はてなキーワード: 切符とは
4歳早々に自転車はコマなしペダルとなり猛スピードで走っている。危ない。
公園まで信号は無い、だが交通頻繁な道路を一つ横断しなければならないが信号は設置されてない。
さて俺は子供が生まれる随分前、結婚前からこれが気に食わなかった。
自分が車を運転していた時は歩行者を蹴散らして走っていたが自動車に乗らなくなってから歩行者の俺様が優先だろ?と転換した。
蹴散らして走り抜けようとする車に対して横断の意思を見せ急停車させるのは長らく俺のライフワークだった。
皆が俺と同様に自動車を強引に止めさせるのが当たり前になれば多くの自動車はいわずもがな止まるようになる。
事故は減る、皆がきっちり歩行者に譲るようになれば信号機の数も減らせる。
誰一人横断者がいないのに信号で止められる、そんな理不尽な信号機も削減できる。
歩行者がいれば歩行者の横断を待つだけ、信号で待たされるよりも合理的で短い。
皆にとって良いではないか。
俺は基本的に信号を守らない、歩行者、自転車は信号を守らなくて良いと思っている。
自動車が交通法規を守らない国で歩行者だけ守らせても仕方あるまい。
信号のない横断歩道で自動車が100%止まるようになれば俺も信号を守ってやる、これはディールだ。
俺は自分の身を守れれば良いのだ、ルールなど知ったことではない、
こっちがルールを守っても違法な車に轢かれて死んだのでは意味がない。
俺はとある交差点で慢性的なタクシーの客待ちで始終渋滞している箇所があり、何度も警察に取り締まりを要請した。
俺がまだ自動車を所有していた時期で俺は毎日その交差点を通過せねばならないため渋滞が鬱陶しかった。
タクシーの客待ちは止まっている、静的違反である、これは取り締まり対象ではない、動いて事故を起こした車だけ取り締まりするのだ。
だってさ、
俺は「ならばスピード違反、信号無視も事故じゃなければいいじゃないか、俺がそれらの違反をしても切符切らないと一筆書け、警察署長がサインしろ」と食いついた。
だってさ
意味がわからん、そもそも静的違反とはなんぞや、いくら調べてもそんな法律用語はない。調べ方が悪いのか?
ともかく、違法性阻却事由、可罰的違法性の事を言うているのだろうか。
事故加害当事者にならなければ良いというのが警察の公式見解であると解釈したので以後歩行中は信号は守らないと決めた。
アホらしい。
加害者になることはありえない。俺にぶつかった自動車がふっとぶか?俺がいくらデブでもありえない。
たかが歩行者の信号無視ごときが可罰的違法性を満たすとも思わない。
倫理的な議論の余地はあるだろうが、俺は自分の身を守り訴追から回避されてりゃそれでいいのだ。
そうだよ
文句ある?
ルールがぁ、法律がぁ、とほざくアホがいるだろうが、道路交通法76条4項2号、守れるものなら守ってみろボケ。
条文通り文字通りに解釈するなら信号待ちでも立ち止まらず足踏みを続けなきゃならない。
やんねぇだろうが
ちなみにこれ罰則は5万円以下な。
ちなみにこの条文、安保闘争で便利な条文として警察は乱用した、死条文ではないのだ。
道路で立ち止まった「だけ」のアカどもをバシバシ検挙し48時間拘束。
もうね、道路では一切立ち止まれなくなります、立ち話、信号待ち、ぜーんぶダメ、一切ダメ、法律だから。
ともかく、屁理屈はどうあれ現実問題として俺は信号なんぞ守らんのだが、さて子供にどう教えるか。
正しくは信号は守るべきである、そのように生きたほうが人生楽である。
俺のような面倒くさい人間にはならない方がいい、そりゃわかってる。
さりとて、今更俺も宗旨変えなどしたくない。
ここにジレンマが生じる。
子供には信号を守りなさい、信号の無い横断歩道では自動車に進路を譲り安全を確認してから渡りなさい。
ベーシックインカムを導入すると支給金額によっては働かなくなる人が増えるというが
そもそも人間が働かなくても物事が回る社会になったら導入されるもんじゃないとベーシックインカムって。
ロボットが生産とか流通かあらゆる仕事を受け持つが、それでも生産量は決して無限じゃないから、でも人間というものは何か制限がないと無尽蔵に物とかを求めようとしてしまうから、生産量を供給量が超えないように、配給切符感覚でベーシックインカムを渡すてきな。
取締を強化した「信号無視」「右側通行」「徐行せず歩道通行」は分かる。危ないので。
しかし、「一時不停止」は難しくないですかね。
一時停止の標識があろうとなかろうと、そういった場所では減速してる。こっちも死にたいわけじゃないのでね。
ただ、厳密に一時停止というと、停止線手前で完全に止る状態。片足を一旦地面につけ停止する必要があるわけです。
バイクやスクターが一時停止しなければ切符を切られるのだから、自転車も当然といえば当然なのですが、
自転車にはエンジンがついているわけじゃないから、危険かどうかは音でも判断できる。
なので、「一時不停止」ではなく、「イヤホン」を赤切符の対象にしたほうが良いのでは?
