2013-04-14

行動修正の末路、理想形無き援助は甘やかしと何が違う

ある人の行動を変容させる手法確立しつつある

行動・環境間の関係については動物実験を超え、人間に対する実証的な研究の段階にある

しかし、行動を修正する事には危険がある

そもそも、どういう基準でもってそれを問題とし、それによって何が為されるのかを自覚があるのだろうか

ある人物が抑うつ的な気分で部屋に引きこもっている

では、抑うつ的な気分を晴れさせ、部屋から出て仕事が出来るように認知と行動を修正すべきだろうか

この問いに対して「あらゆる場合においても、それは為されるべきである」と言うのか?

社会適応が為されたその結果は、だれが評価し、正しいのか間違っていたかを判断するのだ

本人がその過程で「嫌だ、俺は一生部屋から出ない」と反発し、それを無視してもいいのか

会社に入り「行動修正のおかげです、ありがとうございました」と言うのはなぜ受け入れる

もし、抑うつと言うのが進化過程必要から獲得した種としての機能であった場合どうする

また、周りはどうだ

親は、兄弟は、友人は、会社上司や同僚は?

社会適応で得られる変化と、引きこもっていた場合の状態ではどちらが重要

人生を終えてみないとどちらが良かったかからないという意見にはどう対応する

あらゆる人間を調査し、どのような状態であれば幸福か、間違いがないかを調査するか

よしんばそれが出来たとして、それを個々人のケースに適用する事に正当性実用性はあるのか

また、そうした量的分析の結果と、人間性心理学精神分析エリクソンの発達課題にどれほどの差があるだろうか

行動分析学はあくまで道具だ

標的行動は人間が決め、どのような人生を歩むのかも人間が決める

そこの選定は行動分析学教科書には書いていない

では、何かの理論定義された「人間とはかくあるべし」を手本にするか

手本にする理論の選択に恣意的なものがないとなぜ言える

理論を折衷する選択に治療者側の人生経験によるバイアスが掛からないとなぜ言える

結局の所、心理臨床の場は博打に過ぎない部分がある

真に成功した心理臨床を受けるには、自分と目指すべき理想形が一致した治療者を見つける他にない

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