はてなキーワード: 極値とは
1. 古典力学 (Classical Mechanics):
古典力学では、粒子の運動は時間 t の関数 q(t) で表され、ニュートンの運動方程式を満たすのだ:
q̈ = -U'(q)
ここで、U(q) はポテンシャルエネルギーである。運動方程式は、ラグランジアン L(q) = 1/2q̇² - U(q) に基づく変分問題として再定義でき、作用積分 S(q) = ∫ₐᵇ L(q)dt の極値点として運動を記述するのだ。これは、最小作用の原理とも呼ばれるぞ。
2. 古典場の理論 (Classical Field Theory):
古典場理論では、粒子ではなく、連続的な場 φ(x,t) を考えるのだ。この場は部分微分方程式に従い、例えば波動方程式
□φ = 0
で記述されるぞ。ラグランジアン L(φ) は微分多項式であり、作用積分 S(φ) = ∫_D L(φ)dx dt を極小化することによって運動方程式(オイラー-ラグランジュ方程式)が導かれるのだ。
古典力学と異なり、量子力学では粒子は古典的な軌道を持たず、確率的に動くのだ。ブラウン運動をモデルにして、粒子の位置 q(t) は確率密度
P(q) ∝ e^(-S(q)/κ)
に従い、ここで S(q) = ∫ₐᵇ (1/2q̇² - U(q)) dt は作用、κ は拡散係数である。このような確率的動力学の期待値は、経路積分を用いて計算されるぞ。
量子力学ではブラウン運動モデルを基にしつつ、拡散係数 κ を虚数 iℏ に置き換えるのだ(ℏ はプランク定数)。したがって、量子力学の相関関数は次のように表されるぞ:
⟨q_j₁(t₁) ··· q_jₙ(tₙ)⟩ = ∫ q_j₁(t₁) ··· q_jₙ(tₙ) e^(iS(q)/ℏ) Dq
5. 量子場理論 (Quantum Field Theory):
⟨φ_j₁(x₁, t₁) ··· φ_jₙ(xₙ, tₙ)⟩ = ∫ φ_j₁(x₁, t₁) ··· φ_jₙ(xₙ, tₙ) e^(iS(φ)/ℏ) Dφ
ただし、この積分は複素測度に基づくため、数学的に厳密に定義するのが困難であり、理論物理学における重要な課題となっているのだ。
連続時間モデルにおいて、最適投資戦略は Hamilton-Jacobi-Bellman (HJB) 方程式を解くことで導出される。
投資家の効用関数を U(x) とし、リスク資産の価格過程を幾何ブラウン運動
このとき、最適な投資比率 π*(t,x) は以下の HJB 方程式を解くことで得られる:
0 = sup_π { U'(x)(rx + (μ-r)πx) + ½U''(x)σ²π²x² + V_t }
ここで、V(t,x) は価値関数、r は無リスク金利である。
完備市場を仮定し、リスク中立測度 Q のもとでのオプション価格を導出する。
ヨーロピアン・コール・オプションの価格 C(t,S) は以下で与えられる:
C(t,S) = e^(-r(T-t)) E_Q[(S_T - K)⁺ | F_t]
ここで、K は行使価格、T は満期、F_t は時刻 t までの情報集合である。
Black-Scholes モデルの下では、この期待値は解析的に計算可能であり、以下の公式が得られる:
C(t,S) = SN(d₁) - Ke^(-r(T-t))N(d₂)
ここで、N(・) は標準正規分布の累積分布関数、d₁ と d₂ は所定の公式で与えられる。
Heston モデルなどの確率ボラティリティモデルでは、ボラティリティ自体が確率過程に従うと仮定する:
ここで、W¹ₜ と W²ₜ は相関 ρ を持つウィナー過程である。
このモデルの下でのオプション価格は、特性関数法を用いて数値的に計算される。
大口注文の最適執行を考える。Almgren-Chriss モデルでは、以下の最適化問題を解く:
min_x E[C(x)] + λVar[C(x)]
ここで、C(x) は執行コスト、x は執行戦略、λ はリスク回避度である。
市場インパクトを線形と仮定すると、最適執行戦略は時間に関して指数関数的に減少する形となる。
極値理論を用いて、稀な事象のリスクを評価する。一般化極値分布 (GEV) を用いて、最大損失の分布をモデル化する:
