はてなキーワード: 力学とは
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
個人的にはWOWOWやアマプラのドラマなどが面白いと思ってる。
言うてもWOWOWには加入せずにParaviに来てるのを見てるヘタレやねんけどな
Paraviに来るWOWOWは「WOWOW枠」があるんじゃないかと思うくらいに役者がかぶるけど(そゆのしか見てない説もあるけど)
WOWOWでずっしりドラマを味わうと、地上波の軽い芝居が却って良いと感じることもあるよ
◎『沈まぬ太陽』
「未曾有の航空機墜落事故」を扱ったという煽りからは想像出来ないくらいのスケール感で描かれている。
内容も演技も濃いんで、いきなりこれから見ると胃もたれするかもしれないし上川隆也ファンになるかもしれないw
◎石つぶて
外務省機密費詐取事件に挑む刑事たちのドラマ。佐藤浩市がいい!
◎64(ロクヨン)
時効が迫った重要未解決事件「64(ロクヨン)」を追う人々、ロクヨンを模倣した事件の勃発。
高村薫原作。ビール会社の誘拐事件を発端に起きる事件を追う男たち。
木村文乃主演の3部作。
木村文乃の演技は固い感じもするけど
◎拾われた男
松尾諭の半生を元にしたエッセイを作品にしているんだけど、これはキツかった
◎『闇の伴走者』『闇の伴走者-編集長の条件』
松下奈緒、古田新太がタッグを組み、長崎尚志原作のミステリー小説をドラマにしている。
上げるとキリがないのでこのへんで。
そうなんだけど、集団の力学っていうかガバナンスが体育会系スクールカーストから全然進化しないから
いかに悪目立ちしないように良い感じで目立つか、スクールカースト上位に気に入られるか、みたいなテクが
「ビジネススキル」「コミュ力」と言われていて、このあたり体系的に学ぶ機会がない。
技術スキルの高い人、高い教育を受けている人でこの辺のカースト力学に対応できずに腐ってしまう話が結構あるように思うんだよね。
だからって独立すると雑用も含め、人を雇う売上がたたないと全部自分でやらなきゃいけなくなってしまうし。
この10年位で
ネットでいろいろ直接販売できるようになったりプロジェクト単位でオンラインで仕事できたりしてそういうのに向いたスキルの人には
多少住みやすくなったのだろうか。
つまり民意ではないのでAIによる統治は絶対に避けようとする力学が働き汚職が無くなるね
もみ消すこともまああり得ないね
ふと思ったんだけど女の人ってなんで創作に関して物凄く繊細というかセンシティブというか 何かそんな感じなの?
とりあえず男性の作家と読者が多い界隈を「男性系」。女性が多い界隈を「女性系」としよう。
女性系は二次創作同人誌の注意書きだとかの話題もそうだし、オリジナル作品にしても物凄い熱意とこだわりがある。
たまにここに小説書いてる人が「私はどれだけ創作に捧げているか」みたいなエントリ書くよね。
俺はコミティアにたまに行くんだけどエッセイ漫画描いてる人で「私と創作」みたいなエッセイ作品描くのは必ず女の人だった。
あと、かなり前に絵に関してtwitterで女性系の人が「画風トレス」って問題にしてて「私と似た画風で描かないでください」とか塗り方が似てるつって怒ってた。
それは極端かもしれんけど、男性系ではこの作家さんはこの上手い作家さんが好きなんだな って当たり前にわかるくらいに真似て描いてても、特に問題になることもない。
こういうのはエロだとかBLとか抜きにしても女性系のほうが「掟」みたいな厳しく堅苦しいイメージがある。
描きたいから描く、作りたいから作るというのは男性系も女性系も同じなんだけど、女性系の人は「創作してる私」というのを特別なものとして考えてるような節がある。
これは女性だから、というか女性系界隈が持ってる世界のように思う。BLで隠れる必要があった とか理由も聞くけどそれよりももっと根源的に界隈特有の力学で発生してる現象だと思う。
都合の悪いことは忘れてるんだろうけど完全に難癖なんだよなあ
そもそも、符号を合わせる、の意味するところがわからんが とにかく正しい代入は 両者のΔpをそれぞれdΔp1,Δp2と区別すれば(さらにΔp=Δp1) Δp1=-Δp2なので U=-(1/fρ)Δp/Δy U=-(1/fρ)Δp2/Δy U...
