はてなキーワード: 行動分析学とは
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
夫婦のそれぞれの問題でとても大変なこともあるが、それらを乗り越え幸せな結婚生活を送っている。
そもそも現代の日本の社会において、小・中・高・大と結婚について詳細な教育を受けることがない。
下手すると親からも結婚とはなにかと教わることがないかもしれない。
漠然と、結婚はよいものだ。だからおつきあいしてラブラブだったら結婚しようという社会的な風潮だ。
結婚に至るモデルというのは、安いドラマとかにでてくる情緒的なカップルをモデルとする場合も多いだろう。
結婚について教育を受けてこなかった私たちは、なにをモデルにすればよいのか。
結婚してどのようなことが大変で、逆にどのようにしてより幸せになれるのだろうか。
なかなか客観的にはなりにくい。
自分の欠点を強く指摘される、逆に相手の弱さについてストレートに言及する。
そのような中において、互いが主観的になる。
ビジネス上の課題がある、この解決すべき課題については客観的に見つめることができる。
冷静に多角的に把握して分析ができるのだ。対象が自己の外に向いているからだ。
逆に、夫婦の問題の場合、己の中にある問題、そして相手の心の奥にある問題に向き合わなくてはならない。
そして、これらに互いが触れる時、主観的になる。
主観的なので視野は狭まり、自分と相手が持っているそれぞれのバイアスが強く働く。
■■まずロジャースになれ
来談者中心療法を確立した臨床心理の大家カール・ロジャーズだ。
「無条件の肯定的関心」「共感的理解」「自己一致」を基軸にしたカウンセリング法だ。
自分が夜家に疲れて帰宅したら、リビングに既に仕事を終えて帰ってきた仏頂面の伴侶がいたとする。
そして、相手が会社の愚痴・不平不満をいったとする。自分も会社のストレスを抱えていてとても疲れていてそんな話し聞きたくない。
それでも、「無条件の肯定的関心」「共感的理解」でまず話を聴いて相手を理解しようとすることだ。
私をはじめ男性はつい、解決案を提案しようとやっきになってしまう。ビジネスだったらそれでもいい。
でも、相手は感情を理解して欲しいのだ。そしてその感情を言語化したいのだ。
解決する力はその伴侶のうちにあるのだ。
しかし、自分が肯定的に伴侶の話を聴いていて、相手が一線を越えた場合どうするのか?
自分を罵倒してきた、言葉による暴力をしてきた、さらに言語道断であるが、
暴力を振るってきた場合、倫理に逸脱した行為をしてきた場合、どうするのか?
■■正の強化
応用行動分析学的に、黙っていると言うことは、黙認していること、
その行為を認めていることだ。
相手が行動を起こす→黙認する(認める)→その行動が学習され強化される
といことになる。
自分の考え・感情をきちんと相手に伝えることがとても大切になる。
ではどうすればいいのか?
結婚当初の愛を深めていくにはどうすればいいのか。
夫婦の合意のもと、二人でミッションステートメントを書くのだ。
ミッションステートメントの詳細については検索するとか『七つの習慣』を読むとかで調べて欲しい。
複数の価値観のバラバラな人間が集まる会社ですら、ミッションステートメントを書いている。
ミッションステートメントはとても重要だ。
まず、それぞれ己のミッションステートメントを1週間ほど書けて紙に書いてみよう。
次に、出来た物を夫婦で見せ合って、語り合おう。それぞれ人生において
なにを目的にしているのか、何を価値観としているのか、いろいろ気づきと共有するところがでてくるだろう。
互いに尊敬し合い、語り合いながら、それぞれのステートメントをまとめて、
1つの夫婦(家族)のミッションステートメントを書き上げてみるのだ。
なにか夫婦で問題が生じても、まずミッションステートメントを取り出してきて、
これを中心に問題について語り合うのだ。
ミッションステートメントなしで話し合うと、「いった」「いわない」の互いに非常に主観的パラダイムになるが、
紙に書かれているミッションステートメントを見ながら語り合うとより客観的に問題について語り合うことができる。
つまり夫婦それぞれが中心ではなく、その上の原則(ミッションステートメント)に従って行動していくということだ。
これが非常に大切なのだ。
ミッションステートメントは定期的に語り合いながら見直して、夫婦の節目においてバージョンを上げていくことも重要だ。
■■最後に
夫婦互いが主観的パラダイムになりやすいが、もう一つ重要なことがある。
