はてなキーワード: 錯覚とは
先ず最近特に思うのは、140文字の中で@なんとかRT:だのQTだの、せっかくでっかい独り言を言うだけの場所だったのに
無理矢理な使い方に広げて行こうとしてる、という事。
twitterは「相互で」コミュニケーションする事を強要されないから、独り言の様に気易く参加出来るんですよ。
って「元々」の考えは理解出来るし、後発のコミュニケーションサービスとしてはそういった新しいパラダイムは
必要だと思うけど、相互じゃ無くて良い、言いっ放しで良い、けど、そんなでっかい独り言をせっかくだから
誰かに聞かせられる場、ってのに意味があるんだろ、その意味が「ビジネスツール」なのか
アピール下手の為の「ハードルの低い出会い系」なのかは知らないけども、どちらにしろ人を集めれなきゃ
存在する意味さえ無いし。
なら、フォローなんて考えむしろ要らないでしょ、参加して直ぐは全員のツィートが表示されているし、
(まぁさすがに読めなきゃ意味ないだろうから、表示言語圏の選択くらい出来ても良いだろうけど)
自分の発言は全員に見られる、それが何万人相手だろうが。
で、そこから見てて興味が無い独り言やウザい奴だけブロックしていけば良い。
それがメンドクサイとか使いづらいって思うのなら、つぶやきを垂れ流すサービスじゃなくて、
もっと発言や遣り取りの流れを管理して行える他のものを使う方が良いだろうし。
それなら全員コテハン前提のスレッドフロート掲示板で「>>」で発言をツリー形成して追いかけられる、
とかの方が遣り取りのし易さでも、TLの見易さでも、参加しようとする他の人が状況を把握する上でも
良いだろうに、と思えてならない。
で、何が言いたいかって言うと、結局は日本においては2chがいかにコミュニケーションの場として
完成されているか、ってのをtwitterによって意識しただけだったと。
日本では2chがコミュニティの有り様として完成し過ぎていて、それが、物珍しさが過ぎるとfacebookも
tumblerもおそらくtwitterも下火になる理由なんじゃないかな。
あれだけの参加人数が、あれだけ集中して発言しあっても、議論したければそれが可能だし、言いっ放したければ
それも可能で、混沌としてるとは言われつつも、独自の空気感や、そこから一般社会へのトレンドすら生み出せる
擬似的な一体感や、それを守ったり育てたりしていける帰属意識みたいなものを、錯覚させる事も出来る、
もうコミュニケーションの器として他のものとは比べ物にならないくらい、完成してるし、システムとしても
無理無く誰でも扱い易いって事でもある。
匿名である事が問題だとかは、個人的には、「自由で活発なコミュニケーション」の本質にとっては、重要な事だとは
とても思えないけど、ある程度の品性やmixi程度の顕名性が必要とされるのなら、単にスレッド式掲示板に、
ID登録を必要とさせてプロフィールページがあれば良いだけなんだし。
マーケティング媒体としては、失敗したセカンドライフや、すぐ炎上する扱いにくいブログを絡ませるより、ハードル低くて
利用し易そう、って流れが出来たらもう終わりは近いでしょ。
大学生だった頃、ぼくはかなりとんがったやつだったと思う。
とんがるといってもとても格好いいとはいえないとんがりかたで、世界を敵にまわしているような、一人で戦争をしているような、敵意を剥き出しにして斜に構えるような、そんな生意気ながきだった。
自分の好きなものだけに触れて、世の中間違っていると言い張った。
作り出される自分のアイデアが、とても素晴らしいもののように思えて、それだけに夢中になってあれこれと作った。
ハードボイルドの主人公のように両肩で風を切って、ギャングのように何か面白いものはないかと物色しているような、そんなたぶん二十歳ぐらいの自分を思い出すとなにか冷や汗が出るような気がし、その一方で、なかなかに冴えていたなとも思う。一切を閉ざしてしまって、自分だけの世界に閉じこもって、世の中のものをせっせと自分の世界に取り込んでいたような気がする。
ほとんど誰とも話さずに過ごし、たぶん話していてもかなり機械的な反応しかできなかったと思う。その頃のメールの下書きのテキストが残っていて、それを読むと、官僚的というかガチガチな隙のない文章を書いていて、なんだこいつはサイボーグみたいな文章を書くやつだと、なつかしくなって笑ってしまう。
その文章の中にいる二十歳のぼくはいつも完全武装なのだ。
そんなことになってしまったのは大学一年の頃に起こった事故のせいで、ある事件をきっかけにぼくは人間というものが信じられなくなり、社会を敵にまわすようになった。数ヶ月は立ち直れず、それでも本を読んでいるうちにだいぶ立ち直っていき、読書欲に駆られながら読みふけるうちに、復帰していた。
好んで読んだのはハードボイルド。
チャンドラーとか、ジャック・ヒンギスとか、ギャビン・ライアルとか。
ハードボイルドを読む人なら、この手の小説が汚れきった社会を渡り歩く勇気(社会に絶望していたのでそういう勇気を必要としていた)をもたらしたこともわかりやすいと思う。ぼくはあろう事か、ギャングや、探偵や、元軍人や、スパイに社会との渡り合いかたを教わってしまい、いつも鞄のなかには拳銃が入っているようなそんな心地で、復帰していったのだ。
それは今からしてみれば、常時戦場にいるような緊張感で、そんな状態でまともな会話など出来るはずもないし、たぶんしても鋭すぎる態度で、相手を居心地悪くさせてしまっただろううと思う。それでもギャングだが、探偵だか、スパイだか、元軍人気取りのぼくは、そんな完全武装であちこちを歩き回り、あれこれと色々作って、仲間に見せたりしていた。
それは今から見ても、あの頃に作ったものはすごかったと思うほどで、錯覚ではあるのだけど、本当にたったひとりで世界を相手に戦っていたのだと思うし、シャープで甘えがなく、手を切りそうなほどの切れ味あるものたちを作っていたのだと思う。
だから、こう言いたい。
完全武装の時代もそんなに悪い時代じゃなかったって。
その当時にどのように世の中と接していたかと言われて、ふと思い出した言葉がある。
著名なSF小説「ニューロマンサー」の続編「モナリザ・オーバードライブ」の解説にその言葉はあって、それらの作品を評して「鏡に覆われた(ミラーシャーデッド)表層」と言っている。
この感覚。
ガラス越しという言葉があるのだけど、それよりもシャープな感じで、こちらの表情が見えないようにスモークガラスで覆っている感覚。そして、社会もスモークガラスに覆われていて、お互いが冷たく冷淡で、それが日々すれ違っているのだけど、完全に別け隔てられている。
あちこちのバイトを短期でまわって、世の中のいろいろな風景をスパイしながら(そういうつもりだった)、いろいろに世の中の仕組みを知っていくようになった。会話をしなければならないところでは当たり障りのない、そしておそらくかなり素っ気ない会話を交わし、とても冷淡にその体験だけを盗んでいくスパイのように働いていた。
もちろん、その短期バイトをあちこち回ったことが、のちのちまともに社会に出て、効率的な現場のまわしかたみたいなところでとても大きく効いてくることになったのだけれども、誰もが短期なだけにコミュニケーションらしいものは皆無で、煙草を吸いにいってせっかく話す機会があっても、他の誰かがはなしているのを聞いているだけという、なんという非コミュ。
