はてなキーワード: 樹形図とは
掲示板型のコミュニティが減って、意見が集約されることが無い昨今。それぞれの観測範囲を正解だとする地獄があちこちにある状態ですねこんばんは。
するよしないよ樹形図ってめっちゃ好き…その樹形図が存在することでは誰もどこにも行くことはできないのだが、観測し集約する者の存在を感じる。
http://mem2ch.web.fc2.com/archive/maruheso/codic/suruyo.html
個人的には好きなのは「風早くんはいないよ」なのだが、今ぱっと探した分には見当たらなかった。
みんなが何を見ているかをみんなが知っている状態がなくなり、各々の趣向に合うものとローカルコミュニティの延長がインターネットになってしまった。それは過去に見た息苦しいウェットさなので、またコミュニケーションのための話題じゃない、特定の話題をとことん突き詰める場所がまた現れることを信じている。
こんなことを相談できるのはここにいる人たちしかいないんだよ。
自分はこの生徒と同じだと思う人、こういう経験がある人、どうか俺がどう行動するべきか教えてほしい。
個別指導の塾にて、1人の生徒をアルバイトとして指導している。
【俺スペック】
客観的に言って指導力はある方だと思う。難関大学志望の生徒を毎年何人か任されている。
生徒から個人的に菓子折りとか貰うこともあり、それなりに慕われていると思う。
【生徒スペック】
中学2年生
成績が定期テストの度に下がり続けている
単純計算は得意だが、少しでも思考を要する問題の出来が壊滅的(次項詳細)
まず、座標を読み取れない。「座標」という概念をどうやって教えても理解してもらえない。
こういう子どもには抽象的な言葉ではなく具体的な言葉で言うべきと聞いたことがあるので、
「直線(グラフ)の上に点があるよね。その点を縦方向に見てx軸に書いてある数字がxの答え、横方向に見てy軸に書いてある数字がyの答えだよ」
というようにしているのだが、まず「直線の上に点がある」ということを全然理解してもらえない。
なんならグラフを指してね、という指示に対して問題図内の関係ない図形の辺を指すこともある。
ミスを防ぐために「計算した数字はその都度図に書き込もう」、と指示し、計算の度に「今○○さんがどうしてその数字からその数字を引いたのか、先生に教えてくれないかな」と言って、自分の思考回路を意識する練習をしてもらっている。
3か月くらい続けたが、成果が出ている感じはなかった。
例えば俺だったら、三角形の角度が180度を超えたらおいおいおかしいだろ!って気づくけど、そうはならないんだよね。
「三角形の角度の合計は180度なので、答えが180度を超えるのはおかしい」→言えない
こんな感じ。
もうどうにもならん。助けてくれ。
「仮定」「結論」の概念が理解できない子に証明問題を教える術を持ち合わせていない。
一応なんとか、2カ月くらいかけてできる限り単純パターン化して教えてはみたけど、全く歯が立たなかった。
そもそも証明問題は問題ごとに解法を発想しなければならないので、こういう”思考”が苦手な子と致命的に相性が悪い。
これも全然歯が立たん。
「ABCDの4人が一列に並びます。はじめにAさんが並ぶとき、並び方は全部で何通りありますか」
この問題を読んで樹形図のはじめに堂々とA,B,C,Dの4パターンを書いてしまう。
どうしたらいいんだ?