F(x; μ, σ, ξ) = exp{-(1 + ξ((x-μ)/σ))^(-1/ξ)}
ここで、μ は位置パラメータ、σ はスケールパラメータ、ξ は形状パラメータである。
これにより、通常の VaR や ES では捉えきれないテールリスクを評価できる。
確率制御理論を用いて、時間変動する市場環境下での最適資産配分を導出する。
dXₜ = μ(Xₜ,αₜ)dt + σ(Xₜ,αₜ)dWₜ
sup_α E[∫₀ᵀ f(Xₜ,αₜ)dt + g(X_T)]
表示例 | 意味 | 解説 |
値 | 正常値 | 統計値を求める基礎となる資料が全て揃っている値です。 |
値) | 準正常値 | 統計を行う対象資料が許容範囲内で欠けていますが、上位の統計に用いる際は一部の例外を除いて原則として正常値と同等に扱います。必要な資料数は、要素または現象、統計方法により若干異なりますが、全体数の80%を基準とします。 |
値] | 資料不足値 | 統計を行う対象資料が許容範囲を超えて欠けています。値そのものを信用することはできず、通常は上位の統計に用いませんが、極値、合計、度数等の統計では、その値以上(以下)であることが確実である、といった性質を利用して統計に利用できる場合があります。 |
個人的には
SFを読む時間を圧力掛けて凝縮させたみたいに、ドチャクソ面白くて一気に読み切ってしまう。
本当に、本当に、本当に面白い。
でも読んじゃダメ。
やめとけ。
万が一俺の文章を読んでポチりそうになっても一旦手を止めてほしい。
『ネクサス』は他の3つとは決定的に違う点がある。
そう。
要するに続刊が翻訳されないのだ。
ぜーーーーーーんぜん、出ない、出る気配がない。
出版社にも何か事情があるんだろう、それが分からない以上、責められない。
まさかまさか俺がズレてるんじゃないだろうな、いや絶対それはない、この本に限ってはあり得ない、、、などと悶々としてしまうよ。
本稿では、和田秀樹氏らが提唱している暗記数学というものについて述べます。
受験数学の方法論には「暗記数学」と「暗記数学以外」の二派があるようですが、これは暗記数学が正しいです。後者の話に耳を傾けるのは時間の無駄です。
まず、読者との認識を合わせるために、暗記数学に関するよくある誤解と、それに対する事実を述べます。
暗記数学は、数学の知識を有機的な繋がりを伴って理解するための勉強法です。公式や解法を覚える勉強法ではありません。「暗記」という語は、「ひらめき」とか「才能」などの対比として用いられているのであり、歴史の年号のような丸暗記を意味するわけではありません。このことは、和田秀樹氏の著書でも繰り返し述べられています。
類似の誤解として、
などがあります。これらは事実に反します。むしろ、大学の理学部や工学部で行わていれる数学教育は暗記数学です。実際、たとえば数学科のセミナーや大学院入試の口頭試問などでは、本稿で述べるような内容が非常に重視されます。また、ほとんどの数学者は暗記数学に賛同しています。たまに自他共に認める「変人」がいて、そういう人が反対しているくらいです。大学教育の関係者でない人が思い込みで異を唱えても、これが事実だとしか言いようがありません。
嘘だと思うならば、岩波書店から出ている「新・数学の学び方」を読んで下さい。著者のほとんどが、本稿に書いてあるように「具体例を考えること」「証明の細部をきちんと補うこと」を推奨しています。この本の著者は全員、国際的に著名な業績のある数学者です。
そもそも、暗記数学は別に和田秀樹氏が最初に生み出したわけではなく、多くの教育機関で昔から行われてきたオーソドックスな勉強法です。和田秀樹氏らは、その実践例のひとつを提案しているに過ぎません。
暗記数学の要点を述べます。これらは別に数学の勉強に限ったことではなく、他の科目の勉強でも、社会に出て自分の考えや調べたことを報告する上でも重要なことです。
一番目は、従来数学で重要なものが「ひらめき」や「才能」だと思われてきたことへのアンチテーゼです。実際には、少なくとも高校数学程度であれば、特別な才能など無くとも多くの人は習得できます。そのための方法論も存在し、昔から多くの教育機関で行われています。逆に、「"才能"を伸ばす勉強法」などと謳われるもので効果があると実証されたものは存在しません。