あの当時のぼくはとてもプライドが高く、口を開くにしてもなにか高級な事を言わなければと思っていたように思う。例えばハードボイルドの主人公のようなセリフなど、いま思えば、現場にまったく必要のない言葉以外話したくなかったのであるが、結局の所それは自分の我が儘で、自分の価値観以外のコミュニケーションを仕事場でさえしたくない、もしくはそれをしなくて良いようアンドロイドのように、時間貸しのロボットのように、ただ効率的に現場をまわすにはどう動けばいいか、だけを考えていたように思えてくる。
ボトルネックを事前に発見して、誰も気づかないうちにそれを埋めていく、それで今日の作業は30%ぐらい効率化できたと悦にいる。そんな毎日。それはリアルシュミレーションゲームのように思えていたし、コミュニケーションなどなくとも、出来る遊びではあった(そしてこの経験はのちのち凄まじい威力を誇った)。
しかし、その当時のぼくはやはりゲーム感覚で、いつでもスイッチを切ってさよならできる現場でしかなく、ミラーシャーデッドどころか、液晶パネルの中の駒でしかなかったのかもしれないと思ってしまう。
そんな事をしているうちに、交通誘導の仕事をやってみることにした。
これは簡単に言えば、工事現場に立っている警備員で、たぶんやってみないとわからないが世の中の潤滑油的な仕事である。仮設の信号機でいいのではないかと言われれば、まあ、そうかもなのだけど、ぼくはその辺の議論はどうでもいいし、もう交通誘導をするはずもないので、あんまり関係がない。
で、いきなりやってくるのは、研修。
法定で4日だったかの研修が義務づけられているとかで、ひたすらに、交通誘導がどんな仕事かをたたき込まれる。そこで言われるのは、ひたすらに危機対応、そして、顧客である工事現場の人たちを守るか。酔っぱらい運転で工事現場につっこんでくる車から顧客を守るのが、交通誘導の第一の責務だとか何とか。まあ、ねえ、顧客だからねえ。
そうやって始めてみるしょっぱなに言われた。
「あれさ、お互い遠くに立ってるじゃない。互いに孤独で。8時間とか、12時間とか。そうするとね、話せないから、上手くいかないと不満がたまってどんどん上手くいかなくなるんだ。そうするとたいへんだよ。向こうはぷりぷり怒ってさ」
これはチームワークなのだと、コミュニケーションなのだと、ぼくはあなたのことを信頼していますと伝える事が重要なのだ。あなたが怒らないように、要らぬ誤解を抱かないように、あなたがぼくが心配ないというシグナリングをしなければならないんだって、あの赤く光る棒を振りながら、ずっと伝えなければならないんだと、それはプレッシャーだったのではあるのだけど、それまでの自分とは違うことが価値があるのだということを、思い知らされた事ではある。
交通誘導に業務効率化する要素などなく、どうやってチームワークをよくしていくか以外に改善点はない。そういう意味では完全コミュな仕事であり、ぼくはあんまり自信がなかった。
それが初めての集合で、煙草を吸っていて結構くせがありそうな人に言われた。
ぼくは、どれだけハードボイルドな世界でショートピースが標準か語りたかった。
「香りがいいんです。それでくせになっちゃって」
「どれ、吸わせてよ。うわ、きつ、なにこれ」
その人は笑う。
「缶で吸ってたときもあるんです。あのときは肺に穴が開いたのがわかりました」
ぼくはきっと「ショートピース野郎」と記憶されたことだろう。それでもその瞬間に、ミラーシャーデッドが融けたのを感じた。ぼくの世界に入ってくる人がいた。確かにさりげないのだけれども、それで勇気づけられたのは確かだ。
そういう感じ。
その瞬間に、一緒に仕事をする人々の世界観もわからないとと思って、一瞬にしてぼくのミラーグラスは破壊された。
同じ人と同じ現場になって、その頃はきつい両切り(ショートピース)はやめていて、もうすこし穏健なロングピースになっていたけれども、その人は、仕事が終わってヘルメットを長時間かぶっていたせいで髪型がめちゃくちゃになっていたけれども帽子をかぶって、自転車に乗る。
そういって、現場から明るくたちさる。
あの職場で、いろいろな人々と、その職場を暖かくする事にどれだけ尽くしただろうか。誰もがその底辺で生活しているわけだし、いつの間にか、それは自分の片足だけつっこんだ居場所になりかけていた。世界がガラス越しではなくなったのこの職場だったし、それはなにか守らなければならない暖かいチームワークの場所だった。
底辺などというべからず。
その後の十年近いキャリアを通しても、素晴らしいチームワークだったと断言できるし、この1/5000ぐらいの荒涼とした、無生産な現場は大量に見てるし、基本的に言えるのは底辺ほど効率的で、上層ほど無能であるということだ。のぼるほど無能になっていく。
機能不全とすべての罪は上層にあるのだけど、わかっているか。
ちょっと言い過ぎた。
ぼくが言いたいのは、底辺を経験してすばらしく暖かく機能的で、ここは問題がまったくない、ということなのだ。ここには何の問題もない。すばらしい経験だった。ぼくの非コミュも解けた。
貴族趣味なぼくは結局ほぐされて、そして紹介で別の職場に入ることになる。
本格的な就職に近い形で、人事のトップに笑われる。
「いや、こんな真っ白な履歴書を見るのは初めて」
その履歴書は真っ白だろうか?
数こと話すと人事の最高責任者は頷く。
じゃあ、採用するけど、明日からちゃんときてね。
配属されたのは実務の最精鋭部隊が集まっている部署で、そこで、笑い合いながら、冗談を言いながら、学びながら、いろいろ効率的なオペレーションを学んだ気がする。それで、特別なプロジェクトが立ち上がって、それにたったひとりで派遣されて、その現場監督(ただし、実権はまったくなし。不安にさせるな)で、まったく見知らぬコミュニティーにぶち込まれる。
「山崎まさよしさんに似てますよね、雰囲気だけ」
「あー、そう言われたのは初めてで」
(ブルースは好きなんだけどねえ…)
そうやって、あ、これで大丈夫なんだ、これで上手くいくのだと、そう安心した。
俺、最近「アバター」って映画を見たんだけど、例えばこれから先地球とは別の惑星に人間を送り込む、移民せざるを得ない状況になったら、「原住民」の意思はある程度無視した上で「国益のために」惑星開発を進めることはままありえるように思うんだ。だって、原住民としてナヴィみたいな生物がいたとして、通常人間と同じものとみなせないじゃん。グレイス博士とかキチガイはナヴィは人間と同じ何かと錯覚するかもだけど、どう考えたってナヴィたちは人類に対する障害でしかないじゃん。
それを、歴史上の観点からみれば結果的に「侵略」となるのかもしれないけど、それがないと国は発展しなかったわけじゃん。おままごとでどいてくれるように説得しても無駄じゃん。ブルドーザーで均すのが手っ取り早いじゃん。アバター面白いじゃん。
まあ、あれだよ。いづれにせよ、地球規模で物事を考えすぎないことだよ。何事にも例外はある。
そいつは義務感からそう錯覚していただけで、実際はそいつが休めば他の誰かがそのポストに割り当てられる予定、になってると信じたい。
なんか、階段上ってる時も降りてるときも思うんですけど
これアレじゃないですか?
ずっと足元見てると次どっちの足だすかわかんなくなりません?