第3者を見つけておくことだ。第3者というのは、夫婦の状況を客観的に見て、
鏡のようにフィードバックしてくれる人だ。
だが、カウンセラーでもよいが、
お金をかけずに近所のおばちゃん、親戚のおじさん、学生時代の学校の先生、神父さん誰でもよい。
日頃からそのような人と良好な関係を作っておき、相談できる環境を整えておくことは非常に重要だ。
夫婦がバイアスによって気づかなかった新しい認識を得ることができる。
これはホント大切だ。
最後に、結婚生活ケンカも沢山して、とても大変なことも多いが、
妻への深い愛と感謝のうちに
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もろい青少年の心―自己愛の障害 発達臨床心理学的考察 (シリーズ 荒れる青少年の心) 上地 雄一郎
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ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈上〉 アドルフ・ヒトラー
しろうと理論―日常性の社会心理学 アドリアン・フランク ファーンハム
グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA) 飛 浩隆
☆ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ) ペーター ガイス
ドイツの歴史【現代史】 (世界の教科書シリーズ) ヴォルフガング イェーガー
ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて) 村澤 和多里
☆言葉にして伝える技術――ソムリエの表現力(祥伝社新書214) 田崎真也
滅びの風 (ハヤカワ文庫JA) 栗本 薫
大日本サムライガール (星海社FICTIONS) 至道 流星
☆少女マンガの表現機構―ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」 岩下 朋世
マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫) イタロ・カルヴィーノ
スティーブ・ジョブズ(1) (KCデラックス Kiss) ヤマザキ マリ
カリガリからヒットラーまで (1971年) ジークフリート・クラカウアー
物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫) 大塚 英志
ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書) 荻上 チキ
アメリカの中学教科書で英語を学ぶ―ジュニア・ハイのテキストから英語が見えてくる (CD book) 林 功
☆☆「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか 鈴木 涼美
ぬばたま (新潮文庫) あさの あつこ
果てしなき渇き 深町 秋生
行動・環境間の関係については動物実験を超え、人間に対する実証的な研究の段階にある
そもそも、どういう基準でもってそれを問題とし、それによって何が為されるのかを自覚があるのだろうか
ある人物が抑うつ的な気分で部屋に引きこもっている
では、抑うつ的な気分を晴れさせ、部屋から出て仕事が出来るように認知と行動を修正すべきだろうか
この問いに対して「あらゆる場合においても、それは為されるべきである」と言うのか?
社会適応が為されたその結果は、だれが評価し、正しいのか間違っていたかを判断するのだ
本人がその過程で「嫌だ、俺は一生部屋から出ない」と反発し、それを無視してもいいのか
会社に入り「行動修正のおかげです、ありがとうございました」と言うのはなぜ受け入れる
もし、抑うつと言うのが進化の過程で必要だから獲得した種としての機能であった場合どうする
また、周りはどうだ
社会適応で得られる変化と、引きこもっていた場合の状態ではどちらが重要か
人生を終えてみないとどちらが良かったか分からないという意見にはどう対応する
あらゆる人間を調査し、どのような状態であれば幸福か、間違いがないかを調査するか
よしんばそれが出来たとして、それを個々人のケースに適用する事に正当性や実用性はあるのか
また、そうした量的分析の結果と、人間性心理学や精神分析やエリクソンの発達課題にどれほどの差があるだろうか
