はてなキーワード: いものとは
ほとんど伝えられていないけど、明日6/23に落下装置の引き上げを試みるみたいだね。
冷却材に使っているナトリウムが燃えて爆発しなきゃいいんだけど。
ナトリウムって空気や水に触れると燃え出す性質があって、そんなものを冷却用に使うなんてありえんだろう。
明日の引き上げはぜひとも成功させてもらいたいが、かなり難しいみたい。
最低限、引き上げ不可の失敗でとどめておいて欲しい。爆発だけは避けて欲しいものだ。
成功した暁には、当然廃炉へ向かうのが流れなんだけど、そうはならないような気もするし、注視が必要だね。
いきなり速報テロップで、「高速増殖炉もんじゅからナトリウムが漏れ、火災が発生している模様。放射性物質の流出については現在確認中」とか伝えられてさぁ、
2時間後くらいに避難しろとか言われても手遅れ。
別に守ってやる必要なんてないよ。
病気だ、っていうのは、本人や周囲の努力で変わるものじゃない、ってこと。単なる事実。
で、対処法なんだけど、イラつきとか怒りっていうのは多くの場合、コントロールの手段なのね。イラついて本人に怒るのは、(自覚してないかもしれないけど)その怒りによって相手が反省して変わってくれることを期待してるんだし、まわりの人間に当たるのは、みんなからもその本人に影響を与えて欲しいとか、あるいは自分を慰めてほしいとか、そういうことを期待してるわけだ。
でも、相手が変わりようが無いなら、それは無駄なわけ。どんなに本人にきつく言おうが怒ろうが、当人は変わらない。
変わりようがないものについては、スルーするしかない。それは我慢じゃなくて、処世術ってやつだ。「我慢してる」と思ってるなら、まだ心の底で「相手は変わるはず」って思ってるってこと。諦めて受け流すようにすればそれなりにうまく付き合えるよ。あと、「こいつがこう言うのはこんなふうに思ってるんじゃないか」みたいな、普通の人に対して通用する裏読みをしないこと。文化が全く外国人と付き合うようなものと考えてもいい。
ベーシック・インカムの精神そのものには、私は反対の立場じゃないんだけど、どうしようもなく疑問なんで答えて欲しい。
BIの導入に伴う問題点として、税収の絶対量についてはこの際論じない。それ言えばキリがないので。「国債の自己引き受けで余裕さ、地球の自転が止まらないように輪転機も永劫を輪廻するのさ」という前提を置いておく。お予算の問題は、無いものとしての議論。
その上で、まぁBIを導入したとする。日本の人口一億2000万人×10万(仮にね)×12ヶ月のカネがマーケットに流れていく。すると、まぁ需要は喚起されるよね、間違いなく。みんながどんどんお金を使い、市場はマネーで潤いこの世の楽園となる・・・んだろうか?
疑問は二点ある。
一点目は「喚起された需要が果たして国内に向かうのか?」ということ。我々の消費生活は、多くの場合輸入に依存している。中国産製品、例えば100均ショップにある小物類のお値段は、つめ切り一つにしても国内生産のものの四分の一とかそんなものだ。現時点でも、高品質・高価格帯を除けば国内生産品はほとんど壊滅に近い惨状にあると言っていいと思う。これは、皆さんが周囲を見渡せば容易に理解されることだ。メイドイン・ジャパンのチェアで増田を嗜むブルジョワ御仁がどれだけいるか?
すると、国内のマーケットに供給されたマネーは個人の消費性向の問題として、国内を潤わせることなく海外へと流出していくのではないか?インドの綿製品が流れ込んだイギリス状態になる気がするのは私だけかな。
例えば、日本銀行は最近になって通称「成長基盤オペ」と呼ばれる金融政策を打ち出している。これは、銀行にどれだけカネを供給してもマーケットに出て行かないことに業を煮やした白川さんが、「じゃあピンポイントでヒモつきのカネをブチこんでやるよ!」という、局所療法に出たわけだ。これは、理解しやすい。しかし、それに対して全く逆の効果を持つのがBIではないか。
確かに、総量緩和による政策は果てしないマネーを預金に積もらせただけで、観念的バベルの塔を築く以外にはほとんどなんの効力ももたらさなかった。しかしまた、同様にグローバル化の世界において民衆にカネをばらまくことは、海に向かって魚を放流すること以上の意味を持ちえるのだろうか。もちろん、マグロが近海を泳ぐようになるならいい。しかし、そのイワシは大方が真っ直ぐ中国に向かってしまうのではないか?