なりますよね?それでハッとして足をとめて、ヨシ右足からいこうって。
一回呼吸整えるみたいな。たまになる?ですよね。
あ、でも待って、さっき右足が左足に追いついたから次左足かなって
どっちでもいいか、いやでも見てる人いたらアレあの人左足二回連続で出してるしキモイ
みたいになるかもしれない、自意識過剰ですか、でもそこで呼吸整えるために止まってたら
目立っちゃうと思うんですよ。
なにこいつウンコ我慢してるんじゃないのみたいになるかもしれないし、
そうこうしてるうちにとりあえず焦って左足だしたら左手も同時に出て
飛天御剣流のアレみたいになるかもしれない、
考えろ僕、よし、次は右足と左手だ、ってなるまで若干10秒近く掛かるワケです。
まぁ止まったときは周りにとってちょっと邪魔でうざい程度のもんですけど
そうじゃない場合怖いじゃないですか、ていうか実際学生のときに
踏み外して転落したことがあるんですよ。
その日も丁度雨で、下ってる時だったんですけど、
背中打ちながら5段くらい落ちて、息できなくなって仰向けでハァハァ言ってたら
小汚いおっさんにケタケタ笑われて、まじで苦しいから目とか鼻から多様な汁が
垂れてきて、雨と混ざってべちょべちょのその顔をそのおっさんが覗き込んできて
「どないしたんや?」とか言われるし
もう背中強打すると息ができないから、言葉もだせなくて、大丈夫ですとも
僕のことはほっといてよ!とも言えないし、ただただ観察される屈辱に打ちひしがれて
こいつ鼻水ハンパねぇ……みたいな、ちょっとまって、半分雨だから
コレ全部鼻水じゃないからむしろ9割雨だからコレとか言い訳したいのにですよ。
雨で床が濡れてたから、背中はずぶ濡れだしで
最悪ですよ。頭を打たなかっただけマシですけどね。それ以来怖くて。
しかもほらこれ、僕眼鏡かけてるじゃないですか、稲垣さんも眼鏡かけてますよね、
眼鏡と裸眼の間に隙間があるから、眼鏡のレンズから覗く階段と、
この世には2種類の階段があって、眼鏡から覗く階段と裸眼から覗く階段が
あるわけですよ。
メガネをかけてる僕達は、メガネの隙間から二つのある意味異なった階段を
同時に見ることになってその錯覚で足元が覚束なくなったりするワケです。
これちょっと大げさだけど経験あるはずですよ。
ぼやけた階段と鮮明に見える階段が見えてどっちも微妙に違う遠近感に戸惑って
どれくらい足だせばいいのかなって悩んでるうちに
一つのことしか考えられない頭だから、シングルコアだから、次どっちの足だすか忘れちゃって
立ち往生みたいな最悪の結果がですね。だからエレベーター使います。
http://anond.hatelabo.jp/20100121011555
元増田です。
結論を見ると、元増田と異なっている。
ご紹介頂いた論文の最初の文章をご覧下さい。
"Since the 1980s, a widespread view has arisen in the literature that the post-1950 economic successes of Taiwan and the Republic of Korea have been due, in part at least, to the legacy of Japanese colonialism."
とありますよね。現在進行形で記述されている以上、「1950年以降の台湾と韓国の経済的成功は、少なくとも部分的には、日本の植民地政策の遺産に依っている」という説は、30年間にわたって、そして現在も、「広く知られた見解」なのです。もしこの見解が実際にはマイナーなものに過ぎず、私の恣意的な選択によってあたかも広く受け入れられているかのように錯覚させているだけだと思われるのであれば、是非その根拠をお聞かせ頂きたいと思います。私は紹介した論文以外にもいくつかの論文のliterature reviewを参照していますが(議論の大枠をつかむにはこれが一番手っ取り早い)、この見解が学界で広く受け入れられているものであることを疑わせるような記述はただの一つも見つかりませんでした。A Boothの論文も、「歴史修正主義者」の見解がどのようにして学界で広まり、議論が深められていったかを丁寧に説明していますよね。この最初の数段落はサーベイとして良くまとまっていると思いますので、是非ご一読ください。
もちろん、この見解には反論も提出されています。私の最初のエントリーで紹介したHaggard, Kang and Moon (1997)がそれです。ですが、Haggard, Kang and Moonの論文が世に出て10年以上、依然として彼らが異を唱えた見解は広く受け入れられていることはBooth自身が指摘しているわけで、彼らの反論が受け入れられなかったことは明らかです。Boothの論文はまだ発表されて3年ですので、この論文の影響を測るのは難しいですが、比較的似たKimura (2005, JEH)の論文(前のエントリーで紹介済み)と比べて、発表されたジャーナルの格が全く違います(主観的な感想をお許し願えれば、論文自体の説得力もKimura, 2005が遥かに上であると思います)。現時点で、門外漢がどちらを信じるべきかと考えた場合には、やはり学界の多数派であり、多くの一流ジャーナルにアクセプトされている「歴史修正主義者」側の見解を採るほうが客観的でフェアな選択であると思います。少なくとも、「自分の政治的な意見にとって都合のいい方だけを信じる」という、安易な選択よりは遥かに望ましいでしょう。
私自身もブログは持っていますが、この手の話を書くと、議論の内容ではなく、「自分の意見の味方であるか敵であるか」だけに注目して妙な感情論を投げてくる人が多いので、政治宗教プロ野球の話は原則として益田を使うことにしています。妙に興奮した感情論にいちいち答えるのは疲れますから。
また、この件で匿名で書くか実名か、またはペンネーム(id)を使うかが何か重要な違いをもたらす理由が良く分かりません。重要なのはプリンストンのKohliやイェールのReymonds、またはご紹介いただいたSOASのBoothが口をそろえて指摘する、「1950年以降の台湾と韓国の経済的成功は、少なくとも部分的には、日本の植民地政策の遺産に依っている」という見解が広く受け入れられている、ということを信じるかどうかであって、私の個人的見解は披瀝してもいませんし、信じてほしいとも思っていません。
若干突き放した書き方をしますと、あそこまで書いても、中身も読まずに「検討に値しない」とか言ってしまう人は、私が想定する読み手ではないのです。(こういう放言が出来るのも増田のメリットと言えるかもしれませんね。)
【IT】深刻な情報処理技術者の不足、社会基盤を支える人材の育成を急げ--東洋経済 [01/14]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1263458599/
1 名前:ライトスタッフ◎φ ★[] 投稿日:2010/01/14(木) 17:43:19 ID:???
