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はてなキーワード: 反抗期とは

2014-06-08

居なくなったあの子と、祖父と、夢の話。

こちらのエントリ(http://anond.hatelabo.jp/20140607133805)を読んで、わたしが経験した少し不思議なことを思い出した。トラバするにも失礼なほど自分自身の話になってしまうので、最初に…元増田の心と身体の健康と、来るべき未来家族幸せをお祈りしています。珍しいことじゃないとか頭では分かっていても辛いものは辛いから、どうかご無理なさらずに。

オカルト注意というほどではないけれど、苦手な方はそっと戻るボタンで。

私も数年前、元増田と同じ経験をした。

突然やってきて凄く驚いてそれ以上に喜んだ一ヶ月間。初めてのたまごクラブとか買ってきちゃって、なんだかマタニティマークを付けるのにも照れくささよりクワクが勝っちゃって。「次回の検診で心拍を確認しまから母子手帳貰ってきてくださいね」と言われ、喜び勇んで貰った母子手帳には、一ヶ月後「稽留流産」の文字が記載されただけだった。心拍が確認されなかったのだ。

あの時の気持ちを思い出そうとすると今でも息苦しくなる。何だかお腹がすーっとしてしまったような、不思議喪失感。昨日まで一方的にだけどずっと側にいて話していた人がいなくなっちゃって、寂しくて悲しくて、手術の後随分経っても気がつくとはらはら泣いていたりした。

わたしも元増田と同じで水子供養はしなかった。水子にしてしまうと、何だかそれで終わってしまう気がしたから。短い間だけど、わたしを親にしてくれたあの子にまた来て欲しいと切望していた。

話は少し飛んでしまうが、流産から数ヶ月後に祖父が亡くなった。寝たきりにはなったけれど、頭はしっかりしていてわたしの妊娠をとても喜んでくれていた優しい祖父。そんな祖父を悲しませたくなくて、流産のことを言えずにいるうちに云ってしまったことが後悔のひとつであった。

その祖父の四十九日を迎える頃、ある夢を見た。

夢の中で、祖父は生き返っていた。何だ、やっぱりじいちゃん死んだなんて嘘だったんだ。抱きついて抱き締められて、温かく大きな手で何度も頭を撫でてもらった。じいちゃんもう死なないでよ、そばに居てよ? 祖父がニッコリ笑ってくれたのを覚えている。

場面はいきなり変わる。壁に一枚の絵が掛かっている。明るくて楽しそうに道の真ん中で踊る人々。その両脇を彩る鮮やかな木々の緑が目に飛び込んでくる。綺麗な絵…そう眺めていると、わたしの横をすっと駆け抜けてひとりの女の子が絵の中に入っていってしまった。「待って!だめだよ、そっちに行っちゃだめだよ!」わたしの声は女の子に届かないようで、絵の中の道を踊りながらどんどん進んで行ってしまう。「行かないで、そっちはダメなの!」何故か分からないけど必死叫び続けるわたしの横には今度は祖父が立っていた。「いいんだよ、あっちにいっても。大丈夫から心配しないで」祖父はまたニッコリ笑ってわたしにそう言った。

うわーん、と声をあげて泣きながら目が覚めたのはこの夜が初めてだった。幽霊は居るかもしれないし居ないかもしれない、そんな程度にしかオカルトは信じていない。でもこの夢だけは、祖父が自分あの世に行くときに一緒にあの子も連れて行ってくれたと、そしてそれを知らせにきてくれたのだと、だいぶ身勝手解釈だけれど夢の中での祖父の手の温もりが素直にそう信じさせてくれた。

現在のわたしはというと、歯磨きを嫌がる二歳児との追いかけっこを毎晩繰り広げている母ちゃんになった。あの夢から半年がすぎて妊娠した子は、家ではヤダヤダばかりだけどお友達にはどうぞと玩具を譲れる(ようになってきた)、母ちゃん自慢のやんちゃで優しい女の子に育ってくれた。