もちろん、魚を囲う「網」になり得る可能性は存在する。マネー総量の爆発的な増加による円安傾向、並びに通貨価値の下落(これを、通貨信認の毀損と呼ぶことも出来るが、それはめんどくさい議論になるので後述。また、「バーナンキの背理法は間違っている」という可能性も排除する。)これが天然の関税として作用する可能性はないか?
円の価値が思いっきり落ちて1ドル150円になったとする。確かに輸出産業は活況を呈するだろう。しかしその一方、我々の消費傾向が国内回帰する可能性はあるか?私は難しいと思う。仮に、中国産製品の値段が二倍になったところで、それでも我々はメイドイン・チャイナの椅子に座り、メイドイン・チャイナのつめ切りを使うのではないか。
この段階で、議論はフィフティ・フィフティだ。どっちに転がる可能性もある。輸出と輸入は美しいバランスを保ち、冷戦構造のような調和ある対立を得るかもしれない。しかし、BIの性質そのものがメイドイン・チャイナを強力に後押しする可能性を考慮して欲しい。というのも、こういうことだ。労働価値というのは、A・スミスの慧眼が予見したとおり通常市場における神の見えざる手で決定付けられている。それに対して、半ばマルクス的な色合いを持つ「最低賃金」や「基本的人権」の観念、ひいては労働法規がその下限を決定付ける。翻ってこのBIの制度、これはかなり強力に労働単価を引き上げる効果を持つのではないか。
平たく言えばこういうことだ。働かなくても食える世界で、時給640円で働く労働者は存在し得るか?ということ。これは、人間の性質に関わる議論なので、ソヴィエト連邦の国家運営がうまくいくかどうかと同じくらい「やってみないとわからない」。しかし、偉大なるレーニンやサン・シモンに敬意を払った上のこととしても、私は多分ダメだろうと思う。いや、ダメだろ?BIには、鎖国、ないしは強力な関税政策が必要になる。
そして、更なる恐怖がBIには待っている。これが疑問の二点目だ。それは、わが国の根本的性質に深く関わっている。
それは、わが国は「カロリーベースですら食料が自給出来るか微妙」ということ。そして、更に絶望的なるもう一点。「資源がありません」ということ。円高になればなっただけ、輸入コストは増大する。これに更に追い討ちをかけたのが先日の震災だ。原子力抜きで、エネルギーの自給が果たして出来るのか?1ドル150円になれば単純計算でガソリン1リットル300円くらいだろうか。さて、果たしてこれはどうなる?
企業家にとっては恐ろしい未来が待っている。労働単価は高止まりし、原料費は高騰する。こうなると、「円建てで取引するのがそもそも間違ってんじゃないか」という思考に陥る可能性すらある。折角需要が喚起され、天然の関税障壁に守られたかに思えた国内生産品も価格競争力を持つことが全く出来ない。
そして追加的な怖さはこれだ。確かに、私もバーナンキの背理法は間違っていないだろう、と思う。確かに、マネーの総量が経済に影響を「与えない」と仮定するなら、世界はすぐに楽園になるだろう。なるほど、どこかで必ず飽和点は訪れ、円高は終わりを告げる。問題は、緩やかに落ちるかキリモミ落下して地面に突き刺さるか、だ。確かに円は高い、しかしわが国の財務状況は決して明るい未来を指し示してるとは言えない。つまるところ、通貨バブル、国債バブル(私は現在の状況をそう認識しているが、これには異論があるかもしれない。むしろ、通貨の絶対価値とはスイスフランによって計測されるべきである、という考え方に対しては一理を認めるしかない)が大爆発するリスクはどうだろうか。BI,とはベーシックなインカムである。それは、やはりベーシックなインカムと呼びえるだけのキャッシュフローでなければいけない。しかし、それだけのマネーを市場に放った結果について、我々は誰も知りえない。バーナンキの背理法は「リフレ政策の効力を約束した」わけではない。むしろ、「長期的に人は必ず死ぬ」といったニュアンスに近い。老衰で死ぬか、腹下しで死ぬか、爆散して骨も残らないか、誰にもわからない。
