はてなキーワード: 信仰心とは
もうかれこれ4年ほどになるだろうか。
彼は性懲りもなく、私に創価学会のイベントに参加させようとする。
断ったり、つきあったりしているが、つい先日、創価学会の音楽イベントに参加させられた帰りに30分くらい思いのたけを告げられ、決断を迫られた。
「僕らと一緒にがんばっていかないか?」
意を決したように放たれたその言葉は、まるで男が意中の女に告白するような迫力であった。
帰りに「ここまでして人を勧誘したがる思考はどんなものだろう?」と考えていた。
そしてネットで調べてみると、このようなことが書かれてあった。
―創価学会員は、財務と説伏によって、より幸せになると信じ込んでいる。
―財務とは、お布施をすること。説伏とは、外部の者を学会員に加入させることである。
ああ。なるほど。と思った。
ここまでは普通のことだが、幸せになる方法が、お布施をすることと、人を勧誘することだと教えられ、
またそれを心の底から信じているのだ。
モノづくりのメーカーは自社で製造した商品を、販売して、利益を得て運営する会社である。
創価学会のそれは、自ブランドの商品が日蓮宗という宗教心で、全国800万人いる営業マンは、この宗教心を売ろうと躍起になっている。
この巨大組織は出世のメカニズムも明確になっており、どれだけお布施をしたか、どれだけ宗教心を売ったかによって、出世が決まっている。
宗教心を売るという行為、すなわち勧誘は、お金は一切払わないけど、お客さんそのものの人生を対価として得るのである。
これが創価学会のシステムだと気づいたときに、非常にすっと納得することができた。
宗教心を販売し、対価として購入者の人生を得るというビジネスモデルは、これ自体良い、悪いという訳ではない。
ただ日本の政治にも大きな影響力を持つほどの巨大組織に育った背景には、こうした一般人には及びもつかない巧妙な仕掛けがあるのだろうと思った。
私は今現在販売の仕事をやってるが、私がいつも2.3回の営業で契約を取るのに対し、彼らは数年かけて、それも人生をかけて人を勧誘する様は
これは巨大組織に育つだろうと軽く身震いを禁じ得ない。
それもそのはずで、われわれ販売員がモノ・サービスの対価としてお客さんのお金を得るのに対し、創価学会の営業はお客さんの心、人生そのものを対価に得るのだから。
たくさん勧誘できる人は、その行為自体を見ると非常に優秀な営業マンの素質があるといえる。
35年ローンの高級住宅を売りまくる営業マンは、彼らの信仰心の強さを参考にしてみるといいかもしれない。
繰り返しの説明になるが、
“己の心と正面から向き合う”というのは何も、自身の精神性や魂の存在に対して定義しようという試みの事ではない。
「現実に際して直面した問題に対し、折れそうになったり投げ出しそうになったりする己の心と戦う」という意味だ。
さすがに説明するまでもないが、現実において自らに降りかかる問題にきちんと対応するという意味である。
心理学の話ではなく精神の方向性の話であり、そして机上の学問ではなく実生活の話だ。
また、余力があるすなわち精神的余裕があるという事であれば、わざわざ信仰を求める必要もない。
辛い時悲しい時に自らを救ってくれた信仰を、困難を乗り越えた後も持ち続けておきたいという気持ちは自然なものだが、
持っていれば繰り返し頼ってしまう。その過去の成功体験が、依存心を生んでしまう。そして信仰は万能ではない。
そしてここは最も大事なところだが、信じるものがどれだけ尽くしても、信仰は万能たり得ない。
重い信仰はやがてスロットマシンのジャックポットのようなものとなり、いずれは「こんなに信じたのにこんなに尽くしたのにこんなに祈ったのに、どうして何もしてくれない」となる。
信仰が深まれば御利益はいずれ釣り合わなくなる。信仰を次第に深めてゆけば究極的には必ず裏切られるという事でもある。
運命を左右すると思われがちな恒常的な存在、それに祈りを捧げ続けるという事は、見返りを求めているという事である。
いい事が起きるように祈る人間ばかりではなくても、悪い事が起きないようにと祈る人間は非常に多い。
神が人の造りしものかどうかはわからないが宗教は人が作ったものであるように、
仮に神が万能だったとしても人の信仰は万能ではない。
信仰は疲れた時に背を預けるべき大樹であり、立ち直ったら背を向けて歩き去るべき道標でもある。
お守りはお守りである。
信仰心のない人にはただの布切れと板切れであり、信仰心のある人には自らを守る護符だろう。
心が弱ってる人にあげれば有難い贈り物であり、加護を必要としない人にあげればいらない貰い物だろう。