賛否両論の渦巻いた事業仕分けの中でもとりわけ注目を集めたのが次世代スーパー
コンピュータだろう。学界、産業界からの強い反発を受けて、鳩山首相から
「凍結見直し」が示唆されたが、現政権の国家戦略・百年の計のなさをはしなくも
露呈する結果となった。
民主党のマニフェストにも「科学技術の育成」はうたわれている。しかしターゲットが
不明なうえ、育成のために何をすべきかすらもまったく見えない。政策の骨格が見えず、
予算削減という目先の目的一つで政策自体がぐらつく。この政権に対する産業界の
不信は根深い。
開発が中断し、ロードマップが途切れると、その遅れは二度と取り戻せない。単にその
期間分の遅れにとどまらない。産官学の共同研究は、いったん解体されると二度と同じ
メンバーを集められない。
さらに、スーパーコンピュータ開発の遅れは、他分野の研究にも多大な影響を及ぼす。
医療、宇宙、気象など、さまざまな分野での解析・シミュレーションに不可欠な
インフラだからだ。インフラが脆弱では、世界のトップをうんぬんする以前の話で、
国際競争の中で生き残ることすら難しい。
資源の乏しいわが国にとって、唯一の資源は人材であり、中でも「ものづくり」を
中核とした科学技術の力は、最も期待の大きい分野といっても過言ではない。しかし
科学・技術開発のタイムスパンは長い。ハイビジョンテレビという民生技術でさえ、
技術方式が考案されてから一般に普及するまで30年の歳月を要した。量子コンピュータの
開発ロードマップも30年計画だ。長期にわたる技術開発だけに、現在の科学者、技術者
だけで終わる話ではない。研究開発の継続性を念頭に置いた、教育による人材の育成も
また、計画の中に織り込まれねばならない重要な要素だ。国家単位での長期的視点からの
下支えがなければ、企業努力だけではどうにもならない。
国の財政支援によって育成すべきは、スーパーコンピュータのような最先端技術だけ
ではない。表面的には見えにくいが、今や情報産業は経済社会のインフラというべき
重要な存在だ。資金、生産・販売、コスト、労務人事、決済に至る企業活動のすべてが
情報化され管理されている。鉄道、航空など輸送の運行制御、高速道路のETCシステム、
銀行のオンラインシステム、お財布携帯など電子マネー、自動車や家電製品の電子シス
テムなど機器の組み込みソフトに至るまで、情報産業のバックグラウンドなしに経済も
社会も生活も成立しえない。
IT産業のうちシステムやソフトウェア開発等サービス関連の市場規模は5兆円(IDC調べ)。
自動車産業の十分の一にすぎないが、重要性において他産業に決して劣るものではない。
情報処理技術者試験を管轄している独法の情報処理推進機構(IPA)の集計によれば、
情報系大学出身者の半数以上が情報産業以外に職を求めている。卒業生数自体、年間
わずか2万1000人にすぎないのに、である。一方で情報系学生の新卒求人は情報産業と
※続く
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100114-00000000-toyo-bus_all
686 名前:名刺は切らしておりまして[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 01:25:53 ID:rK1wYYKs
ピンポンパンポ~ン 定期的にお知らせします。
143 名前:名刺は切らしておりまして[sage] 投稿日:2010/01/14(木) 20:42:03 ID:J4ojKbk3
だからさぁ、不足してるのは人材じゃなくて新卒の間違い。これがFA。
320 名前:名無しさん@毎日が日曜日[] 投稿日:2009/11/17(火) 14:23:09 ID:XvIqWccI
一般的に人事部ではそう呼ぶ。
(中略)
はっきり言ってしまえば、殆どの企業で「既卒者は門前払い」となる。
それは、本人の学歴がどんなに素晴らしくても変わらない。
「計50社ぐらいは送りましたね。履歴書と送料で3万円は払ったかな」
近藤君は28歳のフリーターだ。現在は都内で進学塾講師のバイトをしながら暮らしている。
月収は15万円ほど。家賃が6万だから、けして楽な暮らしではない。
(中略)
「ネットや企業の就職説明会でエントリーしても、その後なかなか呼び出されないんです。
でも、ネットで調べてみると同じ時にエントリーした人は内定を貰っている。
10社以上回ってみてからですね、ようやく変だな、と思ったのは」
私自身、人事部に配属されて最初にやった仕事は、新卒応募者の中に紛れ込んでいる
取り除けた履歴書は、オフィスの隅の箱に入れられたまま、二度と人の目にすることは無かった。
・出典
これは記事の文脈を読めば気付くはずですが、皆さんはボケでレスされていることと思います。
奴隷が不足してるってことだろ?というのも違います。
下っ端の奴隷はむしろ余ってるので言及する必要すらないだけです。
本当に高度な技術者はITに限らず育成で何とかなるものではないので、やはり言及なしでしょう。
新卒が不足すると困る理由は、大手IT企業が年功序列を維持できないからです。
そして肝心の、新卒不足の理由は>>116、キャリア・パスに全く希望・魅力が無いということです。
ちなみに実質人材余りの理由は>>294の後半。これが奴隷化への意図的な布石の意図まであったとしたら悪魔的戦略でしょう。
116 名前:名刺は切らしておりまして[sage] 投稿日:2010/01/14(木) 19:20:32 ID:J4ojKbk3
262 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/12/17(木) 01:34:58 ID:Lf+iFfjd0
IT系の会社は、社員がある程度歳を取ったら 『自発的に』 辞めてくれるような環境を作る。
みんな 『愛想を尽かせて』 辞めたり、『仕事が苦痛になって』 辞めたりするんだけど、これ実は会社の意向なのよね。
この手の会社は平均年齢を若く保たないと駄目だから。
IT系は若い頃は他の業種より多少収入がいいんだけど、 これ実は未来の自分の財布から(不効率な方法で)現金をくすねているだけに過ぎない。
会社に残る 中小ITに転職 零細ITに転職 異業種に転向 独立開業 無職
35歳 40人 20人 10人 20人 5人 5人
40歳 20人 15人 20人 30人 5人 10人
45歳 15人 10人 15人 40人 10人 15人
50歳 10人 5人 10人 65人 10人 10人
定年 5人 0人 0人 75人 10人 10人
IT業界20年の俺が見た所、人数の推移はこんな感じ。
加えて言うなら、定年まで会社に残れる5人の中に、経営者の親族が3人くらいは入っているw
残りはほとんど未経験の異業種で恐ろしく低賃金で働かざるを得ない人生の負け組として人生を終える事になる。
若い頃のプログラミングは楽しいものだが、それを仕事にしてしまうと、かなりの高確率で負け組が確定する。
この業界に入るなら、能力が上位1割(独立開業できるライン)に入る自信がなければ止めといた方がいい。
270 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/12/17(木) 01:43:12 ID:ZfD4e96GO
262の言う通りだべ。何か読んだが、ITは30までに管理職になれないと辞めさせられる環境らしいしな。
342 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 03:37:05 ID:miR7gPpU0
本当はアメリカと比べたくないけど、アメリカの場合は職種が専門家されていて、デベロッパー(あえてプログラマと書かない)だったらデベロッパーとして、ITプロとしてだったらITプロとして食べていけるけ。
日本の場合は、管理職にならないと給料が上がらない仕組みだから、ある程度の年齢になると、希望する/しないに関わらず管理職にならざるを得ない。(それが嫌なら独立するか)
これが日本にIT職が根付かない理由だと、個人的には思っているんだけど。
↑↑↑
294 名前:名刺は切らしておりまして[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 04:39:15 ID:5gPqY2Sw
>>160,167,226
>>172,206,228
その通りなんだろうが、記事の文脈では人材不足じゃなくて新卒不足を言ってますw
ピンって1割って意味だったらしいよw
1割ならすっごくすっごく良心的
165 名前:名無しさん@毎日が日曜日[sage] 投稿日:2009/10/26(月) 20:13:06 ID:/5Ruvz1N
ほんの少し前まで未経験30男を採用する企業が実際にあったのよ
ブラック限定だったけど
で、その頃の情報がネットに飛び交ってるし、職安の馬鹿職員共の頭にもこびりついてて、
こいつらは職安でその当時の情報を吹き込まれてるわけ・・でそれを鵜呑みにしちゃってるの
何故ITは一時的に極度の人手不足になったのか?
