はてなキーワード: 貧困家庭とは
生きる希望がありません。
ですが、そもそも児相で働いていると普通に結婚して子どもを作って幸せに生きていくのがどれだけ難しいかを実感してしまいます。
以前南青山に児相を建設するということで周辺住民が反対する騒動がありました。反対派の意見の中に「児相に入所している子どもが南青山住人の生活を見て格差を感じてしまうのでは」というものがありました。
なぜ虐待を受けている子どもは貧しい暮らしをしている、と決めつけているんでしょう。
貧困家庭でいわゆるネグレクトが発生することは当然あります。ですがわたしが働いている中で接したケースには立派な一戸建てに住んで、両親ともに働いて稼ぎもよく、親子ともに綺麗な服を着ている家庭もたくさんありました。それでも虐待は起きます。体にあざをつくり家から裸で締め出されて親に罵倒されている子どもたちに貧富の差などありません。
普通の家庭、いや幸せそうな家庭でも虐待がおきる。加えて、虐待家庭にはDVもある場合がかなりあります。そんなケースばかり見ていると未婚のわたしは結婚し、子どもを育てることが怖くなりました。
自分も子どもを虐待するのではないか?配偶者に暴力をふるわれる、もしくは暴力をふるってしまうのではないかと。
虐待の定義は広いです。今年4月から、児童福祉法改正によりしつけによる体罰も禁止となりました。
正直に言うと、全く虐待をしていない家庭などないと思っています。
例えばお子さんが悪いことをした時に頭をぱちんと叩く。このくらいはどこの家庭にもあるのではないでしょうか。でもこれも定義上虐待になります。
また、虐待のなかで特に多いのが心理的虐待ですが、この中には「夫婦喧嘩を子どもに見せること」も含まれます。子どもの前で夫婦喧嘩した時点で虐待になります。
あと性的虐待。勿論子どもに性的行為を行うことは虐待ですが、子どもに夫婦の性行為を見せたり、AVなどの性的なものを見せることも性的虐待に当たります。
子どもが少しでも嫌だと感じることは基本的に虐待になります。親御さんからしたらあまりに窮屈だと思います。子育ての難易度がたかすぎる。
児相も親御さんが「こんなことが虐待になるの?」と言いたくなる気持ちはわかるのです。でも虐待だと言わなきゃならない。当然親は反発する。これがしんどかった。
わたしはメンタルの弱い人間だったので、親御さんや関係機関の言い分を真に受けてしまい、言うべきことが言えませんでした。そしてうつになりました。
児相で働いている皆さんも同じような思いでしんどい中で働いています。でも児相は行政機関なので、できることに限界があります。みんな歯がゆい思いをしているのです。
昨今の痛ましい虐待事案で児相への風当たりはつよいです。児相に全く責任がないとは言いませんが、児相で働く人間も必死でやっています。
なんとか格差の緩和策を考えたい。
・東大側が出来ること
貧困家庭や社会的に恵まれないバックグラウンドを持った受験生には、その分の特別点を入試の点に加算する。
入学後も学力的についていけない場合は、成績評価の際に貧困度やバックグラウンドを考慮して加点して評価する。
入試も学力試験一辺倒ではなく、スポーツ、音楽、芸術の才能があるとか、ボランティア・地域貢献をした実績があるといった多面的な評価基準を作る。
・恵まれた家庭の親が出来ること
格差を少しでも緩和するため、子供を中卒か高卒で就職させるように努力する。
くらいだろうか。他にも幸福度ランキングやジェンダーギャップ指数で世界的にも高い地位を確立している、とか、移住先に良いとか、ラストリゾート的な扱いを受けていたり、後はタックスヘイブンみたいな扱いだったこともあった。
今回はニュージーランドが余り公に言わない部分をちらっと書く。
何で書こうと思ったかと言うと、朝日新聞でも書かれた「子供の幸福度」についてだ。日本は20位で「さすがは鬱苦しい国ですね」とか大盛り上がりしている人もいるようなんだけど、日本人がどこかピュアな国のように感じているニュージーランドは何位だったか知ってる?