大学入試に限って言えば、入試問題は大学で研究活動をする上で重要な知識や考え方が身についているのかを問うているのであって、決していたずらな難問を出して「頭の柔らかさ」を試したり、「天才」を見出そうとしているわけではありません。
二番目はいわゆる「解法暗記」です。なぜ実例が重要なのかと言えば、数学に限らず、具体的な経験と結びついていない知識は理解することが極めて困難だからです。たとえば、
などを、初学者が読んで理解することは到底不可能です。数学においても、たとえば二次関数の定義だけからその最大・最小値問題の解法を思いついたり、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質だけを習ってそれを幾何学の問題に応用することは、非常に難しいです。したがって、それらの基本的な概念や性質が、具体的な問題の中でどのように活用されるのかを理解する必要があります。
これは、将棋における定跡や手筋に似ています。駒の動かし方を覚えただけで将棋が強くなる人はまず居らず、実戦で勝つには、ルールからは直ちには明らかでない駒の活用法を身につける必要があります。数学において教科書を読んだばかりの段階と言うのは、将棋で言えば駒の動かし方を覚えた段階のようなものです。将棋で勝つために定跡や手筋を身につける必要があるのと同様、数学を理解するためにも豊富な実例を通じて概念や定理の使い方を理解する必要があります。そして、将棋において初心者が独自に定跡を思いつくことがほぼ不可能なのと同様、数学の初学者が有益な実例を見出すことも難しいです。したがって、教科書や入試問題に採用された教育効果の高い題材を通じて、数学概念の意味や論証の仕方などを深く学ぶべきです。
そして、これは受験数学だけでなく、大学以降の数学を学ぶ際にも極めて重要なことです。特に、大学以降の数学は抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、学生が具体的な実例を通じて理解できているかを重視します。たとえば、数学科のセミナーや大学院入試の口頭試問などでは、以下のような質問が頻繁になされます。
教科書や解答例の記述で分からない部分は、調べたり他人に聞いたりして、完全に理解すべきです。自分の理解が絶対的に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけません。
たとえば、以下のようなことは常に意識し、理解できているかどうか自問すべきです。
ほとんどの人はまず「自分は数学が分かっていない」ということを正確に認識すべきです。これは別に、「数学の非常に深い部分に精通せよ」という意味ではありません。上に書いたような「定義が何で、定理の仮定と結論が何で、文中の主張を導くために何の定理を使ったのか」といったごく当たり前のことを、多くの人が素通りしていると言うことです。
まず、用語や記号の定義が分からないのは論外です。たとえば、極大値と最大値の違いが分かっていないとか、総和記号Σ でn = 2とか3とかの場合に具体的に式を書き下せないのは、理解できていないということなのですから、調べたり他人に聞いたりする必要があります。
また、本文中に直接書いていないことや、「明らか」などと書いてあることについても、どのような性質を用いて導いたのか正確に理解する必要があります。たとえば、
などと書いてあったら、これは
という一般的な定理を暗に使っていることを見抜けなければいけません。上の命題はpが素数でなければ成り立ちません。たとえば、l = 1, m = n = 2として、4l = mnを考えれば、mもnも4で割り切れません。他にも、
は正しいですが、逆は一般的には成り立ちません。nとmが互いに素ならば成り立ちます。それをきちんと証明できるか。できなければ当然、調べたり他人に聞いたりする必要があります。
l'Hôpitalの定理なども、もし使うのであれば、その仮定を満たしていることをきちんと確かめる必要があります。