行動分析学はあくまで道具だ
標的行動は人間が決め、どのような人生を歩むのかも人間が決める
では、何かの理論で定義された「人間とはかくあるべし」を手本にするか
理論を折衷する選択に治療者側の人生経験によるバイアスが掛からないとなぜ言える
結局の所、心理臨床の場は博打に過ぎない部分がある
意訳できてないよ、元増田だけど
ただ、本質の一部を欠落させ色づけ・脚色された真実は時として人を動かすことがある
たとえば、「名誉だ!世界のためだ!」という言葉は承認欲求や生物の生存欲求が本質であるかもしれない
だから、承認欲求や生存欲求という本質を色づけしたものにすぎず、適用範囲や正確性には問題があるだろう
けど、「生存欲求のために頑張ろう」と激励するよりは「お国のために頑張ろう」と言った方が効果はあるだろう
いくら尊い精神論を振りかざしても自己犠牲で自殺することが難しいように
そこには限界があり、そういう場合には本質を踏まえた具体的な対応(医学や物理学、俺で言うなら行動分析学)が必要になる
人は人の殻を破れないので、「思えば叶う」というのは妄言に過ぎない
それは精神論・根性論に帰結するのであって、現実的には何の影響力も持たない
しかし、その正反対にある工夫や英知、努力や健全さなどもお飾りに過ぎないのですよ
そこに「人はより良いものになる」などという金メッキを貼りつけたところで、何も表せてはいないのですよ
同時に「人は堕落するものである」などと泥を被せたところで、やはり人の本質は捉え切れていないのですよ
そうして色づけされた真実は、その側面のどこかを欠落させるだろう
「しかし君ね、それではおかしいではないかと。真実に貼られたメッキや泥に過ぎない思想の価値を、君自身が認めているではないか」と
「思想によって人が救われないというのならば、君の言う行動分析学とやらは今まで以上に人を救うのかね」と
この時、「思想で救われるものなど一つもないのですよ」という命題自体が思想であることになり、形骸化すると同時にその有用性を主張するようになる
以上でオチが付いたということで、あつちへ行つてくれ。私は、もう、ねむい。
知ってるか
あれは全部「行動分析学」という考えで説明がつくんだ
モバマスで例をだそう
長期間ログインしてなかった奴がログインすると大きなポイントが貰える
すると、ログインする行動が強化(行動の頻度が上昇)される
それ以外にも演出や細かいポイントアップ、アイテム・アイドル獲得でプレイする行動が強化される
要らないアイドルは複数の必要なアイドルを裏付け好子とした般性習得性好子
そして勿論、全てが強化スケジュールで最も強化力が強烈なVR(変動比率)強化スケジュールで強化される
あらゆる演出・仕組みがゲームを続けさせ、より長い時間集中したプレイをさせる方向へと誘導していく
一ヶ月前に書いたものがホットエントリになってびっくりしました。
「http://anond.hatelabo.jp/20110502165746」の続きです。
新たについたトラックバックにも、返信しようかと思いましたが、手に負えなさそうなので、補足を記して、まとめてご返信とさせていただきます。
まず、妻が「物が捨てられない人」ということを過剰にアッピルしてしまったことで、はてな界で伝説になってる xevra先生をはじめ、多くの方にご心配であったり、「パーソナリティ障害なのは確定的に明らか」「このままでは旦那の寿命がストレスでマッハなんだが・・」のような破壊力ばつ牛ンのエスパーレスをしていただき、恐縮でございます。深い悲しみに包まれたあまり、思わずブロント語が出てしまいました。
さて、それ以外の誤解ですが、「改善していない」ことはありません。
みなさんが大好きな使用済み生理用品は、ここ半年はまったく見かけません。
鼻をかんだティッシュは、完全ではありませんが見かけなくなりました。ゴミ袋も気がついたら替えてくれることも増えました。少しづつ改善されております。
また個人的に素晴らしい変化だと思ったのが洋服と雑誌を捨てられるようになったことです。
改善していく過程は全く書きませんでしたが、書くと長くなるので、要点だけ記します。
最初は怒鳴ってケンカすることが多かったです。ですので「怒らず冷静に対応した」というのも誤解で、最初は怒っていました。ただ、ご存知のように言って直るぐらいなら苦労はしないわけで、私も情報を集めて、試行錯誤しました。