しかし、これは端的に私の知識不足、ないしは知能・理性の絶望的不足に根ざしている可能性も否定できない。
私は、BIの精神性を否定しない。むしろ高く評価するし、すばらしいと思う。ここがウクライナだったり、あるいはアルゼンチンであるなら、是非にもやるべきだと思う。また、日本が産油国であればもっといい。しかし、そうではない。
ベーシックインカム論者の反論を求む。
あ、ごめん。労働単価の高止まりの根拠として、「BIは高税率が回避できない」ってのがあった。多少働いても、まぁかなり少なめに見積もっても半分は税金で持ってかれる。厳密に計算したわけじゃないけど、「どんなに少なくても」それくらいは要る。労働意欲の喚起はかなり難しいだろうと思うよ。
3箇所程の科をまわり、精神科病棟での勤務経験は数年間あります。
ひとつ前のトラックバックの方がおっしゃっているように、日常生活に支障をきたすようならば精神科受診をおすすめします。
精神科に強制的に入院させられる要件のひとつは、その精神症状によって「自傷他害の恐れがある場合」です。もし頭の中の声のせいでそのような行動を起こす恐れがあると感じるのならば、早急に受診して下さい。
現状その声を自分でコントロールできて他者には気づかれない程度で、かつ精神科受診に強い抵抗があるのなら、まずは心療内科受診からでも良いかもしれません。
私自身も、かつて自分がうつ病か何かの精神病なのではないかと思い悩んだ時期がありました。
でも実際に精神科で勤務して患者様に接してみると、自分のは単に気分の浮き沈みだったのだと理解できました。
心の病気は、比較対象もなく自分だけをみていても判断しにくいものなので、医療者に正しい診断をしてもらうのが一番だと思います。
あれ?あんたはダムどうこうって言い出した奴と同一人物か?妙にものわかりがいいじゃないか。
いや、何を極論と呼んでるのか知らないが、俺はこのツリーには2つ上の「はっきりと反原発派の本音を白状してくれてありがとう」の記事しか書いてないよ。
これを「建設的に」見直すとしたら、人事も含め危機管理体制の刷新だ。
技術なんて関係ない話なんだよ。
「安全神話」なんてのはマスコミと愚民大衆がどこからか後付けで作り上げた実態のないものだが(俺自身、「神話」的に安全だなんて思ったことも、そんな風に信じてる奴を見たことも一度もないぜ?)、それはともかく後の部分は全くその通りだな。
非常に実用的な視点だね。そこには全面同意だし、そこまでわかってるならこちらから何も言うことはないよ。
技術がどうこうと言ったのは、もっと低レベルな、あなた言うところの「極論言ってる一部の馬鹿」(一部とはとても思えないが)向けの話だから。あなたはそれより一段階上の話をしている。
ダムだの何だのと比較するとキレる奴ってのは、原発批判じゃなくて原発ヘイトをしてるからね。「事故が絶対起こらず放射性廃棄物の問題がない原発」ができたって原発潰せっていうに決まってるよ。というのは、原発に「ケガレ」を見出していて、他のものは清潔で無害だと無邪気にも思いこんでいるからだ。あるいは、原発関係者ってのはショッカーみたいな悪い連中で、金のために人類を滅ぼそうとしているとか思っている。
まずはその思いこみを脱してもらう必要がある。だからこそああやって挑発的なことを書いているわけだ。
あなたは「はじめに反原発ありき」でこれでもかこれでもかとコピペ並にdisを繰り出してくるようなレベルではなく、「何が悪いか」と具体的な問題点を指摘して、きちんと判断の境界線を引くという、まさにフェアで「建設的」な議論ができるわけで、そもそもこんな増田のdisり合いに出てくるのが「手合い違い」なんじゃないかな?
