はてなキーワード: 古語とは
日本フェミニスト経済学会大会 男性中心の資本主義による「女性の資源化」に警鐘
https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2024/09/05/gender-167/
会場に衝撃を与えたのは福永さんの「あわいものから見る世界:サーモンとエコフェミニズムの交わるところ」だ。「あわい」は古語の「合ふ」からくる言葉で、ここでは自然と人工の境界が曖昧になってしまった生物を指す。福永さんは「サーモン」という名称で販売されている食品が、今や「鮭」ではなくなっていると指摘する。
安定した食味、色、脂肪を求める消費者に応えて「おいしいサーモン」が生み出されている。求められる味、画一性、サイズ調整などを可能にするバイオ技術は、成熟しない不妊のメスだけを増やす「全雌3倍体」や、「生むこと」の商品化である「ちがう種を孕むニジマス」など、人間以外の生物に多大な負担を強いている。そしてそれを食べることで私たちは自分の身体に不自然なものを取り込んでいるのだ。
福永さんはこの状況をもたらしてきたグローバルフードシステムのリスクと限界を指摘し、「新しい食の様式」を模索する「人間らしさとあわいの倫理」を示した。
労働とジェンダー研究を専門とする伊田久美子さん(大阪公立大学)は福永さんの報告に「資本主義はここまできたか。人間以外も含めて女性の資源化が進行しているということをあらためて感じた」とコメント。岩島さんはセッションの最後に「人間と環境のウェルビーイングという視点によって、伝統的経済学が前提としてきた人間の概念を捉え直す内容となった」と成果を語った。
改めて、危機的な状況と言わざるをえない。
光秀が謀反を起こすきっかけとして伝わる(真偽が怪しい)逸話で、例の「家康の接待を任されたら魚が腐ってた」みたいな話のほかにもうひとつ有名なやつがあって。
なんかついに武田を滅ぼした祝勝の席で光秀が感極まってなのか、めでたいですねみたいなこと言ったら信長が激怒して
(光秀)まことにめでたいことだ。我々も長年苦労した甲斐があった
(信長)汝ハ何方ニテ骨折武辺ヲ仕ケルゾ。我コソ日頃粉骨ヲ盡シタリ。悪キ奴ナリ
と公衆の面前で面罵するやら殴打するやら。信長パートは古語なのに完全に意味がわかっちゃうのがすごいよな。しかも光秀って信長より10も歳上ってんだからね。本能寺の変から3か月前の話です。
(夫)でふと「ようやく、『育て上げた』って感じがするなあ」としみじみと呟いた。
ダメだろこんなもん。もう殺し合いしかないじゃん。もっと楽しそうにしててくれよ。結婚とか子育てとかしたくなくなるよマジで。
なんで元増田じゃなくてこの横増田にレスしてるのかというと、横増田が元増田の「悲しみ」に言及してる点はいいなと思ったのよね。
かりに元増田が本当に迂闊でさ、奥さんにワンオペ育児させててさ、それを奥さんがまだ根に持ってたとしてさ、まあそこまでは明確に夫婦生活の失敗というか、そんな怨念溜める前に毎日話しとけよって話になっちゃうとは思うんだけど、でも話せなかったわけじゃん実際。
でここまでこじれちゃって、たまたまキッカケで奥さんが積もり積もった怨念を淡々と開陳してきて、元増田は「意味わかんねーわ何なの一体??」とか増田に書き散らしてるけど、でも元増田は悲しかったし傷ついてるわけじゃん。
元増田には書いてないけどさ、その傷ついてる夫を見て奥さんはどんな顔してたんかね一体??
「私の不満は正当だと思っているけれども、それはそれとして今ここであなたを傷つけようという意図ではなかった、あなたが悲しい顔をすると私も悲しい」みたいな顔してたのかね?
ダメでしょそんなもん。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
これ余談なんですけど…にて、伊集院光が心に刺さった名言を語っていた
「お前がちっちゃい時から時間を忘れて楽しかったこと何かあるだろう?