私が率先して掃除をしてしまうと、妻は機嫌が悪くなります。どうしてかはわかっていました。私が掃除をすることで「自分は掃除もできないダメな妻」と感じてしまうのです。そこはよく話をして「ダメ妻だとは思っていないよ。大好きだよー」とフォローしました。基本的には注意しつつ褒めつつヨシヨシナデナデしつつといったところです。
それから、洋服を捨てられるようになった話ですが、たまたま見た「ティム・ガンのファッションチェック」があまりに素晴らしかったので、一緒に見るようにしたところ、しばらくして、洋服を整理するようになりました。ティム・ガン△。
俺も残念でーす、反省してまーす、反省してないことを反省してまーす
毎日死にたい死にたい言ってもちっとも行動が変化しないのは何故だろう
行動分析学的に言えば、嫌子出現や好子消失じゃないからなんだろうな
つまり、俺は「死にたい」って言うたびに良い気持ちなわけだ、自覚なしだけど
だからこそ死にたいと言う行動はなくならないばかりか強化されると
問題なのは、この行動によって自殺するという行動の生起頻度が変わるかどうかだ
死にたいと言う行動のみが強化されるんだから、他のものは関係ないはずだ
ただ、それは机上のことであるとも言える
ひとつの行動が複数の結果を生み出し、それが複数の行動を強化することがあっても良い筈だ
しかも、この場合近しい意味ネットワーク上にある事なので、あり得ても不思議はない
ならば、どういう随伴性なのだろうか
まずは、これを定義する
気持ち悪い→死にたいと言う→気持ち良い
ここで問題なのは、気持ち悪い→気持ち良いの部分だ
ここをさらに詳しく分解すれば理解される
ここで言う気持ち悪い状態とはなんだろうか
つまり、強化されているという事実を加味すればこういう事であると思われる
この随伴性によって、死にたいと言う行為は強化されると考えられる
さて、ここで問題がある
現実問題として、多少の慰安効果はあるにしても、事実は変わらないのだ
それは慰安効果以上の苦しさだ
これらの要素によって、より確実な慰安効果を求めるようになる
それは発言に留まらず、こう言った文章での公表、リストカット、他者依存と段階を経て変化していく
その変化の最終的な行き場として、実際に自殺を企画・実行するという行為が待っていると考えられる
初めは未遂であったものが本格化してゆき、生起頻度が強化され、死んでしまう
真面目にやろうとしてるんだけど失敗してしまう人に対して 「なんでそんな事が出来ないんだ?」 「そんな事も分からないのか?」 「なぜここを詰めていないんだ?」 「どうしてやってないんだ?」 「前も言ったじゃないか!」 などと叱る人が居る。というか私もたまにやってしまう。 不真面目にやろうとしていたり、他人に迷惑をかけようとしていたりする場合は 叱る必要があるように思えるが、真面目にやろうとしている人を叱るのは 何のメリットも無いんじゃないかと思った。 というか、普段からそう思ってる。 思ってるんだけど、ついそういう言い方をしている事がある。 反省を込めて、なぜ叱ったらダメなのかを考えてみた。 ■真面目にやってるのに失敗する人には、うまくやれる方法を教えれば良いだけだから。 あえて不愉快な思いをさせる必要は無い。 発奮して欲しい場合は 「うまく出来るようになったらこんな良い事があるよ」 と言えば良い。 ■人を傷つけたり不愉快にさせるのは、出来るだけ避けた方が良いから。 イライラさせてしまうし、そのイライラは伝染する。 後輩であれ部下であれ、一人の人間なのだから、意味もなく傷つけてはならない。 ただでさえイライラする事が多い世の中なんだから、 少しでも全体のイライラを少なくする事に全力を尽くすべき。 ■行動したら叱られる(罰系の刺激を受ける)なら行動しない方が良いと条件付けられるから。 行動分析学で言うところの「嫌子出現の弱化現象」になり、 何かしようという気が失せてしまう。 他にもありそうだけど、今は思いつかない。他にも何かあれば教えて下さい。 ただ、真面目にやってる振りをしているだけかどうかは注意深く確認する必要があると思う。 また、失敗が続く人には、どうしたら失敗しないように出来るかを教えれば良い。 少しぐらい失敗しても良いと考えているようなら、なぜ失敗したらダメなのかを教えれば良い。 それでも失敗する場合は、その人にその作業をやらせない方が良い。 それが必須の作業なら、どこまで我慢するかの判断が難しいが、配置転換かクビが妥当だろう。 この考えでは合わないケースや、それでも叱った方が良い理由や、 漏れている事(例えば、こういう性格の人は叱った方が良いなど)があれば教えて下さい。