はてなキーワード: 社会生活とは
ここ何年ほどだろう、Youtubeがゲームのプレイ動画で溢れるようになったのは。
攻略につまずく箇所があれば以前は検索から文字情報にて解決していたことが、いまでは誰でもわかりやすく動画にて提供されている。
時間があればPCと向き合って対戦ゲームに時間を費やしてきた。
WoWに始まり、GW2、格ゲー全般、LOLなどで対戦する際に溢れ出るドーパミンやアドレナリンといった脳内麻薬に依存して生きてきたと言ってもいい。お陰でゲームするときはいつでもお腹が空くことはなかった。
そんな生活をしていてもゲームという依存症から己の意志で抜け出ることは可能だったし、それをコントロールしている自信もあった。
しかしここ4年ほど、GW2の頃からだろうか、プレイヤーの対戦動画を見るようになって全てが変わった。
動画を見ているときの自分の感覚が、実際に自分がプレイしているときの感覚に非常に近いことに気付いた。
これはいままで実際にゲームしていたときに出る脳内麻薬が、動画を見るだけで出るようになったと考えられる。
完全に同じ状態になるわけではなく、近い状態になるというところがポイントで、この状態になるとゲームをしたくてたまらなくなるのだ。
対戦して拮抗した実力の相手をギリギリの接戦で打ち負かす、という感覚を再び味わいたくなってくる。
それ以降、ゲームに対して歯止めが効かなくなってきた。ゲームは私の社会生活にまで影響を及ぼすようになってきていた。そしてその原因は何かを考えた結果、以前は存在しなかったプレイ動画に依存していることがわかった。
というわけで今後、意識してプレイ動画を見ることを控えようと思う。
いつでもYoutubeを開けば仕事中でもプレイ動画が見れるというところに問題があった。そしてそれにより再び脳内麻薬依存症へと陥る、あるいは脳内麻薬の放出を継続させることが問題なのであった。
そのことに今気づいたのは良かったことだと思う。
言葉の稚拙さや乱雑さに耐えかねて反論するのはいいさ、言葉に言葉をぶつけることで議論になるからな。自分も長谷川氏の一番最初のエントリーですぐに反論したさ。
そりゃあんな堕落した透析患者は抹殺せよなんて糞馬鹿頓珍漢だからな。そりゃいいよ。反社会的な言論にたいして常識を教えてあげるのもいいよ。
しかしだぞ、しかしそれと長谷川氏の生活を脅かすのはまったくの別な話だろ。今回の炎上は社会生活へのダメージでいえばベッキーと同じぐらいなのだろうけどどれだけ相手が悪かろうとな、相手が死ぬ前段になったらこれ以上はやばいって思うんだよ。
長谷川氏のはずいぶんステップがあって彼が謝罪しなかったことも悪いけどそれ以上に彼がどれだけ悪かろうとこれ以上はやばいって最初の番組が降板した時に思うだろ普通は。思わないのだとしたら当事者意識と責任感と身体性に欠けている。炎上して薪をくべてたら燃え上がってるのも楽しいけど一定のレベルを超えたらどんなに正しくても薪をくべたら危ないって思うべきであってそれが罪悪感なんだよ。
死刑を執行する時に執行官が複数いて誰が殺したかわからないようにして罪悪感を持たせないようにしているみたいだけどネットだとそれが100万人規模になってもはや殺したのが誰かわからなくなっちゃってる。
だからスポンサーに電話する馬鹿とかも出てくる。ブログの内容だけでスポンサーに電話するのは完全にやりすぎ。「提供先企業に派遣されている個人事業主のブログでこんなこと言ってました、だから番組を下ろさせてください」なんてよく考えたらわけのわからないクレームだぞ。バランスを考えろよ。人は殺しちゃいけないんだよ、それは身体はもちろん精神的にも、そして社会的にもだよ。
自分が何らかの分野でマイノリティであるという意識は、おそらくこんな場末のはてななんかで増田やってる人なら持っているんじゃないかと思う。
LGBTであったり、中卒や高卒といった低学歴であったり、特定の地域出身であったり、人に褒められない職業をしていたり、オタクだったり。
だけども例えばオタクだけど高学歴だったり、LGBTだけど安定した正社員だったりといったように、ある部分ではマイノリティだけどある部分ではマジョリティだったりする。