の子があの子かもしれないし、違うかもしれない。あの子はまだあっちで再出発の準備をしているのかもしれない。水子供養しとけばもう少しはやくあっちに戻れたのかもしれない。ぐるぐる考えは巡るけれど答えはない。ただいつかこの子が大きくなったときに、居なくなったあの子と祖父と夢の話をしてみようと思う。

なにその話気持ち悪い、とか言われたら母ちゃん立ち直れないから反抗期に話すことだけは止めておこう。

2014-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20140605001425

他人事じゃない話だなー

俺は彼女側だけど、いや俺には恋人いないし杞憂に終わるかもだが

物心つく前、2歳だか3歳で新興宗教っていうかまあ創○学会に入信させられてる

いわゆる三世で俺の兄弟も同様、たぶん従兄弟たちも同様

兄弟や従兄弟たちがどう思ってるかは知らないが、少なくとも親世代と祖父母世代は全員毎日熱心に勤行してる

幼少期から毎日聞かされてたせいで覚える気はなかったのに法華経を諳んじられる門前小僧状態

増田彼女場合は入信するしないの戦いがあって、祖母という味方もいたようだけど

俺の場合はとっくに入信しちゃってるから活動するしない、抜ける抜けないの戦いで、味方は誰もいなかった

中学生の頃かわいらしい反抗期があったが子供に何ができるわけでもなし

それ以来何も活動しないまま最近大学卒業

脱退しようとすればできるだろうけど親族と絶縁状態になるかもしらんしそれは望んでない

学会内でそこそこの地域役職についてるらしい親の世間体を傷つけたいほど憎んでるわけでもない

今後も活動するつもりはないが、もし交際だ結婚だとなるとどうしたもんかなとって感じ

葬式読経するくらいなら全然いいんだけどね

一種の親孝行と思って親が亡くなるかボケるかまでは現状維持するにしても先は長い

増田彼女に対しては、ねぎらいの一言でもかけてあげていれば彼女の肩の荷も少し下りたかもしれない

増田自身の宗教観やその後の交際がどうであれね

2014-06-01

http://anond.hatelabo.jp/20140601014615

元増田から連想で、関係ない独り言を書いてしまうが

私は、反抗期というステップをちゃんと踏まなかったことが、自分に悪影響を及ぼしているなと思う

もっとも強く私を支配していた母親は、私が30歳くらいの時に亡くなった

2番目に強く私を支配していた祖母は、それをきっかけに急速に認知症が進み、ほどなくして私の中で祖母は死んだ

最後まで私は彼らの支配を精神的に脱することができないままで、ただ支配者が死んだことで自由を手に入れた

が、今になって思う

自力で彼らの支配を断ち切るという手続きが、私には必要だったのだ

叶う事ならば、その上で彼らに許されるというステップがあると、もっと良かっただろう

その手続きを踏まずに自由になっても、ただの糸の切れた凧なんだと気付いた

私は、自分自分を操縦できなくてはいけないのだ

母の「あなたがしっかりしないから私が言うのだ」という小言の意味は、こういうことだったのかもしれない

でもねえ母さん、私が覚束ない手ながら自分を操縦しようとした時、あなたはそれを一言で切って捨てたじゃないですか

なんて言ってももはや届く訳も無し

一度否定されたくらいで引き下がる私が、だらしなかったのだ、結局

しかし、あからさまな決裂なしに人は前へ進むことができないんだとしたら、随分と悲しい仕様だとも思う

それとも私は、決裂による痛みを過大に評価しすぎだろうか?