それは急激にIT化が進んだ為であり、あくまで一時的に人が大量に必要になった為。
今はIT化の波が一段落して逆に人余りの状況になっている。
そして、その人余りの状況に、この大不況がぶつかってしまった。
だから仮に何年先かわからないが、景気がよくなっても、残念ならITの需要はかつてのようには増えることはない。
そして人余りの状況に変わりはない。当然、30代の未経験者が仕事にありつけることはない。
457 名前:非決定性名無しさん[sage] 投稿日:2009/10/27(火) 00:40:22
顧客にものすごく工数がかかると錯覚させるのが元請けの戦略なんだよ
100人規模のプロジェクトで本当に必要な人材は上位20人のみ
他80人はいてもいなくても関係ない人材だからね
これで1人月100~200万×100人を顧客に請求していたわけ
その他80人に対して50~100万×80人を払えば差分は丸儲けの仕組みだったんだよ
このその他80人を埋めるための人材を提供していたのがIT人売りと言われる企業
スキルあろうがなかろうがどっちでもいいから未経験でも受け入れてもらえてたんだよ
466 名前:非決定性名無しさん[] 投稿日:2009/10/27(火) 07:56:43
多重下請構造の生み出した、無駄と無駄のヒダの間で生きていたのが、人売り会社とフリー
業界がスリム化して、入り込む隙間が小さくなれば、そりゃ生き残れる奴は少なくなる
でもこれが本来の姿
二度と戻る事はない
奴隷から抜け出せない現象は、手配師やタコ部屋、“型にはめる”などのヤクザの手法が応用されているかもしれませんね。
一見カオスですが、不完全情報ゲーム下での均衡状態の一つなような気がしますが如何でしょうか。
IT業界に限らない日本低迷の理由は、硬直した年功序列+新卒至上主義+ピーターの法則、一段階正義のパターナリズム、そして>>273ではないでしょうか。
273 名前:名刺は切らしておりまして[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 03:36:03 ID:PYTcTri7
下級将校は熱狂的に戦う。
しかし、将軍は無能である。
特に金モールを吊った高級将校は低能としか いいようがない。」
以上、詳細は引用先をご参照ください。 ピンポンパンポ~ン。
ここしばらく流行ったはてな「強姦語り」ブームもようやく沈静化の兆し。
わたしは正直デートレイプとか、リア充同士のちちくりあいの類はどうでもよいのだが、しかし男女の認識のすれちがいの方には興味があるのだ。
女はなぜこんなにも「性的被害について訴えたがるのか」という事(正直うるさい)。
しかしこれは逆に考えると、なぜ「男は性的被害について語らないのか」ということでもあると、ふと思った。
男の場合、「性被害は身体的暴力の一種」として認識処理する(ことが可能)。女は「身体的暴力を性的被害」と認識する(ことが可能)。
男と女の性のありかたの違いは大きい。(略)
乱暴を承知で言えば「男はすべて変態」である。
性倒錯者の場合、性欲という単純かつ原始的な衝動が性行動に結びつかない。
性欲から派生した妄想に固着して、女性との「直接対決」(恋愛)から逃げている。
こうしたところは多かれ少なかれ、どんな男にもある。
では女性はどうかということになるが、性行為そのものから逃げる必要を、男ほど
感じていないようにみえる。男の性器は見えやすいから、性欲がそこに局在していると
女性は違う。全身が性欲と関連していて、生活そのものの中に性行為が組み込まれている。
化粧も衣装選びも、それらを買うことも、装って街を歩くことも性行為だから、妄想している暇もない。
(略)
ふーむ。なるほど精神科医うぜえ、と思ったがそういえば「虎井 まさ衛」とかいうひとが、
「女から男になったら体がゴムにつつまれたようで性感がなくなった」とかなんとか言ってたな。
意外とよく聞く話なのか。
まあなんだ、つまり女の体はズルムケチンコのようなもので、触ると性暴力なので困るということである。ということにしとく。
(男のヤンキーの場合「肩にぶつかっといて、あいさつないんか〜」となる)
だから女が「強姦強姦」うるさいのは、まあ、いじめられっこが多いはてなだし、
「はてなで男がリンチや暴力的ないじめ被害を切実に訴えている」のと同様に捉えれば、ボンクラ男でも構造は理解できるのかもしれないと思った。
逆に女は暴力によって潰された男にもうちょっと、気を配って欲しいが・・・
フェミ女にとって男同士の暴力なんて、性暴力(=自分たち女にとっての暴力)にくらべればどうでもいいことなのかもな。
他に書くことがあるな・・・ああそうそう、なぜ男が「性的であることから逃げるのか」ということか。
で「女が性的であること。(これ「卵が先か鶏か」というのもよく考える。)」ここがすれ違いのポイントなのかもしれない。
5年もブクマのみだったのに久しぶりに書いて疲れた。
世の中のことを考える。希望のうなじを眺めながら、世の中のことを考える。希望のこころとからだは、どのくらいまで苛めぬいたら、死んでしまうのだろう。希望は植物人間になったり、ボケたりするのだろうか。希望のエサには、何をどのくらい与えればいいのか。ワサビや砂糖は苦手じゃないか。希望は犬派、それとも猫派? 希望はいま何歳? はじめて見た景色は? 反抗期はどうだった? 家族は何人だろう、親戚もみんな希望なの? 希望はそんなに頼りないのか。希望はそんなに強いのか。
世の中で育つ希望のために、ひとつのことにずっと関わりつづけて、生活や人生の過半を費やす人がいる。その意味を注意深く見きわめながら、僕はそういう人を敬愛し、そうさせる何かを自分ももちたいと思うことがある。鍛えられた善意や正義はよく働くのだ。
この世でとくべつ力を湧きたたせるもの、それは自分の放った言葉だと思う。言葉はいのちをつなぐ水だ。
人は錯覚する生き物だ。「彼女は左利きだ」と事実のみを言う。「でも彼女は器用だ」と返す人がいる。「だから彼女は器用だ」と返す人がいる。言葉を使うとき、錯覚のクセが現れる。悲しい錯覚はやめたのだ。錯覚が次の事実を作り出すのだから、素晴らしく美しい事実につながる錯覚を習慣づけるのだ。信念や人生信条というものも、錯覚という同じ機能を善用したものである。
何かを買うとき、「ありがとう」と声をかける習慣を作った。これは気持ちがいい。次は、「いただいます」「ごちそうさま」の習慣を、しないと気持ちが落ち着かないくらいに習慣化させたい。
http://anond.hatelabo.jp/20091229033756
率直に言って、かなり内容が掴みにくい叙情詩的な文章です。それ自体が心の疲れを物語っているようです。一晩眠って気持ちも少しは落ち着かれているといいのですが。
考えの手助けになるかどうかわかりませんけれど、自分が読み取ったことを整理してみます。
(ここからは推測)
増田にとって、何が心を悩ませている問題なのか?
どうなれば解決したことになるのか?
では、増田はどうしたいのか?
