はてなキーワード: 考える人とは
キモオス、バカオス、ポンニチオス、クソオス、反出生主義、ッ(オとかサンとか敬称をつける必要がないから)みたいなワードを見るたびに思う
先にやったのは、女叩きだったよなーと。
先に何年もインターネットで、女は臭い、なんだ女かよ、女の文章、車のエンジンがかからないの(笑)まーん(笑)まんさん(笑)女さん(笑)が蔓延ってたよなあと。それを止める流れはマジでほぼなかったよなと
だからミソジニーは徹底的に叩くけど、ミサンドリーに対しては、ワイは寛容。
あの頃の女はインターネットで自分から理由もなく一般男性を口汚く罵るミームを作ることなどなく、穏やかに話してたよなあと思うからです。
なんでやり返さないんだ、あんな卑劣な奴らに言論の主導権なんて譲る必要ないよ、女みんなで口汚く罵っていいんだよ、あいつらキモくてバカだよ、殴り返せよ、と思ってた
「女でごめん」と謙虚に謝ってれば、キモいセクハラコメントはつくもののまあまあ荒れずにすみましたが、基本的には女の発言は荒らされてた
殴り返すなんて野蛮!悪口を言い返せば同じ土俵に立つことになる。こちらは丁寧に話さなければいけない。平和に過ごすべき!と考える人ももちろんいると思う。
私には全く理解できませんが。
まーん(笑)くっさ(笑)と止まらない止める人はほぼいない書き込みにも穏やかに、「そんなこと言われたら傷つくよ泣。」と言ってみることはできたでしょう(じゃあ書き込むなwww的に返されるだけでしょうが、書いた本人は傷ついたと書いた瞬間に癒されて満足できるかも)
まんさん必死wまあ許してやるよwとか言われながら、書き込めば会話はできるので、怒る必要はない。ということでしょう。それも納得できる。会話が目的であれば、目的は達成できるためです。
「相手も人間なので、ひたすら相手を肯定し続け根気強く優しさと共感を示し続けていれば、ちゃんと話し合える!」と考える人も中にはいるでしょう。
優しさや肯定や共感されたからって相手には返報する義務はありません。勝手に親切を押し付けて勝手に何かを期待するなんて傲慢だと思いますがね。
女さんにも割と良い奴いるんだな(笑)と会話が成立する可能性はありました。会話の成立が目的であれば怒る必要もないのは理解できます。
まあそれはともかく、
増長しすぎた女叩きについに女たちはキレて、現実の痴漢や性犯罪やセクハラにキレて、それらへのばかげた対応にキレて、甘っちょろい性犯罪の認識にキレて、男尊女卑にキレて、クソなテレビやメディアや雑誌やドラマやアニメや漫画や映画での男尊女卑にキレて、
いつしかクソオス、キモオス、ポンニチオスというような呼び名が定着するようになっていった
ワイは女がずっとやり返さないことが不満だったので、嬉しかった。
女叩きやフェミ叩きみたいなクソミームをどんどん作ってる日本横暴インターネットで、女性がお行儀よく美しい言葉を使う必要なんかないからね
むしろ、女は自分からは何かの集団をひたすら叩くミームをあまり作らないので、女がカウンターとしてではなく自ら積極的に気に食わない相手を叩きまくるようになるまで、もっと増長していいと思っている。
働かない人や働けない人にお金を渡すのはずるいみたいに考える人がいるけど、お金は回るものってのをわかってないからバカなんだよね
そういう人たちにお金を渡せば、消費するから経済が回るし、そういう人たちの生活水準が上がれば、鬱で寝てる人も減るし、エネルギーの足りない人も減るし、同じ1日の過ごし方をもっと生産的にできる
遊びにしろ学びにしろ働くにしろ、民度が上がり豊かさにつながり余裕ができて消費が増えて政治が育っていく
豊かじゃない人が増えると、遊ばないし学ばないし何もしないし、消費もしないし政治もしないボランティアもしない慈善活動もしない何の活動にも参加しない、生産性がマジで低い
仕事をしてる人も、高い対価をもらって、価値を社会に提供し、消費や慈善活動をするわけではないからね