まあ、減速せずに一時停止を無視して行くのは、取り締まったほうがいいし、
踏切にいたっては、鳴りはじめると一時停止どころか、加速していくもいるので、
「一時不停止」を取り締まるなとは言わないけどね。
歩道に乗り上げるときも、確実な一時停止が本来は必要なわけだが、見通しが良ければ車ですやらないのに
信号待ち回避で歩道に乗り上げる自転車は、たぶん一時不停止で取り締まられるのですよね。
一時停止の標識のない、止まれの文字とラインだけのパターンでは、本来「一時不停止」にならないけど、
車の免許なければ、そんなことは知らないだろうと切符切られるのでは?
まあ、そんな違法なことはしてこないかもしれないが、自転車を除く一方通行にある一時停止の標識は、
逆走中の自転車からは見えないが、一時停止すべき箇所としてルール化されていないのに切符切られるのでは?
いや、一時停止は難しい。
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。
沖縄の話で何か気の利いたことを、思い出したいと思ったのだが。
日常生活的に、地元のスーパーで買い物するとドルと円の表記が並んで書いてあったりした。特に不便は、1人暮らしだと感じない。
やっぱり、米軍と共存しているのかっていう。ちょっと車の運転の荒い人もいるようだけど。
スーパー銭湯的な温泉から見る夕日がきれいだったな。モノレールの切符がQRコードみたいなタイプだったなぁとか。
きれいな海とマリンスポーツが出来れば、それで十分だったかなー。
海に潜ると、魚がいて。ダイビングも行ったなあ。
やっぱり沖縄海洋博から平成時代からは、だいぶ海が汚れてしまってサンゴも離島の宮古島とか石垣の方にいかないと立派なのは見れないようになったらしい。
ナースにコスプレしたお姉さん(年齢不詳)に、注射器からお酒(泡盛)そそいで貰うようなこともあったなぁ。
(そういうのが目当てだったら、別に都会のコンセプトカフェへ行けば、やってもらえるようなので、どうでもいいが。)
それで、深夜に満ち潮になって、お酒ででき上がっているのに椅子を移動しないと行けなくなったとか。なんか、海に慣れている人が多いようだったんだが、計画性は、どうなんだろうって思った。
10月6日から鹿児島県で全国和牛能力共進会(全共)なる大会が開かれる。「和牛のオリンピック」とも呼ばれ、各県の農家・関係者は大いに盛り上がっているが、一般の人たちにはいまいち浸透していないと思うので、簡単に紹介する。
全国和牛能力共進会、略して「全共(ぜんきょう)」と呼ばれる。今年は鹿児島開催なので「鹿児島全共」だ。今年で12回目の開催。おおよそ5年に1度開かれてきたため、「和牛のオリンピック」とも言われる。が、これは一般向けにわかりやすくキャッチ―な言葉だから使われているもので、関係者はおそらくオリンピックという意識は薄い。国内大会だし、畜産が盛んでない県は出品しないし。主に個人が育てた牛が出品されるのだが、道府県(東京都からの出品はない)ごとに選考会があるため、個人ではなく地域の勝負という色合いが強い。牛は「県代表」という扱い。今回は過去最多の41道府県から459頭が出品される予定だ。これほどの数の和牛が集まるのは「全共」だけ。しかも各地の選考会を勝ち抜いてきた選りすぐりの牛たち。競馬場のパドックさながらに立派な牛がぞろぞろと歩くのを見るだけで、新鮮で楽しい。
審査は、種牛の部と肉牛の部に大きく分かれる。その中にもさまざまな部門があり、最高位となった牛(県)に内閣総理大臣賞が贈られる。種牛は、「いい子牛を生むための雄と雌」のこと。道府県単位での出品なので、地域で育ててきた系統が優れているかどうかで評価される。牛たちが会場を歩き、引き手(農家)の指示でぴたっと止まり、審査員が体格や立ち姿を評価する。農家はこの晴れ舞台に合わせて、牛の調教を続けてきた。調教というのは、ちゃんと嫌がらずに歩いたり、長時間にわたって立ち姿勢を維持できたり、審査員から触られても動じなかったり、そういう調教だ。
肉牛は、「いい肉かどうか」。肉量と肉質が評価される。今回から「脂肪の質」も評価基準に入るようになった。いわゆる「さし」ももちろん大事だけど、味や口どけも大事だよね、という観点だ。こちらの牛たちはいわゆる片道切符。会場で処理されて枝肉にされて、せりにかけられて審査される。
中でも花形とされているのが「総合評価群」という部門。これは種牛と肉牛の両方を出品する唯一の部門で、「この種牛たちがいるからこんなにいい肉牛ができる」という、まさに産地の総合力が問われる。ちなみに、前回大会まで総合評価群は「花の7区」と言われていたが、今大会から区分が再編されて番号が変わり、「花の6区」となってしまった。