ここからは自分語りです。今現在の自分がどのように考えているのか、記憶に留めておきたくなったので書いてしまいます。
母親、というよりも異性の親のうざったさについては、ある程度(日本人の?)普遍的な感覚なのかもしれないなあと漠然と感じています。書かれていない部分で本当はもっと深刻なのかもしれませんが、程度は違えど自分の経験とも重なる描写があって、場面をリアルに想像し共感している自分がいました。学生だった頃は、例年一週間程度の予定で里帰りをしていたものの、三日目で母親の過干渉に耐えられなくなり予定を繰り上げて家を離れることの繰り返しでした(同じように予定を繰り上げて戻って来る友人も毎年必ずいたものです)。現状の自分が一番指摘されたくない点を、一番嫌らしくネガティブで恩着せがましい言い方で、気を緩めてまさにリラックスしようとしているタイミングで、ピンポイントに放り込んでくるあの間の悪さはどうすれば身に付くものなのだろうと、この話題に関してだけは、全く趣味も嗜好も合わない兄弟が意気投合してしまいます。それでも年々、僅かずつですが、同居していた頃に比べて、両親への敬意も高まっていることに気付かされます。その気持ちに加えて、年とともに少しずつ年長者や過干渉へのいなし方も習得しつつあり、以前よりは耐えられるようになってきました。それでも、最終的には親子であるという事実からは逃れられないのだろうなと薄々察している今日この頃です。親が子を憂う心理も、支持や共感を求める心理も、子は常に自分の味方であるという誤解も、子は常に親の助けを必要としているという錯覚も、親である限りきっと逃れられないものなのだろうと想像しています。それでも現実には変化は絶えないものです。心のどこかで皆それを徐々に受け入れていくものなのだろうと思っています。私は数年前に結婚をして、両親と接触する時間がぐん減ってしまいました。子が離れたことで両親の関係もまたそれまでとは違うものに変化している様子が伝わってきます。
結婚をして少しだけわかったことがあります。それは、子供が親に対して抱く感情(あきらめの気持ちも含めて)と、母親をパートナーとして選んだ父親の感じているものとはまた別物なのかもしれないということです。子供達と同様に父が母の言動を疎ましく思っているものと思い、それとなく同意を求める会話をしたことがあります。確かに、概ね同意はしてくれましたが、それだけではない秘めた気持ちがあるような釈然としない返事だったことを覚えています。自分達が結婚を決意するまで、そして二人で生活を始めてみてからも、互いの見解ややり方に食い違いがいくつも見えてきました。それでも、二人で向き合っていこうという覚悟があるかどうか、気持ちを打ち明け合う仕組みが作れるかどうか、そういったことを積み上げていくなかで得られる信頼というものがあるらしいと、おぼろげながら掴みつつあるところです。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51333370.html
マイルドなインフレが望ましいのは、貨幣錯覚によって実質賃金や実質債務を切り下げて企業収益を上げる効果があるからだが、それは調整コストを節約するだけで大した問題ではない。
マイルドインフレ下の貨幣錯覚は少なくともプラスの効果をもたらすが、デフレ下の貨幣錯覚はどうだろうか。素人なりに考えてみた。
賃金について考えると実質賃金の維持のためには名目賃金の引き下げが必要ということになる。しかし貨幣錯覚がある以上、名目賃金の引き下げは従業員の不満を招くことになり困難。だとすると賃下げではなく新規採用の抑制に向かうと考えられる。つまりデフレ下の貨幣錯覚は失業率(特に若年者)の増大につながるわけで、これは日本の状況にも合致していると思う。
債務の場合には貨幣錯覚以前の問題で、物価連動債以外はデフレで実質債務負担が増えるため、新規の投資を抑制することになり経済にとっては明らかにマイナスになる。
これだけの問題がある以上、
デフレ自体は善でも悪でもなく、
などというのは誤りで、デフレ問題に全力で取り組むべきだろう。
石川町の駅の前に現れた彼女は、いつものように妖精のようで、いたずらっぽい笑みを浮かべて、今日はなにをしてやろうかという顔をしている。
「待ちました?」
「ええ、15分」
そういって、2人で歩き出す。
三ヶ月前からはじまった横浜開拓計画は現在でも実行中で、2人の手には横浜市のハンディな地図が握られている。
「保土ヶ谷は失敗でしたね」
「まあ、でも石川町はかなり期待しているんです」
ぼくらのデートは、カメラ持参の街歩きが主で、それはぼくの趣味にも彼女の趣味にも合っている。毎回、駅を決めて、目星をつけて、とりあえず予定は作らずに勝手気ままに、好きなように散歩するデート。
旨そうな店があれば昼食をとり、面白そうな店があれば入り、歩き疲れたらカフェを探す。街歩きは一種の冒険で、見たことのないなにかに出会うかっこうの手段。特に横浜はそんなものに満ちあふれていて、シャッターを切るたびに増えていくすてきな思い出が、なにやら旅行記のようにさえ思えてくる。
「そういえば、飲むところ、見つけました?」
「あ、ごめん。ちょっとネットではピンと来るところなかったかなあ」
「困ります、それじゃあ」
「なんかどっかにあると思うんだよね、この辺なら」
今日のデートは、ささやかな彼女との忘年会のおまけで、一応形式的には、仕事仲間と親交を深めるための散歩だった。
しかし、彼女とのデートは悪ガキ同士の探検のようで、あれこれ目の前に現れるものを宝物でも発見したようにシャッターを切る。彼女はどちらかというと構図で切り、ぼくはどちらかというと物で切る。だから彼女は遠写が主で、ぼくは接写が主。探検が終わったあとにお互いの撮った物を付き合わせると、けっこう見ているところの違いが分かって、1度で2度おいしいような心地になる。
あれ、これ、カメラ仲間じゃないかと、そう思うときもある。
「そういえば、石川町は洋館狙いでしたよね?」
「あ、ああそう」
ぼくは地図を見る。
「撮ってみたいかも」
「じゃあ、そのように」
教会では、結婚式の真っ最中で、華やかな衣装の方々が、雑談をしている。
そういう中でそそくさと洋館目当てになるのはちょっとしゃくで、2人で手などつないでカップルですアピールなどしてみる。まあ、どう考えても、何ヶ月もふたりで散歩デートしてれば好き合っているのは否定できないのではあるが、それでも手をつないで視線が合ってしまったりすると、やっぱりそういう関係だよね、という意識が募る。
視線が気まずい。
「キスしても怒らない?」
「怒りません」
それで彼女は視線をそらして照れる。
もうキスなんて何十回もしているのに。
結局のところ、関係の飽きとはマンネリから来るというのだけど、それは、これがされて当たり前、という共通認識が構築されてからはじまるような気がするのだ。
むかしの彼女との関係は、「完全な同意」に基づいていて、その中で一番刺激が大きい、抱き合うことがすべての目的になっていた。だから、抱き合うためのデート、抱き合うための飲み会、抱き合うための日々。そんな風になってしまっては、2人の関係はマンネリになる。
結局セックスのために付き合っているのでしょう?