さらに、単に解法を覚えたり当て嵌めたりするのではなく、「なぜその方法で解けるのか」「どうしてそのような式変形をするのか」という原理や意図を理解しなければいけません。たとえば、「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くありません。
そして、教科書の一節や問題の解答を理解できたと思ったら、本を見ずにそれらを再現してみます。これは「解き方を覚える」と言うことではなく、上に書いたようなことがすべて有機的な繋がりを持って理解できているか確かめると言うことです。
はじめの内はスラスラとは出来ないと思います。そういう時は、覚えていない部分を思い出したり、本を見て覚え直すのではなく、以下のようなことを自分で考えてみます。
こういうことを十分に考えた上で本を読み直せば、ひとつひとつの定義や定理、式変形などの意味が見えてきます。また、問題を解くときは答えを見る前に自分で解答を試みることが好ましいです。その方が、自分が何が分かっていて何が分かっていないのかが明確になるからです。
以上のことは、別に数学の勉強に限った話ではありません。社会に出て自分の考えや調べたことを報告する時などでも同様です。たとえば、近年の労働法や道路交通法の改正について説明することになったとしましょう。その時、そこに出てくる用語の意味が分からないとか、具体的にどういう行為か違法(or合法)になったのか・罰則は何か、と言ったことが説明できなければ、責任ある仕事をしているとは見なされないでしょう。
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
たとえば、数学がまともにできる人で、(a + b)(c + d)の展開公式を覚えている人はいないだろう。分配法則を知っていれば計算できるからだ。そして、多項式に対して分配法則が成り立つことは(もちろん厳密に証明することはできるが)自然な感覚であり、これも覚える必要はない。
こんな自明な例に限らず、数学で何かを覚えることが、遠回りであり、本末転倒であることを説明する。
また、読解力の低い奴のために補足しておくが、「覚えなくていい」というのは「勉強しなくていい」ということではない。まあ、こういう勘違いをする奴らはこの一文自体読めないから無駄なんだが、少なくとも俺が「ここに書いてあるだろボケ」と言うための根拠にはなる。
無い。
「定義や公理は他の事実から導かれないので覚える必要がある」という意見があるが、間違いだ。
それは単に論理的に導かれないというだけであって、考えている問題に対してそのように概念を定義すべき理由は存在するからだ。
たとえば、複素数は実数係数の2次方程式の解として生じるからi^2=-1と導入するのは自然であるし、三角形は2角と1辺の長さが決まれば決定されるから三角比の定義は自然なものである。
そもそも、どのような経緯でそのような概念が導入されるのか理解することは、別に数学に限らず重要である。
無い。
数学の公式はすべて論理的に導出できるのだから、覚える必要はない。特に、高校数学程度の定理・公式などに大して証明が難しいものは無いのだから、瞬時に正しく導けなければいけない。
また、大抵の公式は、その意味が理解できていればいくつかの具体例で試せば分かる。たとえば、三角関数の加法定理は、cos(π/2+θ)とsin(π/2+θ)さえ分かれば求められる。
無い。
用語などはどうでもいい。
たとえば、平方完成という名前を知らなくても、二次方程式の解の公式の導出や、二次関数の極値問題が解ければ全く問題ない。
無い。
中学高校の数学から、いわゆるユークリッド幾何学は廃止してよい。理由は単純明快で、何の役にも立たないからだ。
大学に入ったら、どの学部に行っても、「補助線を引いて、相似な三角形を作って〜」などと言ったパズルをやることは絶対にない。メネラウスの定理を高校卒業以降(高校数学の指導以外で)使ったことのある現代人はいないだろう。こういうことは、別に高等数学の知識の無い高校生でも、常識で考えて分かると思う。たとえば工学で、弧長や面積を測定する機器が必要になったとして、補助線パズルが適用できるごく一部の多角形などしか測れないのでは話にならない。現代の数学および科学技術を支えているのは、三角関数やベクトルや微分積分などを基礎とする解析的な手法である。