詳しい審査基準は、主催者である全国和牛登録協会が公開している。http://cus4.zwtk.or.jp/zenkyo/wp-content/uploads/sites/3/2019/08/12sinsakijyun.pdf
やはり、内閣総理大臣賞(日本一)に選ばれるのはどの県かというところ。日本一となれば向こう5年間、その県は名実ともに「日本一の和牛」を名乗って販売できる。会場には海外のバイヤーや商社なども訪れる。経済効果は計り知れない。
開催県である鹿児島にも経済効果がある。前回大会が開かれた宮城県では100億円の経済効果があったという。(ただ宮城全共は、仙台市のかなり都市部で開催されたため、一般客の来場者が多かった。それを狙っていた面もある。)
宮崎県が、過去の大会結果をまとめていた。https://www.pref.miyazaki.lg.jp/shinsei-chikusan/shigoto/chikusangyo/zenkyo2017.html
日本一と名乗れるのは、種牛と肉牛のそれぞれの優勝県。だったのだが、「団体賞」なるものができたことで、少しややこしくなってしまった。9回大会と10回大会は、種牛の部で優勝した宮崎がそのまま団体賞だったので問題なかった。前回の11回大会では、種牛の部でも肉牛の部でも優勝していない鹿児島が団体賞を受賞し、鹿児島も「日本一」を名乗ることになってしまった。ここでひと悶着があったりした。(ただ実際に結果も良かった上での団体賞だし、日本一を名乗ることに問題はないのだが)
そんなことがあり、今大会では「団体賞」がなくなった。個人的には日本一にならずとも、全共に出品すること自体が名誉なことであり、各県では出品牛・出品者を盛大に祝ってほしいと思う。
・今回の会場は霧島市と南九州市で、お世辞にも人が集まりやすい場所ではないが、空港など主要各所からシャトルバスが出るので、行けることはいける。ただ遠い。ただ、種牛の部の会場に行けば、間近でたくさんの牛が見れる。各県のブランド和牛の試食提供もある。関係者の熱気と、その熱気に応えようとする立派な牛たちを、ぜひ一度見てほしい。
・高校生の部は、牛だけでなくプレゼンテーションもあるというのが他の部門と違うところで、おもしろい。高校生部門は前回大会から設けられた。前回大会では、牛だけの評価だったら宮崎県の高鍋農業高校が1位だったのだが、プレゼンが良かった岐阜県の飛騨高山高校が巻き返して優勝した。会場ではプレゼンを聞いて泣いている人もいるほど、良かった。なので今大会では必ず各校はプレゼンにも力を入れてくると思われる。それも見どころ。
・和牛といえば、黒毛で肉付きのいい「黒毛和種」が一番にイメージされ、飼われている頭数も最も多いわけだが、実は褐毛(あかげ)もいる。熊本や高知が主な産地で、全共にも出品される。黒光りマッチョの中に1頭ポツンと褐毛の牛がいると、どこかはかなげで可愛らしさを感じて、思わず応援したくなってしまう。実際かわいい。Wikipediaにまさにその写真があった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%90%E6%AF%9B%E5%92%8C%E7%A8%AE
・次回の開催地はもう決まっていて、北海道だ。北海道は乳牛のイメージがあるが実は和牛にも力を入れていて、どんどん頭数が伸びている。鹿児島全共で良い結果を残せれば弾みがつく。こちらも注目だ。
・お乳を搾る乳牛は和牛ではないので、当然だが全共には出てこない。ただ乳牛(ホルスタイン種)の大会もあり、こちらは「ホル共(ホル全共)」という。こちらも5年に1回開催で、2020年に開かれるはずだったがコロナ禍で中止となってしまった。https://www.facebook.com/media/set/?set=a.956624817743892.1073741843.128156943924021
電話でひたすら死にたいと言われるので、それに適当に返事をするだけの作業だ。
自分なんかどこの企業にも採用されない、と悲観的なことを言っていたかと思えば、ESが全部通って面接の予定がこなせない、という愚痴にいつの間にかシフトしている。
そして、手当たり次第に勝ち取ったインターンの切符の日程が被っており、どれを選んでいいか分からないという贅沢な悩みが始まる。
どこの企業にも引っかからず死にたいと言うなら、アドバイスのしようもあるが、就活はうまく行っており全く助言の余地はない。
死にたいという話だけを聞かされる。
自分が就活生だった頃を思い返してみれば、死にたいという気持ちは分からないでもない。
どのメーカーにESを送ってもまず落ちようのない学歴と、面接で露呈する社会不適合者具合、そしてそんな学生でも採用せねばならない企業側の妥協。
就活に時間と精神を削られ研究が遅れる中、面接で「わたくしが学生時代に力を入れたことは研究です」と言い張る後ろめたさ。
いつまでこれが続くんだろう。
内定が出るまで?