http://blog.mudaimemo.com/2011/06/50ios.html
広告付き無料アプリはダウンロード数の割に儲からないといっているけど、当たり前だ。儲からない理由は二つある。一つ目は消費者は何らかの目的でアプリを利用すること、二つ目の理由は広告が数少ないスペースを消費してしまうことだ。当たり前だが、消費者は何らかの目的を持ってアプリを入手し、その目的を達成するためにアプリを利用する。それなのに、目的と関係ない広告が表示されるのは邪魔であり消費者の満足度を下げる。しかもこの満足度の低下は大きい。なぜならばスマートフォンの画面は小さいからだ。小さい画面なので、どうしても相対的に広告は大きくなり邪魔になる。そのため広告が表示されることによる満足度の低下は大きいものとなる。以上のことからとてつもなくうまくやらない限り、広告付き無料アプリに対する満足度は低くなる。その結果ダウンロードされても利用されることが少なくなり、ダウンロード数の割に儲からないこととなる。また広告を消すアドオンを購入する消費者も少なくなる。ちょっと考えれば当たり前のことである。
真面目に有料アプリで上記のアプリの半額くらい稼いでいる俺としては、広告付き無料アプリで儲けられると思っている開発者はとっとといなくなってほしい。
自分の性癖が特殊で理解されないことに一定の優越を覚えるのは青春時代の普遍的な志向の一つだが、24になっても未だ同志を得ない自分の性癖は恐らく変わっているのだと思う。私はスカンクが好きだ。臭い液をぶっかけられて悶え苦しみ、吐き散らして尚臭味の取れない強烈な奴を想像し、一人でマスを掻くのが好きだ。
おならフェチだのスカトロだのには息子がなかなか反応しない。屁だ、臭いものだと思い込めばやってやれなくもないが、どうもしっくりこない。スカンク娘というジャンルには若干反応するものもあれど、それもやはりスカンクの模倣として捉えて初めて自分の裡に興奮を引き起こす。気づいたのは小学生の頃だったが、未だ人に打ち明けられずにいる。到底理解され得ぬ性癖であることは承知で、周りのギラギラした男達のAV談義に水をさす気にもなれなかったから。
想像であることが大きな価値を生んでいる。別段、アメリカに渡って本物のスカンクの悪臭を味わいたい訳ではない。体験してみればか細い妄想が瓦解しかねないし、もしかしたら妄想に色を添える事象になるかもしれないけれど、思考の対岸の、触れ得ぬ聖域から臭ってきてほしいと思うのだ。妄撮も、本番なしの風俗も、パンチラも、いずれも巧妙に向こう岸を見遣って悦に至るものだろう。そのくらいは分かる。本物との邂逅など野暮なものだ。
人並みの恋愛をしてみても、当然至る性行為に当たってみても、スカンクの幻影が消えない。正面切って女性と、あるいは男性と向かい合ってみれば忽ちコンプレックスも氷解し、真っ当な人間になれるものだと信じたこともあった。しかし現実は、後背位で動く女や男の尻の穴からスカンクの臭腺を想起し、そこから殆ど擬似的に放たれるメチルメルカプタンに悶絶する自分を以て性的興奮を起こらしめるばかりで、事が終わって彼女や彼の頭を撫でていても恐らく人と自分の思うことは違うのだという乾いた絶望感に襲われるほかなかった。
最近暇が出来たので、図書館を巡ってスカンクに関する文献を蒐集するようになった。コピーを取り、スキャンをし、ネットでは得られないスカンクの臭液に関する情報を集め、タグ付けをし、一日の終わりにそれらを眺めてマスを掻くようになった。少年時代に何度もお世話になった動物のひみつ新訂版の擬人化されたスカンクや、シートン動物記のスカンクの社交術に記載されたメリアム氏の少年時代の経験(臭液をまともに顔にかけられた話)やコンウェー氏の元に来た少年が臭液を嗅いで失神した話や、学研の知育ずかんのなぜなぜどうぶつととり(つづき)にある、「スカンクのおならはほんとうにくさいの」というページにあった親向けの解説など、忘れもしない文字列とイラストが起こす興奮は得も言われぬものだった。