いやそこまで複雑なことせんでも軸の向き逆なことがわかってるならΔzかΔyのどっちかに基準合わせて符号揃えればいけるやろ。元々のほうでも軸の向き云々書いてるやんけ
だから、符号を揃えるってどういう意味よ。聞いたことないか忘れた用語だ。中高生レベルの簡単な式で具体例出さないことには分からん。
そういうものだからとしか言いようがない 5chの有識者の引用によるとこうだ 静力学平衡の式って要はf=-mg(上向きを正)と同じだよね つまりΔzの大気によるΔfは下向きの重力の事で 平...
いや、上向きを正にしてるという基準が書いてあるじゃねーか
そうだけど、それのどこが「いや」なの。別に矛盾してる根拠示したつもりないんだけど
そういうものじゃないってことだよ
じゃあどういうことなんだよ。
そういうもので決まってるんじゃなくて、ちゃんと一定の基準で決まってるって話やろ。自分でも最初の増田に書いてるじゃないか
だとしたら何なんだ?もう片方の式は下向きを基準にしてるのか?あと結局符号を揃えるって何?
言うほど医学知識ヤベーやつ少ないか?大学教授だったりするけど?
- マスク不要を唱えたり (中国もアメリカの疫学者も厚生労働省のはじめから推奨。あくまで医療従事者に譲ってねの立場)
- 自粛不用を唱えたり (海外ではギャングですら外出禁止に協力)
- 感染症死亡者をプロトコルに従わず安易に近づける見解を示したり(肺に溜まっている空気や体液ほか安全を守る上では充分に気をつけねばならない)
- 集団免疫カルトを唱えたり (日本だけワクチン開発から降りたら?)
- 院内感染起こしまくっているのに、検査不要を唱えたり
- ドライブスルーを日本でも過去やってたことを無視して否定したり (現在、日本国内でも一部地域でやってる)
- PCRは感度が低いって言ったり(日本だけ疫学に使えないレベルだそうです)、検査限界があるって言ったり(実際には民間にたくさん検査出来る会社があります)
- 子どもは感染しない、子どもを含めた若者は重症化しないと、一斉休校を非難したり (基礎疾患のない10代の死亡が先進国でも確認されている。日米の小児学科と中国人研究者の見解は罹患率は成人と変わらない)
- ニュースで取り上げられるレベルの論文、科学読み物で取り上げられるレベルの論文に目を通していない、 海外の学会の見解/動向/共有を無視どころか、 日本の国内の学会の見解/共有とすらも一致してない
- コロナ以前に五輪もあったのに感染症対策に無策だけどSNSで暴れたりTVに出たり本を売る時間はある
- 日本の研究費の遥か下のベトナムやタイにワクチン開発で負ける
なお、空気感染についてだけは、心あるアカデミアの人がツッコミを入れてくれました
https://mainichi.jp/articles/20220329/k00/00m/040/168000c
もっとも他の感染学の人も以前から声上げてたけど謎の力学で無視されてただけなんですけどね😒
[m3.com]「COVID-19の拡大は空気感染が主流」【第61回臨床ウイルス学会】
国立病院機構仙台医療センター・西村秀一氏が講演
https://www.m3.com/open/clinical/news/article/835300/
一定以上の規模の日本企業に勤めているなら、謎の力学で雇用された異常なまでに仕事ができないポンコツを目にしたことがあると思うけど、ああいうタイプの人間も日本全体ではそれなりの数いて少なくない割合が専業主婦やってるんだろうなと考えると、何も言えねえ…ってなっちゃうな…。
フィッチ・レーティングスのクリスヤニス・クルスティン・アジア太平洋地域ソブリン格付部門ディレクターは、イールドカーブコントロール(YCC、長短金利操作)に伴う日本銀行の大規模な国債買い入れは、日本の格付けを下支えする「重要な役割を果たしている」との認識を示した。
クルスティン氏はブルームバーグとの24日のインタビューで、2023年春に就任する日銀の次期総裁は「債務の持続可能性における金融政策の重要性を十分承知しているだろう」とし、政府が任命することからも「次期総裁が考えを急に変えることがあればかなり驚きだ」と述べた。