少子化の原因はいくつもあげられるのだが、最大のものは子供の教育コスト問題だろう。
ヨーロッパやアメリカは日本よりも幾分、マシにみえるが、マジョリティである白人人口は低下の一途を辿っている。
義務教育の9年間に加え、高校や大学まで行かないと劣等感と付き合いながら生きていかなければならない、と考える人間が増えすぎてしまった。
しかし、戦前や戦後すぐくらいまでの時期の日本は多産であった。
それは何故か。就職に学歴を要求する職業はそれほど多くなく、かつ子供は労働力だったからである。
筆者の少年期ですら、地方では農繁期には学童も農業の手伝いのために学校を休むのが常識的にまかり通っていたが、近年は家庭内の介護ですら
「ヤングケアラー」などという新語までつくって、とにかく少年少女を労働から隔離しようとする動きが見られる。
だが、二宮金次郎は薪を背負いながら勉強したし、100年前の映像や写真には10歳にも満たない子供が幼い弟妹を背負って家事を助けている姿がいくつも残されている。
子供を労働力に数えることができるのならば、人は積極的に子供を産む。
とはいえ、新興国ならまだしも、先進国で児童労働なんて…と考えるのが現代社会に生きる我々の大方の考え方だろう。
これくらい支給すれば、まさに「生きるために」子供を持とうとする人が増えてくるだろう。
あるいは擬似的な職業としての「妊婦」が成立するかもしれない。
平均的な日本人が一生に支払う税金はこれ以上の金額であるし、逆に子供が生まれてこなければ、当然、税収はどんどん減っていく。
高校以上まで子供を通わそうとすれば自前でさらに金額を支出することになるのだし、家庭と国家、家庭と社会の貸し借りで言っても概ね回収できる。
財源は、という話は当然でてくるわけだが、増税はもってのほかである。
国債は政府の借金であり、その借金を返すには「未来の国民」から税金でもって巻き上げるしかない。
だが、巻き上げる国民が減少すれば、返すこともままならなくなるだろう。
むしろ、これ以外の政策の実行に国債を使用するほうがおかしい。
とはいえ、それだけの支出を現行の国家財政の枠組みの中で行うのは非常に難易度が高い。
今の年間の出生数は80万人程度で、彼ら新生児に一律1000万円支給しただけで年間8兆円飛んでいく。
最終的に今の人口の置換水準である150万人程度の出生を目標とするのであれば、15兆円である。
あるいは、出生届が出された段階で一人につき1000万分の貨幣を余分に発行しても良い。
筆者はMMTに全面的に賛成するものではないが、狙いやゴールがはっきりした政策に限定するのであるならば
ハイパーインフレには繋がらないと思われる。
異次元というのならば、これくらいの大胆な施策を実行しなければならない。
生まれてくる子供の質がとか、子供を望めない家庭の心情は、とか言ってる場合ではない。
個々の不満は実現したあとに考えていけばいい。
子産みってのは自身の可能性を信じ切ってる男女にとっては将来の上昇においてあまりに重い枷。
その枷を枷と感じないほどにすでに上昇しきってる人たち、立場の揺るがない人たちはその余裕を子供に向けられるけど
「今」が勝負どころの実家も細い、実力もずば抜けてない、時間をブチ込んで自分に下駄を履かせるしかない多くの男女にとっては重荷。
子供にエナジードレインされて全てが水の泡になることほどろくでもないことはない(と、考える)。
社会的な成功と子育てはまったくリンクしないってのを先例を見たり、自身で深く納得してるから多くの人は先延ばしにするか、挫折して諦める。
割のいい安定した仕事あてがえば良い、論なんて
これはそもそも金払いも良くて年功序列な空気がまだ残り香プンプンだった高度成長末期〜バブル期においてすら
子育てよりも自身の社会的上昇こそがマスト、という風に考える人が多いからこその結果であり、社会そのものの成長を考えた時には