社会生活を送っていてよくあるのが、そんな自分の中のマイノリティとマジョリティがぶつかる場合だ。
極端な例で言えば、「今後この会社では○○の人間は昇進させない」といった方針が出されたような場合だ。
○○の部分には、「オタク」「偏差値一定以下」「LGBT」などの世間的にマイノリティとされる分類が入るとする。
そんなとき、何食わぬ顔して自分には関係ないとばかりにその方針に従うか、それとも自分自身もそうした被差別的扱いを受ける立場であることをカミングアウトして世間に訴えるなりするかというところで対応が分かれると思う。
もともとずっとマジョリティとして生活しており、今後もずっと自分がマジョリティであるということを疑わずにいる人にとっては、わざわざ訴えて波風立てなければ自分もいい扱いをうけるはずなのにどうして余計なことをするんだろうと思われると思う。
だがそれまで世間的にマイノリティという部分を持ってきた人の多くは、その「わざわざ」をしてしまいたくなる。
もっと言うと、高学歴の正社員だけど、オタクで、女性で、LGBTで、障碍者といった複数のマイノリティ分野を持つ人の場合、なぜだかよりマイノリティである立場としての行動をしたくなるものだ。
たとえば、「失敗を恐れる」と言われる人がいる。失敗を恐れる人を批判する際にはしばしば「傷つくことを恐れている」という言い方がなされるが、実際のところそれがどういう傷つき方なのかに関して、批判者と当事者では大きなすれ違いがあるように思われる。
私見では、「失敗を恐れる」という時には2種類の仕方がある。自分の能力不足を実感することへの恐れと、自分の性格上の問題があらわになることへの恐れだ。 「失敗を恐れるな」という人は、そういう人を前者の意味で恐れているのだと考えるかもしれない。しかし、実際に「失敗を恐れる」と言われる人はむしろ後者を恐れているのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。ここにすれ違いがあると考えられる。
明確に能力不足に基づく失敗は対処しやすい。やり直しが効きやすいし、そのために何を頑張ればよいのかもかなりの確率で分かる。この世のすべての失敗がこれにカテゴライズ可能だったらどんなに素晴らしいだろうかといつも思う。
一方で社会生活の中には、この二分類に収まりにくい失敗もありうる。大げさな例だが、作った製品の動作不良で人を死なせてしまった場合なんかはそうだ(道義的責任が来るからね)。そこまで行かなくとも、日常のちょっとしたミスでさえ何度か繰り返していればいつの間にかそれは「意思の問題」や「性格の問題」になってしまうのが常であろう。
普通、能力の問題と人格の問題は別であると言われる。「あなたのやったことを咎めているのであって、人格非難をしているのではない」云々。しかしその二つが本質的に区別されうるものとは思ってない人にこれが通じるだろうか。私はこの二つに本当は大した違いなど無いのではないかと感じることが多いのだが (*1) 、そういう人は他にも大勢いるのではないか。
他の人がどうかは知らないが、少なくとも私の場合、失敗を恐れる気持ちとは「どこからどこまでが能力の問題でどこからが人格の問題なのかが分からなくなる経験」と一体になっている。「次失敗すると、それが人格や意思の問題にされてしまうのではないか」という感覚が湧いた時、失敗を恐れる気持ちに繋がる。だからそれを逃れるためには、
のどちらかしか無い。
まともな社会性を持っていれば、人格の問題と能力の問題が区別できなくなることはそうそう無いだろう。しかし、一度それが分からなくなった人間に言葉で理解させるほどの力を普通の人は持っていない。区別に自信のない人間は、他人を能力で殴れるようにするか、その場を逃げるしか無い。
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(*1): どういう時にこれを感じるかといえば、たとえば「ほんとうに頭の良い人は○○しない」系の文章を見た時。これは人格を知能に還元できることを前提にした発言ではないか?