という言葉だそうだ
「自分が好きなことをソレが好きじゃない人に説明出来るようになったら、お笑いの喋り手は一生食ってける」
という意味とのこと
なるほど
で、自分にとっての「時間を忘れるほど楽しかったこと」はなんだっただろう?と考えてみた
けど
特に思い当たらなかった
いや、もうちょっと後まで有ったような
でも思い出せない程度だから一生食ってける何かに繋がる程のもんでもないってことだ
(しかも全期間共通して一つのことを楽しんでたわけじゃないしな。マイブームって古語があるけど、ソレだよな)
やっぱりね、自分が楽しいことで食ってくってのは相当な情熱が無いといかんわけですよ
もしくはビジネスライクに上手にやれる才能
情熱が無いものに取り組んで倦まずに上手くやり続けられる才能なんて勿論無いし
何者にもなんとかってこういうやつだな
(そもそもなりたいとも思っていないしな)
一所懸命だけを使う人に聞いてみたいな。なぜ「一生懸命」ではなく「一所懸命」を使うのか。
さて,それでは,現在採るべき表記法はどうであろうか。最近の辞典類を見ると,『岩波国語辞典』(岩波書店刊)は,「一所懸命」を本見出しとし,「一生懸命」をから見出し扱いにしているが,『例解新国語辞典』(三省堂刊),『新明解国語辞典』(三省堂刊),『新選国語辞典』(小学館刊)などは,「命がけのこと」を意味する語としては「一生懸命」を本見出しにし,「一所懸命」を併記したり,古語扱いにしたりしている。さらに『例解辞典』(小学館刊),『NHK編 新用字用語辞典』,『朝日新聞の用語の手引』(朝日新聞社刊)などの用字用語辞典は,ほとんど「一生懸命」に統一している。
以上のことから判断すると,現在の学校教育においては,表現学習や語彙学習の場合には「一生懸命」が望ましいと思われる。なお,教科書の文学作品においては原典を尊重し,『オツベルと象』では「一生懸命」(原典は「いつしやうけんめい」)を,『蜘蛛の糸』『坊っちゃん』では「一生懸命」(原典は「一生懸命」)を,『ごんぎつね』では「一生懸命」(原典は「一しょうけんめい」)を使用している。
少し前のもので悪いんだが、この↓まとめや、まとめについていたブクマを見ていて思った。
https://togetter.com/li/2151341
勉強が得意だった人は、いや特に得意だった人じゃなくてもいいんだ、お前らは大人になっても、学生時代にかつて勉強したことを覚えているか?
俺は高校生はおろか中学生のころに習ったことさえ今はほとんど覚えていない。
まあ俺の場合、中高生だった頃からわからないものや覚えられないものはそのまんまでやり過ごしてきたのであんまり参考にはならないと思う。
(いわゆる旧帝大に引っ掛かってる大学を出てるんだが、受験における英語と国語が抜群に得意だったので、そこで10割近く稼いであとは勘(運)、って方式で生きてこれてしまった)
学校の先生とか、塾講師とか、よくわからないが現在も業務でつかう内容以外の仕事をしてるお前ら、中学で習ったことを覚えてるか?
俺の場合は具体的に以下の単元がさっぱりわからない(単元はネットでざっくり調べた)。
・円錐の体積の求め方(おぼえてない)
・因数分解のやり方(当時からわからなかったので勘で書いてた)
・南北朝(っていつ頃だっけ?)