そうした上昇志向の男女が多いことは良い側面もあるのだと思う。
病院職員をしています。この仕事をして約5年が経ちました。ベテランとは程遠いものの、新人とは言いにくくなってきました。
中くらいの規模の病院です。様々な患者を見てきました。そこで得た経験知があって、それは、多様性叫ばれる令和になっても尚、良好な関係性の血縁が最強ということです。
社会の一員として、社会システムの利益を享受しまともな生活がしたいのなら、絶対に結婚したほうがいいし、せめて親や兄弟は近くにいるほうがいいです。
ちょっと前に流行った、『置かれた場所で咲きなさい』というのはとても真理ですね。あれは、植物のように、生まれついた場所で交配しなさいという意味だったようです。違うか。
まず病院は、入院してきた人が単身独居の時点で、「うわぁ…」となります。そんな人珍しくないでしょって思いますよね。いえ、そこそこ珍しいです。感覚だと10%ないくらい。
そういう人の援助のため働く人(ソーシャルワーカーとか)がいる、と考える人もいると思うけど、その場面で必要な援助って、家族以外誰もできません。例えば急に入院したけど現金を持ってないとか、着替えがないとか。実際に困るのってそういうところです。当たり前ですが、基本的に病院には最低限の衣食住しかないです。鍵を預かって家に入って荷物を取りに行ける人は、病院職員には一人もいません。そりゃそうだ、と思う人は常識人です。お願いすれば、病院の人がやってくれるって思ってる人は結構多いです。
確かに療養生活で起きた日常的な困りごとはソーシャルワーカーさんの領分ではありますが、彼らが初動でできるのはせいぜい関係機関への働きかけくらいです。主に役所系。このへんはイメージされている通り、めっちゃ動きが遅いです。
入院している時点で、すぐには自分の身の回りのことは自由にできないです。病棟によっては携帯電話の使用も制限されます。緊急であれば連絡手段がない状態で来てしまうこともありますが、携帯を持って来てくれる人はいません。公衆電話はあるから完全に通信が制限されてる状態ではないですが、公衆電話を使うにはお金がいります。そのお金は誰が?
親も兄弟も疎遠なので恋人に連絡してほしい、と職員に頼んでくる人がいます。
そんな重要な相手がいるなら籍を入れておいてほしかったです。だって家族じゃないとこちらは簡単には連絡できないもん。疎遠でも、血縁者への連絡が優先されます。
家族じゃない人に患者の個人情報を電話で話すのは、本人が想像している以上にハードルが高いです。私がいいって言ってるんだからいいでしょって訳にはいかないです。こっちは安い給料で、よく知らない患者と自分の身を守りながら慎重に動いているので。
家族じゃなきゃダメなんて今の時代に合わない、病院は遅れてるって思っていた頃もありました。でも今は、動きの遅い行政機関の気持ちの方が理解できます。だってこの国の人間の第一責任者は家族です。家族以外の他人の介入は慎重にならないといけないです。そこで生じたトラブルの責任を負える程の給料は誰ももらってないので。
一人で生きるって思っている方。
何か困ったことがあれば、然るべき職業の人が助けてくれるって思ってる方。
確かに生き方は自由だし、社会システムは整っているのでどこかに繋がれば見殺しにはされないです。なんとかなります。
でも助けてくれる人は、最低限、仕事で助けるだけというのは理解しておいてほしいです。
枠組みの中でしか動けないし、組織の端くれが何か決断できることはありません。判断には時間がかかります。書面のやり取りも必要です。どこか画一的なのは仕方ないです。
思ったように動いてもらえなくて怒る人に、口先では謝ることもありますが、腹の底ではそれがお前の生き方の結果だよ、って思ってます。無責任な生き方だと思ってます。仕事だから投げ出したりはしないけど、トラブルを避けるためにより慎重になり、もっと動きは遅くなっていきます。