ほど貧しい関係はなく、その貧しさにひたすらに打ちのめされる。
だから彼女との関係はいつも揺らいでいて新鮮で、恋人のようでもあり、友人のようでもあり、同僚のようでもあり、同士のようでもある。
それなりの居酒屋を見つけて、わいわいと話し始める。
「あんまり飲まないでくださいよ」
おっと、彼女は今夜をご所望だった。
結局のところ、それがすべてになってしまうと、手をつないだ瞬間に愛撫をはじめてしまう、キスした瞬間に愛撫をはじめてしまう、もう触れ合った瞬間に、抱き合うことへのカウントダウンがはじまってしまう。
それは、とても息苦しくて、すべての女性とのつきあいが、そのためだけにあるのだとそういう錯覚に陥ってしまうのだ。ぼくは君を性的に喜ばせるためだけに存在しているのだって。
そうじゃないって、関係で示して欲しい。
身体の関係がなくても、シャッターを切り合っていれば、それで充分だって。
食事が済んで、小ぎれいなホテルの部屋を取ると、彼女は淑女から一変する。
シャワーを浴びて、裸でシーツの中で待っている彼女に向き合う。
「電気消して」
「輪郭ぐらい見えないと、上手くできない」
常夜灯を点す。
キスをして発情していないのを見て、柔らかく抱きしめる。ぎゅうと肌と肌を合わせるように。それで肌の温度が合ってくるのを確かめる。
「つめたい」
「冷え性だから」
「ぼくもそう」
可愛くチュッと頬にキスをする。くちびるで頬を愛撫するようなキス。
それで視線を合わせて、とろけ合う2人を確認する。
もう片方の頬を愛撫。瞳が潤んでくる。
髪をやさしく撫でる。もう溶け合いはじめている。
彼女との日々はそんな感じで、陶酔はあるのだけど、いつまでも、なぜか新鮮さが保たれている。曖昧な彼女との関係は、どこまでいっても曖昧で、それが、いつまでも都合よく毎日が展開される。
全部って答えはないのだろうか。
高校の頃、同級生から「お前はオタクだ」と渋い顔で認定されてから、自分はオタクなのだと何となく意識しながら生きてきた。
そのときのその子の態度、口調、表情の端々から、非難の色が滲み出ていたので、オタクとは一般的に肯定されないものなのだと感じた。
普通の女の子の生活って面倒なものだな、と思いながら大学時代を乗り切った。
そうしたら段々とオタク趣味は薄れていった。だけど消えはしなかった。だから”自分はオタク”という意識も消えなかった。
大学を卒業し、正社員じゃないにしろ社会人になり、オタク趣味が始まった中学時代の友人らと久しぶりの再会を果たした。
ちょwおまww とか、~~ですた、など、風化しつつある言葉も当然のように用いる。
自分が女ならばそこは婿じゃないのか、という突っ込みはしなかった。
伴侶にしたいと思わせるほど魅力的なキャラクターに用いる常套句のだし、
何より「俺の婿」もしくは「私の婿」じゃ語感が悪いのだろうと勝手に思うことにした。
彼女らの嫁は複数いる。好きな作品が出来ればそれだけ増える。多分半年に1回くらい増えている。
果てなく増える逆ハーレムが羨ましいことこの上ない。それだけ惹かれる人物に出会えるのは素敵なことではないだろうか。
(しかし、嫁になる基準のひとつ、そしてもっとも大きな基準を担当声優とするのは頂けない。
これは彼女らが声優オタクになった頃から思っていたのだが、担当声優があの人だからこのキャラクターが好きというのは失礼なのではないかと思う。
キャラクター自身は勿論、その作品を作った方々に対して、そして担当声優の方に対して。
「リナの声が林原さんだから、声優が同じである綾波レイが好き」と以前友人が言っていた。
どちらも作品の中で段々と魅力を増していったのに、声優が同じだから好きだという。ましてや、この2名の場合は性格がまるで違うのに)
友人の一人はこの3月まではニートのような生活をしていたが、やっぱり昔からの夢を追いたいからと言って、4月から声優の育成学校に通い始めた。
また別の友人は、パートで働きつつ、地元のイベントやmixiなどで企画されたオフ会に参加。今はダンスに情熱を燃やしているようだ。
布代に給料を費やし、寝る間も惜しんでコスプレ衣装を作り、イベントがある度にその姿を披露する友人もいる。
正直、今の私には、イベントに行く情熱すらない。欲しいゲームを買って、遊んで、感想を書き込む。それだけで精一杯だ。
このように、未だに色々と活動している友人を見ると、私はそこまでオタクではないのか、と錯覚する。
そして、自分の趣味のために生きられる友人らを羨ましくも思う。
少し前まで、私はこの友人らを、自分の未来をまともに考えない人たち、と馬鹿にして、見下していた。(自分だって同じ穴の狢のくせに)
だけど、オタクな話をする友人らは心底楽しそうだった。
私は楽しくないわけではなかったけど、彼女らほど楽しめてはいなかったのではないかと思う。
先日の忘年会の際、上司に「若いんだからもっとはっちゃけろ」と言われたが、こういうことなのだろうか。
自分の未来が怖いから、色んな勉強をするより、今楽しめることを楽しんだ方がいいのだろうか。
(だけど、今を楽しむと後悔することになるのは経験上よく分かっている)
彼女らの生き方を羨ましく思うけど、だけど私は彼女らのような生き方は出来ない。同じオタクでも。
そう考えたら、自分がとてもつまらない人間のように見えてきた。それでも今を楽しんでリスクを増やすような生き方は出来ない。
私にとってゲームを初めとするオタク趣味は、心身を癒す「ただの趣味」だけど、彼女らにとっては「生きがい」そのものだ。
私と彼女らの違いは、たぶん尊重するべき違いだ。
私がオトナのふりをして、もっと将来のことを考えなさい、というのは失礼にあたることなのだろうと思う。
帰りの電車の中で、友人の1人私に言った。
「今からでも夢を追っていいんだよね」
私は答えた。
「夢はいつから追ってもいいものだよ」
もうちょっと調べればわかるともうけどさ、その人仮面ライダーとかの特撮おたくなのよ。
ゼロ年代だとかなんとか言っているのと並列で、仮面ライダー電王のハナちゃんに俺のイマジンをぶっ掛けたいとかそういった発言をしている訳よ。
別に隠してそういう行動を行っている訳でもなく、元々の『惑星開発委員会』ってのが仮面ライダー用語なのよ。
という訳で、そのウノだかドミノだかの人って、本来は普通の女子が最も毛嫌いすべき人種であるのはその通り。
だけどなぜかよくわからないけど、ゼロ年代の色々な活動や東浩紀とのカラミが腐女子にも受けたのか、女の子のファンが存在して、しかもそれが並べてみんなメンヘルだったから「俺なぜかメンヘル女子ハントしてる」って錯覚に囚われてしまったのが件のドストレス常寛さんだろ。
あくまで皮肉気味に自称しているだけで、そういう行動を能動的にはとっていないと思われ。
http://anond.hatelabo.jp/20091212010518
一晩明けたら思いがけずブクマがついててびっくりした。
でも、ブコメにあった
>恋愛とか関係無しに自分のルールと相容れない他人のルールがあるってのを許容できず自分のルールにだけ固執したいように見える
>「この人は同じ言語を話す人間だ」と思ったのは恥ずかしいくらいに錯覚だったって話だな。
このへんがすべてのような気がする。核心が突かれた、という気がした。
後出しになるんだけど、「適当に誤魔化した」くだりは、僕は「友達はいいもんだよね」というようなことを言って、
相手には「どういう人と付き合いたいの」「もし私と貴方が付き合ったらどうかな」という話をすごく沢山された。
僕は今の関係で十分楽しいと思っていたからなんで「付き合ったら」という話をされるのか、というのが嫌だった。
http://anond.hatelabo.jp/20091212121540
確かにものすごく屁理屈っぽい短絡をしてしまったと思っています。一緒に話してて楽しかったのは間違いないのに。
「人と一緒にいることは訓練」て何かで読んだけど、こういう性分をなんとかしないと誰かといい関係を築くことはできなくなる一方だと思います
http://anond.hatelabo.jp/20091212150230
(多分)というところに、僕もなんだか勝手に親近感を抱きました。
僕も性欲は薄い、というか性欲→作業的に処理、で終わって「恋人が欲しい!」にあまり繋がらない
あと、僕はたった二人の友達のうち一人に、かつて告白されたことがある。
告白される少し前から彼に「俺は同性愛者なんじゃないかと思う」ということを相談されていて、
そのうちに「実は好きなのはお前のことだ」と泣きながら言われた。