17の頃から、臭いということそのものへの興奮を見出すことで、一般的な性指向に自信を帰依させたいと願うように成り、その試みは半分成功し、人にはにおいフェチなのだと言い張ることが出来、それは自尊心を保つのにたいそう役立った。しかし現実はそのまま放っておいてはくれず、においフェチとしての自分が確たるものとして存在するに従って、呼応するようにスカンクの臭液への憧れはいっそう激しさを増していった。
ネットで自由に情報を収集出来るようになったことは、自分の性癖を満たす有用な道具を自身に与えると同時に、自分の肩身狭さを客観的な指標として与える恐怖そのものでもあった。例えば英語にある程度堪能になったことでJustin CourterのSKUNKに出会えたし、勿論YouTubeは海外のテレビ番組からスカンクの動く姿を、臭液の噴射する様を、噴射された人間が悶え苦しむ姿も現実の物として与えてくれた。ここに至っても自分の求めるものは仮想的なスカンクの臭液であり、現実の臭いという具体的な形を伴った物として自身が体感したいとは思えず、ある日はそれを矛盾として捉え自身を苛み、またある日はそれを合理として捉え自身を確固足らしめた。
そんな中、どうやら匂いを体感出来るスピーカーやプリンターのような機器がその内出るかもしれないという情報を目にし、ひどく困惑することとなった。紛れもなく現実の臭いでありながら、メディアを通して体感する擬似的な臭いに対し、自身の立つべきポジションが、自身を納得させる論法が分からなくなったのだ。体験してみて判断すればいい、行動してみて思考すればいいという言葉は的を射ていない。ひどく感覚的な、あるいは妄想的な、仮想の情熱にその端を発する私の性癖は、いつの間にか、体験したときに終わり、触れてしまえば崩れ落ち、嗅いでみれば全滅的な嘔吐感を催す、ある種自身の終焉として認識されるようになっていたから、そのような装置があってはならない、あっても普及してはならない、嗅いでやるものかと、先の見えぬ義務感を私の中に植え付けた。
スカンクは臭い。おならと呼ばれる物はガスではなく液体。臭いの主成分たるメチルメルカプタンは都市ガスの匂いづけに用いられる物質。臭腺から噴射される液体はたんぱく質と結合しやすく、目に入ると一時的な失明を引き起こし、その臭いは風向きによっては1km四方前後に届く。マダラスカンクは逆立ちをし、そのディスプレイが成功しなければ両足を下ろし、臭液を敵の顔目掛け、機関銃の掃射のように左右へ少しブレさせながら噴射する。
これらのいずれもが、私の息子をいきり立たせ、射精に至らせ、日常生活と人格形成に支障をきたす。自分に子どもが出来ても、あらゆる方法を以てこの性癖が受け継がれることを防ぎたい。自身のように、そういった話を完全にシャットアウトされ、無菌室のような環境で育てられるようにするでもなく、潤沢にそういった図書を部屋に据えるでもなく、極めて自然に。自分の子どもには普通であってほしいと願う親の気持ちを、こうした角度からも汲み取れるのだなとふと思い至った。
http://anond.hatelabo.jp/20110618180959の元増田ですが、丁寧な説明をありがとうございました。
公平に選考をしたという証拠を残しておくためのものなのですね。
個人的な話になりますが、これまで民間企業の入社試験も受け、何度も落ちていましたが、
その際の履歴書は、即刻破棄処分するなり、コピーなど取らずに返送するなりして、会社側に個人情報は残らないものと思い込んでいました。
何かに毒されているのかもしれませんが、元の記事を書いたときの心情は、個人情報云々の正義感よりも、
「ぞっとする」「気味が悪い」との感情の方が上回っていましたので……。
後だしの情報になりますが、履歴書その他が綴られたファイルは、職員なら誰でも見れる場所に保管されているので、
悪用する方はやはりいないかとは思いますが、それだけは保管場所を変えるように進言した方が良さそうですね。
それと、ひとつだけ。
被災地にある役所なので、現在は人手が全く足りていない状態です。幻想だったら良かったんですけどね。本当に。
夢だったら良かったと何度思ったことか。