なので主題。
トースターに「ありがとう」と言う人はほとんどいません。その理由はいくつか考えられます。
トースターは、人間のように会話できる存在ではないため、感謝の気持ちを伝える相手としては適切ではないと考える人もいます。
トースターは、人間にとって日常的な存在であり、感謝の気持ちを伝えるほど特別なものではないと考える人もいます。
トースターに「ありがとう」と言うことは、おかしいと思われたり、馬鹿にされたりするのではないかと考える人もいます。
トースターに「ありがとう」と言うかどうかは、個人の自由です。しかし、トースターが私たちの生活に欠かせない存在であることは間違いありません。トースターに「ありがとう」と言うことで、その感謝の気持ちを伝えてみてはいかがでしょうか。
アニメとかweb小説とか見てるんだけど、時々これって現実的に無理だよねって考えるときがある。
もちろん批判したいとかじゃないから作品は普通に楽しんでみてはいる。
例えば有名どころで言うと、
高周波ブレードとか目に見えない速度で振動しているような構造なんだけどアニメ通りの構造は無理だと思ってる。
高周波メスとかはあるんだけど、こう言った物って長さは長くても30cmにも満たないんだよね。
物理で片持ち梁の話ってあったと思うけどブレードってこのイメージになるんよね。
さらに構造がクリアできても、ゆっくり動かすならともかく刀みたいに動かすのはダメ。
高周波系の物は細かく削っていくイメージだから接触時間が少ないとその回数が減るからね。
だから高周波ブレードで抜刀!とか言うのを見ると、ん?ってなる。
まぁこう言うのは考えずに見れば良いだけの話しだよね。
あのCM見たけど、どこが、なぜダメなのか全く分からなかった。
ヤフコメをざっと見たところ、「インコは野生で生きていけない。」「それを放すとのたれ死んでしまうのが問題」という意見を見た。
あくまでCM上の演出で、実際にインコを放したわけでもないと思うんだけど、やっぱり問題なんすかね。
それともCM撮影の際に実際にインコを放して、そのインコが本当にのたれ死んでしまったんですかね?
本当にそういう事実があるならギリわかるけど、現状そこまでの事実は確定してないですよね?
あのCMを問題だと考える人は、どこを、なぜダメだと思うのか解説して欲しい。
勘違いしないで欲しいのは、自分は何がなんでも「あのCMは問題ないんだ!」と反駁したいわけではなくて、問題があるならそこを正確に理解したいと考えているだけだ。
現状自分は問題ないと考えているけど、それは鳥に関する知識がないだけで、詳しく知ったら「なるほど、問題だ」となる可能性もあるわけで、その点は自分の認識をアップデートしなければならないわけで。
というわけで、なぜダメなのか取りに詳しい人からの解説、説明が欲しい。
あと、あのCMを作った中の人は、そういう人の抗議を受けて、「そうかー、あかんかー」と抗議内容を理解し、納得して内容を変更したんですかね?
それとも、「うるさいのがおってめんどくさい。別にワンカットくらい変えたところでCMのメッセージにも購買意欲への影響力にもさほど変化ないから変えとくか」と思って変更したんですかね?
頭の中でだけ考えて誠実不誠実を断じた論。なんか若いなあ、って感じ。
故障以外でユーザによる自己解決を勧めるエラー表示なんて白物家電においてもいくらもある。メンテ性ゼロなんてことはないぞ。きちんと調べたことはある?
汚れなんかそもそも気にしてないユーザが存外多数なのは他ツリーでも触れられている通り。本質機能(冷蔵庫でいえば「冷す」)以外の、例えば汚れセンサーとかにコストかけてしまうと、過剰品質だとか、そんなんいらんから値段下げろとか、これだから国内メーカーは(藁)とか、マイナスの評価になってしまうのだけど。そういう声に対してはどうすんの?