やってみてそこから回復した経験がないから、それも未だにわからない

2014-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20140518132652

これ、「禁止」を強硬に行った親の責任であるとともに

「決まりを破る」っていう少年期にやっておくべきちょっとした悪事

きちんとやらず、親の意向最適化して育った子の責任でもあるよね。

「良い子」ではあったんだろうけど、きちんと反抗期必要ってこった。

2014-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20140401131451

>言うことを聞かなくなれば、たちまち憎悪対象になる。

ああおれも思春期になって反抗期になったらとたんに仲悪くなってそのまんまだな

2014-03-15

Facebook10年後

当時幼児だった自分顔写真を親に勝手アイコン画像に使われていたことを知り、親に激怒する反抗期中高生が多数発生。

http://anond.hatelabo.jp/20140315143649

反抗期はあったけど、そのあとまた良い子に戻っちゃったのかなー

http://anond.hatelabo.jp/20140315120938

見下してるというより それはただ単に

シンジシンドロームというか

から見て「良い子」になりたいってだけの話だろう

 

健康な家庭では 子ども人格の成長とともに

から見た「良い子」と

子ども自身の人格矛盾を起こし

いわゆる「反抗期」を経て「良い子」を卒業していくものだが

反抗期」を経験しないまま大人になってしまうと

人格の成長がとまってアダルトチルドレンになってしま

 

恋人はいないし友達は少ない

状態になり、さら

周りを見下しているか友達が少ない

状態で苦しみ 生きづらくなったりする

 

15歳くらいまでに

正しく「反抗期」を経験して「親離れ」し

成熟した人格にならないと

自分も他人も愛せない人になってしま

幼稚な人格のまま 老人になっていく

 

そういう人の人格は弱く傷つきやすいので

自分を守ろうとして自己愛を異常に肥大させたり

健康な人よりも 自分人格現実との矛盾

たくさん苦しめられることになる

 

から その防衛機制として自己愛肥大させたり

自分以外の作ったルール盲目的に過剰適応したり

安全場所にひきこもったり 閉鎖的なネットワーク内弁慶になったり

という行動パターンになっていくことが多い

 

「みんなボクちゃんを見て見てぇー」

「ボクちゃんはこんなにルールを守ってる良い子だよ」

「ボクちゃんはルールを守らない奴を許さない良い子だよ」

「ボクちゃんはとっても良い子だよ」

「だからボクちゃんをみんなで愛してー」

 

そういう幼稚な人格の人物は

通常「キモイ奴」と思われ

からも愛されない

 

http://anond.hatelabo.jp/20140315113205

 

2014-03-11

ハリーポッターのウィンガーリアムレディオッサ

息子にハリーポッターを見せてからハリーポッターのヒューンヒョイが止まらなくなった。

家に帰るとヒューンヒョイで俺を家からつまみ出して遊ぼうとしてくる…

妻に「あの子意味わかってないし、嫌われてるとか勘違いじゃないの?」

と言われたんだけど、息子の目がマジで怖いんだが

俺「ただいまー」

息子「ヒューンヒョイ」

俺「おっ今日も元気だなー」

息子「ヒューンヒョイ」

俺「ご飯食べた?」

息子「ヒューンヒョイ」

俺「そっかーいい子にしてた?」

息子「…」(立ち去る)


こいつ今日も飛ばねえのかよみたいな

憎悪に満ちた顔で睨んで母親に「ママー帰ってきたよー」って言ってるし

3歳児の真顔すげえ怖い

何考えてるんだろう本当にわからない

だって構ってあげたいけどあんな真顔で無視されるときついっていうか

あとヒューンヒョイは呪文じゃないよって何回も教えたのに聞いてくれない…

完全に反抗期じゃん

なんかそのうち殺されそうでなんか息子が怖い

妻にあの子お父さんが帰ってくるのいつも待ってるわよって言われるんだが

そんなに飛ばしたいのかな今日飛んでみようって思ってたら

さっき

俺「ただいまー」

息子「デリトリウス!デリトリウス!デリトリウス!!」

俺「今日はいつもとちが「デリトリウス!デリトリウス!ペトリフィカストタルス!アバダケダブラ!」

って食い気味に言われてもう超つらい

2014-03-09

青二才ゴーストライター擁護する理由を読んでみた。

https://twitter.com/tm2501/status/442408904987639808

安全うまい飯なら消費者はどこ産だってわず食べると思うんです。一度は佐村河内守音楽をありがたがったり、ゴーストが演出したビジネス書をありがたがった人!楽しませてもらったんでしょ?いいじゃない!

