
「流しのオッサンコーダー」として半年~1年単位で現場を点々とすることになると思うが、何年も椅子に座ってログを眺めているようで眺めていないよりは会社に貢献できるだろう。
或いは若手開発者育成という名の、ブラックな環境に飲まれないノウハウとか、「ハイリスクノーリターン」を避けるサバイバル術伝授とかやってもいいかなーと思っている。若手をOJTで潰すのは許せないので。
この場合、「この人にはどういう言い方をしたら通じるのか」という問題が今以上に重要になるだろうけど、それくらいは受けて立たないとという感じ。
今年30歳になりました。田舎で仕事してる。都会じゃ生きてけないけど田舎なら食べるには困らないくらいの給料。
詳しくは言えないけど、ソフトウェア関連の下流も下流の最底辺のかつ末端の孫請けかなんかくらいに思ってください。
二年くらい前までは新興の小さな会社が依頼元の所にいて、だいたい9-21から悪いときは23みたいな生活で、体調崩してしまって、すごく大きな会社が依頼元の場所に移ってきました。
スキルらしいスキルがまったくない自分も雇ってもらえて、ゆるい社風でほとんど残業らしい残業もなくて暦通りに休めて。結果的に給与もちょこっとだけ増えました。
非常にありがたいことだと思います。気付いたんだけど、大きい会社から受けてるところほど忙しくなくまったり働ける傾向があるみたいです。
でも、最近なんだかつらいんです。ていうのも、今やってる業務ってほとんど無意味だってわかってしまうから。一番上の大きい会社にたどり着くまでのどっかの工程のアリバイ作り程度にしか意味がない作業だから。上の方から「やっぱりこれ無しねー」って連絡きて終了することもしばしば。
なんというか、色んな会社同士のお付き合いで発生してしまった謎の真空地帯で石を積んでは崩すみたいな業務をしてるんですね、今いる場所そのものが。
この会社そのものが大きな会社のえらい人と親しい関係にあるのでそんな無駄を発生させているけど他社に取られる心配とかはないらしい。だから尚更どうにかしようって展開にもならない。
自分は一体何してるんだろう、頭数として以外に居る意味があるんだろうか、という気持ちになってきています。何の役にも立っていないのです。
この業務というか作業というかの大元にあたるコンテンツ自体が到底何十年も続きっこないような代物っていうのもあるし、大きな会社だってこの先なにが起きるかわかりません。
また自分自身がぬるま湯に浸かりきって何の能力もないまま30になってしまったことに対する不安から暗い気持ちが膨らんでいるんだとも思います。
自分が住んでいる田舎では行政の方針で似たような企業が沢山誘致されているのですが、どこも人件費が安いというだけで来てるんですから元々我々に能力や成長なんて必要とされてないのでしょう。
地元では外国語を習得し移住する胆力と知力がある外国人の方が時給750円で介護職に就いていると聞きます。
こんな積み木遊びみたいなことでそれよりも高い給料を貰ってるなんてどう考えてもおかしいし、しかし30まで積み木遊びしかしてこなかった自分に介護職が務まるとは到底思えません。
食べるには困らないけれど、充分な貯えができてるわけじゃなし、結婚して家庭を持つことはもう諦めつつありますが、母親だけでも楽な老後を送らせてやりたいけどそんなことできるのかな。
文科省「22歳をピークに女性の妊娠のしやすさが低下」のグラフ、元論文と食い違い?(篠原修司) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinoharashuji/20150822-00048737/
・大元は1989年の論文 Fecundity and natural fertility in humans. | POPLINE.org
http://www.popline.org/node/376892
論文の要旨は「妊娠確率の年齢パターンは、思春期では低レベルだが性行為の頻度によって
25歳をピークに急激に上昇し、その後低下する」とあり、「女性の妊娠のしやすさ」とは別物
・上を引用した1998年の論文 Declining fecundity and ovarian ageing in a natural fertility population. Maturitas
