はてなキーワード: 駄々とは
以下ははてな等で行われる「私モテ」に関する想定問題集と推奨される回答。
1. もこっちのキャラ造形は「泉こなた」を連想させる。オタクキャラであったこなたと同様にオタクはもこっちに自己投影している。オタクの自己愛が駄々漏れである。幼児的だ。未成熟だ。許されない。このような作品を見ているオタクは成熟するべきだ。
2. 私モテの主人公の内面は男オタクである。しかし外面は女性として描かれている。つまり喪女を消費して搾取している。私モテは男性オタクによる性消費である。このような作品を見ているオタクはジェンダー的に正しくない。差別者であり政治的に許されない。自己反省をするべきだ。
3. 私モテは女性性を搾取している。女性へのヘイトスピーチである。このような作品が作られているのが日本のオタク文化の構造的問題である。慰安婦問題にも通じる構造である。差別的社会構造に加担するオタクは許されない。自省するべきである。ジェンダーについての勉強が足りない。反省が足りない。差別的社会構造を野放しにしているどころか無邪気に構造から産出された差別的偏見的抑圧的作品を消費することで構造の強化に加担しているオタクに表現規制に反対する権利はない。オタクの自省の無さが橋本と石原を産んだ。反表現規制は笑うべき論だ。
4. モテない男が空想の中で女性に自己投影をしている。これは女性の女性性を消費する行為だ。更にはトランスジェンダーに対する差別でもある。現実で努力とリスクを負うこと無く空想を愉しむ行為は自らの男性性からの逃避である。男性が持つ加害性に対する自省が足りない。市民社会の一因として男性の加害性に向き合い男性としての自覚を新たにせよ。それが男性として生きる道である。それが男性としての責任である。男性性からの逃避は許されない。お前は男だ。男としての自省が足りない。男として生きろ。男の責務を忘れるな。お前は女ではない。お前は女にはなれない。染色体から逃げるな。男性ジェンダーから目を背けるな。逃避するな。空想に逃げるな。男の義務を果たせ。現実と戦え。
5. 非モテ男という自らの現実を空想で女性に投影している。自傷的自己愛に耽溺する行為である。非モテのウィンプ性が駄々漏れである。お前たちは堕落した醜いウィンプだ。だがしかし実のところお前たちはマッチョであり強者なのだ。オタクが好む作品がその事実を示している。私モテを見ればわかる。お前たちは自らのマッチョ性から目を背けている。醜いナルシズムに浸る行為であり許されない。自らの強者性と無自覚な加害をウィンプの態度で覆い隠しているのだから単純な暴力よりも邪悪である。私モテを見ることは女性へのDVに等しい。現実と戦え。成熟しろ。自省が足りない。反省するべき。
6. 私モテは学校で孤立している黒木智子が自分は男にモテないのが最大の問題と思い込んでいるように描いている。したがって私モテは男女二元論的ジェンダー規範に加担している。私モテは異性愛社会の権化だ。つまり同性愛者に対する差別である。セクシャル・マイノリティへの配慮が足りない。政治的に正しくない。自省しろ。反省しろ。お前が同性愛者あるいはその他のセクシャル・マイノリティだとしても異性愛社会の差別的構造を内面化しているだけだ。可愛らしさを是とする理想化された女性像に囚われた同性愛者でありながら非モテ的心性に共感するお前は黒木智子に対する自己投影を行いジェンダー規範を強化している。許されない。お前のしていることは抑圧移譲だ。お前は女性への抑圧者だ。お前は社会の生き辛さを強化している。差別的社会構造への加担者である。許されない。反省するべき。自省しろ。
7. 私モテ読者は女性への抑圧者だ。見ればわかる。作品が示している。おまけに日本社会の差別的抑圧的社会構造に加担する無自覚な加害者であるオタクが邪悪な欲望に塗れた作品を描いて消費することで抑圧された女性の苦しみを搾取している。私モテが存在することで女性が生き辛くなる。許されない。自省しろ。反省するべきだ。私モテは性差別でありヘイトスピーチに等しい。更にはセクハラである。私モテの存在が性暴力である。辛い。苦しい。規制しろ。焚書するべき。されたくなければ自省の態度を示せ。お前たちは政治的に正しくない。女性へのヘイトスピーチを娯楽として消費しているのだから規制されて当然。自省しろ。反省しろ。
8. 以上のように私モテが差別であり偏見でありヘイトスピーチであり抑圧であり生き辛さを生み出す邪悪な社会構造の根本原因であることが理解された。お前たちは何故自省しないのか。反省しろ。自省しろ。弱者に対する態度を示せ。被差別者に対する態度を示せ。マイノリティに対する態度を示せ。私モテはウィンプを偽装したマッチョであり弱者を偽装した強者であり無自覚な加害者であり無自覚な差別者であり無自覚な偏見を眼差すひ弱で醜い零落したいじめられっ子でぼっちの気持ち悪いモテないオタク男が性欲に塗れた自らのナルシズムを慰撫するために作り出した黒木智子という自傷的自己愛のカリカチュアを性的に愛でるオナニーであり即ち女性のモノ化でありハラスメントであり性的搾取であり性消費であり性暴力のイコンなのだ。私はそれを指摘した。故に私は道徳的に正しい。倫理的に正しい。政治的に正しい。私こそが弱者の擁護者でありマイノリティの庇護者である。だがお前たちは邪悪だ。許されない。自省しろ。反省しろ。お前たちが悪いのはどう考えてもお前らが悪い。許されない。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。
1.