話の初手で「いつもお世話になってます」とこちらが言ったときに、お世話になってます返しをしてくれるお客さんは話がスムースにいくことが多いと思う。
逆に、この挨拶に対するリアクションゼロの人は話をこじれさせないように気をつけようと身構える。
実際に経験上、リアクションしない人は自分の話したいことを話したいペースで話して、こっちの言うことはさっぱり聞いてくれないことが多い。
こちらと同じステージに降りて話してくれる人と話を進めやすいってのはまあ道理だよなと思う。共通言語があるというか。
共通言語がないタイプの人はどういう属性なんだろうなあ。合わせる気がないっていうんじゃなく、本当に共通言語を持っていないような人。
社会生活をする上で客商売精神を獲得しなくて済んだ境遇の人なのかなあ。コミュ障としてはうらやましい限りです。
合わせてくれるタイプの人でも色々あって、こちらの発言を吟味した上でお世話になってます返しをしてくれる人は
基本的には気持ちよく話しがまとまるけど、何か納得できないことがあった場合はするどいツッコミを入れてくる場合がある。
逆に脊髄反射的にお世話になってます返しをする人は従順というか、悪くいえば丸め込みやすい気がする。
私自身にも言えることだけど、このお客さんも体育会系客商売を営む中で反射的に決まり文句が出るようになったんだろうか……と勝手に想像してしんみりしてしまう。
できることなら全てのお客さんに親切に、満足してもらえる応対をしたいと思っているけれど、
その実二言目ぐらいにお客さんへの態度が変わってしまっているのかもって話でした。
とりあえず、話が通じなさそうな人は非常に苦手です。
事あって、久しぶりにバカと会話をした。
Aという人からBというバカとの間の仲介役として入ったのだけど、双方の間でのとある決まり事が問題となっていて(少なくとも俺にはそう見えた)、物事がなかなか進んでいなさそうだった。
(ちなみに、そいつのことをバカと言いたいが故にBと呼称したわけではない。)
「それだったらルールそのものを修正すればいいんじゃないか」と思って、ルールの変更や修正を相手に認識させるために「なんでそうしなきゃいけないと思う?」とBに促してみた。
「でも今のルールじゃうまく機能していないんだよね?」と改めて聞いてみると「ルール以外のことはやらない」と言い張るばかり。
流石にあきれて、「じゃあそのルールがなかったら、どういう風にすればいいと思う?」と聞いてみた。
が、相手は「そういう決まりになっているんだからルールを守るべきだ!」とずっと繰り返すばかり。
改善策を考えるどころか、現在の決まり事に固執されていて、「決まり事が守れないことが悪い」という考え以外に頭が回っていないようだった。
結局あきらめて結局向こうの言い分だけ聞いて、相談を持ち掛けてくれたAに「向こうはこう思っているらしいよ」ということだけ伝えて、今回の話は終わった。
決まり事を守るというのは確かに社会生活上大事なことだし、それを疑うことなく真面目にこなすことでその人はこれまで生きてきたし、そのおかげでバカなりにも生きてこれたんだと思う。
だけど今ある状況をよくするには、制度や既存の枠組みそのものが間違っていたりすることもある。
普段そんなに意識したことがないようなことだったけど、何か問題が発生した時に色々な側面から物事をとらえて、ある観点から見た事象に疑問を持てることができるかどうか、そしてそれをどう改善していけばよいか考えて、提案できることが、バカとそうでない人の差なのかなと思った。
端的にバカと言うよりは頭の固い人の話なのかもしれないけどね。
(1)高濃度のテストステロンを「投与」された結果、攻撃的になって事件起こしたら誰がどういう罪になんの?
・本人も知らない場合…たとえばオリンピック選手がコーチから、筋肉増強のため「合法的な栄養剤だよ」と騙されて注射されてた場合とかなら?
(2)第三者が、本人にテストステロンがどばどば出るような食事・生活を送らせることで、攻撃的な性格にした結果、その人が事件を起こしたら?
・これも本人があずかり知らないところで、たとえば妻がDVを起こさせ有利な条件での離婚を企んでそのようにしていたとしたら?
(3)生まれつきテストステロンがどばどば出る人が攻撃的な性格に育って、事件を起こしたら?
・ちなみに、事件後抑制する治療を受けたところ、実際すっかり穏やかな性格になったとする。本人は「子供に適切な診察と診療を受けさせなかった」として虐待のかどで両親を訴えるつもりとする。
(4)器質的には特に目立った問題がないが、性格面で子供のころから妙に性欲が強く自制心が弱い子がいたとして、そのまま成長して事件を起こしたら?