日銀が保有する国債が増えていることについては、「日銀が国債をどこまで買えるか明確な制限はない」とし、YCCが持続可能かは「日銀が債券市場の機能の重要性をどう捉えているか次第だ」と話した。発行残高に占める日銀の保有割合は「ここ数年との比較ではそれほど高いわけではない」ため、「日銀が望めばさらに買い入れることは可能だ」とみている。
日銀は10年国債利回りを0.25%以下に抑えるYCCの一環で国債を無制限に買い入れており、国債の発行残高に占める日銀の保有比率は5割近くに高まった。海外金利の上昇が波及して残存年数が10年より短い国債の利回りが0.25%を上回るなど利回り曲線にゆがみが生じ、流動性の低下にもつながった。
基調的なインフレ率が上昇しない状態で政策金利が上がることも債務を巡る力学(debt dynamics)を傷つけかねないとクルスティン氏は話す。こうした事態になれば格付けへの影響について精査する必要が出てくると考えている。
同氏は、今後数年は日銀が現在のマイナス金利政策を続けるとみる一方で、足元の物価上昇により緩和継続シナリオに対する「リスクは明確に上がった」とも判断している。日銀総裁の交代時期と重なる来年の春闘で緩やかな賃金上昇が根付く兆しが見られる場合には、段階的ながらも「何らかの政策変更につながる可能性はある」と言う。
クルスティン氏は、20年から22年にかけての財政支出の規模が新型コロナウイルスの世界的な流行前と比べて「大幅に増えた」ことから「財政赤字を削減する余地はかなりある」との見方だ。ただし、国と地方を合わせた基礎的財政収支(PB、プライマリーバランス)の黒字化達成は「いかなる時点においても難しいだろう」と述べた。
政府は22年度の「経済財政運営と改革の基本方針(骨太方針)」で、これまで25年度としてきたPB黒字化の目標時期を明示しなかったが、内閣府の試算では26年度黒字化の見通しを維持している。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-11-28/RLTQ6QDWRGG501
twitterの認証バッジが金さえ出せば誰でも手に入るようになって、この感じはなんか既視感があるなあ、と思って考えたら、『HUNTER×HUNTER』でパリストンが念能力持ちの蟻の繭を5,000個確保しているというジンの話を読んだときだった。
念能力について、ヨークシン以降は実質的に標準装備という感じではあったけども、一方で、選ばれた人たちの特権的な能力という雰囲気もなんとなく残っていたので、そこに5,000個も念能力持ちが流入したら、全然ゲームが変わるよなあ、と読んだときに思ったんだった。ちなみに、作中のプロハンター(≒念能力持ち)のいまの人数が600人強らしい。それがいきなり5,000人増だ(ハンターの他にも念能力の保持者はいるので、600⇒5,600ということではない)。
念能力を持たないのは「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの」というぐらい致命的なものであるのに対して、認証バッジがなくても死にはしないが、バッジがあると有利というか、一目おかれる感じだったし、ある種の発言はバッジがなければ意味さえ持てなかった、そういう世界だった気はする(行政系のやつとか)。
え? 認証バッジそんなすごいもんだったかなあ?と思う人はいると思う。もしかしたら、俺がそう感じるのは、10年以上twitterやってるからかも。まあ、最近はぽっと出のソシャゲとかでもバッジついてたりするけども。
すべての特権的なものは、経済的に、もしくは物語の力学的に、最後は拡散して、みんなのものとして標準化していく運命にあるのかもしれない。いまは、海上の船内という密室でクラピカが似たようなことをやってる。
ちなみに、『HUNTER×HUNTER』の作者である冨樫義博自身はアカウントに認証をつけていないのがちょっと面白い。俺はこの人のこういところがけっこう好き(この時代、認証を受けていないことが逆に個性的、という演出があったとしても)。
← これって以前は Googleなどの画像検索でよくやってたよ。特に形容詞なんかのイメージを画像で把握するためにね。desolate とか exasperated とか。