https://twitter.com/tm2501/status/442410005568819200

ゴーストライター騒動に関して思うのは、「騙された」じゃなくて「自分感性面白いかどうかの議論で総括したら?」ってこと。大体仕事に関わってからネタばらしするブラックジャックによろしくの作者さんも加担したのだから追求するとしたらそれは自己批判だよね…本気でアレはどうかと思ってる 。よく考えて欲しい。初めてに近い執筆で百ページ以上の本を書くのは大変です。普通できません。支離滅裂になったり、日本語おかしくなったり、挫折したり…手直しする方が折れたり…そんな真実でも読みたいですか?そもそも特に訓練してない人は30ページぐらいまとまった構成で書くのも無理!「前に小説家志望者は大作志向を捨てて短中編を書こう」という話を創作クラスタの人とまとめたことがあるけど、アレと一緒。ブログの数千文字で支離滅裂になる人だって世の中にはゴロゴロいるのになんで芸能人だけ達筆さ?内心、ホリエモンゴーストライターの話で盛り上がってる世の中を見て、僕はほくそ笑んでます。「ざまーみろ!お前達が文章の技術や書物をバカにしてきたからそんなことも見破れんのだ!見破れなかっただけならまだしもうろたえるのだ!」と思ってる。一応、長文書くのって手間暇かかりますので。伊東四朗が演技について駆け出しだった頃に「演技がヘタに見える役者さんが自分ぐらい、普通に見える人がプロ、うまく見える人はその業界神様だ」みたいなことを言われたことがあるらしいけど、これ書物でも同じ。2000文字まとまったもの書いて読み返してみ?自分が下手だと感じるはずだから創作論、書物論をああだこうだ言うのは見苦しくて好きじゃないし、正直言って書ける人同士の間では当たり前の「野暮」でしかない失敗談なのよ。思春期とか反抗期みたいな通過儀礼。でも、知らない人は簡単に騙される。自分自身が普段ポジショントーク消費者トークの二枚舌を使い分けてる自覚さえない。昨夜、ブログに書いたことにも重なるけど、自分がよく考えないでいらないと決めつけたもの既得権益だとか誰にでもできる簡単な仕事だと思わない方がいいよ。思うのは自由だけど、わざわざ言う必要ないよ。少なくともそれをしている人は傷つくか、無知さを見抜いてげんなりしそうなので。本当に評論批評としてかっちりとした文章を書くのは難しいし骨なんです。紙媒体で買ってもらうような作品を書く時にはそれを丁寧にできないといけないので、骨が折れます。(苦労を知らない人は文体や語彙力が技術であることも知らぬ)お金を儲けたでも、人気を得たでもそういう人に対して嫉妬するのはいい加減辞めたら?そういう人と関わりを持って働いて「彼と同じ努力強いられた。あの会社社長ブラックだ」とか言う言い分はまだわかるけど、人気があるからうらやましい。でもあの技術は評価されない…は愚痴であり嫉妬無意味


はい、それでは青二才自分で書いた同人誌の評価を見てみましょう。

http://anond.hatelabo.jp/20121120220837

http://anond.hatelabo.jp/20121120224627

それに対する本人の言い訳を見てみましょう。

http://tm2501.hatenablog.com/entry/2013/11/16/000506

青二才にこそゴーストライター必要だった。

青二才にこそ編集必要だった。

青二才にこそ文章の指導をしてくれる人が必要だった。

青二才にこそ本を出す前に文章を読んでくれる友人が必要だった。

しかしそういうもの必要だった青二才にはその時何もなかった。

それでも青二才はあきらめず裸一貫で挑戦した。

そんな青二才を誰が笑えようか。

誰にも笑わせはしない。

本人以外には。

https://twitter.com/tm2501/status/442319653126168576

媒体で買ってもらうような作品を書く時にはそれを丁寧にできないといけない

http://anond.hatelabo.jp/20121120224627

うん、いいこと言うじゃない。でさ、想像してみようよ。

文章系の同人誌を買う客が仮に「自由にすればいい」を手に取ったとしよう。

あらすじはない。登場人物紹介はない。あとがきもない。手書きポップもない。

売り子に聞いてもあらすじがわからない。表紙も手抜き。

パッと開くと文字密度ラノベ以下。

買うと思う?普通に考えて。商売に詳しいんでしょ?

