はてなキーワード: クーポンとは
なんとなく語呂が良いこの呪文のような注文を10年以上前から続けている。
出費を気にせずよくなってからは「あと、豚汁」と学生時代よりも少し贅沢ができることを喜んだ。
気を使って、聞き取りやすいように「ナミ、ツユダク、タマゴ」と短く大きな声で頼んだ。
フロントを務めるおばちゃんは次々に来る客に対応してはいるけれど、
きっと、お昼もだいぶ過ぎていたので、疲れもあったんだろう。動きは精彩を欠いていた。
だから、特に持ち帰りの客が並んでしまって、しかもそのお客達の無料クーポンを先に処理しなければいけないようで、モタモタとスマホを出す客を待つべきか待たざるべきか、その度に判断しながら、しかも、「これ使えます−?」ときっと先週配布されたであろう無料チケット出すお客もいたりなんかして、お客も店員もなんとなくイライラしているようだった。
今日来ていた客はどうも横柄に見えた。
それはきっと無料で食べれるからと(もちろん私もそうなのだけど)、なぜか被害者のような顔をして並ぶ普段は来ないような女性たちや、通り越したイライラを胸のうちに秘めきれていない若いお母様方。やたらめったら七味をテーブルの上にこぼしたまま去るピッチリとした背広を来たサラリーマン、注文方法が不安そうなおじいちゃん。カレーか牛丼しか選べなくて怪訝な顔をするおじさん。
状況がそうさせるから仕方がないし、自分もその一因をになっているとは思いつつ、運ばれてきた牛丼は、なんだかんだうまかった。いつもより味は染みていなかったけれど。
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めちゃくちゃお金がない学生時代に安心して食べに行ける手軽さ、社会人になっても昼食を取る時間がなくて無理やり牛丼をかきこんだり、「終電で帰ってメシないなー」っていうときのあのオレンジの看板がもたらしてくれる安心感。絶望が少し薄まる。
カウンターの向うは、やる気のない学生、やたらとキビキビ動く中堅や、母国を離れて働いている外国人。
客だって、自分とおんなじような状況の背広姿だったり、あるいは学生だったり、あるいはレールの上を歩くのをやめた人も多い。
場末感はある。でも、そこに生まれる不思議な一体感のおかげで、仕事やってられるか!ってときも吉野家は優しい。
そこにいる人は、バラバラだけれど、互いに干渉せず、さみしげだけど、それぞれの持ち場で頑張っている。
吉野家っていうのは、人生の辛苦とともに牛肉をかみしめる場所なんだよ。
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長くなって途切れない持ち帰りの列をさばいている。投げ捨てるよう言葉で注文する人は多い。
別に牛丼は無料かもしれないけれど、そこで働いている人はいて、私たちは商品とお金の価値交換をしているだけで、その人そのものを粗末に扱う権利も必要もないだろうに。
牛丼を食べ終えて、スーパーフライデーでソフトバンクから吉野家に入ってくるお金はどのくらいかと考えながら、席を立ち外に出た。
一杯 200円ぐらいだろうか。一日500杯ぐらいかな。200円×500人=10万円。店員は4人ぐらいたから、人件費は一日で4万ぐらいか。
原価もあるしな。
良いのか悪いのか分からないな、ソフトバンクは「来店のキッカケができるメリットあります」とかいったのだろうか。
数歩、歩いたあと、卵代を払い忘れたことに気がついて引き返した。
大学の同期が成人式をむかえる前に書こうと思っていたが、結局こんな時間になってしまった。
この時間になって成人式ねーうん・・・みたいに思ってネット見てる人間が見ればそれでいいや。
「成人式に行かない人って、いったいどんな理由があるんでしょうかね」というのは、改めて考えてみるとこれがいまいちよく分からない。
あるいは自分がなんだかんだ言って結局行った方の人だからなのかもしれないが、行くのを結局決めたのは前日の夜になって「ああやっぱ行こうかな、一応準備だけしておいて寝坊したらあきらめるか」といった具合でいたら当日きっちり目が覚めたので、ええホントに行くの俺?みたいな思いを抱きながら行ったという有様だったので、その辺のところ行くまではかなり割れていたのだが、実際行った後になってああやっぱ行ってよかったなとなるような強い価値観の変化があったので、そのあたりのことがいまいちよく思い出せないし、結局行かない側の人ではなくなったので、行かない側の人としての物言いをしなくなったからだと思う。