ハサミで切るのはお守りなんてもう必要ない人であり、ハサミで切らないのはまだ必要な人だろう。
人それぞれだ。
善行には必ずしも良い結果が伴うものではない。世の中はもっと理不尽だ。
因果などというものは存在しないし、応報なんてものも被害妄想の一種に過ぎない。
強く生きられる人間はそのまま強く在るべきだ。
ただ弱い人間や、少し弱ってしまった人にとっては、宗教の説く優しい嘘がとても暖かい光となる。
その嘘を一時信じて、安らぎの中でやがて強さを取り戻して、そして、いずれはその嘘から目を覚まして、再び現実に立ち向かうべきである。
また弱ったらまた信じればいい。また立ち直ったらまた目を覚ませばいい。
宗教はそうやって利用するべきサービスであり、心のセーフティーネットだ。人は詐欺師にさえ癒される。
いっとき癒される事はあっても、長々と依存するべきものではない。
このツリーの頂点はこちらが書いたものではなく、またエントリは聖職者への質問コーナーでもないため、
できればまだ続きがあるのならばブログの方で聞いてもらいたい。
なぜならば、戒律や教義が明確かつ厳密には存在せず、その代わりに、“広義における社会正義”を標榜する宗教法人群というものも存在するのであって、またそれらは、滅多にお目にかかれない珍しい存在という訳でもない。(定義が広いためにかなり曖昧な表現だが)
そういった団体が何を追求するのかというと、ある種の“健全さ”、“清浄さ”を追求する。
あえて言うが、そこに所属する聖職者達はつねに不健全さというものを決して容認する事なく、そして健全さをこそ理想形・到達形として求める。例を挙げれば、それぞれの家庭における子への教育も厳しい。時代錯誤ささえ覚える程だ。
だから、「自分の足で立たねばならない」「自ら歩き出さねばならない」という、何よりも自然さを追求する姿勢は、ごく個人的かつ私的な信仰であると定義できるものではない。そもそもこちらに信仰心などない。一番最初に書いた事だ。
ときに、弱っている人にとって、宗教という存在は特に優しく見えるものだ。神という存在に縋り救いを求める気持ちもわかる。しかし神に癒され、信仰に癒されて、元気を取り戻した後もなお宗教にべったりと寄り添ったままでいるのは、不自然なことでしかない。
それは、信仰の有無に関わらず理解できる論理的帰結であって、そしてここで今一度前述の夫婦の話に立ち返るならば、数年もの長きに渡り定期的にお参りに来る彼らに対しては、職場の聖職者達全員が「いつか神恩感謝の祈願に来るといいね(※願い事が叶った御礼を申し上げる祈願のこと)」と共通した感想を抱いている。
しかし、その聖職者達はあくまでも、意思決定の結果として提示された「祈願依頼」を忠実に誠実に遂行するのみであり、意思決定に至るまでの相談を受ける事はない。そもそも相談される事もない。
それはなぜかと言えば。宗教が迷える人の道標になる事はあっても、聖職者が迷える人の手を取り導いて都合のいい未来へと連れていく事はできないからだ。
そこに自らの意思が介在しない決定は、ただの他人任せの結末にしか辿り着かない。
だからこそ、一番最後は自分の判断で方角を決めて、自分の足で歩いていって貰う為にこそ、良く考えてから職場へ来てもらい、祈願を受けるか否かを自分の手で決めてもらうのだ。
一見、どうでもいい手順に思えるかも知れないが、これはとても重要な事だ。
一番最初の選択を自らの手で行ったかどうかは、後々尾を引いてのしかかってくる。
弱っている人は迷いやすい。頼りやすい。自らの意志を投げ出しやすい。
祈願依頼者の意志を左右する事は分を超えた行為であるために、カウンセラーの真似事は誰もやらない。
物語の最後に舞台の上からゴンドラに乗って降りてきて、登場人物達の結末を一人で決めてくれる、デウス・エクス・マキナの様な存在が実在したら楽だろう。心が弱ってる時、苦難に直面した時、そんなものを夢想するのもやむを得ない事だ。
だが現実にそんな都合のいい存在はなく、仮に自分の選ぶべき道を他者が全部決めてくれた事があったとしても、それはもはや自分の人生とは言えないのではないだろうか。
自らの事は自らで決める事に意味があり、それが自然である。そういった社会正義全般を尊ぶような信仰を持つ人々が、世の中には大勢いる。
私はとある宗教の2世で、子どものころから親に宗教行為を強制されるのがいやでいやで仕方なかった。
やれ毎日朝晩仏壇に手を合わせろ、会合に行くぞ、勧誘に行くからついて来いなどなど。
本当に本当にいやで仕方なかった。
学業に成功するようにと祈っている時間で勉強したいんですけど! 明日部活で朝早いのに夜の会合とか無理!
相手は明らかに嫌がっているよね。なにこれ仲間内で勧誘人数を競っているの?