言い訳も何も、東電を擁護してるつもりなんてないけどね。単に「狼少年」は自分の首を絞めているということを指摘したかっただけ。自衛隊だの公務員だの原発だの医者だのを、批判するだけ批判して褒めるところは全く褒めないという態度は結局自分の身に降りかかってくるということだ。批判するなら正しく批判しろということ。はっきりいって反原発派の99%の原発批判は2chのネトウヨのコピペレベルの知識だ(例のもんじゅデマや「原発がどんなものか知って欲しい」が一番わかりやすいだろう)。ああいうことを言っていては聞く耳を持たれるわけがない。
別の例を出せば、第二次大戦の歴史認識問題がある。はっきり言ってこの件に対する欧米リベラルの日本批判には随分おかしなものが多い。しかしそういう連中がのさばることを許しているかなり多くの原因は日本の歴史修正主義者にもある。そういう奴らのせいで、例えば南京大虐殺の死者数を、笠原あたりの説を引用して「30万は過大評価、10万-20万程度だ」と言っただけで右翼扱いされてしまう。
原発についても同じことが起こっているんだよ。
俺が言った「村」は日本か世界全体のことだから「壊滅する」ってのは余りにも大袈裟だね。正確には、村の出入り口付近の家が襲われて、住人は何とか逃げたがそこには住めなくなった、とでもいうべき。
屁理屈もへったくれもない。世の中にあるものすべてそういうもんです。「新幹線は安全です」というのと同じことだ。誰も「新幹線は絶対安全」なんて思うまい。責められるべきは東電が新幹線なみの意識で安全対策をしていなかったこと。それ以上でも以下でもない。福知山線事故を見て「鉄道は危険」なんていう奴はいまいよ。「JR西日本は安全文化を全面的に考え直せ!」というのが妥当な線。今回も同じこと。
こういうと「原子力は新幹線より一度の事故あたり被害が大きい」というかもしれないけど、言っとくけど、時速300km=分速5kmなんてものが5分間隔で走ってたり、あるいはガソリンなんて危ないものを燃料にした乗り物が道や空に溢れかえってたりするのも、核反応ほどのセンセーショナルさはないかもしれないけど、素人目には「神業」的な技術だと思うよ?
そして「数」のことも考えるべき。飛行機事故は自動車事故より派手だけど飛行機が自動車より危険かといわれるとそうとも言いがたいのと同じことが、原子力技術と他の技術の関係でも言えると思うよ。
要するに、あなたは「他に行き場所なんか無いんだ、だから、泣き言言う前にここで狼守ってる俺ら番人の足引っ張んじゃねえ」って思ってるということか。「原子力を利用できなければ、いずれにせよ人類は滅ぶ」と思ってるんだよね、おそらく。
俺自身は「番人」ではないが、ある程度その立場が理解できる者として、そう思ってる。元の記事に
自然エネルギーが「これから」の技術である現状、チェルノブイリよりずっと恐ろしい温暖化を確実に引き起こす火力よりマシだという考えは変わらん
と書いたとおり。温暖化や化石燃料枯渇は世界人口の短期間での激減というような壊滅的な被害を引き起こす可能性が現実のものとしてある。原発事故で人類が滅亡の危機に直面するすることはあり得ないことを考えれば、どう考えても火力より原子力が「マシ」であることは否定できまい。少なくとも、再生可能エネルギーやCO2の固定・回収技術の技術がもう一段階進歩したりするまではね(その間に原子力技術も進歩することはお忘れなく)。
そのことは「前提」だと思うんだけどね。「脱原発」を唱える人でさえ、最低でも四半世紀は先のことだというのは合意できてるはず。実際、四半世紀なんてのは現状の再生可能エネルギー技術でなんとかできる、という非常に楽観的な想定(原発の「安全神話」よりもよっぽど悪質だと思うけどね)に立って、ようやく成り立つぐらいのレベル。実際には半世紀かそこらは必要。つまり今後さらに原子炉寿命一世代分ぐらいは原子力が必要。即ち新設ストップなんてのは自殺行為だ。
となれば、現状の選択肢は「安全性を総点検・強化して原子力を利用」しかあるまい。それ以外何があるというんだ?
それは、科学的にそうなの?それとも漠然と政治・経済など専門外の「専門家」の人が言うことを聞いてそう思ってるということなの?