うるせえ死ね
2.
うるせえ死ね
3.
うるせえ死ね
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うるせえ死ね
5.
うるせえ死ね
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うるせえ死ね
7.
うるせえ死ね
8.
うるせえ死ね
悲鳴伝もそこそこつらかったが、ますますつらくなってもうまともに読むにたえない。
半分過ぎたあたりから会話の部分だけを拾って読んでいったけどそれでも物語は十分に追える。
キャラ萌えもないし、主人公の思考も本当に駄々漏れという感じで読んでて全然おもしろくない。
悲鳴伝はまだ割りと話の盛り上がりとかがあったけど、今回は完全に行き当たりばったりで抑揚がまったくないお経を聞いてるような気分になる。
おまけにこんだけ長文に付きあわせて最後は未完とかほんとに時間の無駄だった。
才能が枯渇した中で一生懸命にひりだして薄めて薄めてといった感がアリアリ。
物語シリーズの偽物語以降のgdgdっぷりを見ても戯言シリーズからのいちファンだった自分としては残念だ。
いったん充電期間置いたほうがいいと思う。
このままうっすい本を出し続けても見限られるだけだと思う。
最初に西尾維新を見出した太田あたりは今の西尾維新についてどう思ってるのかねー。
メフィスト賞かなんかの酷評が定期的に話題になるけど、今の西尾維新の本を別名で応募したら同じように酷評されるレベルまで落ちぶれてると思う。
あー。。。でも物語シリーズ第二シーズンアニメ化も控えてるし、またそれの書きおろし短編とか書いたりするんだろうなー。。。
もう見てられないよ。。。
なんだかんだで出たら読むとは思うけどさ。。。
もういい休めのAAをぜひ贈りたい。
今GoogleI/O見ててエンジニアの隠しきれないオタク感がなんとなくやばい。
っでなんとなく思ったのだけど、
そんな代物になったんじゃない?
ほんとの素人って方も少なくて、
いらっしゃらなかったんだよ、きっと。
Androidの開発でGoogleのチュートリアルは時々見るが、
さっき紹介してたGCMとか、あらかた使い方覚えてAPI表みたら
確かにプラスα要素多くて丁寧そうに見えるんだけど
それ理解できるようになったらチュートリアル本編はいらないって
まぁ大体そんな感じ。
なんかその辺が全くの初心者に対していきなり知ってることすべて説明しようとして
説明できることと技術があることは別やねんと
ごんが兵十に銃で撃たれる前に迷惑や悲しい思いをさせた事を謝罪して、栗や松茸を持ってきたのは自分だと告白しても
母親の死に目に親孝行できなかったり、泥棒の濡れ衣を着せられて嫌な思いをした兵十はごんが謝っても「心からの謝罪ではない」と
許さず、ごんが栗や松茸を持ってこなくなると「心から謝罪ではない」と何かにつけ嫌味を言い、ごんはお狐良しだから
一生栗や松茸を持ってきて詫びたが、兵十は決して許さず、ごんの子どもや孫の代になってもお前の祖先は俺に迷惑をかけたと
謝罪を要求。栗や松茸を持ってくるのが当然とせがみ、持ってこないと狐の悪口を言い自分の孫や子どもにも
ごんの一族はかけたから栗や松茸を持ってくるのが当然と教え込んだ結果、兵十の子どもや孫も兵十みたいに考えるのは当然と
思い、ごん没後数十年経ってもごんの子孫が栗や松茸を持ってこないと駄々をこねて先祖の罪を子孫に被せる大人になってしまった
そして曾孫の代になってやっとごんの子孫がいい加減にしろと怒りだしたが、先祖代々人を許す事を教えられていない兵十の子孫は
ごん一族を何かにつけアラを探し、栗や松茸を持ってこないとSNSにごん一族の悪口を書き込み、自分の悪口は迷惑をかけられたからと正当化して
周りの人々にもごん一族の先祖の悪行を触れ回るのでごんの子孫達はすっかり兵十子孫達の事が嫌いになってお互いにSNSで悪口を書き込み合うヘイトループ
に陥りましたとさ
~第一部 完~
この位どうしようもないドロドロした話の方が良かった
体調が悪かったり疲れてたりで、ダラダラ一日を過ごすと、余計な事を考える。
今の自分はこれでいいのか?これから先どうなってしまうのか等々。
大体にして、そんな事を考えるのは暇だからに他ならない。
大仰な物事を引っ張りだして、目の前の小さな事から目を背けて、単に哲学っぽくなりたいだけにすぎない。
下らない。実に下らない。
じゃあ何かするのかというと、特に何もせず、今度はこのままでいる事の理由を模索し始める。
理由なんか無い。自分がそうしたいと思うからそうしているのだ。
仮に、自分はそうなりたくはないと考えていたとしても、そうなっているにはそうなるだけの理由がある。
まずは、目の前にある簡単な事を片付けてから、一服する時に考えるならばまだマシ。
駄々らに今の自分はいいのか?みたいな事を考え込んでいるのは、時間の無駄以外の何物でもない。
将来への不安?