ただ、彼はその前から友人関係にセクマイの人が多くて偏見が無く、その直前に付き合っていた人(女性)と別れる時にかなり揉めて、
ものすごい中傷を周囲に振りまかれて、他にも色々とトラブルが続いて精神的にまいっていた時期だったので、
「たぶん付き合うこともセックスすることも出来ると思うけど、
君は今女性全体が怖くなって混乱してるんじゃないか、落ち着いてからまた考えよう」ということを言った。
結局、それから少しした後に「俺はやっぱり女が好きだったよ」と笑いながら言われた。
それ以来、お互い「セックスしようと思えばできる相手」という認識をしつつも何事もなく現在まで友達付き合いが続いている。
(彼は、そのあと他の女の子と付き合いはじめて、今も同棲中。たぶん結婚するんじゃないかと彼らも周囲も思っている)
でも、なんだか今になって、「あの時も友達だと思っていた相手に恋愛感情を示されて僕は逃げ出したのではないか」と思い始めた。
「好きだ」と言われたのに「錯覚じゃないのか」と返すなんてものすごい失礼なことをしたと今更ながら
(だからそれでも友達でいてくれている彼は感謝しなくてはいけないし、有難いと改めて思った)
もう一人の友達は女の子だけど、たまに「ここで付き合っちゃえばいいのにね」みたいなことを言ったりもするけど、
互いに冗談だと分かってるのでゼミで知り合った子みたいな拒絶反応は出たことがなかった。
結局のところ、僕は自分のことをよく分かっていないのに、依怙地なのが問題なんだと思う。
という類の「ユニクロ悪玉論」は、けっこう広く支持されてるんですね。後藤田正純氏のように「安売りを規制しろ」という政治家は多く、内閣府参与になった湯浅誠氏も公然と海外移転禁止論を主張しているので、民主党もそのうち言い出すでしょう。
こういう人々が錯覚していることを証明するのは簡単です。たとえばユニクロの海外生産を禁止したら、どうなるかを考えればいい。中国の工場の賃金は日本の1/5程度らしいので、これをすべて日本で生産したら、1000円のジーンズは5000円ぐらいになるでしょう。消費者は買わなくなるので、ユニクロの売り上げは落ちます。そうすると経営が苦しくなって従業員は解雇される――これによって、いったい誰が得をするのでしょうか。
彼らの錯覚の原因は、内外価格差を「デフレ」だと思い込んでいることにあります。ユニクロが低価格で売れるのは、グローバルな相対価格の差を利用した価格競争であり、貨幣的なデフレではありません。価格競争で安い商品が勝つのは市場経済のルールであり、競争を禁止して高い商品を守ることは消費者にとって有害なばかりではなく、企業の国際競争力を弱め、最終的には日本の産業全体が沈没します。
それが今、まさに日本経済に起こっていることです。正社員の賃金が労働生産性をはるかに上回っていることが企業収益を圧迫しているのに、労働生産性に近い賃金で働く非正社員が「かわいそうだ」とメディアが騒ぎ、それを禁止しようとする。いつまでたっても国内の高賃金が正しく、新興国の低賃金が間違っているという天動説が抜けない。
残念ながら、日本政府が「正しい賃金」を決めることはできないのです。衣類のようなグローバルな商品の価格は国際的な相場で決まり、その価格で競争できない企業は退出するしかない。これは水が高いところから低いところへ流れるのと同じで、せき止める方法は保護主義だけです。今まで日本は、複雑な商慣行などの非関税障壁によってこうした水位差を巧みに守ってきましたが、その堤防が決壊したことが「価格革命」をもたらしているのです。
これをデフレと取り違えて「日銀がお札をばらまけ」などと叫んでいる人々は、日銀がユニクロの安売りを止められるとでも思っているのでしょうか。たしかに、いま起こっている価格革命は多くの企業に事業再構築を強いるもので、愉快な出来事ではありません。
しかし、かつて日本企業が欧米に低価格の自動車や電機製品を輸出したとき、彼らは同じ経験をしたのです。そのとき「貿易摩擦」を言い立てて日本からの輸出を妨害したGMは、経営破綻しました。
これまで日本が繁栄してきた最大の原因は自由貿易の拡大であり、それを元に戻すことは可能でもなく望ましくもない。むしろ日本が成長するには、新興国の関税を撤廃させる自由貿易協定(FTA)などによって輸出を拡大するとともに、現地生産によってコストを下げてグローバルな競争に勝ち残っていくしかない。競争を妨害してユニクロを非難していると、日本中の企業がGMのようになるでしょう。
「サブカル」と聞くと若者向けのちょっと尖った商品、作品と思う人が多いと思う。
たしかに、その認識に間違いはないだろう。ただし、十年以上前の話しならば、だ。
サブカルと聞いて、あなたは誰を思い浮かべるだろうか。
みうらじゅん、吉田豪、または伊集院光……だいたいこの辺の人間は必ず挙がってくる。
しかし、ちょっと考えてみてほしい。同様の質問を五年前、十年前にしてみた場合、やはり同じ名前が出てくるのではないだろうか。
もちろん、彼らの実力は本物で、ゆえに需要が高く、キャリアも長くなっている。
だが、本当にそれだけが起因と言っていいのだろうか。
はっきりと言おう。サブカルは世代交代がなされていない。雑誌を開くと何年も同じメンバーが似たような切り口でコラムを書き、書店のサブカルコーナーに行けばいつも通りのスターディングメンバーの新刊が出迎えてくれる。
その原因はめぼしい新人が現れないだとかいったことが理由ではない。もっと内部に醜く捻れた構造が眠っているのだと、私は思う。
そもそもサブカルは主流文化に馴染めないエッヂな(悪く言えばひねくれた)人間が集まって形成されたものである。既存文化ではカテゴライズできない魅力を求めた人々が消費していたのだ。
しかし、いつしか本来既存からはみ出していたはずのそれらを、「サブカル」とパッケージングし、売り始めることになる。
そして、そのパッケージングされた商品を、個性尊重教育で「他人と変わっていなければいけない」という強迫観念にかられた人々が、「個性」を買うために手にし始めるのだ。
カルチャー誌もそれを後押しする。ロリータの作者、ナボコフは「広告はその商品を買えば、あたかも購入者が高貴な存在になれるかのように錯覚させる」と言い放ったが、彼らも「サブカル」のカタログに載っている商品のどれかを買えば、自らも個性的になれると錯覚していると思われる。
彼らの目的は自分の趣味を追求することでも、なにか新しいものを創造したりすることでも、見つけ出したりすることでもない。「自分は個性的」と安心したいだけなのである。孤立を覚悟してでも自らの感性を信じきっていた先人とは大違いだ。
さらに最悪なことにこのような人間は「クリエイター病」を併発している可能性が高い。「クリエイター病」とは、なにかモノづくりの現場に関わり、有名人と交流することこそが人生最良の道であり、クリエイター系の仕事についてない人間はすべて挫折し夢敗れた落ち武者で、毎日布団のホゾを噛みながら恨み言を呟くような悲惨で陰湿な生活を送っているに違いないと思い込むことである。
個性を金で買うようなクリエイター病羅患者が制作側に回るとどうなるか。それがいま現状起こっているような世代交代がまったく進まない世界、というわけである。
彼らのやりたいことは新しいものを見つけ出すことではないため、既存の「個性的」と烙印の押された人物に、自らのプライドを満たすために仕事を依頼することになる。その結果がどこを見ても「みうらじゅん」状態を作る。そして、サブカルは予定調和で満たされる。
みうらじゅんを使えばOK。ボンクラっぽいことを書けばOK。童貞って言えばOK。すべて約束事で構成されているくせに、あたかもエッジであるかのように気取る。
もちろん、そんなことをやっていると感性の鋭い人間は当然そっぽを向く。雑誌を買わなくなり、ネットなどを使って自分の足で本物を追い求めるようになる。それがスタジオボイス廃刊のカラクリである。
同じ人間を使って同じようなことを繰り返した結果、サブカルは特定の世代にしか相手にされていない中年文化へと成り下がった。まずはそれを認めるところから始めよう。このままじゃゲートボールや盆栽と同じになってしまう。
「私、サブカル好きなんです」と宣言し、オーケンと絡んだりしているアイドルのなんとどん臭いことか。サブカル好きと見られたいがためにサブカルとパッケージングされているオーケンの商品を買ったでしょう?
ソラニンの実写映画の主題歌を、アジアンカンフージェネレーションが担当すると聞いて「えっ!?」って思った人がいたかい? みんな「ああ、やっぱり」って思ったはずだ。本当のサブカルは、そんな予定調和から遠く離れたところにあるはずなんだよ。