http://www.maturitas.org/article/S0378-5122(98)00068-1/pdf
掲載されているグラフは「定期的に生理があって避妊をしない女性の1回の生殖周期中における
・上を引用した2015年の慶応大名誉教授、吉村泰典氏(内閣官房参与(少子化対策))の講演資料
http://www.kenko-kenbi.or.jp/uploads/20150304_yoshimura.pdf
グラフを「女性の年齢と妊孕力」と説明 「22歳時の妊孕力を1.0とする」のもこのグラフにある
住む場所はどこにするか。仕事はどうするか。保険はどうするか。
それ以外にも記念日、外食、旅行、休暇など、積極的に提案を求められることも多い。
「伝統的」な性的役割分業夫婦の場合、これらのうち夫に決定権があるのは仕事に関連する事だけで、残りは妻の役割である事が多いのでは。
住居だの保険だの娯楽だのにいくら金を掛けるかってのも「家計管理」の一つなわけで。
同予算の候補いくつかの中で何を選ぶか、って所まで話を詰めていれば夫の意見が優先される事もあるけども
大元の「どれにどれだけの金を掛けるか」ってのは妻に決定権がある事が多い。
あと育児も妻の役割なので、おのずと子供関係の事も妻が決定権を持つ事が多い。
裏返せば家計や子供について全ての責任を負うのも妻なわけだが。
でも「現代的」で「平等」指向な夫婦だと、夫婦共働きで生活費も平等に捻出、なんて取り決めにしていたりして
細部で揉めるケースはあるみたいだね。
育児については何だかんだで妻が責任を負わされる事が多いけども。
何事においても、責任者は一人にしておいた方が揉めにくいってのは確かだろう。
元増田です。多少情報が増えたので、面倒臭いので逃げていた漏電遮断器の話を多少書いてみます。長いので読んでも特にためにはなりません
今回の事件で一部報道とかで『電気柵の電源部分に漏電遮断器を設置しておけば防げた事件だった』という言い方をする人がいるが、これはある意味では正しいが間違ってもいるし、今回の事件にとっては本質的な要素ではない。
電技解釈第4節「特殊施設」の第224条で[電気さくの施設]についての規定があり、
『田畑、牧場、その他これに類する場所のうち、人が容易に立ち入る場所に電気さくを施設する場合にあっては、電気さく用電源装置に電気を供給する電路には、電気用品安全法の摘要を受ける漏電遮断器(定格感度電流が15mA以下、動作時間が0.1秒以下の電流動作形の物に限る。)を施設すること』
下の方に書いてます。
http://anond.hatelabo.jp/20150724092101がよくまとまっているのでそれへの返事です。読んでも電気の知識のない人には意味不明です。
そもそも電流差で作動する漏電遮断機はこの例のように漏電させてナンボな用途には不適切じゃなかろうか。
2次端子A→(A)→電柵
2次端子B→(B)→アース
トランス2次端子A→漏電遮断器(の左側の端子)→(A)→電柵
トランス2次端子B→漏電遮断器(の右側の端子)→(B)→アース
という回路を作った場合、アースに繋いだ瞬間に漏電遮断器が落ちる可能性があるせいです。
例の、送電の勉強したときに出て来る静電容量の関係です。ちゃんと計算してはいませんが、それなりの長さで電線引っ張っていった場合、電線と地面の間をコンデンサが延々と繋いでる例の図っぽいものが再現されることになり、いきなり漏電判定される可能性があります、というかどっかの現場で似たようなことがあって原因に気付くまで大変でした(遠い目)。
保護回路いれるのなら、トランス2次側端子Aと電柵の間に電流制限する何か、
例えば mA で反応する高感度遮断機なりポリスイッチっぽい素子のような物を挟むのが正解なはず。
(それぞれ一般に売っているかは知らない)
これは現実的ではないでしょう。先述の静電容量による誤作動問題をクリアできていたとしても、別の問題、というかより本質的な問題があります。
つまり、電気さくは、人間が常時監視せずとも、ほったらかしでも動物を寄せ付けないのが最大のメリットです。高感度・高速型漏電遮断器を設置した場合、動物(や飛んできたゴミやら植物やら人間やら)が触る度に手動で再始動させてやる必要があります。
今回のような違法施工を行った設置主がそんな不便な装置に満足すると思いますか?