クソ食らえだね。
そんなもの考え始めたらキリがない。
目の前の事もろくにできないくせに何が将来だ。
2005年に突如現れたRailsによって国内でRuby利用者が急増したのがPerl滅亡への第一歩となった。書きやすさに作者がとことんこだわって作られたRubyの魅力を一度知ってしまうとPerlの古くさく読み辛く書き辛い文法に誰もがうんざりし始める。
Ajaxで再発見されたJavaScriptのブームもPerl終焉に若干ながら貢献している。ブラウザというPerlが全く手を出せないジャンルの王者JavaScriptの持つ華やかさに誰もが憧れ、そして手元のPerlの古くささに反吐が出始める。不器用で不細工なところも含めて愛していた女房とつつましく送っていた人生に、突然ぴちぴちのボイン女子大生が転がり込んで来たようなものである。
iPhone市場が本格的に立ち上がり、Perlとは全くの無関係であるスマホアプリ全盛期がやってきていよいよPerl滅亡へのカウントダウンが始まった。そして極めつけはソーシャルゲームバブルである。ここでもPerlとかいう言語は全くの蚊帳の外で大絶賛凋落中。
Perlなんぞ全くお呼びでない世界の話。段々とwebテクノロジーの世界に高度な数学的知識を持ったアカデミック層が跋扈しはじめ、専門学校でプログラミング言語を学んだだけの人間がハッカーなどと名乗ると恥ずかしい時代になってきてきた。
遂にPerlにとどめを刺したのはPythonである。守備範囲は当然ながらPerlと駄々被りで読みやすく書きやすく世界的なシェアもうなぎ上り。完全にPerlが不必要な世の中になってしまった。
2005年までのPerlはまさに我が世の春を謳歌していたが今や目も当てられない惨状でプログラミング言語のシーラーカンス・COBOLとすら比較され出す始末。昔Perlの人として売り出していたハッカーも、いつのまにかPythonの人になっているケースも海外では多い。10年でここまで時代は変わる。今のメインテクノロジーも明日は我が身だ。小手先の技術に乗っかってモダンだのハッカーだの聞こえのいい言葉を汚い口でまき散らして消えて行ったPerlエンジニア達の死を無駄にしてはいけない。変化の速い時代に生きる我々に必要なのは本質を学ぶ事だ。コードの書き方とかどうでもいいんだ。もっと10年20年たっても色あせない情報工学を身につけなければならない。
気持ちの余裕がないとなにもかもが敵に見える。
助言も励ましも気休めにしかならなくて、素直に受け取れはしない。
しかもそれをいう人物が余裕ある立場だとか、調子がいい時に言ってると、お前それサバンナでも同じこと言えんの?ってなる。わかってるけど素直に動くほど人間ができていない。駄々こねているだけなのもわかってるけど、予定調和なんかも嫌だなと思う。恐らく自分の未熟さが悪いんだとも分かっている。だから雲散霧消すればいい、なにもかも。
気に入らないから何もかもが気に入らないし、世界中が白だって言っても私は赤色だって言って安全牌を壊していきたい。私の評価はどうだっていい、それでなにかどうなるかがおもしろい。破滅でも構わない。もともと気に入らなかったんだ。
目の端でチラつく幸せオーラ全開でいちゃつく猿に言われたらそりゃ、ころしたくもなるさ。お前らも余裕を削ってる要因でもあるんだぜ?