「はじめにAさんが並ぶとき、というのははじめにAさんを並べるという意味で……」
なんとかはじめは「A」の一択と理解してもらえたとしても、2番目は「B」「C」「D」の3通り、3番目は2通り、4番目は1通り……という流れを真に理解できていない(うまく言えないが、「並べる」ことに付随する可能性という概念を理解できていないっぽい)ので、問題が変わると全然ダメダメになってしまう。
正直この生徒は勉強が苦手とかそういう話ではなく、もっと根本的な思考の部分になんらかの問題を抱えているのではないかと思う。
俺の指導も悪いところは勿論あると思うけど、他教科の担当講師が共有ノートに残したメモを見ても「公式の使いどころを理解できていない」「柔軟に考えましょう」ということが何カ月も書いてあるため、やはり思考が絡む問題が「できない」のだと思う。
苦手ではなく、「できない」。2年ほど担当してきて今の俺はこの結論を出さざるをえない。
この生徒は次中3だから高校受験をするのだと思うが、率直に言って高校受験に、その先の高校の勉強に、大学受験に対応できるとは思えない。
今この子のために取れる最善手は親御さんに事実をお伝えし、個別指導に無駄な金を払うよりももっと適したサービスを使うようにアドバイスすることだと思うが、それはあまりに冷酷なことでもある。
それに、塾長や他の講師もこの子の抱える問題について薄々わかっているとは思うが(俺も何度か相談したし)、商売の体裁上それを面と向かって親御さんには伝えられないのだろう。
だからきっとこれからも変わらず俺がこの子の数学担当を継続すると思う。
任されたからにはちゃんとした授業をやりたいが、しかし打てども打てども響かない生徒を相手にすることに正直疲れてしまっている。
これから新中3として中学受験の対策に入るのだが、授業の度に俺は交わらない会話と、この子が将来通るであろう苦労、この授業で教えたことをこの子が根本的に理解しておらず、来週になればまた同じところで躓くであろうこと……などを考え、暗澹たる気持ちになること間違いなしである。
俺が耐え切れずにアルバイトをやめる前にとれる努力があればどうか教えて欲しい。
お願いします。
不出来な人間をおおっぴらにくさすのはダメなんだけど、仕事ができないうえに改善が見られなかったりフォローしてる人へ感謝の意思表示がないと心証は悪くなる。
報連相が苦手ならその旨を周囲に伝えて頭下げて相談の仕方を教わるとか、遅刻多いなら30分早く着くように行動するとかやりようはあると思う。
病的に改善できないなら発達障害(ADHD)の可能性もあるから要受診。投薬やSSTでよくなる可能性もある。
自分語りになるけど、自分はアスペで手帳持ちで障害者枠で働いてる。
暗黙のルールとかが全然わからないし1から10まで教えられないと動けないから最初はひたすら頭下げて注意されたこと全部ノートに書く。可能ならどうすれば良かったかも教えて貰って書く。
心証が悪いとそのへん教えて貰えないので普段から周りの人へのお礼や挨拶は欠かさないようにしてる。
ストレスの負荷はすごいのでたまにパニックになって泣いたり軽い胃炎になることもあるが必要な痛みと割り切る。
最初はきついが小難しいゲームみたいなもので数をこなせば躓く頻度も減る。
とにかく数をこなして頭の中にイレギュラーや細かい差異もある程度カバーできる詳細なクソデカ樹形図を作ってそれに従って行動する。
「『日本語の原郷』についての論文を読んでみた」(anond:20211121124146)を書いた増田です。思ったより多くの反応があって嬉しいので、調子に乗ってはてブの反応に対して補足説明みたいなのをしてみます。
そもそも言語学では分かりようがないところを考古学と遺伝学の視点からも補正したっていうのがあの論文の眼目だと思うので、言語学の面だけ否定しても…
こういう意見がみられましたが、少なくとも考古学や遺伝学の成果からは言語については何もわからない、ということを強調しておきます。
極端な例を挙げると、100年前にアメリカに移住した日本人の子孫で、ご家庭でも英語しか使っていない日系アメリカ人のことを考えましょう。彼もしくは彼女は遺伝的には日本列島に遡ることができます(おうちを探すと日本列島由来の品が出てくるかもしれません)。では言語的には? 彼もしくは彼女が話しているのは英語であり、英語というのは印欧語族ゲルマン語派西ゲルマン語群アングロ・フリジア諸語に分類されるイングランド発祥の言語であるわけです。どれだけ遡っても日本列島には行き着かない。「この人は遺伝的には日本列島の出身なのだから、英語の起源も日本列島にあるんだ!」なんて話はおかしいでしょ?