同じく「ある人に生まれつきの問題があり健全な社会生活を送ることが困難である場合、いつ誰がその人の『ハンディ』を修正する責任を負担するのか。両親?本人?周囲の人間? それとも社会全体?」という問にはどう答えるのが正しいのか。ケースバイケースなのか。
(追記)
すごく早く回答がきてびっくりしました。ありがとうございました。3人のトラバを見ると、要は「薬物の影響下であっても自由意志の存在が認められない程度でない限りは本人責任」ということになるんですね。人間の理性や「自由意志」に対する法の期待ってなかなかすごいものなのですね。「気分」なんてものに人間が左右されることは想定していないという。
後者の問題(ハンディの責任は誰に?)についても同じように考えることになるんでしょうか(自由意志が存在し意志の支配が可能なことについては100%本人責任?)。今回の事件の犯人である彼の性格を一種の「障害」とみなすことはできないのか、その場合、一般に障害の責任を本人に100%背負わせないように、本人以外にも責任を分散させるという考え方はないのかな、と思ったんです。
(追記2)
背が高い。頭が良い。目が悪い。美人。ブサイク。物忘れが激しい。性欲が強い。
それらの中で「社会生活を営むのに障害となるような個性」と認定されたものを「障害」と呼びます。
目が悪いことは、昔であれば致命的な障害でしたが、現在は眼鏡を掛けるだけで解消するので、概ね障害とは見做されません。
人はしばしば憂鬱な気分に陥りますが、たいていは気分転換でもすればすっきり解決するものです。
しかし、あまりにも憂鬱で長期にわたって仕事ができないということになれば、
社会生活を営むことができなくなり、これは精神的な障害と言えます。
空気を読めなさすぎてまともに働くことができないのであれば、これも障害になりえます。
性欲は人間にとって最も重要な欲求のひとつであり、これが全く無ければ人類は滅亡する他ありませんが、
性欲が強すぎて犯罪をおかしてしまうようであれば、その人が社会生活を営めないのは間違いありません。
背が高いことはむしろ自慢できるかもしれませんが、
身長が5mもあれば、生活上のさまざまな困難が予想されますから、これは障害と見做される可能性があるでしょう。
まあそんな感じです。
男性が男性に告白されて恐怖を感じるのは、「突っ込まれる」ことへの恐怖だ。人生において突っ込まれる可能性の恐怖を感じたことがないのに、初めてその可能性に直面したわけだ。以前あった痴漢論議において、女性が男性から痴漢被害を受ける恐怖は、男性がより屈強な男性から痴漢被害を受ける恐怖と等しい、とあったように。
ずいぶん以前、メディアでの「オネエ」の扱いや、BLなどの創作におけるゲイ男性の扱いについて、性的少数者から「セックスモンスター扱いはやめろ」という声をネットでよく見かけた。男性はあまりご覧になっていないかもしれない。
性的少数者は、いまだに性的に逸脱した存在だと見られがちだ。逸脱した存在は容易に「普通ではないおかしな人」=「異常者」に置き換えられる。異常性愛者と見なされると、彼/彼女は「性的な存在」カテゴリに置かれてしまう。「あいつは性的におかしい。(あまたある事象の中で特に)性に関係する存在だ。きっと性のことばかり考えて、しかもそれが異常なのだ。頭がおかしい奴だ。何をするかわからない、性的妄執を抱えたモンスターだ」というわけだ。
言うまでもなく、性的少数派は、性の指向が多数派と異なるだけだ。性指向以外については、性的多数派において多様な嗜好が存在するのと変わらない。わたしたち誰もが、恋人や配偶者と過ごす時間もあれば、仕事をしたり、自転車に乗ったり、映画を見たりするのと同じ。
ついでに言えば、これも多くの人が言うことの繰り返しになるけれども、同性愛者の好みだって人それぞれだし、サラリーマン的な社会生活を営む同性愛者の場合、過剰に性的な言動をしない人が多いだろう(リサーチ数が少ないので断定はしない)。あなたは会社でも過剰に異性に対して性的な言動をするのか?(そういう男性がいることは知っている。そういう人が見ている同性愛者は自身の鏡だ)
始めに戻ると、なぜ男性は同性に告白されたときに、過剰な恐れを抱いてしまうのか。それは「突っ込まれる」のではないかという恐怖だ。性欲をはらんだ視線だ。自分を害する可能性をはらんだ、性的な視線だ。(自分はアナニー上位者なので大丈夫とかいう戯れ言には、もちろんそういう性的嗜好の人もいるだろう、多数派にも少数派にもとお答えしておく)