パソコンはゲーム機の代替で、ファミコンがなかったからパソコンをいじってた。
親戚のおじさんがくれたMSXとROMカセット一つをくれたので、それで遊んだ。
なぜか、BASICに興味を持った。
MSX-BASICはひらがなが打てて、青い画面に白いひらがなが綺麗だったというそれだけの理由だった。
時が経ち、漢字もそこそこ読めるようになった小2の頃(読書が好きな子供で、小学生が習うような漢字は小2でだいたい読めたと思う)、付属の解説書を読むようになった。
実際、それはまあ面白いもので、数の加減乗除、数字や文字の表示、ループやIFといった簡単な命令について読み進めていくとブロック崩しのプログラムが出来上がったりしたのだ。
実は小学校2年生の自分は、かろうじてアルファベットが読めた。
母が「楽しいABC」という新聞広告の教材を買ったせいである。
会話編と単語編があり、母は会話編が子供向けかと思ったらしいが、自分は単語編、というかアルファベットにしか興味を持たなかった。
読み方には興味がなく、純粋に形として覚えた。
ひらがなカタカナのように、それを覚えれば音を表せるというわけでもないのに。
が、MSXに命令するときには、アルファベットという記号を使えばいいということを理解した。
まあさておき、BASICの命令が英語としての認識はなかった。
。
MとNを記号としての区別はできたが、それぞれどっちをエムと読み、でどっちがエヌと読むかはわからなかった。
IFはIという文字とFの連なったもので、その塊で意味をなしていることは知っていたが、"イフ"と読むことは知らなかった。
ブロック崩しを改造して、シューティングゲームのように自機から玉を打てるようにしたあたりで、のめり込み、「ポケットバンク トランプゲーム集」からテープレコーダーに保存して(その機種はフロッピーディスクがなかった)
プログラムに興味なんかなかった。
そうこうしてるうちに、弟がごねてファミコンが我が家にやってきた。
MSXなんか忘れて熱中した。
夢のフロッピーディスク搭載機。
ディスクステーションとMSXファンの付録ディスクにはゲームが10本以上つめこまれていて、ゲームに飢えていた僕ら兄弟にはたまらなかった。
BASICのときと同様、やはり英単語を知らぬままDOSの使い方をおぼえた。
というか、ただの接触不良だった。
っていっても、たまに起動してたけど。
同時期、PC9801がきたが、ろくに触らなかった。
いまでもエクセルをろくに使えないので、当時どのくらい使えてたかは謎だけど。
ファミコンソフトを買うお金がなかったから(実際、弟が駄々をこねればソフトなんていくらでも手に入っていたのだが、駄々のこね方を真似ることが出来なかった。いまでも出来ない)、ベーマガのプログラムをPC9801に打ち込んだりしたものの、なんだかN88BASICは面白くなかった。
弟はMSX2のときもBASICに興味がなかったので、誰にもそういう話はできなかった。
turboRが欲しくて仕方なかった。
値段は張るけど、自分でプログラムを入力すれば今後ソフト代はいらない!という狂った考えだった。
しかしスーパーファミコンがやってきて、弟に「~っていうソフトがすげー面白いらしいぞ!」っと吹き込み、弟を通じて親にソフトを買ってもらうという方法を覚え、夢にまで見たゲーム三昧生活。
その頃はMSX2のフロッピーディスクドライブの調子が悪くなり(たぶんベルトが伸びたんだと思う)
エロに目覚めてPC98のエロゲをしたり、インターネットでエロ画像を漁りたいためにWindows95をいじったりしたが、やっぱりプレステのほうが面白く、そんなにはまらなかった。
大学生、社会人になると、エクセル、ワード、パワーポイントを覚えていった。
今でもパソコンに興味がもてない。
Officeとメールとブラウザがあれば他にソフトはいらない。
おわり。
何故、モンティ・パイソンが出てくるのか?
虚構新聞は、どこかで自らをモンティ・パイソンと比較して云々したことがあるのか?
貴方の価値観はモンティ・パイソン以外に軸を持っていないのか?
私と彼とでは風刺の定義が違うのかもしれない。風刺とは、少なからず市井の人々から権力への攻撃という側面が備わっているべきだと私は考える。
何のための定義だかわかんねえよ
各人が全く別々の定義を持ってる可能性があるのに、まともにお話ができるとお思いですか?
虚構新聞が標榜する風刺とやら~「ホリエモンが脱獄した」という虚構の、なにが風刺なのだろうか。この虚構によって攻撃されるのは何なのだろうか。
本当に標榜してるのか知らないが、仮に標榜していても、それがどうしたというような些事に過ぎないでしょうよ
重箱の隅をつつくような真似はよしなさい、みっともないから
貴方が言いたいことは、虚構新聞は風刺をしないなら風刺という言葉を使うな、という事か?