もしソフトウェアエンジニアがこれを書いているなら、例えば潜在的な不具合の可能性をすべて公開の上で顧客にリリースするべきと考える人だろうか? ソフトウェアにバグが付きものなのは周知の事実。この論に倣えば、そうしないのは「不誠実」になるのでは?(「そんなことは理論上不可能」「ケースが違う」とか、ただでさえ自分の論に都合の良い前提を追加するのはやめてな。)
誠実なエンジニアなら、まず現状をその道の人にきちんとヒアリングして事実に立脚した上で、他人他者を断ずるべきでは? 優秀な俺様が考える「あるべき論」はいらんのよ。
この本読んで思ったけど、結局産んでも産まなくても後悔する人はするみたいだ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220523/k10013634851000.html
それは選択肢が正しかったかどうかよりも、後悔する性格がどうかが大きいように感じた。
買い物なんかでも、買った後に色々考える人とそうでない人がいるように
選ばなかった方のことを考えては後悔してる。しょうがないよね。
仕事柄、経営者やクリエイターの話をきくことが多いんだけど、一定の功績を収めている人に多いと感じるのが「盲信する力」だ。
自らが描く未来や正しいと考えることに疑念を持っておらず(少なくとも対外的にはそう映るような言動をとる)、それゆえ判断軸がハッキリしているから決断が早く「仕事ができる」状態にあるのではないか。自分みたいにクヨクヨ考える人間からすると羨ましいが、ときにその思想にほころびが見えると「独善的だな……」というやっかみ混じりの批判が頭をよぎることもある。
結局は他人を気にしないという点に収斂するのか。
そう考える人が悪いのでは
つい最近TwitterでボカロP的な人が「曲を聴いてもらいたいだけなのにイラストやら動画やらでお金がかかって大変だよ😭」というようなツイートをしていた.
それを見て次の2つのことを思った
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画にお金をかけなくても(ある程度は)聴いてもらえるのでは?
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは?
そして最後に『3. MVと音楽は別物の創作物である』という個人的な主張について書く.
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画に金をかけなくても(ある程度)聴いてもらえるのでは? について
まず前提として,各種の動画投稿サイト上で"曲自体に魅力はないがMVが良いから高い評価を得ている音楽"ってあるだろうか?
全く存在しないことはないだろうが,少なくとも私は知らない.
一方で,"MV自体が高い評価を得ていなくても曲は高い評価を得ている音楽"なら比較的たくさんあると思う.
なんならMVと言いながらもイラストや画像を載せているだけだったり,曲に合わせて音の波形のようなものがうねうね動くだけの動画でも良い曲というのはごまんとある.
こういった事情を考慮すると,自分が作った曲をたくさんの人に聴いてもらおうと思った時にMVが優れている必要はなく,ただ良い曲を作ることだけに注力した方がよくない?と言いたくなる.
もちろん,優れた曲を作った上で優れたMVが用意できれば,話題性が出てより多くの人に聴いてもらえるといったことはあるだろうが,それはMVが特段優れたものではなくても(もしくは,そもそもMVなんかなくても),ある程度の人に聴いてもらえるようなクオリティの曲を作れるようになってからでも遅くはないように思う.
むしろ,明らかに素人感丸出しの曲なのに,お金の力を借りてMVだけクオリティの高いものを用意しても,動画の視聴者はなんか違うな...となってしまうだけではないだろうか.
MVが曲の評価を高めるという側面はあれど,それはあくまでも曲そのものが魅力的である場合に限られると思う.
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは? について
最近のボカロ音楽は,音楽と動画のセットで話題になるという傾向が顕著である,というよりむしろMVがないけど話題になるような曲の方が少数派なのではないだろうか.
それゆえ,特に最近のボカロリスナーであればあるほど曲にはMVが付随しているのが当たり前であるという認識が一般的になっているように思われる.
そしてそれに伴って,ボカロ曲の作り手たるボカロPの創作欲求の源泉として,"作った曲を聴いてもらいたい"よりも"作った曲のMVを観てほしい"というものの占める割合が増えてきているのではないだろうか.
もちろん,純粋にボカロで曲を作ってそれを聴いてもらえることが第一であり,別にMVなんか必要ないという作り手も大勢いるだろうことは承知している.