2014-03-01

http://anond.hatelabo.jp/20140228224140

元増田です。

子育てって人生って疲れるけど子どもってたまに狙わずにすごい幸福感くれるよねって話なのが、

すごくずれてしまった。

そして独り言のつもりがたくさんコメントをもらって驚いた。


私が姉に冷たいって数多くのご指摘は否定しない。事実そうだと思うから

私の人生を姉に捧げる気はない。

こう思えたのが40歳くらいのこと。もう私は十分頑張った。


病名に関していい加減なことを言ったのは私にとっての問題は病名ではないからだけど

いざその病気で苦しむ人には配慮がなかったと思う。申し訳ありません。


酔ってたし感動してたしで長男をいたく美化して書いたが

優しいのは事実だが、まあ年相応に弟にひどい時も多く、日頃は喧嘩ばっかり。

ただ弟はいらんことしつつも兄ちゃん大好きだし、

あの日は次男がクラスで意地悪な奴がいてって愚痴を言うのに、

じゃあ見に行ってやるけど兄ちゃんのジャンプ絶対さわるなよ!みたいな会話を見てて

いいなと思って書き込んでみたら、正直反響の大きさにびっくりした。

長男や次男に理想を求めすぎないようには気をつけてる、でもこれからも気をつけるよ。

子どもが親の顔色見てるのも自分がそうだったからよく知ってる。

例えばあの時、長男ありがとう!!って私が涙なんて流したら、長男学習してそればっかり言う。

テレビ見て、なんでもないことのことに守ってあげたのにねって言うから

こっちも内心涙出そうに感動したけど、なんでもないことのようにさらっと流した。多分長男はもう忘れてる。

反抗期迎える前の煌めきだし、長男だって次男だって悪い時もいい時もある。


実家にいくと、基本的に姉は子供達に話しかけない。

子どもの出す物音がすごく苦手みたい。

機嫌がいいと一方的に話しかけてくるけど、誰かに何か一つでも指摘されると不機嫌になって戻らない。

でも自分はすぐ人をしつこく攻撃する。我慢できずに相手が反撃すると不機嫌になって会話終了。

家族相手には甘えて強く出るが他人には不機嫌になるだけで何も言えない。

5年前に工場職場で揉めて退職して以来、今はずっと家にいる。

全く姉にいい思い出がないなんてこともない。愛情がないこともない。

から姉がかわらないかな、ちょっとでもいい方向に行かないかと努力したこともあったが

私は自分人生仲裁役で終えられるほどの器はない。

から自分が壊れてしまう前に、姉を恨んでしまう前に逃げただけだ。

恨んだり嫌いとかでもない、ただ諦めたのだ。

姉をクズと思ってるとかじゃなくただ途方にくれてる。一体どこに解決する道があるんだろう?