もちろん、たとえば三角比を定義するには「三角形の内角の和は180°である」とか「2角が等しい三角形は相似である」等のユークリッド幾何学の定理が必要になる。そういうものを全て廃止せよと言っているわけではない。しかし、余弦定理まで証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解ける。また、実用上もそれで問題ない。したがって、余弦定理を初等的な方法で示したら、ユークリッド幾何学の手法はお役御免でよい。
これらはいずれも、高等数学を学ぶ際に欠かせない基礎となる分野である。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で使われるとしても、いくらなんでも微分積分などと同等以上に重要だと主張する人はいないだろう。
現在、これらの分野は十分に教えられていない。微分方程式と一次変換は現在(2020年5月)のカリキュラムでは教えられておらず、ベクトルは文系の範囲から除かれ、代わりにほとんど内容の無い統計分野が教えられている。また、高校生にもなって、コンパスと定規による作図みたいなくだらないことをやっている。本当に、どうかしているとしか言い様がない。
ユークリッド幾何学を教えるべきとする根拠の代表的なものは、証明の考えに触れられるというものだ。つまり、代数や解析は計算が主体であるが、ユークリッド幾何学は証明が主体なので、数学的な思考力を鍛えられるというものだ。
しかし、これは明らかに間違っている。別にユークリッド幾何学の分野に限らず、数学のあらゆる命題は証明されなければならないからだ。実際、高校数学の教科書を読めば、三角関数の加法定理や、微分のライプニッツ則など、証明が載っている。そもそも、数学の問題は全て証明問題である。関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であることを定義に基づいて示さねばならない。数学的思考力を養うのに、ユークリッド幾何学が他の分野より効果的だという根拠は無い。
和田秀樹らによるいわゆる「暗記数学」の要点をまとめると、以下のようになるだろう。
これは従来、数学の入試問題を解くのに必要なのが曖昧模糊とした「ひらめき」や「才能」だと思われていたことへのアンチテーゼである。「暗記」という語はその対比であり、特別な才能がなくとも、基礎事項を確実に習得することで、入試を通過できる程度の数学力は身に付くことを主張している。
そもそも、大学入試は大学で研究をする上で重要な知識や考え方の理解度を問うているわけであって、徒な難問を出して受験生を試しているわけではない。したがって、そのような重要事項(つまり、教科書の基礎事項や、数学を活用する上で頻繁に出てくるような考え方)を身に付けるのが正攻法である。
そのための教材としては、エレガントな別解や難問に拘ったものよりも、基礎事項や入試頻出の問題を網羅したスタンダードなものが良いとされる。
これはいわゆる解法暗記である。なぜ、具体的な実例を学ぶのかと言えば。数学に限らず、具体的な経験と関連付けられていない知識は理解できないためである。
実際、教科書を読んだばかりの人の多くは、自身の知識と入試問題との間にギャップを感じる。たとえば、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質を知っただけでは、それを幾何学の問題に応用するのは難しいだろう。教科書を読んだばかりの段階というのは、将棋で喩えれば駒の動かし方を覚えただけのようなもので、実戦で勝つのは難しい。実戦で勝つには、定跡や手筋のような、ルールだけからは直ちに明らかではない、駒の活用法を身に着ける必要がある。
将棋の定跡を初心者が独自に発見するのが難しいのと同様に、数学の自明でない実例を見出すことも難しい。そのほとんどは歴代の数学者が生涯をかけて究明してきたものなのだから、当然である。しかし、現代の高校生には既に教科書や入試問題がある。特に入試問題は、数学の専門家が選りすぐった、良質な実例の宝庫である。受験生はこれを通じて数学概念の活用のされ方や、論理の展開等を深く理解するべきである。