ところでどんなに不細工であっても、女性はそれなりに性的視線にさらされて成長する。実体験で申し上げると、不細工側の体験しか披露できなくて申し訳ないが、たとえば品定めしたうえの侮蔑とか、品定めしたうえで「お前程度なら」という軽視、顔も見えない満員電車での痴漢などなど。そこに「突っ込まれる」恐怖は、自覚するにせよしないにせよ、幼い頃から常に存在している。でも、女性が女性から告白されたときに、即座に「突っ込まれる」恐怖は感じにくいよね。
喜ぶか、驚くか、嫌悪感を抱くか、そこは人それぞれ、ケースバイケースだと思うけど、「セックスモンスターが近づいてきやがった!」という恐怖は感じにくい。だってついてないものね、あの棒が。
あなたに告白してきた相手が、性欲むき出しで「いますぐやらせろ」というセックスモンスターならば、告白されたのは欲望でしかないから、願ったり叶ったりという人以外は速やかに逃げるがいい。
あなたへの告白が、まずはお付き合いしたいという甘酸っぱい愛の告白ならば、熟慮もしくは即断でお返事すればいい。もうこれは、胸を焦がすようなフィクションから、増田の隅の日記まで、参考には事欠かないだろう。
あなたへの告白が、堪えきれない懊悩の告白ならば、あなたが抱えられる範囲で耳を傾ければいいし、無理ならプロに任せればいい。ただし悩みや問題には、天才的な助言で万事解決するものばかりではなく、誰の手にも負えない、厄介なものもあるし誰にも救えないこともある。プロがいないこともあるし、災難を招くこともある。だからもしも仮に、あなたがここから口をつぐんで逃げたとしても、それは仕方のないことかもしれない。
真面目なナヨナヨしてるセックスレス男性に相談を受けたが、明らかに体格的にも女々しい奴で、
普通の社会生活なら別に女々しくてもいいけど、根本的な家庭、夫婦の問題でレスなら
まず筋肉つけろ、自分を鍛えろと一緒にジムいって日焼けさせたら、なんか3か月くらいで
セックスレス解消してたわ。そういうパターンも一般的かどうかはしらんがある。
さすがに同僚だったからなんとなくの詳細くらいしか聞いてないけど、鍛えて体が締まることによって
見る目が変わり、扱いも変わったとか。
夫婦関係で無理が生じてるんだから、そのままの自分ではなく、自分も無理して変えて
なぜ病院に行ったの?
さて、それでは本題に入るが、病院ってお悩み相談で気軽に行けるような場所じゃないよね。主に金銭的な理由で。
何か、うつ病などになったと診断されることによって自分に何かしらの利益があるから行ったのではないのか、ということを俺は知りたい。
例えば休職ゲットするために必要なもっともらしい理由ってのは、うつ病だが、その証明書が欲しくて行ったとかさ。
あるいは、生活保護を受給するには社会生活を満足に送ることが出来ない事が証明できないといけないので、やはりうつ病の診断書を手に入れるためににいったとかさ。実際はうつ病じゃなくても迫真の演技で取れるしなあれって。
思ったことをそのまま言う⇒嫌われる
↓
↓
無難に会話を交わす⇒腹の底が読めないと嫌われる
色々試してきたが、ダメだ。
「嫌われるのを恐れず突き進め」的な思想もあるが、やっぱり気分が悪いし、社会生活の上で実害も出てるのでどうにかしたいところ。
食堂で流れてた朝ドラをなんとなく眺めてたら、唐沢寿明と主人公がなにやらキツい声音で何か喋っていた。
唐沢の方はどうも自分の過去の行動について自分で自分にキレて語ってる感じだったんだけど、
ケンカしてるわけじゃないけどなんかそういう声音に聞こえたのか、破裂音っぽい声が聞こえるたびに反射的に体がビクっとして味噌汁こぼしかけた。
そのうち、そんなセリフが結構長く続いて緊張状態が続いた(5分も経ってないけど)せいか、こめかみまでズキズキと痛み始めてしまった。
タイトルの属性の違いは一般の人にとってすごくわかりにくいと思う。
自分ではそのつもりはなくても、その言葉を使うことで「傷ついた」という人も出てきて、煩わしく感じている人もいるかもしれない。
自身は知見があるので、それらの言葉の違いと、どうすればよいかを簡単に記していきたい。
生物学的な性が男 and (女性的な格好をしている or 男性が好き)
自分で自虐的な意味で使うのは良いが、他人にへ使うのは好ましくない。
メディアはオカマという言葉を控える代わりに別の呼び名を作った。
それがおネェである。
ただし、これに侮辱のニュアンスを感じる人もいるため、今後オカマと同じ運命をたどるかもしれない。
また、おネェと自称する当事者はあまりおらず、メディア上の(特にバラエティ番組での)特殊な言葉である。