仏壇で30分唱えたらこの紙の升目を埋めていくんだぞ。お父さんなんかもうこんなに埋めたんだ。お前もがんばれ。
いやいや、なにその無駄な時間の使い方。ないから。ありえないから。
子ども時代は、強制される宗教行為からいかに逃げるかということばかり考えていた。
中二病全盛期には、周りにいるその宗教関係の人間全てを軽蔑し、馬鹿にしていたように思う。
「これ印刷物じゃないんですか? 息を吹きかけてはいけないのはなんでですか?」
とある日の会合で幹部と呼ばれるエラい人にそのようなイキガッタ質問をしたのを今でも覚えてる。恥ずかしい。
そんな宗教嫌いだった自分だが、一度だけ、宗教についての考え方を大きく変えるできごとがあった。
私には叔母がいて、日ごろから親しくし、いろいろとかわいがってもらっていた。
しかしある日突然、叔母がくも膜下出血で倒れて緊急手術をすることになったのだ。
それを知ったのは夕方のこと。家族みんなで病院に向かい深夜まで病院で涙目でフラフラ、日が変わるころに親に連れられて家に戻ったが当然ながら眠れるはずがない。
家に帰ったら家族一同で仏壇に向かい祈りをあげた。そして僕も生まれて初めて、本気で祈ったように思う。
今思うに、
本当に祈るしかないときというのが人生にはいくつかあって、そういうときに宗教というのは必要なんだと思う。
少なくとも祈っている瞬間は、何かしたいのに何もできないというそのどうしようもないもどかしさから逃れることができた。
その瞬間だけは、僕はこの宗教があってよかったと思ったのだ。救われていたのだ。たとえそれがただの逃避だとしても。
とはいえ喉元過ぎればなんとやら。叔母の手術が成功し、自分の生活が通常に戻るにつれて宗教行為をサボりがちになり、
進学を機に親元から離れることで完全にその宗教から足を洗うことになった。
私の宗教に対する考えをまとめると次のようになる
「宗教を必要とする人は少なからずいる。私も必要とした瞬間が一時とはいえたしかにあった。
もしかしたらまたどうしようもないときに必要とするときがあるかもしれない。」
おそらく私は、本質的に宗教行為には興味がなく、思考停止の道具としての祈りしか必要としていないのだろう。
(そしてそのような道具に頼るほど自分は弱い人間であることを自覚している。)
そこには信仰心のかけらもない。苦しいときの神頼みをする自分を自己弁護しているにすぎない。
http://anond.hatelabo.jp/20140217163811
まあ聞いてくれ。信仰心などはじめからなく、純粋に飯を食う為だけに聖職者となった人間からのアドバイスだ。
祈るだけならばイワシの頭に対してだってできるし、
あんたがそこで見た他の連中は、あんたの持ってない信仰心を持ち、あんたの知らない生き方をしてるわけではない。
信仰心が強いのではなく、ただ単に、現状の生活において他の逃げ道がないだけだ。
信仰心は依存心と何も変わらない。依存の対象が人ではなく神となるだけであって、精神的自立には結びつかない。
ただそれでも傍から見れば、“信仰厚い人”という評価がなされ、“神への感謝と敬意を忘れない人”という見方がなされてしまう。
通常の価値観の持ち主なら当然、それのどこがいけない?と思うかも知れない。
数年前か。ある日、職場に一組の夫婦が祈願の依頼に来た。初めて見る顔だった。
夫婦は普段着みたいな格好で、表情は無く、喋る言葉も訥々としていて、なにかに行き詰って祈願に来たのだろうと思った。
祈願内容として口にしたのは、「家内平和、息子の就職祈願」だった。二人が口にするのは決まってその内容だった。
来るペースは月一か、二月に一度くらいだった。ジャージで来て祈願を受けていく事もあった。
外出着っぽい服に身を包んで現れるようになり、表情にもわずかだが笑顔が見られるようになった。
祈願を受けに来る間隔も若干短くなっていたように思う。
だが、祈願内容は全く変わらず、「家内平和、息子の就職祈願」だった。今も変わっていない。
さて、このエピソードを見て、あんたはどう思っただろう。
“祈願に来ることで夫婦には変化が現れ、明らかにいい影響が出ているのだから、よかったじゃないか”
そう思ったかも知れない。
そうだな。実際、夫婦は数年前よりリラックスしてるように見えるし、それを見守るこちら側の視線も暖かくはなる。
だが、違うんだ。なぜなら、祈願に来た結果、この夫婦にとっての問題は何一つ解決していない。
この数年間で夫婦がすべき事は他にあった。
片道二時間くらいかけてやってきて、数千円の祈祷料を払い、長い祈祷を受け、また片道二時間くらいかけて帰ってゆく。
その時間と金を使って、家庭内の問題に、ちゃんと正面から向き合うべきだったんだ。
リピーターになってしまってはいけない。祈願を受けるのが楽しくなってしまってはいけないんだ。手段と目的がすりかわる、それは本末転倒と言う。
だがこちらは生業として聖職者をする身だから、こういう事は口に出来ない。
でも本当は、神にすがらず頼らず、彼らはちゃんと自分の足で立って、ちゃんと自分の手で現実と戦わなければならなかったんだ。
さて、神を作ったのが人間かどうかという問いは誰にも答えられないにしても、宗教を作ったのは人間だと断言できる。
宗教は団体だから、運営上必然的に資金を集める必要がある。経営者や職員に食えるだけの給料を払わなければいけないからな。
だからどうしても定期的な収入、すなわち信者からの恒常的な搾取構造を設ける必要がでてくる。
賽銭箱しかり、祈願しかり、授与品(お守りとかお札)しかりな。
歴史ある宗教とはすなわち、古い歴史の中でいつしか公認されてきた詐欺、と言ってもいいだろう。
神に頼る者の問題をなんら解決しない。
それどころか、救いを求めてすがりつく者から金を巻き上げてゆく。
神へと祈る者が勝手に受け取る精神的安定と引き換えに、対価を要求する。
その中で神を信じ続ける事が、あんたにできるだろうか?