子供相手に姉の文句を言うこともない。そもそも会話に上らない。

ただ、なんでおねえちゃんは挨拶しても無視するの?って聞かれたら

おねえちゃんは子どもの立てる物音が苦手みたい、あなたが悪いわけじゃないからそっとしておいて。って答えてる。

姉と私は一緒に遊ぶわけでも電話するわけでもない。いくら子供でも仲良しと思う方がどうかしてる。

会話にならないんだからもちろん長男や次男が姉を救えるはずなんてない。


大人になって親は親で大変だったろうなと思えた。

私に普通の娘像を求めるのもまあわからんでもない。お姉ちゃんをなんとかわかろうとして頑張ってた。

そこに親の気持ちを察した妹が顔色見てピエロになってくれたら助かるのも無理はない。

今も無職の姉を老いた両親はなんとか社会復帰させようと支えてる。

両親は、私達は親だから死ぬまでお姉ちゃんをみるけど、

あなたお姉ちゃん人生責任持つ必要はないって言ってくれるだけまともだ。

みんなが姉であり長男であり私であり、色んな角度から手厳しいコメントをくれたように本当に家族って難しい。


今まさしく長男反抗期入り口

子どもかわいい時期って人生ボーナスステージだね。

正解はどこにあるのかわからないけど、子供たちが幸せになってくれるように

そのうち巣立っていってくれるまで旦那と頑張ります

長々とすみません

http://anond.hatelabo.jp/20140228224140

変わり者の母がいる。

依存的、当時はただの変わり者で通ったが

今なら毒親かなんかのよくない子育てときっとみなされてた。

普通母親持ちが羨ましかった。

今ならみんながみんなそうな訳じゃないって知ってるが

当時は親ってものはみんな子供を守ってくれているように見えた。

日頃は叱られても色んなことを教えてくれるお母さん。

口は悪くみえても大事な時は守ってくれるお父さん。

なんで俺の母はこれなんだ。

自分の姉の問題にばかり囚われて本当の俺は見ようともしないくせに、

自分が叶えてもらえなかった理想の親子関係を俺には求める母親にはうんざりしてた。

よく俺はカウンセラー代わりにさせられて、母は酒が入ると昔のことをいつまでも愚痴ってきて、俺はそのたび慰める役を背負わされた。

小さい頃はお母さんは可哀想だと純粋に思っていたが、段々物心ついてくると、あれは子供心を利用して自分を慰めたかっただけなんだと

嫌なことに気付いてしまった。

反抗期になると俺も薄ら寒いものを感じて母に反発するようになったが、

「私は親にステレオタイプな娘像を押し付けられて苦しい思いをしてきたんだから正しい」の一点張りで、

自分自身が俺にステレオタイプ長男像を押し付けて苦しい思いをさせていることとの矛盾をまったく理解しようとしなかった。

自分の求める家庭像との食い違いが気に入らないらしく、母とのどんどん亀裂は大きくなっていった。

まあそんなこと言いつつ不幸ばっかりだったわけでもない。

大人になって結婚した。男の子が二人生まれた。

我が子はきっと可愛いんだろうな、と思ってたけど想像以上の愛おしさだった。

長男も次男も互いを守ろうとかばいあうことが多い。

今晩酒が入ってたこともありついしんみりと、いいなあ、俺もお前らみたいなお兄弟が欲しかったな、きっと幸せだっただろうな、と言ってしまった。

二人とも俺の母が変わり者で、いまいち仲が良くないことを知ってる。

そしたら二人がタイムマシンがあったら一回くらい交代してちっちゃいパパが悲しい時守ってあげたのに、と言った。

テレビ見ながらいとも簡単に、なんでもないことのように。

わずぞっとした。

血の因縁ってすごい。

俺は今母と全く同じことをしてしまったんだ。

苦虫を噛み潰した気分で心に刻みつけた。

あんまり苦々しくてつい文章に記録。

2014-02-25

パートさんを馬鹿にするバイトの子

スーパーアルバイトをしているのだけれど、最近入ってきた二十代ぐらいのバイトの子がやたらパートさんを馬鹿にしている。

「なんでアタシがそんな事しなくちゃいけないんですかー?」「パートさんがすればいいじゃん」は毎回聞いている気がする。

パートのおばちゃんたちはすごい優しいし、仕事もできる。たまに息子自慢とかしてて可愛い

大半はその子に対して、諌めたり怒ったりしているんだけど、少数便乗して陰口を言う人もいる。

なのは、何でその子たちの中にバイトパートの力関係ができているのか。正社員パートなら、まだ分かるんだけど。。。

相手のほうが先輩で、なおかつ年上なのに何で横柄な態度とるのか全く理解できない。反抗期なの?