しかし,仮にツイ主がそういった考えであれば,そもそもお金を払ってまでMV制作を依頼することにそこまで固執することはなかったのではないだろうか?
まず,前提として私は音楽をよく聴くが,MVを観ることはあまりない.
その理由を端的に言うと,私は音楽を聴きたいのであり,動画を観たいわけではないからというのに尽きる.
個人的な話だが,つい先日私の好きなバンドが数年ぶりのアルバムを発売するにあたり,YouTubeでそのアルバム内の1曲についてMVを公開した.
公開時にはアルバムはまだ発売されておらず,私は早くその曲を聴いてみたかったのでMVの動画を再生した.だが,あくまでMVを観てはいない.
その時はPCのブラウザでYouTubeを開いていたのだが,動画の再生ボタンを押した瞬間にブラウザから別のウィンドウに切り替えることで,あくまでMVは観ずに音楽を聴いただけであった.
こんなことをしていると,なぜそこまでしてMVを毛嫌いしているのかと言われそうだが,私はMVが嫌いなわけではない.
優れたMVを観て良いなぁと思うことも感動することもある.ただ,それは純粋に音楽を聴いて良いなぁと思ったり感動したりするのとは,情動の発生要因に違いがある.
具体的に言うと,MVを観ながら聴いた音楽には,その音楽についての印象に視覚情報が関わってくる.一方で,MVがなければ,音楽を聴いた時に及ぼすのは純粋にその音楽を聴くことで得られる聴覚情報のみである.(厳密に言えば音楽を聴いている時に目を開けていれば視覚情報はシャットアウトできないがそれは無視する)
それゆえ,私はMVを観ることによって,音楽を聴いたときのイメージに視覚情報が含まれてしまうことが嫌でMVを観なかったのだ.一般的に人間にとって視覚情報は聴覚情報よりも強い影響を及ぼすため,MVを観ながら音楽を聴けば,次に同じ音楽を聴いたとき,その音楽のイメージには少なからずMVの視覚情報から得られた印象が含まれているはずだ.私にとってはこれが好ましくないのだ.
音楽を聴いた時に音楽の全体的な印象として,または特定の音色に関してそこに色彩感覚を知覚する"共感覚"というものがあるらしい.例えば「この音は薄い紫色」だとか「この音楽は白っぽい感じがする」だとか.
私はこの共感覚を持っているとは言えないが,でも曲の中にはなんとなく,本当になんとなくだが色彩感覚であったり,風景(薄い緑色の草原の中を風が吹き抜けている様子だったり,石畳の歩道や教会のある中世の街並みをセピア色のフィルターを通して見た景色だったり)を連想したりするものがある.
これは本当にボンヤリとしたものであって真に共感覚を持っている人の感じ方とは全く異なるものだと考えている.しかし,ボンヤリとした形であれ,音楽という聴覚情報から視覚情報が想起されるという人は自分以外にも少なからず存在するものだと思っている.(具体的な根拠はないですが...)
このような,音楽を聴いた時に何らかの視覚情報が想起されるというのが私が音楽を聴くことが好きな要因の一つであり,また私の好きな音楽というのは,聴いた時に頭の中にイメージや風景が浮かぶものが多い.こういった感性を持っている人がいたら多分共感してもらえると思うが,MVを観て音楽を聴いてしまえば,その音楽の色やイメージのようなものは間違いなくMVで使われていた色やイメージにひきづられてしまう.
つまり,MVを観ることによって,MVを観ることによって得られる視覚情報からの楽しさが得られる代わりと言っては何だが,今後そのMVの曲を聴いたときのイメージが視覚情報から得られたイメージに大きく影響を受けるという代償を負っているとも言える.少し大袈裟な言い方な気もするが,事実である.
よって,私にとってMVというのは視覚と聴覚の両方を同時に刺激する存在であり,音楽というよりはアニメや映画といったものに近い創作物であるという印象がある.
例えば,映画と音楽という創作物について考えてみると,音楽は映画を構成する一部分ではあるが,これら2つの創作物を同じ土俵で評価・議論したりするのは違和感があるだろう.