やっぱそんなところか。東京電力は文系王国で技術が分からないバカばかりらしいというのは聞いた覚えがあるし、地元に建設するならそれだけ慎重になるのも分かる。新しい方が対策も進んでいるのも。
そう考えると使うところの近くに建設しようという某知事の考えもあながち間違いでもないし、古いもの(1980年前半まで?)のは早く廃炉にして新しいのに置き換える方が現実的かもしれない。
古いのを廃炉については自分の近くの共産党の県議会議員が主張してたな。一方で社民党系のプロ市民議員はデマばかり流してたが。
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
彼の書く文章は往々にして読みやすく、ユーモアに満ちている
つまり、彼の書く文章は往々にしてロクでもないものなのだ。読みやすさとユーモア、その二つさえあればロクでもない文章になるのには十分事足りる。あるいはこう言うこともできるだろう、世間のいわゆるロクでもない文章ではない文章というものは読みにくいし、ユーモアに欠けている。
しかし、私が言いたいのはそういう面において、彼の文章が非常に洗練されているということである
また、ロクでもない文章しか読まない大多数の人間にとって、彼の文章は読むに値するということなのだ
貴方がトーマス・マンのトニオ・クレイゲルなどを読むことを日課にしていないのであれば、私は貴方に村上春樹の文章をおすすめする。
それが、面白い。
常識とずれたことを言われて、それに気づいたときに、人々は面白いと感じる。
たとえばSMAPやビートたけしが同じようなことをつぶやいたとしたら、誰だって
常識ではあり得ない! と思って笑うだろうし、
間違って信じたとしても、信じた自分を笑うに違いない。
ところが、そもそも浜崎あゆみは、支持していたファンの幅も年代も狭いので、
大成功したスターでありながら、彼女のことをよく知らない日本人が圧倒的に多い。
そして、今は人気がやや落ち目でもある。
だから、
(今のアユなら、地下鉄に乗るかもしれない。電車にのっても、学生のいない日中なら、気づかれないかもしれない)
という人々の無意識の思いと、
と強いるアユサイドとの間には、温度差がある。
あれだけ大成功したのに、こういうボロが出るのは、惜しいものだ。
こういう些細なところに、本人の性格の悪さが、にじみ出てしまうのか。
そういえば、CDの売上枚数がサザンオールスターズを抜いたときに、
「ファンの皆さん、騒がないでください!」
と謙虚な姿勢をみせたくせに、松田聖子の売上枚数を超えたときには、手放しの
だから、サザンを超えたという表現で、多くの人々を刺激はしたくない。
だから、叩いてもかまわない。
貧しい者、弱い者を装いながら、本心はプライドと優越感でいっぱい。
自尊心を満たすために、人々の中で嫌われている者、立場の弱い者をあざ笑うことで、
ニコ動の「○○してみた」について考えてみる
記事でも触れられているが、今の「してみた」クラスタは、もはや多くが「してみた」ではない。
してみた、というのは一種のテストであり、そのテストは多義的である(してみることそれ自体のテスト、己の技術が評価されるかというテスト、etc)
つまり、これ自体が開拓の色を併せもち、開拓され、整備された今の環境ではそのテスト自体は殆どが後者の意味合いを持つし、ほぼ形骸したといえよう。
だからと言って、じゃあ「してみた」という名前を変える必要があるか?というと、その必要はない。今のままでいい。
むしろ気にかけるべきはそこで持ち出される「アマチュアリズム」という言葉だ。
フラット化するフラット化する、とさんざん叫ばれた電脳世界において、ニコ動が与えたのはむしろ格差の促進である。
再生数、コメント数、マイリスト数などあらゆるものが数値化され、ランキングでそれは大きな意味を持ち、ランキング動画にも影響を与えている。
ただし、そこにプロとアマの壁は存在せず、ニコ動で評価されるものとされないものという枠組みに改まった。
というのも、多くとは言わないがそれなりの仕事をしている人が参加していることは疑いなく、ならばそういう人が評価されているかといえば、そうでもない。
ユーザーに受けるかどうかが評価の差であり、技術の巧拙は幾分無視される。
そのような環境で持ち出される「アマチュアリズム」という言葉にどれほどの意味があろうか?それこそ、記事冒頭に出てきた「してみた」という言葉に対する「下手だけど勘弁して」な思考と同じ位相にある。
これは要するに「賞賛>批判」という格差を是認するものだ。一方で表現者を標榜していながらアマチュアリズムを盾にし、その口で批判は従者等と言うのだからおそろしい。