既に、宗教を冷静に客観視して「みんなで祈るのもいいものだ」とか良かったところ探しをしており、そのことを増田に書き込んで整理しようとしているあんたに、入信して神を信じ続ける事が果たしてできるのだろうか?
悪い事は言わない。
手段が目的にすりかわってしまう前に、信仰を持とうとするのだけはやめておけ。
<2/19追記>
驚きのブックマーク500超。
人の日記にぶら下げたエントリとして、ここまでのブクマ数を記録したものは初めて見ました。
皆さんにとって、“腐敗した聖職者”という存在はさながら、とても叩き心地の良いサンドバッグのようですね。
そこで(前々から準備を進めてはいたのですが)、“腐敗した聖職者のブログ”を立ち上げる事にしました。
ありがとう。ご指摘のとおりです。
夜中に爪を切ると蛇が来るというのは蛇信仰というものが存在した、というのは聞いたことがあります。
むかし夜になると明かりが乏しく手元が正しくない状態で不衛生な刃物を身に当てるという行為は自虐的だという通俗を誇張するのに使われていたという話も聞いたことがあります。
口笛を吹くと鬼が来るという話も聞いたことがあります。人間に対して害のある動物がまだ多く、同じ人間も闇夜に潜んで人を襲う可能性があった時代の鬼という分類が未知の生物全般を言い表せることも信仰や宗教い関係あることなのかな。
蛇にかまれて指が腫れるぞ、みたいなのはそれが適度な毒を持っていて夜に遭遇する他の生物でもよかったかもだけど蛇を選択したのは何かの意図や感情だと思います。
蛇という形をした生物と他の自然現象などを見合わせて何かのバロメーターを役割付けた知識を宗教や信仰にまとめた過去をふまえて、今現在はそこから科学や歴史などの分野に分派していないのかな?
安全管理について具象を用いたということは宗教だった、と言えるかもしれませんが今現在において具象というものは宗教や信仰とかかわりがありますか?
感情は感情で、歴史は歴史、その多くは心理学とか歴史学などで定義されていたとして、不明な点はそれぞれの不明な部分とはまだ現在でもしないのかな。
蛇にかまれて指先が腫れるのは嫌だ、という感覚に便乗して夜を爪切りの時期からはずすという誘導方法は有効な心理作戦とは言わず信仰と扱う学問かもと思っていても、それが今現在も機能して存在しているのかと言われたら、むかしは信仰心からできなかったことで、現在は別の分野が担えるけどやっぱり今でもできないことを結果は同じだから宗教とまとめていいのかなって。
数週間で結婚することになる。
結婚相手に関しては私にとってもったいないぐらいの人間なので不満は何もない。
ただ、私の父親に関しては黒くドロドロした淀みが心中にある。
奴は建築関係の仕事の就いているからかもしれないが、とにかく怒鳴る人間だった。
幼少から怒鳴られ、そして夜は頻繁に飲みに行く。
母は奴が飲みに行くのに車で送らされていた。
それは20年前に引っ越してきた実家となる場所に来ても変わらなかった。
むしろ、母はその家に引っ越してきてから辛そうにしていることが多かった。
実家も奴曰く、
という到底理解できない理由で6LDKの家を福岡の田舎に建てた。
その周辺では私と兄はのびのび育ったが、母はその家を毎日掃除しなくてはならず、そして炊事や草取り等の雑務も来なさなければならなかった。
そして、母は、
「私はこの家の家政婦ではない」
と私にこぼすことが多かった。
そして、相変わらず奴は怒鳴りまくった。
とにかく自分が気に食わなければ、怒鳴りまくった。
怒鳴れば何とかなると思っているのだろう。
奴の中では奴以外の人間は獣かもしれない。
そして、やはり飲みに行くことは頻繁で、時折私や兄が小学生や中学生で必死に貯めた小遣いを借りて飲み代に当てていた。
だが、子供から金を借りて飲み代やパチンコ代に当てることに内心呆れていた。
また、休日も家族でどこかに行くということはほとんどなかった。
それも子供心ながら寂しくも恨んでいた。
深夜に酔っ払って帰ってきて、暴れまわったり大声を出してわけのわからないことを喚く。
挙句の果てには吐瀉物をまき散らす。
しかもその後奴は寝てしまい、その片付けは私達や母にやらせていた。
吐瀉物の件で最も許せなかったのはSFCにぶちまけたことだ。