つまり、「漏電遮断器を設置していれば」というのは、「ちゃんとした電気柵用の電源装置を使っていれば」とか「専門の業者に施工を依頼していれば」とか「あんな高電圧を流してなければ」とか「あじさいぐらい鹿に食われてもええやん」と言ってるのと大差ないです。
ポリスイッチも、動作特性的に感電から人間を保護できるほど反応の速度の速い物があるかは疑問です。
「毎回の放電の度に、それこそ高速型漏電遮断器が動作した場合よりもさらに高速で電源を遮断している」
的な回路になっています。電流値を監視して一定値より大きかったら遮断しようとか何とか、そういうややこしい判断は挟まず、毎回毎回止める方が確実でしょう。
何にせよ2次側は2次側で閉じた系になるはずだから、1次側上流に漏電遮断機が入っていても反応し
ないんじゃなかろうか、ってのには同意。
この点はその通りです。と言いたいところですが、単巻トランス(一部ブコメで出ていたスライダックも単巻です)とか1次側2次側が非絶縁のトランスだと、縁切りできてないので、先ほど書いた「アースに接続した瞬間に静電容量のせいで漏電遮断器がトリップする」もあるんじゃないかと思います。まあよっぽど敏感でない限り作動しないとは思いますが、一応。
というわけで「漏電遮断器と電気さくの話はあまり関係ない」というのが結論になります。
電気解釈に書いてるとおりの場所に漏電遮断器を設置した場合の目的とは、
「電気さく用電源装置が故障して、装置から漏電していた場合の事故を防ぐ」
ということになると思われます(ここはちょっと自信なし。識者の解説希望)。
市販品の電気さく用電源装置は(ごくごく短時間動作の繰り返しとはいえ)、数千ボルトの高電圧を発生させています。こういう装置については、漏電遮断器を設置すべしと定めるのは、たしかに理に適っています。
電技解釈で漏電遮断器について書いてるのは第40条[地絡遮断装置等の施設]なんですが、これだけでは電気さく用電源装置が該当するかしないか分かりにくいので、第224条に明記しておくという方針は理解できます。
以上が本題です。以下は余談です。やる気がなくなったら書くの止めるし対象読者特に決めずに書き始めるので尻切れトンボになってたらお前ら察しろ
遮断器の一種です。漏電(electric leakage)が起きたときに、回路を遮断する機器(circuit breaker)です。一般的な略号はELB。
現場で「漏電ブレーカー」という言い方もしますが、大変紛らわしいことに「漏電警報付きブレーカー」というものも世界には存在しており、それもよく「漏電ブレーカー」と呼んでる人がいます。間違えると困る場面ではちゃんと確認しましょう(電気屋以外そんな場面に遭遇しねえよ)。
基本的に電源というのは端子が二つ(以上)ついており、一方の端子から送り出した電気がもう一方の端子から戻ってくる、という形で電気が流れます。
※嘘です。送り出し端子と戻り端子に同時に触ると普通は感電してとても危ないです。
で、送り出した電気が、そのまま戻ってこないで、どこか違う場所に流れるのが「漏電」です。
「どこか違う場所」と書きましたが、漏電の場合には実際流れる場所はほぼ決まっており、アース、つまり「地面」へと流れ出すのがほとんどです。
これを「地絡」と言います。
慣用的に「漏電」と呼んでるものは「地絡」、つまり本来の電気が通る道(電路)の途中で電気の一部が漏れて、地面に流れ出してしまうことです。
送り出しの電路と戻りの電路に同時に触った事による感電事故ももちろんたくさんあるのですが、今回の事故、そして日常的にもよく発生するのは、こっちの漏電による感電事故の方です。
さて、先ほど書いたとおり、電源というのは端子が2つ(以上)ついてて、送り出しと戻りとがあって、両方を繋ぐことで初めて電気が流れます。
ですので、電気が流れ出さない状態であれば、たとえば裸電線に素手で触っても電気は流れず、感電もしません。
「地面には無限に電気が流れ込むから漏電(地絡)が起きる」と考えている人がいるかも知れませんが、そういうものでもありません。
たとえば、バッテリーを用意して、一方の極だけを地面に繋いでやって、もう一方の極は何も繋がない状態にしても、電流はほぼ流れません。
じゃあどうして地絡が起きるのかというと、電源の一方の極が、実際には地面に繋がっているからです。