貴方は、もし虚構新聞が風刺を標榜していなかったら、虚構新聞を許容できるのか?
要するにだ、自分を不快にさせる虚構新聞がどうしても認められず、それを好む夫も嫌いになりそうだ、という世界は自分を中心に回ってると勘違いした幼稚なババアの話でしょ
ん、あれ? 元増田じゃなかったんか。てっきり本人かと。
似たような思想的背景を持つ曲が大いに支持されているから、それにおもねってその潮流に乗っかるってのは、発信する側の手抜きじゃないですか。少なくとも「ランキングにある多くの楽曲が同様の思想的背景を持っている」ということは「同様の思想的背景を持った楽曲がそれほどたくさん供給されている」わけで。供給者の絶対数が多いのもありますけど、単純に手抜きじゃないのかなぁと。
で、その思想的背景というのも、嫌だ嫌だと言って、その実言っても変わらないのも知ってて、ただ駄々を捏ねて、ありもしない桃源郷に浸る、ないしは嫌だと思ったまま諦める。それをそのまま歌にして共感を得たからって、それは別に生産的でもなければ前向きでもないじゃないですか。明日への活力になるわけでも、気持ちがリセットできるわけでも、何でもない。ただ消費者を甘やかしてるだけで、もっと言えば、消費者を甘やかしている作曲者側の自己満足にすぎない。だってただの傷の舐め合いじゃないですか。それが元増田の言う「暗い」の根幹ですよ。そんな程度なら別にわざわざ多大な一手間を加えて歌にしなくても、ブログを書けばいいわけで。
ここらへん、前半はその通りだと思う。
手抜きっていうか、ランキング見てウケる歌詞の傾向を探りつつ割り切ってロジカルに作ってる奴いそうだなーみたいな気はします。というか自分が音楽やってたらそうやって作りそう。自分がウケた曲を見よう見まね換骨奪胎で吐き出しそう。
そう考えると「世の中」とか「世間」に浸透しづらくて子どもにウケてるのも理屈がつく気がする。ある一定の層の中でグルグル巡っているだけなんですね。
ただ、傷の舐め合いであり甘やかしだからアカンというのはどうなんでしょう。先述したように「自分は助けてもらえないかも」という不安や絶望が身近にふよふよしてるような人間にとって、一人で傷舐めてるよりはナンボかマシなのではないでしょうか。逆に化膿するかもわからんっていうかランキングでは化膿してるようにしか見えないけど。でも(曲にもよるけど)「またきました」「再生○回目」「癒される」「元気出る」みたいなコメントついてるのって結構散見されるので、それなりに活力とかにはなってるんじゃないスかね。
あと傷の舐め合いであるから歌でなくてブログでよいというのは意味不明な暴論だと思います。別に歌でもいいじゃんっていうかブログである必然性はない。作り手が己の最も長けた表現形式を選択してるだけのこと。
別のやりようと言っても「現代型厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな歌」とでも言うのか。それは別に現実と戦う必要はなくって、遠まわしで皮肉で嫌味な歌でもいいと思うんですよ。「いーじゃん勝手にやってりゃ。俺らは好きに生きるから」みたいな。そういうのがあって、そういうのを選び取らないのは消費する側の問題だし(能動的に生きる、という意志を放棄しているように取れます)、そういうのを選び取らせない社会の問題でもある(理想化された友人がたくさんいるって、具体的にどうこう以前に社会が相当マズいというのが一目瞭然だと思います)。これが反映されているのが「そしてこの根の暗さの根本的な原因は、当事者の方々そのものにあるのではなく、その環境を用意した世代の方にあるのだろうということ」という一文ですが、同時に「それもまた無自覚になされたことであり、ただ噫と溜息をつくばかり」なものでもあるわけです。どっちからも変えられるんで、消費者の側から変えても良いし、生産者の側から変えてもいいんですけど、たぶん「現代型厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな曲」が流行る、というのが一番手っ取り早い構図のように思います。
「いーじゃん勝手にやってりゃ。俺らは好きに生きるから」ってスタイルは既に一世代前がやってることのような気がする。ロックとかパンクとか?