奇しくも、SFCは綺麗に拭いてなんとか壊れずにすんだ。
不幸中の幸いである。
そして何より、幼少の私達に対して、
「家のローンは俺が死んだらお前たちが払わないとならないんだ」
「金が無い金が無い。あー、きつい」
といった金に関する発言をことあるごとにしていた。
そしてその言葉が重荷になったことを奴は気付いていなかった。
子からの借金や私達兄弟への理解がなく、己の妄執に基づいた「常識」を押し付けてきた。
母は私達をかばってくれ、そして理解しようとしてくれた。
そのため何度も離婚話が出ても、私は母に付いていくことを明言していた。
だが、その母も私が20歳の時に亡くなった。
絶望だった。
兄との仲は良くもなく悪くもなくだ。
だが奴との関係は最悪だ。
話しても理解しようとせず、己の中で凝り固まったものを押し付けることしかできない奴しか親がいなくなることが絶望的だった。
この時、どれだけ母ではなく奴が死ねば良かったと思っただろうか。
いや、この時だけではなく今でもあるが。
母は所謂新興宗教の信者ではあったが、お金を取られるわけではないので私自身は構わないと思っていた。
むしろ、そこは火の車っぽかった。
度が過ぎるのであれば、忌避するべきであるが母は私にそれを押し付けなかったのだ。
私自身としてはやはり信仰心は大切にするべきものとあるという考えがあるので、特に何も言わなかった。
だが、母は所謂仏教の葬式をあげてほしくなかったらしく、その宗教の葬式をあげて欲しい旨を私に伝え、それを私は奴に伝えた。
だが奴はそれを一蹴した。
世間体のためだった。
奴は特に信仰していない仏教の葬式をあげ、おまけ程度に母の宗教の葬式をあげた。
これで満足だろうと言わんばかりにだ。
私は憎んだ。
母の信仰心を汚した奴をとにかく憎んだ。
母が大切にしてきたものを奴は20年以上共に生きていても理解していなかったのだ。
私の大切な母を奴は殺したのだ。
だから、憎んだ。
念のため、学費を払ってもらって就職してからも盆と年末年始は実家に帰省した。
だが、2,3日もすると家の中の空気が息苦しくなる。
そして、帰省しても話す内容は一緒だ。
「住宅ローンや祖母の入院費、それにお前たちを進学させた教育ローンが苦しい」
「あー、金が無い。金が無い」
こればかりである。
また、兄は規制せず、私だけ帰省するので家のことを何でもかんでもさせられる。
この時に思ったのだ。
「私はこの家の、こいつの家政婦ではない」
と。
私は皮肉にも母と同じ心境に辿り着いていた。
そもそもこいつは己の見栄のために無駄に広い家を建てた。
祖母の件もそうだ。
それを子供に言ってどうなる?
苦しめるしか無いのに気付かないのか?
ああ、気付かないだろうね。
お前は己のことしか見えておらず、私たちのことを理解する気もないのだからな。
祖母が飲み屋で働いていたのと重なって哀れになったらしい。
愚かである。
もちろん、そのねーちゃんは雲隠れした。
この事件から数年後、奴は私に対してこう言った。
「母さんの治療費にばーちゃんの葬式代を使ったけど、その金も貯まった」
と。
奴と母親、どちらの話が信用できるかと云えば、どう考えても後者である。
私はこの話を聞いて奴と縁を切りたくなった。
こんなのが身内だと、いつトラブルに巻き込まれるのかがわからないからだ。
社会人になりIT社畜になったら、案の定精神的に追い詰められてしまい、退職した。
だが、それも徐々に良くなり、なんとか私は生きている。
結婚することになったので、色々な準備をしている。
式は近縁の親族のみで執り行うようにしている。
そもそも、私はドレスを着たいだけであって式などどうでも良かったのだ。
だが、奴だけは、
「ここで式を挙げないと、母さんに何言われるかわからん」
と言ってきた。
正直に、自分が式をやってやったということを周りにいいたいがためだと云えば良いのに、母親を引き合いに出す時点で侮蔑の感情が湧いた。
式までも、やはり奴関連でトラブルが多発している。
そもそも、メールをしても返信が来ない。
それで何度もトラブルになったので私は電話をスピーカー状態にし、録音するようにした。
そもそも、結納の件をやるかどうかを訊いても、「やらなくていい」といったと思えば、
「なんでやらないのか!?