2014-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20140221200946

多数派だろうがなんだろうが

無駄に憎しみ持ってこんなところで意味不明なこと書いてるよか普通に生きてれば?

電話が数ヶ月に一回かかってくるとか、割りと多いほうだと思うけど。

普通に上手く行ってる親子でも、特に男なら親と連絡とるのなんて帰省するのに年一回、とか、それ以下の人はいくらでも居るし。

親に何されたのか書いてないけど、

遺産どうこうとか書いてる辺り、

それなりに裕福な家で、ちょっと厳し目に親に育てられて、

んで、少し周りの目を気にするような親だったのが嫌で、単なる反抗期的に家を飛び出して親を無視してる単なるどら息子にしか見えないが。




多分、増田が思ってるのは、貧乏で金に困って子供に苦労させた挙句暴力をふるったり子供たかったりするような親のことだと思うけど、

この元増田ちょっと違う気がする。

2014-02-08

男の子を授かった方、理想の子育てを教えます

幼少期

・泥遊びをさせる

・とにかく体を動かして遊ばせる

英語ディズニーアニメを見せるなど、マルチリンガルになれる基礎を作っておく

クラシックからロックまで幅広い音楽に触れさせておく

小学生時代

格闘技を習わせる

子供同士でケンカさせて殴り合いで勝つ経験をつませる

勉強は最低限で、体力を作り、集団の中でリーダーになる経験をつませる

語学だけは家庭内で自然に触れられる環境を作っておく

中学生時代

英会話教室に通わせる

学校では授業妨害でも校内暴力でも、好き放題暴れさせる

人生の中で唯一、犯罪まがいのことをしても許される時期を満喫させる

・不良に憧れるバカ女の彼女ができるから、連れ込めるようにボロアパートを借りて一人暮らしさせる

卒業するまでにやることやって、さっさと反抗期を落ち着かせる

語学だけはできるので、半年ぐらい受験勉強して中の上の高校に入らせる

高校時代

音楽系の文化部に入れて、楽器ができるようにする。

・高2までは勉強よりバイトしてバイク買ったり楽器買ったり、友達と夜通し遊び歩いたりする経験をさせる

受験は高3から始めて、一浪させて得意の英語武器早慶文系に入れる

大学時代

・いわゆる意識高い系の生活をさせる

インターン海外旅行学生ベンチャー

・ずっと真面目に生きてましたって顔を覚えさせる

これでスポーツ勉強音楽もできて、リーダーシップコミュ力もあり女の扱いもうまい、パーフェクト超人ができあがる。

2014-01-30

http://anond.hatelabo.jp/20140130213642

あれは「日本人扱い」を都合の良い時に出したり引っ込めたりしてるのが反発を呼んでるだけだから

日本生まれ日本育ち

母国言葉どころか行った事すらない

けど日本人扱いはされたくない

反抗期の子供かと

2014-01-12

http://anond.hatelabo.jp/20140112202307

お前何で元増田現実が知りたいの?ここ増田だよ?キモすぎw

相手を中学生とか反抗期だとか見下したところでお前何も反論出来てねーじゃん

言い負かされたかいつまでも粘着するガキにしか見えねーわ、お前

http://anond.hatelabo.jp/20140112152435

言う年齢によって意見価値が変わるんですか?

価値というか、なんでそう考えるか、ということを「一般的」に考える事は可能ですね。

反抗期」というもの一般的ものですし。

元増田としてこれ以上本旨とズレた話を展開されても困るのです。自分フィールドで闘いたければ自分で部屋を作ってくださいね

いや、元増田の話はただただ反抗期中学生が言ってることのレベルなので、

中学生が言ってるなら、あ、反抗期なんだな、で終わるし、

反抗期をきちんと理解した上でのそれ以上のレベルでの話ならまた別の話ですよ?