でロックやパンクは失敗してるわけですよね。「好きに生きる」スタイルでは結局いろんな問題が解決しないであれこれ行き詰ってくる。
だからボカロは歌うんじゃないでしょうか、「いーよ勝手にやれよ。俺らは好きに生きて好きに死ぬわクソが」と。
「好きに死ぬ」までが彼らの「前向き」に含まれた答えになってる。「後ろ向き」とは他人や運命に象徴される非自由意志的なものに蹂躙されて死ぬことであり、それを克服し脱して「好き」に殉じる、自分で死に方を選ぶことが持ち上げられてるという構図です。ぼやぼやしてると「見捨てられる」「助けが得られない」という非常に消極的な形で殺されるみたいな不安感があるのかも。さしずめ氷山で仲間のペンギンに押されてしまって怖い捕食者のいる海に落っことされるぼっちペンギンといったような。
もはや世の中「前」がどっちかよくわからん様相を呈してきているのもあって、従来型の単純な「前向き」って中身がないと判断されてあんまりウケない気がしますね。萌えとか理想の恋人/友達で飾って「浸るための夢」という位置づけを確立してるような感じ。
何年か前は現代型厭世観を背景にカオスに助走してそこからいろいろ飛び越えて突き抜けるのがもっともオシャレでスマートな解決法ってことで小説あたりで流行ったものでしたが所詮は虚構ということか、虚のうちに消えてしまった感があります。
後半部分については、現代型厭世観とか言うんでしたっけ。現代型無気力だったか。あぁなるほどなと思いました。確かにその通りです。見えてるようで見えてなかった部分を明文化して頂けたので、理解が進みました。
前半部分については、言われてることがそもそも論だということにようやく気がつきました。本当に頭が悪くて申し開きのしようもありません。
じゃあそもそも論の何が問題なのかと言うと、非常に単純なお話として、この現代型厭世観はけっこう重厚な歴史的背景を持った立派な思想ではあるんですが、その歴史的背景は、例えば日本で革命が起きたことがないとか、そんな感じの背景です。歴史学を多少かじってる方だと「あぁ」と思われると思います。けっこうマズいと思うのですが、いかがでしょう(分量が多いので端折れてたらラッキーという「いかがでしょう」です。端折れてなかったら次の機会に付け加えます)。
そんな赤くて大きな問題を出さなくても、単純に「後ろ向きで暗い」んだから、そうじゃない書き方で、もっとやりようがあるだろうというお話もあります。似たような思想的背景を持つ曲が大いに支持されているから、それにおもねってその潮流に乗っかるってのは、発信する側の手抜きじゃないですか。少なくとも「ランキングにある多くの楽曲が同様の思想的背景を持っている」ということは「同様の思想的背景を持った楽曲がそれほどたくさん供給されている」わけで。供給者の絶対数が多いのもありますけど、単純に手抜きじゃないのかなぁと。
で、その思想的背景というのも、嫌だ嫌だと言って、その実言っても変わらないのも知ってて、ただ駄々を捏ねて、ありもしない桃源郷に浸る、ないしは嫌だと思ったまま諦める。それをそのまま歌にして共感を得たからって、それは別に生産的でもなければ前向きでもないじゃないですか。明日への活力になるわけでも、気持ちがリセットできるわけでも、何でもない。ただ消費者を甘やかしてるだけで、もっと言えば、消費者を甘やかしている作曲者側の自己満足にすぎない。だってただの傷の舐め合いじゃないですか。それが元増田の言う「暗い」の根幹ですよ。そんな程度なら別にわざわざ多大な一手間を加えて歌にしなくても、ブログを書けばいいわけで。
別のやりようと言っても「現代型厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな歌」とでも言うのか。それは別に現実と戦う必要はなくって、遠まわしで皮肉で嫌味な歌でもいいと思うんですよ。「いーじゃん勝手にやってりゃ。俺らは好きに生きるから」みたいな。そういうのがあって、そういうのを選び取らないのは消費する側の問題だし(能動的に生きる、という意志を放棄しているように取れます)、そういうのを選び取らせない社会の問題でもある(理想化された友人がたくさんいるって、具体的にどうこう以前に社会が相当マズいというのが一目瞭然だと思います)。これが反映されているのが「そしてこの根の暗さの根本的な原因は、当事者の方々そのものにあるのではなく、その環境を用意した世代の方にあるのだろうということ」という一文ですが、同時に「それもまた無自覚になされたことであり、ただ噫と溜息をつくばかり」なものでもあるわけです。どっちからも変えられるんで、消費者の側から変えても良いし、生産者の側から変えてもいいんですけど、たぶん「現代型厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな曲」が流行る、というのが一番手っ取り早い構図のように思います。
あとはどちらかと言うと「元増田がどっち方向での解決を望んでいるのか」という問題な気がします。自分の疑問に解答が提示されれば良いのか、その上で何か「ポスト現在」みたいな理想像が提示されれば良いのか。前者だとすれば「それは現代社会では達成され得ない」と答える他ありません(特に理想化された友人に関しては、最早根本的な治療が不可能です)。後者であれば、それに対する私の答えは「現代型厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな歌」です。この辺は言いだしっぺの意見を拝聴したいところです。
キリスト教徒だろうが仏式の葬式に出れば式の進行に従うし、神前式の結婚式に出ればそれに従うんじゃなかろうか。
プライベートで神社に行っても手は決して合わせないキリスト教徒の知り合いがいるんだけど、お神酒はちゃんと飲んだよ。
いちいちなんで?どうして?と言うやつは正直言えば迷惑だと思う。
俺も面倒くさい性格の方で、小学校に入った頃は「なっとくするまでは帰りません」みたいなことばかり言う面倒くさいやつだった。
などといわれて納得するような物分りがいい小学生じゃなかった。
(しかもそれが「どうして日曜日は学校が休みなの?」とかそんなレベルでさえ、納得できないといって駄々をこねてた)
生徒会というものを知って、「なんか意味があるのか?権限とその範囲はどこまであるんだ?入会した憶えはない!」
とほぼあらゆる人間に噛み付いてた。
でもまあ、ちゃんと育った。
>実際のところその考えは間違ってる。
その考えが間違ってるというのは?嫌いだと思うことが間違ってるってこと?