というのも、その成人式人生三回目のセンター試験の一週間前だったし。
その頃の自分に何があったかというと、まあなんだかよくわからないことになっていた。少し本題とずれるので、結論だけ見たい人は読み飛ばして構わない。
単にシンプルな物言いで表したり表されたりしたくないだけなのかもしれないが、一年目も二年目も、センター利用で受かった大学にそれぞれ親に入学金と半期の学費、それから半期の休学費用をハタかせておきながら大学受験をおかわりしていたからである。
結局一度目はもっと高いランクの大学に行きてえと抜かす自己肯定感の欠如と、それでいて自分の有様をよくわかっていないが生きる上では大切な若者特有の貴重な熱意を、18,9年生きててそれだけしか身に付けなかったんかとばかりの崇高な偏差値という単線的指標に振り向けて、それさえ達成できればこれまでも中高大と一度たりと第一志望というものに受かったことのない過去の自分の救済になると信じて突っ走ったものの、大元の問題が何一つ解決されてないがゆえに何一つ解決するはずもなく、終盤完全に行動の伴わない支離滅裂なメンヘラという訳の分からない人になりながら本試は全て落とし、所属するが故の苦い部分から解放されもはや生きてるだけで自己肯定感を補填できる依存先と化していた元の大学と、唯一受かった1ランク上の、しかも受験が終わった後になってどうやら自分が本来大学でやりたいと思っていたものと違うらしいということが分かった大学のどちらにすればいいか迷っていると口にし親父を激怒させて終わった。
二度目のほうはもはや凄惨と言う他はなく、元の問題、つまりは自己肯定感の欠如であるとか偏差値以外の指標を実のところ持ち合わせておらず、大学受験というそういうことの最後の振り分けが終わった後でじゃあ自分が何をすればいいのかがわからない、自分に好きなことややりたいことがあるんだかないんだかわからない、ましてそいつを新しく見つけ出すこともできちゃいないし、前の大学の専門や多分野性は楽しかったし、自分のやりたいことのような気もしていたがそいつは自分でかなぐり捨ててしまった。そうこうしているうちに時間は過ぎ、周囲にいる一つ年下の人間はめいめいにそれを見出したり、あるいはそうでなくても仲間を見出していく。新しい人間を迎えるムードやチャネルは閉じていき、ただ一人、コミュニケーションに長けているわけでもなく、まして19になって未だ携帯電話さえ持ったことのない現代人にあるまじき自分は人間関係からも完全に弾かれたまま過ぎゆくただ時間に溺れ流されていた。前期の単位は夏前に再受験が決まって期末を受ける必要もなくなっていた前の大学のさえ下回り、初めてのバイトもクビになり、夏が終わるころには高校のころ深刻であった鬱状態が完全に再発状態となり、対人恐怖に加えて社会恐怖に陥り、狭いキャンパスの狭い学科で知っている人間と会うのも、知らない人間がそれぞれ彼らなりの為すべきことや適応を見出しているさまを目にするのも耐えられず、大学は来てもまともに講義に出ることもなく普段人の来ない大学の非常階段で横になりながら、人の話し声や足音におびえ、ただ一日中耐えぬ眠気と抗うつ薬の副作用からくる体調不良でくたばっていた。
そのような状況を見かねてか、というより、自身も家族も学生相談室もお手上げ状態と化しており、少時に発達障害でかかっていた大学病院の心理士やら全落ちした中学受験時代の予備校の先生にまで話に乗ってもらい、しまいに温情で元の大学に戻るなり、また別のところに入りなおすなり、リセットの機会を与えてもらったというのが11月、という有様であった。
というような具合だったので、高校を出てから二年間の間で、自分の人生は高校を出るまでは同期で同い年の(自分の周囲にいた)人間が辿っていたそれからは大いに逸脱していた。
二度目の大学の同い年の同期とも、ましてや歳の違う同期からも逸れていた。少なくとも、当時の自身にとってはそうだった。