41カ国中35位
ただ、現地にいる身としては、割りと「そんなもんだろうな」という感想だったりする。それはNZ社会にある動かしようのない格差というのがあるからだ。NZでは金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままになるように社会が作られている。意図してそう作っているかは知らないが結果的にそういう国だ。
現地で聞いているところでは、子供の貧困や自殺率が深刻だ、という点。肌感覚で感じているのは、移民国家ならではの若者社会での将来に対する行き詰まりや貧富の格差だ。
長々書いたが、NZでは自殺が高くて結構問題になっている。日本人が大好きなジャシンダ・アーダーンが首相を努めていた2018−2019年が何気に最高記録に到達している。
https://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=12262081
自殺率は10万人あたり13.93人。自殺者の内訳では、若者、マオリ族、パシフィカと呼ばれる人たちが特に多い。パシフィカというのは、サモア、トンガ、フィジー、ツバル、クック島のマオリ、ニウエ、トケラウ、キリバチの人たちらしい、実はこれらの国々はNZが管理というか、サポートしており、パシフィカたちはNZに移住することができるんだそうだ。ただ、日本人からしたらまるで異世界に感じるようなのんびりした国々らしく、資本主義の競争社会であるNZで振り落とされてしまう人々も相当いる。
日本では2万人くらいが年間で自殺してるんだっけ?1億人で2万、10万人で20人くらいか。日本よりは少ないな。ただ、10~24歳の間では10万人あたり35人に急に膨れ上がる。要は若者が結構自殺しているということだ。他にもいろんな指標があって、この数字を大したことがないように見せることも可能かもしれないがNZでは若者は割りとバンバン自殺している。
若者が自殺してしまうという理由はいっぱいあるんだろうが、まずはこの国には覆し難い貧富の格差がある。金持ちはどんどん上に行ってしまうように社会ができていると書いた。
例えばなんだが、学校だ。
学校ではディサイルという寄付金制度がある。貧困層が多い地域では寄付金は少なめ、税金の投入を多めにする。金持ちが多い地域では寄付金が多め、税金の投入を少なめにするというバランスのとり方をしている。
この制度の良いところはノーブレスオブリージを地で行っているところだ思うかもしれないんだが、実質としては教育の格差がどんどん広がるという制度でもある。税金でまかなえる部分は結局最小限なので、貧困家庭の学校に通う子どもたちには、最低限の教材しか与えられない。一方金持ちが行く学校では、こっちの金持ちなんかは普通に自家用ジェットで飛んでいける家庭ばかりなので、なんでも買い与えてしまえる。
2015年の記事なんだが、教育における大きな格差についての記事がある。
https://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=11539592
この記事を読む前にNZの大学について少し書くんだが、NZでは大学の質は結構高く、最高学府のオークランド大学に大学ランキングで上に立っている日本の大学は、東大、京大しか無い。で、この大学に入るためにはNCEAという試験を受ける。
NCEAでは取ったスコアに応じてクレジットが溜まっていく、試験は高校に入ったくらいからコツコツと受けていき、LEVELは3まである。3を受けるには2に合格、2を受けるには1に合格というふうにステップを踏んでいく。クレジットは、各レベルの得点が高いほどたくさん溜まり、好成績を維持すればボーナスクレジットもある。
大学の学部に応じて、NCEAの必要なレベルと科目が指定されているので、受験生たちはこれらの科目を一生懸命勉強してクレジットをためていく。そして志願者の中からクレジットが多い順に合格、というようになっている。
そして、裕福な家庭の子どもたちは貧困家庭の子どもたちに比べて25%レベル2に合格する率が高く、30%レベル3に合格する率が高い。これは金持ちの子どもたちがどんどんと大学に入ってしまい、貧困家庭の子どもたちは大学に入れるほど学力が上がらないか、自分たちより確実に試験に合格していく金持ちたちに物量で遥かに不利な戦いを挑んでひっくり返す必要がある。
日本からNZに移住する人たちの中にもNZの教育は日本に比べて質が高いという人が結構いるんだが、このディサイルという制度を知らないで適当に選んでしまうと、偉いことになってしまうので、よく調べて、寄付金を支払えるか、その地域に住めるかとかを考えてこっち来るようにしましょう。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。
「子供の貧困」じゃなくて親が貧困なんだよな よって貧困な親がいなくなれば貧困家庭で苦しむ子供はいなくなる ハイ論破
今の世の中、どう考えても貧乏人が子供作りつつ楽しく生きられる状況ではない
斜陽の衰退国家で先進国らしい暮らしをしながら子育てなんて無理無理 諦めて夫婦なり独りなりで生きればよろしい 絶対その方が楽しいぜ
顔も概してキモいし、見てて本当にイヤ disgusting! 産むな・作るな・増えるな
小学校のクラスメイト、貧乏人なのに5人兄弟(あるいは5人兄弟だから貧乏人?)で、全員ネズミみたいな馬鹿面してて本当に不快だった マジの下等生物って感じで、見てると人間の矜恃が揺らぐ
貧乏人が、苦労するってことは容易に想像できるだろうに子供を作り、その上ネットで愚痴を書かないでくれませんか?
なんのために脳味噌つけてんだ?未来予想みたいな機能はないんですかね ちょっとは考えよう!キミの収入と労働形態で子供を元気よく育てられるかな??育てられないよねえ!
ガキ系の議論(騒音、ベビーカー、育休…)みんな余裕なくてイヤ
裕福な人間だけが悠々と子育てしてる世の中だったら議論もクソもないから多分もっと快適に生きられる
金持ちだけで年間1万人くらいだけ子供作ってエリート校で蠱毒やって全員死ね そういう気概で行かないか?
でももう遅くね?崖から落ちることは確定してるならせっかくだから爽快さをとるべき、ガツンとやって人口100万人減の景色を見ようよ
でも生殖したらお前も苦しいしお前のガキも将来の奴隷階層なんだぜ 革命しかない 産むな
貧乏人が・ガキを・作るな
これだけで全ては解決さ
将来苦しむ次世代が全員金持ちの鼻持ちならないガキだったらすげー痛快じゃね?