社会問題を並べ立てて誰かに説明を求めてりゃいいとか
そんな駄々っ子の相手してくれる父親のような人が現れると期待してるとことか
もっと丁寧に答えて欲しいなら逐一で書いてもいい。
国を愛する国士様、
そんな人は居ない。
多分ここ以外にも。
だいたい質問をするといいながら揶揄を混ぜるところが既に甘ったれている。
あなたのような人を相手して何の得があるんですか。
あなたの相手をして得をする人、というのが想定できない。
誰がそんなこと頼んだんです。
ということです。
(1/2:コメントに返信追記)
さっきFacebookを見たら、知り合いの女の子が梅田で数人ではしゃいでいる写真がアップされていた。
率直な感想が、「うわ、うらやまし」だった。
というのも、その間自分がしていた事は家のパソコンで一人画像を見ながらオナニーだったから。
このギャップ。現実のギャップに落ち込む。リア充への憧憬は隠せない。
これは確かなことだ。嘘はない。でも、なんか違うんだよな。本当のことを言うと、違う。なかなか理解されないけど、この憧れというのは、「自分もその場に居合わせたい!」という願望ではない。「自分も女の子と一緒にはしゃぎたい!」というのとは、実際は違う。そこに落ち込んでいるのではない。リア充と僕の隔絶は、そこではない。
僕は、リア充にはなれない。それは、「土曜のこの時間に女の子と一緒にはしゃいでおらず画面を見ながらオナニーしてるから」ではないのだ。そして、僕がリア充に憧れているのは、今の自分のこの状況に悔やんでいるからではない。では、なんなのか。
今まで何度も経験したこの感じ。大学の人達と飲みに行ったとき、朝までカラオケをした。6人か7人ぐらいで、ノリがいい男2人と僕と、女の子4人だったかな、忘れた。飲みに行って、その後カラオケ、よくある事だ。その後にも何度かあった。
ぜんぜんたのしくないんだよな。
女の子が不細工だとかそういうことではない。曲が合わないとか会話に入れないとか、そういうのも関係ない。そんなに言うほど仲いい人たちじゃないとか、そういうのも違う。男ばかりだったらとか、女ばかりだったらとか、そいうのも関係ない。ただ、こうやって集まって盛り上がるとかが鬱陶しい。自分は一人で居るほうが気が楽だ。本当に、経験するたびに思う。そういう自分に気づく。でも、誘われたら行く。なぜなら、リア充に憧憬があるから。でも、そのたびにまた現実にぶち当たる。馴染めない。
自分がリア充になれないのは、そういう環境に身を置けないからではなく、その状況を良いと思えないことにある。
僕が憧れているのは、僕が羨ましいのは、「その状況を楽しいと思えることそのもの」だった。
(コメント返信追記)
今頃ブクマがなぜ伸びてるのか謎すぎるけど、ブクマコメントを読んで思ったことをいくつか。
結構誤解されてる方が多い。俺はカラオケのくだりで断って書いたつもりなんだけどなあ。なかなか理解されていない。リア充リア充言うから余計に誤解を招いたかもしれない。
集まりの内容なんて関係ないんですよ。オフ会であろうが趣味の集まりであろうが大学の飲み会であろうが会社の打ち上げであろうがオタクの集まりであろうが、集まりそのものが苦手、で、楽しくない。全然盛りあがれない。知ってる話題でも楽しくない。詳しいと余計に喋りたくない。関心のある内容はこんな場で話したくないし話題にもあげないで欲しい。話し振られると適当にごまかす。鬱陶しい。早く帰りたい。メンバーとか内容は関係ないんです。その辺を勘違いされてる方がブクマコメントで多数お見受けできるので、再度確認のため断っておきました。
本当は全レスしたかったけど面倒だからトップ10へレスさせてください。年始暇なので。
その間ってのはフェースブック見てる間じゃないぞ。知人のフェースブック画像で抜きながら落ち込んでるとかテンションが病気。
neogratche
一人でいる事の方が楽なのに、「それは負け犬の人生だ」って社会が否定してくるから苦しい、っていうのはあるかもしんない 2011/12/31 26