もとは転勤族で住んでいる地元にそれほど愛着があるわけでもなく、昔から付き合いのある人間もいない。親類ですら、精神・物理的に最も長い付き合いがあり、肉親としての付き合いらしさを覚えはじめていた爺さんは最初の大学受験の途中で突然死した。ましてや住んでいるところの人間など、地理的なり関係性的になり分断が続いたので、初めて親しいらしき人間関係が三年を超えたのは、電車で一時間の高校を出てからのことである。
↑以上読み飛ばし
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↓読み飛ばし了
そんなわけで当時の自分は、血縁・地縁または精神的な人間関係という側面において、また学年や同期など社会的地位としての側面において、そして以前より自分が持っていたイメージ(と現状との乖離)という三つの面において、一般的な「20歳」という存在群から離れていた。(すくなくとも、当時はそう自覚していた)
とはいえ成人式のハガキというものは、本人のそうした事情や自意識とは全く関係なく、ただいつ生まれてどこに住んでいたかということ以外何一つ問わず、だれの元にも届くものである。
ハガキが届いた時点で、すでに自分の人生が同年代の多くの人間が歩んでいるのと同じような人生など望むべくもないと思ってはいても(事実そうだとしても)、である。
これは生まれて20年の1月を迎えるまでの経緯がどんなに平凡であろうが特殊であろうがおそらく同じことだが、成人式というものは、義務教育を終えた人間に来る、「ただ同じ年(度)に生まれたというだけで世間から全く同じ扱いを受ける」最後の機会だろう。ひょっとしたら最後ではないかもしれないが、少なくとも当分同い年というくくりではこれほどの等しさと無差別性を持った体験をする機会はないだろう。たとえ義務教育をどっかでドロップアウトしようが、義務教育後に社会に出ようが、小中高のどっから私立なり特殊な学び舎に通っていようが、あるいはそういうことのなかろうがである。
分かりやすいので義務教育を例にとってはいるが、それ以外であっても人間この国で20年も生きていれば意識しようがしまいがなんがしか本人なりの本人しか持たない(あるいは似たような人しか持たない)部分というものが出てくるものだし、そんなことはないと思っていてもそう思えること自体がそうである。
これは多分行く前はあんまり分かりにくいことだと思うが、ともかく成人式というのはそういうものを可視化してくれるこの上ない機会だと思うんすよね。
自分が変わっていようが、あるいは変わっていなかろうが、それがどう変わっていて、どう変わっていないのか。会場に集まった普段どこに住んでたんだみたいな70年代の珍走団の生き残りみたいな連中やら、無数にいるスーツにトレンチコート羽織った黒い大群やら、量産型みたいな晴れ着の女やら、(ときにキンキラキンの)紋付袴決めた男達やら、そこにいる連中すべてがまぎれもなく自分と同い年という光景は、少なくとも成人式以外にあるまいと。自分が前日にやっぱ行ってみようかなってなったのは、そういう風な光景って実際どんななんでしょってのを見てみたかったのが一つある。これ考えても実際に見てみないと絶対分からないぞと。少なくとも、行ったことは何かの話のタネになるが、行かなかったら何にもならない。あとでやっぱ行けばよかった、がシミのように残ると思った。
成人式のハガキをなくしたのならなくしたと言えば現地で何とかなるし、着ていくものがないならまぁ少しでもちゃんとしてそうな格好をしていけばよいだろうし、そういう成人式だってあってもよいだろう。別に地元に友達がいなかろうが、それはそれで自分にとっての成人式はそういうもので、そっから見える光景というものがあるだろう。ひょっとしたら、意外な出会いというものがあるかもしれない。俺の場合は誰一人知り合いとすれ違うこともなかったが、それはそれで面白かった。久しぶりにでも会いたくないやつがいたとしても、そいつと会うのはその日が最後だ。遅刻したって別に会場に入れてくれないということはないし、まあ既に終わってても贈答品くらいは貰えるだろう。
いずれにしても、成人式に行くことによっぽどの、それこそ生命の危機が伴いでもしない限り、積極的に行かない理由をひりだすことはないんじゃないか?