と怒鳴り散らしてくる。
そして、いざ結納をやり、食事会を行っても一人だけひたすら飲み、挙句の果てには私の過去の嫌な思い出ばかり相手の両親に話している。
そして、奴の兄弟とは疎遠になる、縁も切ると言っていたのに突然、
「そんなことしなくていい!
それが良識だろうが!
そして、今度はいつ帰ってくるんだ?
俺の兄弟たちとお前の婚約者との顔合わせの食事会をやるからな!」
と言って、電話口で怒鳴り散らしてくる。
これがきっかけだった。
言っていることが論理的ではなく、ころころと内容が変わるので、それに振り回されていた。
振り回されることで、精神的に落ち込み、
と考えることも増えてしまった。
そもそも母方の方には何も連絡していないのに、何故父方のみ会わなければならないのかがわからない。
奴の見栄に付き合わなければいけないのか?
私は奴の所有物なのか?
そもそも、縁を切ると言っていた人間たちに会わなければならない意味がわからない。
そして、私から必ず電話をしなければならないわけでもないだろう。
もし、私の病気の理解があれば負担を減らそうとするだろうが、その素振りもない。
服装に関しても、相手はモーニングを着るというのに、
と言い始めた。
奴は155センチ100kg超なので特殊な体型ではあるが、何もやろうとしない時点で呆れてしまった。
結局は奴はモーニングを探す気も無く、ドレスを借りる衣装店に頭を下げて探してもらえた。
憎悪しかない相手に対して、至れり尽くせりをして疲れてしまった。
実家に帰省したら、家政婦になり、延々と金が無い話をされ、怒鳴られるのだろうか。
そんなに金が無いことを言って私を苦しめたいのなら、私を殺せば良いだろうに。
私を理解する気が毛頭もないのなら、父親面をしなければ良いだろうに。
そんな気持ちになってしまう。
こんな気持ちになるぐらいなら、もう疎遠になろう。
そうしないと、またあの地獄に逆戻りだ。
だから、私は父親と縁を切ろうと思う。
それは婚約者と歩くよ。
お返事ありがとうございます。プロテスタントの人です。
日本人は無宗教とか言いつつ気がついたらお寺に所属していたりするので
ご心配するほどのことはないと思います。信仰心の問題としては。
ただ、キリスト教は「信仰心を持たない」というフレーズが「罵倒言葉」なので
そこら辺気をつけていただきたいと思ったりしています。
そうそう、まず、神社・お寺の「保存会」に入ってみてください。あの空気は説明するより見た方が早いです。
まるで地域のPTA役員みたいに、「私はやりたくない」とか、ほかの人にやらせようというムードでいっぱいです。
そして、周辺地域の人は、「保存会」の行う「お囃子」さえ「うるさい」「騒音だ」という感じです。
太鼓なんかもうやれません。
ネットにはたくさんいる右翼な方々や外来宗教が嫌いな人(仏教以外 笑)は仕事にかまけてそういうことをやらないのではないかと勘ぐってしまいます。
外来文化を飲み込んだカトリックとイベント好きな一部のプロテスタント由来ですが
教会に関わらないでやってる人が多いのでもう別に勝手にしてください的な感じで見ています。
目に余るのは「教会に関わってないから」という理由で無視しています。
旦那さんが本来所属していたお寺さんの住職と何故かトラブって、教会に来て
そういうこともあるから選択肢を知らないよりはいいんだろうとも思います。
他の宗教でお祝いをしようという流れはノンクリ(非キリスト教徒)の結婚式辺りからもう始まっているので
結婚式だと「あーそうですかーじゃあ勉強会3ヶ月くらい来てくださいねー」で「 妥 協 」しています。
本来は洗礼受けたりか求道者期間を持ったりしてからやっていただきたいというのが本音ですけど。
306 :ソーゾー君:2013/10/17(木) 12:53:43 ID:DBul3QTI
非課税措置を廃止されたら存続できなくなるんですかねぇ・・
非課税=不鮮明=カーテンで覆い隠されているから明瞭化する為に
「誰が幾ら何の為に寄付して何に使ったかを明瞭化されて困ることってあるんてすかねぇ?」
非課税団体=宗教団体がマネロン組織としてゴロツキと癒着しているのは小学生でも知ってる常識だぜ?
うちのきなこ餅(ハムスター♀1歳8ヶ月)も理解してるぜ?
「そんなもん弥生時代から詐欺行為してるじゃんw一向一揆とかやってるテロ組織だろ?w」と言ってるぜ?w
非課税廃止したら何に使ったかばれるから嫌がるに決まってるだろw」と笑ってたぜ?w
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
305 :ソーゾー君:2013/10/17(木) 12:34:14 ID:DBul3QTI
国費投入して支援するのはダメ?なら潰せば良いじゃん・・
俺はどっちでも良いよ?国民の信仰心が無くなって寄付をしなくなったら不要だろ?