一人でいるのは楽だけど別に楽しくはないんですよね。かと言って、人といて楽しいかとういうとそうでもないにもかかわらず、楽しそうにしている人を見ると自分もそうなれるのかもしれないと期待して現実を知る。その繰り返しでした。
fromdusktildawn
「数人で盛り上がって楽しむ」ということができないのは、単に感性の問題だと思ってる人がときどきいるけど、スキルの問題が大きいんだ。「数人で盛り上がって楽しむ技術」というのがあってそれをマスターすればいい 2012/01/01444 clicks 21
めんどくさいっすね。そんなめんどくさい技術ならいらないっす。よく、頑張ったら頑張った分だけ喜びも大きいとか言う人いますけど、私はそれ全く理解できないです。むしろ頑張った分だけ割に合わないと感じる方なのでそういう努力はしません。
y_u_s_u_k_e
オナフェイス充
xevra
要するに他人に興味が無いんでしょ。他人が喜ぼうが悲しもうが死のうがどうだって良いんだろ。だからつまんないんだよ。圧倒的な自己中が非モテの特徴。/大勢が無理なら異性とデートすればいいだろう。捗るぞ 2012/01/0114 clicks
大勢の場で他人に興味抱いてる人って気持ち悪い。そんなのどうでもいいに決まってんじゃん。村社会かよ。自己中ってのは他人の迷惑を顧みないとか、自分の都合で他人を動かそうとするやつのことで、俺は他人に関心がないだけで文句つけたり迷惑かけたりはしてないから、それに対して文句言われる筋合いはないんだけどなあ。一応ある程度空気読んでるから。
rin51
よう、おれ / 学生の頃 男女6:3くらいで山へドライブへ行って目的もなくダラダラ過ごしてるのがツラくて「おい、とっとと帰ろうぜ」と駄々こねたのがオレ 2011/12/31
じゃあ行くなよ!まあ、何か楽しいことあるかなって期待もあったんだよな。無かったら帰るのが正解。
feita
俺も、人間としてぶっ壊れてることへの敗北感と優越感を感じます。中二病的な意味で。/まぁぶっちゃけ単に自己中なだけなんですけどね。こっちからアクションしてあっちからレスポンスないだけでストレスがマッハ。 2012/01/015 clicks
君のそれと俺のそれは全然違うように思える。ぶっ壊れてないし、羨望はあっても敗北感はないし、優越なんかどっから湧いてくんのって感じ。自己中でもない。俺は人に場に合わせるから。俺はレスポンスなんかなくていい。
AmanoJack 本題無視
ROM専腐女子として別に何か書きたいことがあるわけじゃないけど書き手になることに憧れる、みたいな……私もそんな風に萌えてみたいよ……オタ充爆発しろ……みたいな 2011/12/31
みんながみんなそうなら分かるんだけど、みんな楽しそうにしていて自分が全く楽しくないのはなんなのでしょうね。みんな嘘ついてるようにはとても思えない。ていうか嘘ならフェースブックにわざわざ書かんやろ普通。
nymc
価値の無い集まりにしか参加したことがないからそう思うんじゃないかと思う。自分にとって価値ある、楽しい集まりはお前自身が作れ。他人に頼り過ぎ、任せ過ぎじゃないか? 2012/01/0216 clicks
同じ人かな?
「乗り換えたがりのユーザー」だけじゃなく、完全新規ユーザ(人生で初めて携帯持つ人)にとってもデメリットだと思うけど。
別に駄々をこねているわけじゃ無くて、ユーザから見たらデメリットしかないプランなんかやめて、もっと真っ当な競争なり企業努力なりをキャリアさんしてねってことで。
言っとくけど2年毎に機種変するユーザーなら、端末購入費も含めれば
あんたの言ってることは間違ってる
つまり負担金額的で考えれば、継続利用割引が適用されるくらいの長期契約ユーザで、2年ごとに機種変するユーザが最も損をしているという主張ですか。そのことと「継続利用割引ってユーザにとってはデメリットだけじゃないの?」ということと関係ないんじゃ。
そういえば、機種変と新規で負担額が違うってのもおかしいよねってのもあるよね。
こういう変なルールをとっぱらって、機種変でも新規でも負担額は同じ、何年契約継続しても料金は同じ、って世界の方が、ユーザにはメリットあるんじゃないかな。