・◯◯文化みたいなやつ(飛鳥文化しか覚えてないので、選択式なら「なんか江戸っぽいな」とか勘で選ぶ)
・電力と電圧と電流?の関係(どれがなにでどうなるのかまったくわからん)
・元素記号(スイヘーリーベー…なんだっけ?それぞれが何を示してるのかも忘れた)
・細胞のつくり(核とミトコンドリアと葉緑体はわかる。あとは忘れた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
アーミッシュの言語はドイツ古語(初期新高ドイツ語)の一派が第二次子音推移を経た高地ドイツ語のうち上部ドイツ語に属するアレマン諸語やその一方言であるスイスアレマン語およびアルザス語などがアメリカドイツ語と融合したペンシルベニアアレマン語を基本とする。
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(終助)
①自分の判断を強く言い切ったり,主張したりするのに用いる。「ぼくの方が正しい」「これならきっとうまくいく」「そら,やる」
②疑問詞と呼応して,反語や疑問を強めるのに用いる。やや文章語的な言い方。「一体だれがこの難問に答えられよう」
(副助)
文中の疑問詞を受けて,不定の意を表す。「だれに聞いてくれ」「なん食べ物はないか」〔の終助詞は近世以降の用法,の副助詞は中世以降の用法〕→ぞ(係助)
ぞ
(係助)〔古くは「そ」。上代から中古にかけ次第に濁音化し,「ぞ」が一般的になる〕体言・活用語の連体形・種々の助詞などに付き,取り立てて強く指示する意を表す。
①一つの物事を特に取り出して強調する。「峰高く,深き岩の中に聖入りゐたりける/源氏物語」「野中に岡だちたる所に,ただ木三つたてる/更級日記」
②文の調子を整えるのに用いる。この場合,動詞の連用形に付き,サ変動詞「する」で受ける。「折りてみば落ちしぬべき秋萩の枝もたわわに置ける白露/古今和歌集」
文末にある場合。その文を強く言い切るのに用いられる。「我をいかにせよとて捨てては昇り給ふ/竹取物語」「この西なる家には何人の住む/源氏物語」→ぞ(終助・副助)
鯖と錆が読みも漢字も似ているのなんでなんだろう
語源が同じなのかな
ぐぐりましょうね
こういうときは漢字の「鯖」の語源と大和言葉の「さば」の語源の両面から攻めないといけない
さば
→小さい歯を意味する「小歯」「狭歯」という説、あるいは多数で群れをなすことから多いことを意味する古語「サハ」が濁音化して「サバ」になった説
→いわゆる「わびさび」の「さび」と同じ語源か、すなわち古びたものを意味する「寂び」、これをさらに遡ると「荒び」
うーむ、「さば」と「さび」で音が似ているのは偶然と
じゃあ「靑」のつくりが「さば」みたいな読みをするのかな?……って、それはない
音読みの音が似ているならともかく
音読みなら「セイ」と読みたくなるわな
そうか、この疑問って「似た漢字の音読みが似るのはよくあるというか当たり前だけど、似た漢字で訓読みが似るのは珍しい」という発想から来たものだったのだなあ
銅が錆びると青くなるから「錆」……と思いたくなるが、どうもその説は薄そうだ
元々は金属の澄んだ音を表す漢字だった?澄んだ様子を表す「靑」が「金」とくっついた漢字ということか
それが日本で誤用されて金属の酸化したアレを指すようになったという説か←なぜ誤用されたのか?ここの疑問を掘るのも面白そう
じゃあ鯖の方の成り立ちはなんやねん
もともとは魚や肉を混ぜて煮た料理を「鯖」としていた?なんか怪しいサイトばっかでてくるな
それがサバが青々とした魚だから「鯖」という漢字をあてた……ということらしい
両方ともたまたま青に連想される性質を持っていたからってこと?
まとめると
「さば」と「さび」の音が似ているのは偶然
「さば」と「さび」の両方がたまたま青っぽい性質を持っていたから「鯖」と「錆」の漢字があてられた←「錆」の説明を端折りすぎだろ
こういうことって結構あるんだよな
なんか関連のありそうな二つの言葉の語源を調べたら全然違うってこと
「偶然なわけない、釈然としない」と言う気持ちを「偶然だぞ」と説き伏し組み伏せるパワーが必要になる
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あーそうだ、「青」じゃなくて「靑」なのは何故なのかって視点での調べ方はしてなかったな
「靑」が使われてある程度日本でメジャーな漢字は画竜点睛の「睛」くらいか
鯖と錆でつくりが旧字の青なのは同じ理由があるのか?という疑問文を作ることが出来るか
これも偶然くさいなあ(未調査)
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おすすめエントリに出てきた「帝王切開の語源のややこしさの話」って日記がおもしろかった
語源を調べるのが好きって人はやっぱそこそこの数いるんだな