そしてこれは、大学以降で数学や工学を学ぶ際も同様である。特に、大学以降の数学では、抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、具体的な実例を通じて理解しているかを非常に重んじる。たとえば、セミナーや大学院入試等では、以下のような質問が頻繁になされる。
教科書の記述や、解いた問題は完全に理解すべきである。つまり、
といったことを徹底的に自問するべきである。自分の理解が絶対に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけない。「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くない。
そして、理解できたと思ったら、教科書の一節や問題の解答を何も見ずに再現してみる。これはもちろん、一字一句を暗記するということではなく、上に書いたような知識が有機的な繋がりを持って理解できているのかを確認することである。ある事実が、どのような性質を前提としていて、どのように示されるのかという数学のストーリーを理解していれば、何も見ずともスラスラ書けるはずだ。
また、問題を解く際は、いきなり答えを見るのではなく、一通り自分で解答を試みてから解答を見ることが好ましい。実際に手を動かすことにより、分かっている部分とそうでない部分が明確になるからである。
以上のことは、何も受験数学に限った話ではない。他の科目でも、社会に出て自分で調べたり考えたりしたことを他人に発表するときでも同様である。
要するに、数学の専門知識と社会的常識のある人は暗記数学に賛成しているようだ。
逆に、反対している人。
反対しているのは、金儲けが目的で目立つことを言っているか、何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たちのようだ。
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思うに、アンチ暗記数学派というのは、精神の根底に以下のような考えを持っているのではないのだろうか?
一部の人は、大学入試では「ひらめき」「発想力」「頭の柔らかさ」「地頭の良さ」などを試すために敢えて典型的ではない問題を出しているとか、「天才」を発掘するために常人には解けないような難問を出題していると思っているのかも知れない。しかし、先にも述べたように、大学入試は、大学に入って研究するための基礎学力を測っており、入試問題は、そこで問われている知識や考え方が重要だから出題されるわけである。したがって、そういう重要な知識や考え方を十分に身に着けていれば受かる。ただそれだけの話である。そして、良識ある教育者は、数学で重要なところが分かっているから、それに基づいて教材や予想問題を作っている。そうでない人はもしかしたら、大学が普通の受験生には解けないように徒に問題を複雑にしていると思い込み、ひねくれた問題を教えているのかも知れない。
また、「数学自体は重要ではなく、数学を通じて思考力を鍛えることが重要」とか「受験勉強は社会に出て嫌な仕事を我慢するための訓練」等と思っている人もいるかも知れない。特に前者は、自称数学好きにもいるようだ。しかし、深く考えるまでもなく、大学受験に数学が課せられるのは、大学で研究するために(少なくとも、教員が望む水準で)絶対に必要だからである。そして何度も言うように、入試で問われるのは、研究のために必要な知識や考え方であり、「頭の柔らかさ」などではない。また、数学をそれほど使わない学部にも、受験に数学が課せられるのは、多くの大学には転部等の制度があり、文学部から経済学部とか、農学部から工学部に転部するような事例は珍しくないからである。
上記2つに共通するのは、「理解」よりも「ひらめき」等のオカルティックなものを重視することである。これは、上に述べた胡散臭い教育業者や、受験生に絡んでる学歴コンプが暗記数学に反対する理由と符合する。金儲けがしたい受験業者にとって、「基礎を確実に理解することが重要」と言うよりも「入試本番に典型問題は出ないから、ひらめきが大事(。そして、ウチの教材を使えば、それが鍛えられる)」などと言った方が、客は集まりやすいだろう。また、SNS等で受験生や教員などに絡んでる奴にしても、数学の本質が理解できず霊感的なものに価値を見出しておかしな勉強理論にかぶれてしまったと考えれば納得がいく。