古代にどのような人口の変動があったのかはわかっていません。移民や同化が起きたのかもしれない。婚姻によって遺伝子が混ざりあった可能性もある。その場合、遺伝子の伝播と言語の伝播が異なるルートである可能性もあります。遺伝子はヒトの移動について詳しく教えてくれるけど言語の移動についてはなんも教えてくれないんですよ。せいぜい傍証になるだけ(「言語学の観点からは○○語は××地域あたりが原郷だと思われるが、遺伝学で調べてみたら××地域からの大規模な人の移住があったっぽいので、このときに言語も広まったんだと思われる」みたいな)。
様々な仮説があるのはいいけど、定説化とか定説がエビデンスによって覆されたとか以外はニュースバリュー無いと思うんだが、なぜ報道されたのか。
いやー、Natureにマックス・プランク研究所の研究者が載せた日本に関する斬新な論説をニュースにするな、という方が無茶じゃないでしょうか……
正直、これメディアを責められないと思うんですよね。実は著者のロベーツさん、去年オックスフォード大学出版会から『オックスフォード版トランスユーラシア語族ガイドブック』なんて本を出してるんですよ(Robbeets and Savelyev 2020)。天下のオックスフォードUPから『~語族ガイドブック』なんて出てたらその語族の実在は学界の定説になってるって勘違いしちゃうのも当然っていうか……これ、今回は日琉語だから気づけたけど、パプアニューギニアの言語とかでやられたら引っかからない自信ないです。
なおその『ガイドブック』には辛辣な書評が出てます(Vovin 2021)。掻い摘んで批判の内容を紹介すると、「分析されてるのが現代語ばっかりやんけ」「系統関係があるって言うなら明確な対照表を示してみろや」「中期朝鮮語の再建がおかしいけどちゃんと韓国語の先行研究読んどるんか?」「“leading international scholars”が書いたガイドブックって謳ってるけど著者のうち6人は院生じゃねーか」みたいな感じです。さらには、
We move now from the bad quality of research to the realm of science fiction in Table 39.1 that is supposed to present core Koro-Japonic etymologies. But there is at least one mistake and/or data fabrication on every line. (Vovin 2021: 126)
これは元増田でも書きましたが、大野晋は、少なくとも日本語の起源という点については完全にトンデモです。
タミル語はドラヴィダ語族というインド南部の語族に属する言語ですが、大野は「日琉語族とドラヴィダ語族はより大きな語族に内包される」というありえそうな穏健な主張ではなく「日本語の起源はタミル語である」という主張をしています。しかし「なぜドラヴィダ語族全体ではなくタミル語と比較するのか」「ドラヴィダ語史がまったく考慮されていない」「語義の解釈がおかしい」「サンスクリット語からの借用語に気づいていない」などのツッコミに対して有効な反論ができていない上、ツッコミを受けた箇所をしれっと書き換えたりツッコミを入れた人たちに人格攻撃を加えたりしています(長田 1998;児玉 1996;山下 1996; 1998)。やり口がもうきちんとした学者のそれではありません。
大野の語源論が誤っている一例として、amarar「不死なる者」という単語について挙げておきます。大野はこれを日本語「あま」と関連付けて「天上界の人」の意だと解釈するのですが、これはサンスクリット語amara「不死の」からの借用語です。これはさらにa-maraと分解でき、a-は否定の接頭辞、そしてmaraの語根mrは英語murderやmortalとも関連しています(つまり、印欧祖語に遡る語ということであり、どう考えてもタミル語起源の単語ではない)(山下 1996: 204–205)。
日本祖語から琉球語、もう片方の枝が本土語と八丈島語に分かれた系統図を覚えてたんだが、あれからずいぶん研究が進んでるんだなあ。/20年前に既にずいぶん版を重ねた本で得た知識だから当然か…。