生物学的な性が男 and 男性のみが好き and 性同一性障害ではない
自分の観測してきた範囲だと、ゲイで女装して過ごしている人は少数派だ。
もちろん、男性に好かれるために女性になろうとする人もいるが。
http://anond.hatelabo.jp/20160118180656
テレビのようなステレオタイプなゲイはお店に行けば会うことができるが、普段からあのノリの人は少数派だ。
マサイ族が普段は都会暮らしで、客が来たら民族衣装を着て狩りをするのに似てる。
自身の生まれ持った性に嫌悪感を感じ、反対の性になることを望む人
実は、格好や性対象はあまり関係なく、自身の性に対し強烈な嫌悪感を抱いているかどうかで判断される。
ここではタイトルの趣旨から、男性から女性になる人について書く。
性対象は、自分は女性だと思っているので、男性になる傾向がある。
自身を女性らしくすることを強く望み、普段から女性の格好をしようとする、またはできるようにする。
女性ホルモンを使うことで見た目を女性的に近づけることができるが、1年以上かかり、
その期間中は男としても女としても違和感のある存在になりがち。
自己実現できていない人や性別移行中の人は、男性であることが受け入れられない自己否定と周囲からの視線や偏見によって病んでいる人が多い。
素材や性別移行開始年齢によって見た目に大きく差が出る。
それらに恵まれなければ、女装した男にしか見えない容姿になってしまう。
社会生活でそれが不利に働くことを認識している人の中には、敢えて男性の姿で生活している人もいる。
ただし、性同一性障害の人にとってこれは侮辱の言葉なので使うことは禁忌だ。
上記の属性以外にも、少数だが、ナルシズムやマゾヒズム、破滅願望などの性癖を満足する手段として女装をする人がいる。
また、厨二病の延長で、何もない自分に何らかの特殊性を獲得するために女装する人もいる。
それらがいきすぎて女性ホルモンを使ったり性転換までしてしまう人も見られる。
しかし、彼らは社会的な承認を得るために性同一性障害と主張するので、結果的に性同一性障害の人と見分けがつきにくくなる。
その動機故に、性対象は女性、または両性である割合が高い傾向がある。
特殊であることが彼らをかりたてているので、承認欲求を満たすべくSNSをやっている人が多い。
逆に、性同一性障害の人は自身の過去を隠し、元男性であることを明かしたくないのでSNSでそれを主張する人は少数派である。
個人によって何がOKで何がNGかはバラバラなので、悪気なく上記の言葉を使っても当人を傷つけてしまうことがある。
それが面倒くさく感じてしまうと思うが、対応策としては当たり障りのない呼び方をするのが最も簡単であろう。
当事者を呼ぶ場合に最大公約数的な対応を考えるなら、オカマやおネェ、女装という言葉は使わず、女性と言えば丸く収まる。
もし、厳密に男性として扱わなくてはいけない場合は、「生物学的に」男性と一言つけることでだいぶ印象が変わる。
あの人は生物学的に男性だから。のような呼び方をすれば、当人を傷つけるケースは減るだろう。
追記:
http://anond.hatelabo.jp/20160713184113
の人が、本記事に対して不完全性を補完しようとしてくれた。
大変ありがたいのだが、本記事の趣旨を明確にしていなかった私のミスだ。
興味のない人にとって新しい概念を理解するのはすごく重労働だ。場合によっては知らない言葉が出てきた瞬間聞くのをやめる人までいる。
簡単な概念であっても「性思考」、「性自認」と言った言葉は普通の人には馴染みがないし、なんとなくつかんでも実感がわかない。
windowsユーザーに「ターミナルやvimというものがあってだね」と言おうものなら、その時点で情報をシャットアウトしてしまう人は多いのと同じだ。
そこで、今回はそれぞれ言葉としてはそこそこ有名だけど、どう違うの?という人に向けて書いたのだ。
(故に網羅的ではなく、トランスヴェスタイトなり、FTMなり、そこまで知名度の無い言葉や類似性が乏しいものについては書いていない)
当事者にとっては性思考、性自認、思考の区別は明確だが、知らない人にとってはごっちゃになっている。
また、当事者が意図せず傷ついてしまい、それ故に当事者と関わるのが面倒くさいという人もいる。
ここではなるべく新しい概念を持ち出さずに、既に知られているがややこしい言葉の違いを一般的な言葉で違いを伝え、当事者を傷つけないようにするための簡単な手段を記した。
ということを文頭に書くべきだったが、あまりに簡素に書きすぎてしまった。
申し訳ない。