買い物は衝動買い以外にはない。
毎日の夕食の買い物にしても、すべての人が常に最善の選択を繰り返していたら、健康に影響がなくて、栄養価が高い物しか売れなくなる。
反対にうっかりさんは、衝動的に高くて健康によくないかもしれないものを買ってくれる。
最善の選択とは別の評価軸を持った人がいる、つまり多様性。それは、経済を回す原動力だ。
多様性は、選択肢が増えた結果の象徴。豊かさの証でもある。
今住んでいる日本がカツカツの暮らしをしていたときは、多様性とか選択肢はありえなかった。
原発は先進国には、特に国も国民も財政が厳しい日本には有益すぎて手放せないものだよ。電気代が原発なしレベルに上がると、ものづくりも、外食も、オフィスもなんであれ大増税と同じくらい、あるいはそれ以上の打撃を受けるよ。
それに、この世界で原発を持つべき国がいるとしたらそれは日本だよ。日本は世界一原発の安全基準が厳しい国になるだろうね。国民それぞれが放射線からの安全を願ってるのだから、ルールを書く人も、それを報道するマスコミも、それを実際に実行する現場の人も相当なやる気で取り組むことになるんだろう? 原発でものすごく苦い薬を飲んだ日本は世界一安全な原発を有する国になれるようになったんだ。
人口ピラミッドも、IMFの提言も、財政状況も、横の国の政治戦略も、どれを見ても日本にはこれから厳しくなるばかりだろう? らくできるところでらくしないとさらに次世代の人たちの残業時間が延びて就活が厳しくなるよ。
1.議論の応酬でトラックバック間隔が早くなるのは当たり前です
(議論のツリーを見て「一人の人物が一人〇役で書き込んでいる」という発想がわくのは、健康な神経ではないことにきづいてください
2・あなたについての書き込み、あなたの好きな政治の書き込み、
これらが書き込まれるとそれがどんな時間帯でもあなたは2分ぐらいで現れます
だってその店寿司屋じゃないもの。回転寿司屋なんだもの。食材のサラダボールなんだよ。いつの日かナポリタンとか回り始めてもおかしくないよ。
人間にとって一番不幸せなことって何なんだろう。もっと身近なところで考えて見れば、自分にとって一番不幸なことって何なんだろう。わかんない。
お金が無いことなんだろうか。家族別れてしまうことなんだろうか。社会から切り離されることなのか。無残な殺され方を迎えることなのか。
人の幸不幸って、結局のところ後出しジャンケンみたいなもので、結果としてしか現れないものなんだろうな。
だから幸せな未来だとか将来なんてものはあやうい。いついかなる時も、判断ができるのは過去と現在のことだけであり、それが可能な主体は今ここにしかいやしない。
要は全部経験してみないことには一番なんて決められないわけで、もっと言えば一つ一つの出来事を公平に振り返ることなどできるはずもなく、厳密な一番を決めることは不可能なわけで。
判断する主体が今ここにしかいない事実を、ある人は希望というのだろうし、またある人は絶望というのかもしれない。
不確定な可能性ばかりが広がっているのだし。
なんかこういうことを思うと、自分の中の不安とか希望とか、不幸せだとか幸せだとかいうことが全部馬鹿馬鹿しくなってくる。
同じように、誰かを疎んだり僻んだり妬んだりすることも、見下したり侮ったり馬鹿にすることもどうでもいいような気がする。
いや、そんなことが言いたいわけじゃなくて。だって、現実問題他者や自分を倦んだり好意的に思うことはあるのだし。
まあなんというか、今この場所でそれなりに満たされていれば十分なんじゃないかなと思うわけで。
なんかおっさんみたいな考え方をするようになってしまったなあ。こういう態度を、日和見って言うのかしらん。刹那主義というのかしらん。
人を押しのけるだけのエネルギーとか、端から持っちゃいなかったんだろうなって思うなあ。
さておき、こんだけ短いのに、上段中段下段と主題が跳ね飛び回っててちょっとびっくりする。自分にびっくり。自分でびっくり。驚愕しました。それほどでもないけど。
おわる。
必須。エンジンの出力を調整するためのものなので、無いと自動車の場合、速度が調整できない。
飛行機のようなスロットル方式にしようが、ゲームみたいにコントローラーで操作しようが、アクセルに対応する機構は必須。
実際のところ、たとえブレーキでもべた踏みなんてしない。
そこまで踏まなくても車は止まるので。
そして、急にアクセル踏んだときにアクセル抜けるようなシステムだと、高速道路での事故が多発する。
かといって、高速道路モードを作ってしまうと、みんな常時ON状態で運用してしまう。
ATのオーバードライブだってつけっぱなしで、逆にオーバードライブ切ると警告灯が点く有様だしな。