五十嵐(2021)の説は発表されたばかりなので「定説」といえるほどではないですが、きちんとした分岐学的手法に基づいて系統解析してるんで個人的には信用してます。
で、従来説における八丈語の位置づけですが、正確には、「上代東国語の唯一の生き残りが八丈語」というものです。つまり、「本土日本語派」がまず上代日本語(OJ、奈良など当時の首都で使われていた言語)と上代東国語(『万葉集』の東歌と防人歌に痕跡が残る)に分かれ、後者が八丈島(&青ヶ島)以外では滅んだ(=上代日本語に同化された)ため、現代では八丈語が日本語と対立するひとつの語派を形作っているということです。
系統樹にするとこんな感じ(樹形図をどう書けばいいのかわからないんでとりあえず「うんこするの?」の樹形図からコピってきたんですが、見づらかったらすみません)。
│
│
この樹形図から絶滅した言語を取っ払って現代語にのみ注目するとこうなります。
│
├─八丈語
それに対して、五十嵐(2021)は、上代東国語は滅びたわけではなく、表面上は関西からの影響を受け続けたものの、現代の関東・東北地方の方言として生き延びていると主張しています。つまりこういうことです。
│
│
八丈語が際立って特殊に見えるのは、この言語が失われた東国語の唯一の生き残りだからではなく、他の東国語の末裔(茨城弁とか)と比べて中央からの影響が少なかったため東国語の特徴が保たれたおかげだ、とするのが五十嵐説です。
要するに、「東国語は滅んだ(=東国語話者が完全に同化された)」のか(従来説)、それとも「東国語は生き残っている(=東国語話者は中央からの影響を受けたけど完全に同化されはしなかった)」のか(五十嵐説)、という違いです。個人的には後者が妥当じゃないかなーと思うんですが、どうでしょうか(だってそんな大々的な言語置き換えはどうやって起きたの? ってなりません?)。
なお、五十嵐(2021)だけでなく、元増田でも言及したローレンス(2013)も、八丈語には他の東日本の諸方言と共有される要素が見つかり、それは西日本の諸方言には見られず、したがって八丈語は東日本の諸方言の内に位置づけられる(=八丈語と本土日本語が対立する系統であるとする旧来説は誤り)と主張しています。
”日本語に興味のある&研究手法を学んだ”素人には、この論文の言語部分はとても怪しい。増田の指摘以外に日本語の粟を他言語の大麦の借用としたり、味噌(未醤)を漢語ではなく朝鮮祖語からの借用にしたりしてる。
実は増田もそれを見たとき「えっ……?」って思ったんですが、否定できるほどの根拠を持ってないので書きませんでした。確かに先行研究では意外な言葉が朝鮮語からの借用語だとされてることがありしょっちゅう驚いているので(たとえば「つち」とか)、「味噌」が朝鮮祖語からの借用というのをありえないと即断することはできないんですが……。
いちおうここで論文の内容を紹介しておくと、『鶏林類事』に[mitsu]という語があって、そこから朝鮮祖語*micuを導き、平城京の木簡にみえる「末醤」から上代日本語の*misoあるいは*misəを再建し、それは朝鮮祖語*micoもしくはその交替形*micʌからの借用である、という議論になってます。これだけじゃ門外漢の増田には当否がわからんのですが国語学的にはどうなんです?
なお、該当箇所に、
...This fragment preserves the following inscription: 御末醤一石二斗, i.e. HON-“bean paste” reads as miso. The Wamyoshō, a Chinese to Middle Japanese dictionary compiled in the mid Heian period has the same kanji (末醤) glossed as miso (美蘇)...
とあるのですが、「一石二斗」の部分いらなくね? とか、転写するならWamyōshōじゃね? とかはケアレスミスの範疇だろうから突っ込まない方がいいのかな……
マイルCS、グランアレグリアが有終の美を飾ってくれて最高でしたね……あとはコントレイルがジャパンCで有終の美を飾ってくれれば……実はまだ「三冠馬が勝つ」ところを見たことがないので、一度は見ときたいなぁと(にわかですいません)。
本当に素人なんだけど何でみんな信じてくれないんです……?
「弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版) https://anond.hatelabo.jp/20210408163950
一か月前に似たようなのあったんですね知らなかった
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 178 | 24236 | 136.2 | 42.5 |
01 | 66 | 6490 | 98.3 | 43.5 |
02 | 35 | 5857 | 167.3 | 110 |
03 | 16 | 4629 | 289.3 | 136 |
04 | 27 | 4651 | 172.3 | 138 |
05 | 39 | 3295 | 84.5 | 39 |
06 | 47 | 5618 | 119.5 | 34 |
07 | 90 | 6215 | 69.1 | 38 |
08 | 194 | 12935 | 66.7 | 41.5 |
09 | 169 | 13071 | 77.3 | 47 |
10 | 266 | 21030 | 79.1 | 35 |
11 | 230 | 38315 | 166.6 | 44 |
12 | 295 | 18532 | 62.8 | 43 |
13 | 265 | 18757 | 70.8 | 43 |
14 | 237 | 14624 | 61.7 | 31 |
15 | 186 | 21714 | 116.7 | 33 |
16 | 160 | 52137 | 325.9 | 44 |
17 | 154 | 14629 | 95.0 | 41 |
18 | 176 | 17066 | 97.0 | 48.5 |
19 | 213 | 20766 | 97.5 | 47 |
20 | 182 | 20268 | 111.4 | 44 |
21 | 196 | 22040 | 112.4 | 28 |
22 | 195 | 21659 | 111.1 | 30 |
23 | 161 | 17197 | 106.8 | 33 |
1日 | 3777 | 405731 | 107.4 | 41 |
ヘット(11), マリエ(5), マルコムX(4), 山田花子(4), 調理師免許(4), 紳助(13), 夏子(4), 伊是名(6), スイマー(3), 樹形図(3), ヤングコーン(3), マンコゴキブリ(3), 東上線(3), 弱者男性(238), 車椅子(38), あてがえ(47), マクドナルド(16), 強者(67), 枕(15), エレベーター(16), 弱者(114), 健常者(27), 過激派(9), 障害者(48), 障碍者(16), 食費(12), メニュー(16), クレーマー(10), 平等(38), カレー(22), 苦しみ(17), フェミ(80), ジェンダー(18), 悩み(20)
■食べ放題メニューで絶対食べたらダメなメニューって何かありますか? /20210408065827(33), ■あえぎ声を書くバイト /20210408000218(24), ■結婚のメリットって何? /20210408200200(24), ■フェミニストやはてサの人々も「声を上げる弱者」が大嫌いって分かって安心した /20210407201659(21), ■クソフェミだけど自分が弱者男性論で取捨すべき意見が固まった /20210407191608(18), ■コロナウイルス感染記録 /20210408000327(16), ■「弱者男性」論は疲れる /20210407213146(15), ■1ヶ月食費1万円男の1週間の具体例 /20210407204112(14), ■枕営業に後から異議を唱えるアホ女 /20210408112616(13), ■料理をする夫を10年間続けて思ったことメモ /20210408141525(13), ■anond:20210407214243 /20210407214352(11), ■anond:20210407165448 /20210407234604(11), ■SlackでなるべくDMを使わない方がよい理由が素でわからない人が多すぎる /20210408170611(11), ■「弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版) /20210408163950(10), ■ウマ娘勢のために、競馬勢に自治厨が湧きやすい理由を説明する /20210407211346(9), ■新着増田はレスバの海に流れて消える /20210408065105(9), ■イケメンの限界 /20210408151025(8), ■女性よ、「幸せだ」と答えないでくれ /20210407224411(8), ■匿名ダイアリーって、貧乏でもてない男性?や腐女子?専用の発言小町みたいになってる /20210408002244(8), ■性欲と独占欲さえなければ救われる人も多いと思う。 /20210408114048(7), ■実は弱者男性が一番恋愛脳 /20210408100945(7), ■就活完全に詰んだんだけど /20210408123252(7), ■【ブコメ返信】「議席をあてがえ論」フェミニストが弱者男性に憤る資格はない /20210407220901(7)
ブコメやトラバで少なくない人が「この図にはないけど、こういうつらさもあるよ」とか「樹形図では表せない項目同士の関連もあるよ」と言ってるけど、よく読むとそれらもほぼ網羅されているのがすごい。みんなよく読もう。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。