例えば、既に子供がいて自分が育てる立場になってて、それでもこの子には自分エゴで物を与えてるだけ、

感謝なんてしてもらわなくて良い、尊敬もしてくれなくて良い、自分から奪うだけ奪って後は好きに去って欲しい、

と心のそこから思っているのか、ということもあります

その場合、なぜそのような気持ちになったかあなたの親との関係がそうしたのか、それとも他の要因なのか、

興味深いものが有ります

http://anond.hatelabo.jp/20140112200436

いずれにしても僕にとっては、こうした問題提起はとても勉強になりました。

これを問題提起と捉える人って、小学生なのか、

それとも反抗期を知らないままおとなになって大人になった後に反抗期を迎えてる困った人か…

http://anond.hatelabo.jp/20140112144852

質問意味がわかりませんね。

私のパーソナルと今回のお話の関連のご説明をお願いします。

言う年齢によって意見価値が変わるんですか?

だとしたらその説明もお願いします。

別の話題にシフトしたいなら、それなりの理由を説明していただかないと(^^)

※追記

反抗期についてお話したいのであればトラックバックではなく貴方の主張を新たに書いてください。

興味深い話であれば、私だけでなく皆さんの返信がありますよ。

元増田としてこれ以上本旨とズレた話を展開されても困るのです。自分フィールドで闘いたければ自分で部屋を作ってくださいね

http://anond.hatelabo.jp/20140112140958

いや、だから反抗期って知ってる?

中学生反抗期なら普通からさ。

もし、おっさんがこんなこと言ってたらまた別の問題でしょ。

意識の高い大学生だとまた別の問題。

どうなのさ?

http://anond.hatelabo.jp/20140112123839

一つ確認しておくけど、あなたは親に虐待されたとか、特別酷い親の元に育った、というわけではないんだよね?

最初のを見る限りでは、ひと通り、親にはきちんと育てて貰ってるようだけど。

一体いくつなのか知らんけど、丁度反抗期のころかな?

反抗期の頃なら良いんじゃないでしょうか。

そういうことは皆体験するので。

ネットにこんな風に喚き散らしちゃって、そのうえ、何も意味のない内容でさも

「おれのかんがえるさいきょうのしゅうかん」を知らしめてますけども、

それを中二病だったと、皆後で気付くのですよ。

この流れ、全てどっかに貼っておくと良いですよ。


そのうち分かる、ってのはホントにそのうち分かるもんですから

今はどうしようもないでしょう。

反抗期中学生に何言ってもわからないんだから

2013-12-24

おおかみこどもの雨と雪 感想

家族物語は常に未完である

1.本作の主題

 大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊事情母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道家族劇であろう、と私は予想していた。

 しかし実際には、冒頭でおおかみおとこ主人公の花が「哲学」の講義きっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である

2.おとぎ話から現実へ?

 13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子もの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。

 しか出産子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本アニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのであるしか医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。

 親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産子育て環境リアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在リアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。

3.本作の根底を貫く3つの近代概念:①選択権としての自由観

 社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会から排除である。雨と雪を隠し続け、医者児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画クライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。

 「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマである。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事ものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たち存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。

 いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマ価値あるものとして社会的に承認されることである黒人女性差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である自分の非自発的なアイデンティティ差別迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。

 「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである

4.本作の根底を貫く3つの近代概念:②家族を壊す個人観

 取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである

 家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会国家世界史へと繋がっていく人倫弁証法スタート地点を家族においている。そして王道的な家族物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマ踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族のものを対自化、対象化しなければならないかである毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。

 しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族現実的な絆も、現実的幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語家族ドラマ王道スタイルである弁証法構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語家族弁証法プロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているかである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。

5.本作の根底を貫く3つの近代概念:③価値放棄する平等

 そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまたからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからであるしかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体肯定的表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体重要価値のあることであり、その選択自体尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等である。これも近代以後の社会には欠かせない重要概念である職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズテイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念のものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間生き方には価値序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんもの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方平等価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者生き方も、高名な僧侶生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである

 このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである人間人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみのPermalink | 記事への反応(2) | 08:36

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