身の丈にあった生き方をする、これは格言的であり、立派なように思えるが、文科大臣の発言への反応を見るに、教育ということになれば話は違うようである。
私はどのような生き方にも価値があるように思えるし、人生のどのような瞬間にもある種の価値を認めたい。しかし、この考えが危険なのは、アフリカで今まさに死んでいく子供の生命をも肯定してしまう点である。そして、それは自明に間違っており、ここに私の思考は矛盾する。
この矛盾は社会が個人を丸々包摂できないことを原因とする。どのような人生でもその一瞬一瞬意味があるが、主観を離れた社会的な観点から見れば、社会を成立させるために無意味であると捨象しなければいけない要素になってしまう瞬間もあるのだ。
最近まどかマギカを見たのでそれに照らし合わせてみる。キュゥべえは視聴者から毛嫌いされているらしく、それは地球の少女をこの宇宙というプラットフォームを維持するための捨て駒としてしか見ていないからである。
私たちがアフリカの子供の存在を社会問題だと考えることは同様の構造に当てはめられる気がする。アフリカの子供が死んでいくのを肯定でいないのは、社会の根底を人権という概念が支えているからだ。アフリカの子供はそんな概念が存在しないことをあからさまにし、私たちは社会に対する疑念を抱く。いや、抱くべきなのだが、社会という存在なしに生きられない私たちは社会ではなく、アフリカの子供達の存在に疑問を抱く。果たしてそんな命あっていいのか、いいはずがない、と。
アフリカとまどマギがどう一致するのか。まず、結果において、まどマギでは少女は消費させるが、アフリカの場合には救われつつある。一見相反するようにも見えるがそれはyes/no、on/offのどちらかということであって構造は一致している。魔法少女が消費されてしまうのは、宇宙という社会のためであり、キュゥべえが少女を消費することを躊躇わないのは少女の主観に重きを置かないからである。そして、アフリカの子供が救われるのは、ひょっとすれば当人のためというよりは我々の社会のためであり、子供を救うことが完全に肯定されるということは、子供の主観的人生を否定することである。
果たして、上記の文章で構造が一致していると説明できているかも、果たして本当に一致しているのかも不明であるが、ここで一つ加えておきたいのは、アフリカの子供の命を救うことはその子本来の主観的生を否定している、故に子供を救うのはやめろと言いたいのではないし、私の主観ではそのような活動は勇ましいものであると思う。最近netflixで公開されたビルゲイツの映像は面白かった。今年のノーベル経済学賞もそんな感じだったしね。
話をアフリカから比較的平和な日本に移すと、私たちの生活には当たり前に人権が備わっている。まあ虐待されている子供や、台風でも避難所に入れてくれないホームレスの存在はあるが、アフリカとの比較対象ではないだろう。そしてその人権は、政府に私たちを生存させ教育を施すことを要求するわけだが、果たしてそれはどの程度が妥当なのだろうか。
アフリカに関しては上記のように、子供を救うことはその子供の主観的人生を損なわせるものだと私は主張した。社会というものが守られるべきものであるとすれば、個人の主観を損なうことは、少なくとも生命を維持するというレベルでは非難されるべきことではない。しかし、それを推し進めていった人権は私たちにとって幸せなのだろうか。
人権が担保する領域が増えるに従って、我々は主観的な存在の領域を社会的な存在に明け渡す。人権の肥大化が極値に達せば人は単なる社会の歯車であり、キュゥべえが非難されたように、おそらくこれも望ましくはない。
人権を肥大化させる仮説もアフリカの例も極端である。前者は極端に社会的であり、後者は極端に主観的である。
落合陽一が何かで、プラットフォームは個人より優先されるということを言っていた気がする。これはキュゥべえ的発言である。この発言を肯定できるか否かは、各人が、その存在を社会的な領域と主観的な領域にどのような割合で分割しているかによるのではないだろうか。
それが絶頂なのか単なる極値なのかは後世になってみないとわからんだろ