て言うかー金で存続させる信仰心ってなんだよ?
金がなきゃ出来ねーのか?普通に仕事して信仰しても良いんじゃね?
なんで一日中なにもせずに念仏唱えてるだけの詐欺師のゴージャスな生活を維持せにゃならんの?
生保申請も簡単だわな非課税だもんな。
非課税措置を全て廃止したら不浄な金は全て取り上げられてヤクザ=ゴロツキは干上がるのに
なぜ嫌がるんですかねぇ・・
反対している連中は非課税措置が廃止されたら困るんですかねぇ・・
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
まあ馬鹿話なんだけどさ。
ある日、啓典の宗教を信じる人々全てに、こんな啓示が下ったとする。
「日本を聖絶しなさい。日本人の血と財産と文化全てを神に捧げ尽くしなさい。ジェリコのように、ヘシボンのように、バシャンのように」
で、聖十字の旗と、聖新月の旗と、ダビデの星と、一神教を奉じる全ての軍隊が、神の名の下に日本列島に集い、
男も女も、老いも若きも、家畜もペットも、日本に関わるもの全てを神の名の下に聖絶し尽くす。
日本の財産も文化も、一円玉一枚、小皿一枚に至るまで「神に捧げられた呪われし器物」として収奪され、封印される。
…勿論分かってる。この現代で、先進国が宗教的情熱だけで、先進国一つを、絶滅させに掛かるなんてこと、あるわきゃない。
けどさ、とりあえずキリスト教の教理上でいい。「それは教理的に起こりえない」っていう指摘を聞いてみたいんだ。
日本の政治家が馬鹿ばっかりやってくると、その内日本を聖絶しに十字軍がやってきて、
面倒と辛いは違うし、面倒かどうかはお前が口を出すことではない。相手が確たる信念のもとにそうしているのなら、尊重すればいいだけ。
だから何?
それが無信仰の優位性なの?
何より、ここだけでこれだけキリスト教の人が居るということに驚いた。
ま、半分は同一人物だったりするのかもしれないけど。
議論になってないと思うけど
http://anond.hatelabo.jp/20130709094912
漢語訳の祈りもしらねーのかwww
日本語しゃべるな、は言い過ぎだけど、単に昔からある日本の風習があるなかでは辛いんじゃね?ってことじゃん?
知らないままでよくこんなこと書けるな。
イスラム教は批判しいても良い対象だということ?
http://anond.hatelabo.jp/20130709105108
聖書前提で話されてもな。
この日本じゃ逆に
いい家柄のお嬢さんお坊ちゃんにキリスト教の古い方の派が多いのは、
関わりをそうやって「選別」する目的もあるかもな。
というか、まともに宗教やってる人は良い家柄が多いんだと思う。
何にしろお金をかけてこそ"ちゃんとした宗教"って感じがあるからじゃない、日本では?
http://anond.hatelabo.jp/20130709095614
根本的に勘違いしてると思うけど、葬式とかに行って、自分の信念のためにこれが出来ないあれが出来ない、って面倒じゃない?
ってことだと思うんだけど。
別に拝め、ってわけじゃなくて、自分の信念上あなたがたと同じ事は出来ない、というようなことが
日本の伝統的な儀式の中にたくさんあるとあれじゃないかな?って。お祭りとかもそうでしょう。
逆に信仰心の低い日本人なんかは何も関係ないクリスマスで大盛り上がり出来るわけで。
何より、ここだけでこれだけキリスト教の人が居るということに驚いた。
ま、半分は同一人物だったりするのかもしれないけど。
「宗教は楽になるためのもの」とか言ってしまうから宗教が変な目で見られる。
そもそもキリスト教は現世での救いなんて説いてないよ。
私自身に信仰心はないが、私が知るクリスチャンは「常に自分の信仰を疑い、神を考えている」と言っていた。盲目的に神は正しい、ゆえに自分の信仰は正しい、と思ってしまうことで、宗教者は道を踏み外す。仮に神が絶対的に正しいとしても、それを信心している人間は間違うことがある。それを受け入れた上で、自らの信仰心を常に疑い、正しいかどうか考え、神の道から逸れないよう心を配りながら生きていくことこそが、本当の信仰だろ。「信じていれば楽になれる」なんていうゆるい信仰は、信仰でもなんでもなく単なる盲信であり、過去の歴史であまたの過ちを犯してきた愚かな道への一端だ。
元増田さんに上手く答えられるか分からないけれど、書いてみる。
依存症治療の会合、アルコホーリクス・アノニマスの手法を書いた本「ビッグ・ブック」の中に神を信じること、っていうのが出てくるらしい。
元々がアメリカからでてきた治療法だから、多くはプロテスタント的発想なんだろうけれね。