さて普通の交流電源は、極の一つが接地、つまり地面に接続した状態で供給されています。家庭で普通に使うコンセントに供給される電源も同じです。
電源プラグをコンセントに差し込むときに、左右の向きを気にする人はあまりいないと思いますが、実際には左右で電気的な意味は大きく違っていて、普通は一方が接地側極、もう一方は電圧側極と呼ばれる物になっています(左右どっちがどっちかは本当は規定があるんですが、間違って繋がれてることが割とあるのでここでは書きません。調べるとすぐに分かりますし)。
接地側極に素手で触っても、普通は感電しません。一方、電圧側極に素手で触ると…感電しないことも実はたまにはあるのですが、普通は感電します。
電源の電圧側極→電線→コンセントの電圧側極→人体→(家とか床とか何か地面まで繋がっているもの)→地面→電源の接地線→電源の接地側極
という経路で電気が流れます。途中の家とか床とかの絶縁が完璧であれば、たぶん感電しないで済みます。
逆に地面の上に直接立ってる状態だと激しくびりびりします。この事故を防ぐのが漏電遮断器の役目です。
電源の電圧側極→電線→ELB(慣習的には左側端子)→電線→コンセントの電圧側極→何かの電気器具→コンセントの接地側極→電線→ELB(の右側端子)→電線→電源の接地側極
という経路で電気が流れています。ELBを通って流れた電気は、ELBを通って電源に戻っています。このとき、ELBは何もしません。
ここで地絡事故が起きると(話を簡単にするために地面の上に立っていたとします)、
電源の電圧側極→電線→ELB(慣習的には左側端子)→電線→コンセントの電圧側極→人体→地面→電源の接地線→電源の接地側極
という経路で流れます。先ほどと違って、ELBの右側端子を通らずに電気が流れていますね。そうするとELBは
「あ、左側端子を通っている電気と右側端子を通っている電気の量が違う! これは漏電だ、ヤバい!」
と判断して電源を遮断します(これをトリップするとか飛ぶとか言います)。
当然、停電するので、懐中電灯を用意して漏電遮断器の設置してある分電盤まで出掛けて
「あ、やっぱりトリップしてる」
と言いながら手作業で復旧動作しないといけません(で、漏電原因が取り除けてなくてすぐにまたトリップする、というのもよくある話です)。
ざっくり言うと、普通の電気柵は「地絡事故を起こしてその時の電気ショックで動物を追い払う装置」です。
ですので、漏電遮断器を直接繋いだ場合に起きることとは普通は「電気は流れっぱなしで漏電遮断器は作動せず、保護の役を果たさない」か「動物が触ると毎回毎回停電して手動で復旧しないといけない」のいずれかになります。
※電気さくには稀に「裸電線aと裸電線bに同時に触れると感電事故が起きてその時の電気ショック以下同文」というものもあるらしいですが、とりあえず今回の話には関係しない、と思われます。
上の方に書いた
トランス2次端子A→漏電遮断器(の左側の端子)→(A)→電柵
トランス2次端子B→漏電遮断器(の右側の端子)→(B)→アース
と接続したとします。電柵に触ると、トランス2次端子Aから出た電気はアースを通ってトランス2次端子Bに戻ります。当然、漏電遮断器は「左側端子を通っている電気と右側端子を通っている電気の量が同じだ。これは漏電ではない」となります。役に立ちませんね。
さて、こう書きましたが、この漏電遮断器が実際には動作する可能性も少しはあります。なぜかというとアースに繋がれているのはトランスの2次側端子Bだけではなく、さらに上流の電源についても言えることです。この場合、
(略)→電柵→動物→地面→(略)トランス2次端子Bの経路以外に、
(略)→電柵→動物→地面→地面→大元の電源の接地線→大元の電源の接地側極、
という経路でも電気が流れる可能性があるためです。実際にどういう条件だとどうなるかは面倒で計算していませんが、そっちの別ルートで十分な量の電気が流れた場合、漏電遮断器はトリップして手動復旧する必要があります。
で、さっきまで書いたのは「電気さくに漏電遮断器を直接繋いだ場合」の話です。
次はツッコミ記事の時にも少し書いた「1次側の漏電遮断器」の話です。
といっても実際に起きることは9割方「動作しない場合」と同じです。