仮に生命の危機があっても相手は少年法の適用外だ。別に贈答品目当てだってよかろう。地方によっては金券まであるらしいし。ぶっちゃけ、ほかの自治体のでも潜ってる人はいるし、そういう手もあるだろう。
成人式という上に述べたような場で何が起こるか、あるいは自分にとっての成人式がどういう場で、どういう体験をしたかってのは、これまでの自分を同じ年齢の違う人間という物差しで照らし合わせて改めて見直すことができるいい機会になりうると思うし、あるいはこれからの自分がどうするかを決める上で一つの観点を得られる機会となることもあるだろう。
俺の成人式の話をすると、その日の朝は普段より早く起きて、普段予備校に行く格好のまま家を出て、最寄り駅のトイレでカバンに忍ばせたスーツと革靴(最初の大学の入学祝い)に着替えて行った。
贈答品は会場に一番近いマクドナルドのクーポン券なのは事前情報で知っていたので、特に期待はない(要らねえけどなんかムカついたから二枚使った)。
日本で最も規模のでかい成人式のひとつなので、夥しい人間がいた。その中で明らかに事前の期待を裏切ってよかったこと・面白かったことが3つと、クソだったことについて書いて終わろう。
まず前座で良かった点、開式の国歌と市歌の斉唱。これは完全に盲点だった。いや、人生であれだけの人数で国歌と市歌を斉唱するという機会は以前もなく、おそらく今後もそうないだろう。規模は地元によって変わるところなので一般化はできないが、大勢で国歌だとか市歌だとかをまともに歌ってみるというのは、歌というもの(または斉唱)が持つ効果について体感することができたし、本人の政治的スタンスによって様々に見方があるものだと思う。
クソだったのは、少しは面白い話するかとほんのちょっぴり期待していた林文子(市長)が死ぬほどつまらない話しかしなかったこと。マジで役に立たねえ話しねえ。1行で要約すると
「携帯電話が普及して直接コミュニケーションをとれる機会が私たちの世代より減ったと思うので密接な人間関係を築けるよう頑張りしょう。」
いやもっと役に立つ話しろとは期待が高すぎたかもしれんがせめてなんかそれについて掘り下げた話はできないのかよなんだそのお手本みたいなお年寄りのお手本トークは・・・というもの。これはこれで、ある種の貴重な機会かもしれない。毎年使いまわしてる可能性があるから横浜市民は要チェックだ。
輪をかけてクソだったのがその次の新成人のスピーチ。まあ新成人代表なんぞに選ばれてスピーチを打つやつはまず間違いなく模範的成人みたいなやつかそれに類するものだと思っていたのだが(それ以前のスポーツ選手みたいなのの紹介とかもそうで)、そいつの語り口が聞いていて気に食わなかった。正直後のインパクトで話してた内容をあまり詳しく覚えてないのだが、まあ今はボランティアとかいろいろやってます系の大学生が自分の人生を語るというものだったんだが、その途中で(当人の人生が実態としてどうであれ)妙に「こいつスピーチの話術として落としをやっているな?」というところがなんか聞いていてイラついてくるのである。「いじめられもしました」の言い方が湿っぽいんだよなんか。でもお前いい人に囲まれててよかったねいい人生だねと市長のスピーチに続いて半ば来たことを後悔し始めたのだが、ここからがとてもよかった。
これは行く前と行った後で最も価値観が変わったことである。かねてから成人式の乱入というものはまぁおよそまともなものではないと思っていたが、しかしその場ばかり、その場の自分にとっては違った。
むかし怪獣特撮で怪獣が町を破壊するシーンで喝采があがったとかいう話が少し分かった気がした。
成人式というのは、その主役は新成人である。そこにいる、会場に座っている全ての人間が主役である。彼らの社会的日向日陰此方彼方近郊遠方、全てを問わず、しかし彼らのものであり、選ばれた新成人と、一世一代の晴れ舞台乱入を試み壇上へ駆け上がった名も知らぬ煌びやかな和装姿の彼と、私と、あるいはすれ違うこともないがしかしそこにいるはずの知人どもとの間に、いったい何の違いがあるというのか。誰が彼と彼らと分かちうる権利を持ちうるのかと。成人式とは、生きてきたこと、為してきたことの如何を問わず万人がそこにいる場ではないのかと。
ひとり私は拍手し、心の中で喝采をした。壱萬の大群と自ら選んだわけでもない代表者という構図の中に包まれていた会場を破戒し、否、そうではない、と示した彼の姿に。
そのように見出した彼の姿に心打たれ、ある種の感謝と、自らの肯定を覚えたからだ。彼の行動によって、万人の場としての当市成人式は成立をなしえたのだから。
最後に。これは来ていちばんよかったと思えた光景なのだが、式が終わって駅に行くまでが死ぬほど混んでいたので見物感覚で大回りして駅の空いてるほうに向かっている途中、まあいかにもあまり中学の休み時間窓際で話してそうな感じのイケていなさそうな感じの風貌のダウンジャケットの男二人が、しかし久しぶりに会ったと思わしき感じで、いかにも久しぶりにやるその頃の二人のやり取りという感じで楽しげに歩いている、その光景を後ろから見ているときだった。