そもそもの依存症って例えばアルコール依存症にしても仕事依存症にしても、問題はアルコールを飲むことや仕事に重きを置くことにあるのではない。問題は大事な人(家族や友人)に向き合わなければならないときに、アルコールや仕事や買い物に逃避して向き合わず、人間関係を壊していってしまうことにあるのね。
(ここ、重要)。それを前提として読んで欲しいんだけど。
ビッグ・ブックを読んでいる看護師さんと話していて、ここにある神っていうのは、別にキリスト教である必要はまったくなくて、
に許し、受け入れられる、っていうことが、心の安らぎに通じている、ってことなんだなって分かってきた。
無心論者であっても、「超越者」に「私は生きて呼吸することそのものが、祝福されたことなんだ」と認められていることが、がけっぷちに立たされた状態では、必須で、これがないと人は生きていられない。
私に立ち返ると、父親は仏教徒で、母親の根底はシントーイスト。私は仏教って哲学であって宗教ではないと思っているから、仏壇はあるけれど、宗教的な観点は神道にあるという、古い日本の一部ご家庭の状況。
神道っていっても、自然神的なものを「人知の及ばぬ、わたしの上位のもの」だと感じる程度です。
そんな状態だった私は、幼稚園くらいのころ、桜の花びらが散っているのを見て、
「妖精さんだ!」
と思い、それが創ではないと分かってからも、花びらや雪や、さらには汚れた水の中でもわもわと沸き立つごみや土ぼこりを見るたびに
と感じています。
あれ(神様的なもの)は、目を凝らすと周囲にふりそそぎ、ただにこやかにこちらを見ているもので、こっちのことを好きだけれど何の力も無く、ただいるだけのもの。
小説「沈黙」や「レ・ミゼラブル」みたいな情熱的な信仰心ではないけれど、家族の死や苦しさの局面に至ったときに、
「それでも神は降り注ぐ、何の力も無いまま、それでも私たちを愛している」
というのが根底にあるだけで、不思議な立ち直りの力が沸いてくるのです。
多分それが信仰の原型みたいなもので、それは無心論者であっても必要だろうし、持てるんじゃないかなぁ。
数億分の1だかの確立で地球に生命が発生した奇跡を、成し遂げた神は無心論者が否定することが出来たとしても、惨事を見つめるだけの無力な神は否定できないんじゃないかと。
そして無力な神であっても、「わたくし」の生命をことほいでくれているとしたら、それは力の源になると思うんです。
んで、アルカホリック(というか依存症全体)の、壊れた人間関係に立ち返ると、
「誰かに容認されない自分」
のまま、他人に向き合うことはむずかしいこと、らしいのね。
誰か(上位の、人間そのものが存在することを容認できるくらいの存在)に存在を容認された状態でないと、人は人に対峙できない。
元増田さんの腹が割れないってのは、だから多分その感覚なんじゃないでしょうか。
他の方が書いているように、それについて鈍感な人や、日本人が持っている古い神や「ひととひとがよりそって人っていう字」っていう感覚を知らず知らずのうちに身につけている人にとっては、
「元増田の悩みは宗教ではない」、と言っちゃうけれど、私から見ると宗教っていうか「宗教っていうか、それ以前の、なんだかわかんないものが、私が生きていることそのものを許してるってことを感じられない苦しみ」なんだろうなぁって思います。
感じるのは変なことじゃないし、恥ずべきことでも中学生でもないと思います。
むしろ、人生の危機的状況に至る前に、それに気づいていたほうが、対処に悩まないからいいことだと思います。今後宗教を持つかどうかは別として。
ユゴーとバルザックとモーパッサンとゾラとデュマとメリメが好きです
「レミゼラブル」はあの警官が好き 宗教に背く方法で○○する所が
ゾラの『ごった煮』のラストの方で某未亡人のくだりを読むと「リア充には信仰心なんて必要ない」
と思う
はてな村でいっぱいトラバがついたりブクマが付けばキリスト教よりも救われるんじゃないかな
哲学書読めば?って人もいるみたいだけど,哲学書すらキリスト教ベースで書かれててイマイチぴんと来ないんだよね
罰当たりなことはしないとか,蛙にションベン引っかけると雨が降るとか,縁日とか,鏡餅とか,ものを大事にするとか,言葉が力を持つという考え方とか….しかもこんなにたくさん大小様々な神社や寺が未だに建ってるしね.日本の神様なんて小説とかアニメや漫画,ゲームの題材にすら頻繁に使われる(時には主人公だったりもする).毎週ミサに行ったわけでもなく,それどころか特に誰かに教わった記憶も無いのに,積極的に意識しなくても考えや行動に影響してくるのはかなりすごいんじゃないか?神を畏れ敬う一方で身近にも感じているという心が日本の信仰であるとするなら,大抵の人間は立派に信仰心は篤いだろう.そういう心を持っているという共同体には属しているよ.外国人にこんな話しても同じような文化を持つ国でないとわかってもらえる方がまれだろう.
あ,でも腹を割って話せる友達は欲しいなあ…