それと同様に,MVと音楽という創作物もそもそも別種のものと捉え,区別するのがより自然な見方ではないかと考える.
にも関わらず,現状では多くの人がMVと音楽というものをあまり区別することなく,「音楽の良し悪しや評価 = そのMVの良し悪しや評価」と考える人が多いように思えて違和感を感じている.
0/100で考える人ってこういう事よく言うよね
大半は流行に乗れる所は乗って、あるいは乗ってるフリをして、乗らない所は「自分は乗っていない」とあえて声高に主張せずひっそりとしてる「どちらでもない人々」だと思うんだけど
何故その中で日本維新の会が議席数を伸ばす事には拒否感を示す人達がいるんだろう
野党への投票を勧める意見に影響を受けたらそりゃ維新の会にも投票する人達が増えるのは当たり前じゃん
(この記事は「日本維新の会」を別の議席数を伸ばした野党に替えてもOKです)
その結果を受けて反省すべきなのは少なくとも投票した人達では無い
もちろん各党にも考えるべきことはあるかもしれないけど
仮に維新の会が議席数を増やすのが問題だと考える人達がいるなら
自分が「野党に投票する事」を呼びかけたりしていないかから反省すべきだろ
正直に「維新の会以外の野党に投票した方がいいよ」って言うべきだったし
もしくは自分が野党の中でどの党が良いのか十分な情報を提供出来なかったかも反省すべきだし
確かに、国家の立場からすれば、国が存続するには国民の再生産が不可欠で少子化は大問題なわけだ。それは理解する。
しかし、そもそも自分たち国民はこの国に存続してほしいと考えているんすかね?
選挙にも半分くらいの奴は行ってないし、地方選挙になるともっと数字は悲惨なことになってる。
もうこの国の政治とかどうでもいい、よくわからない、頭いい人が適当に考えといて、自分たちは今が楽しければそれでいいから、自分が生きてる間くらい日本が続いてくれてればいいからって奴が大多数なのでは?
なんか当事者意識が希薄なんだよね。家事・育児を「手伝う」って口を滑らせて妻からブチ切れられる夫くらい当事者意識がない。
そう考えると少子化でこの国が弱くなって、いつか無くなったとしてもそれはそれでお疲れ様でした!ということでいいんじゃないの?
世界史レベルでながめれば、国家が勃興してなくなっていくことなんて日常茶飯事なんだし、日本がなくなっても2000年後の人にとっては、「その昔ローマという帝国があってな…」的な歴史の一事象に我々が何の感慨も抱かないのと同様に、「昔日本という国があってな…」的な歴史上の物語として消費されるだけなんじゃないの?
少子化になると色々問題が続出するぞ!国力が弱まるぞ!国が衰退して他国に支配されるぞ!この国がなくなるぞ!と言っても、大多数の一般大衆にはどうでもいい話で、とりあえず自分が生きてる間にこの国がなくなることはなさそうだからいいや的な感じなんじゃないの?
「いや、そうじゃない、この国が存続することにはとてもすごい意味があるんだ!」とか考える人はその辺どういうふうに思っているんすか?
この国は存続すべきだと考える人はなぜそう思うんすか?
選挙にすら行かないその他大多数の一般大衆に、存続すべき意味を理解してもらうにはどうすべきと考えているんすか?
「我々の祖先が努力して築き上げたこの美しい日本という国を後世にも受け継ぐ義務が我々にはあるんだ」
とか
「先の戦争で自らの命を擲ってこの国を守ろうとした我々の先輩のことを考えれば…」
的な感じっすか?
そんな叙情的でふわっとしていて捉えどころのない理屈で一般大衆を説得できますかねぇ。自分には無理だと思うんすよねぇ。
もっとこう「今、ここにいるあなたが深刻に困りますよ」的な切実で、切迫した、わかりやすく、目に見えて、においを嗅ぐことができるくらい具体的な理由でもないと一般大衆は理解しないと思うんすよねえ。