ここでバカの貧乏人が生殖欲求に負けてガキをポコポコ産むと、苦しむ次世代の中でも持つもの持たざるものが出てくるわけ
金持ちに任せよう!子供の親は全員エリート!そういう社会がいいんだよお
俺は見たいんだよそういう景色が
今で言う最高峰の私立みたいな家庭の経済力平均値が、そのまんまあまねくガキの家庭経済力の平均になるわけ
でさあ!塾行きまくってクソ勉強しまくった天上人みたいなガキでもマトモな大学行けなくなんの!なぜなら、全員エリートだから!
下から崩そうぜえ
足蹴にできる下々がいるからやつらは上位でいられるんです 我々にできることは、やつらの下にいることをやめることだ 上に行こうってんじゃないぞ Cease to exist! 消え去るのが弱者の美学よん
頼みましたよ
小学生で親が離婚。母子家庭。母はワープア。公営住宅暮らし。小学生の頃は森で火遊び。地元の公立小中。
自分はそんなどこにでもいるバックグラウンドを持った、「普通」の地方出身の人間だ。
そんな自分はいま、三大都市圏の理系大学院(駅弁だけど)に通っているし、学校の金で海外留学(アジアだけど)したこともある。
きっと「普通」の企業に正社員で就職して、都会で「普通」の生活をすることになる。
それなりに努力はしてきたし、それなり以上に親にも負担をかけた。でも、貧困だから夢を潰されかけたなんて思ったことはない。
インターネットで、「貧困から抜け出した」立派な人間が、中流・上流の人間に貧困を見ろと言うことがある。
お前が生まれたそこを普通と言うのはおかしい、貧困家庭の普通はこんなにも悲惨なのだ、そこでは色々な人が夢を諦めているのだと。
そこは本当に、そんなにも悲惨なのか?
ただ、上流階級にいる彼らが言っている「貧困」は、そこまでのものじゃない。
だけど、食うや食わずなんて人はそんなにいないし、みんなそれなりの生活をして、それなりの夢を叶えている。
英語がペラペラで海外によく行く、そんな日本人そうそういねえよ。みんながそれになる必要なんてねえだろうがよ。
みんながみんな医者になれるわけでもねえし、弁護士になれるわけでもねえだろ。なりたい奴はそりゃあ頑張る必要があるよ。それでいいだろうがよ。
子供の将来の夢の第一位がYouTuberだからって、そのみんながYouTuberになれる社会を目指す必要はないじゃねえかよ。
親に金が余分にあって、それでそいつが楽になるのは別にいいだろ。そいつがお前の親から金を奪ったわけでも、お前から未来を奪ったわけでもねえだろ?
貧困が悪い貧困が悪いって、お前が頑張らなきゃいけない理由はお前の夢が普通より大きいからだろうがよ。
色々な考え方があって、自分は「最低限の機会は平等であるべきだけど、才能や育ちによって上げ底されたものを合わせる必要はない」という考え方だ、と言ってしまえばそれまでなのだけど。
「自分はこんなにも夢に向かって努力してるのに他の人よりも苦しんでいる、だから貧困が悪い」って言われたら、俺たちが過ごしてきた「普通」をお前の都合で馬鹿にするな、と思ってしまう。
俺の行ってた小学校は本当にくそみたいな場所で貧困家庭出身のバカと児童養護施設の暴力的クソガキと軽度知的障害者しかいなかった、誇張ぬきにまともなのは俺だけだった、なんせ学年全員合わせて8人しかいなかったからな、うち4人が施設出身だ、本当にいやになる
あんなとこに通ってばかどもと一緒にレベルの低い授業受けるくらいなら家でネットでも見てる方がよっぽどよかった、教科書ちょっと読めばあのくそ環境での授業くらいの効果は得られるよ、誰だって得られる、ひらがなすらまともに読めんばかが詰まりながら音読する時間とか授業中に突然立ち上がって廊下に出ていくきちがいの相手をするため先生がいなくなる時間なんかがないからな、30分あれば30分本が読める、それが学習環境ってもんだ
今のガキはいいよなあ、学校がナシになってさ、リモート授業だってよ、そりゃあいいよ、俺も何十年か遅く生まれてりゃあよ、今ごろにこにこしながら家で授業うけてるに違いないよ
田舎に住もうなんて考えないほうがいいぞ、田舎に住んでるやつらってばかばっかりだよ、貧困で、貧ゆえに鈍した、品性下劣の、最低なやつらばっかりだよ、クラスメイト8人のうち6人までが中学生の時点で万引き喫煙ポイ捨て常習犯になってたんだぜ、あんまりだろう、俺はあの環境以外で育ってたらいまごろもっとずっとマシな人間になってたよ、これは誓って間違いない、俺の人間性を貶すやつはな、あの環境で育ってみろって話だよ、話が通じるやつがいない、休み時間には暴力が飛び交い、毎日のように連帯責任で叱られる、そりゃあ人嫌いにもなるというもの
いいか、田舎に住むんじゃないよ、都会にだって馬鹿はいるだろうが、クラス全員馬鹿ってことにはなるまいよ、数は保険なんだよな、馬鹿ばっかりじゃ子供は歪むぜ