こういう成人式も、あるのだと思った。
『個室』という概念が必ずしも一致していないせいか、戸まで閉まるような場合は稀で、大体はパーティションで区切られていれいて、他が見えないようになっていればいい位のゆるい基準の個室でしかない事が多い営業形態である個室居酒屋。先日忘年会で行った個室居酒屋はそのゆるい個室基準すら満足させられない、完全に個室では無かった。普通の居酒屋であった。それなのにどうして店名でまで「個室居酒屋 ○○」と名乗る?全く理解出来なかった。他の参加者がトイレに行った際などに確認したが、自分が通された所以外でも個室と呼べるようなところは無かったらしい。
それでも料金が安ければ「そんなもんか…」と納得もするが、別にそういう訳でもなかったのが、ますます謎な点であった。
その割には混雑していてこれが景気回復か?とも思ったが、どうも後々調べてみると、曜日で半額クーポンを配っていたらしい。自分達は定価で食べたので…
自分が幹事をしていない時にあれこれ文句言うのはルール違反である。だから、増田に書く。
店名も2つ書いてあって、どうもダブルネームでやっているらしい。なんだそれ?と思うが、そういう店もあるのだろう。少なくとも一軒は存在している。
で、ぐるなびのレビューを見てみた2件も登録されている。食べログには現存しているレビューは0件なので、こういうのは非常に珍しい。ぐるなびのレビューは本当に数が少ないし、結構な人気店でもあまりついていない時も多い。だが、その双方がその一般的でない『個室居酒屋』問題には一切触れておらず、出されるメニューを褒めるだけのおざなりレビューで、全く納得がいかなかった。これが気にならないものかね?行った事本当にあるの?という感じしかしなかった。
で、試しにレビュアーの他のレビューを確認したら、二人とも日本各地で居酒屋に入りレビューを書いている特殊な人であった。営業さんで色んなところに行くとかなのかな?全くそういう前振りが無いので、奇妙な感じしかしなかった。「ゆりちゃん」みたいな女性名前だったけど、女性の営業さんもいるしね。
ものによる
病気やケガでというのが一般的だが自分でそれを支払う必要のある(自爆して金のかかることになる)可能性について必要ならそのための貯金と管理費だと思えばいいだろう
相手がいて支払いを請求できるケースが想定できるならそのための備えをしておけば保険はいらないかもしれない
保険としての外貨預金(年利6%)を自前で積み立てと一般的な保険と変わるのは運用投資で実際に出るタイミングで支払われる最大値であって保険としての機能は同じだろう
年利6%で有事の際の備えとして機能するものにそれをあてればいい
もちろん保険はハズレくじ(支払われない条件)などで運用を賄ってもいるので保険が実効効果を示さない可能性もあるがそのリスクと支払利率は商品価値なのでしょうがない
保険屋のメイン商品は綿密な計算でどうあがいても「有事の際は」最も効率のいい商品となるようになっている
結果を得られるかどうかは審査次第ということがレバーになっているとすれば商品価値としてはそこにある
逆に考えるとメイン商品以外の抜けを探してピンポイントに自分にだけ遭遇する可能性について保険を掛けるのは支払いと払い戻しのバランスは調整できるだろう
古い話だが有名なものでは森高千里が足に保険を掛けたというのがある
あれはニッチすぎてスーパーカーの車両保険ほどに高くて払い戻しの少ないものか条件のきびしいものだろう
オーダー保険としては「お祭りのときに乗り物に子供を乗せる保険」や「登山や海水浴に行く時の保険」なんかもある
依頼さえすればなんでも作ってもらえるので気になる異性に告白してダメだったらやけ酒で病院に行ったときに何万円か支払われる保険とかもつくれるかもしれない
パッケージ商品はテンプレートみたいな人生おくるには必要なものになっているので支払える範囲で入っておけばいいのではないか
ちなみにお祭りの乗り物に乗る子供に対する傷害保険なんかは一人当たり100円で何千万かの保障などのものがある
毎日完璧にカバーする必要がなかったら車で出かけるときにだけそういう保険を買うなんていう方法が年間ずっとかけ続けるより得なものがあるかもしれない
現に自家用車をもつよりレンタカーでフルカバー保険のほうが年間通すと使用料によってはとても効率的だったりするのではないだろうか
自動車ディーラーのカーリースも新車5年ローン満額分くらいの費用だが所有権がない以外は保険など含む消耗品以外の維持費を持ってくれて税金も得だろう
改造したりシールを張ったりできない借り物だというプレッシャーを除けば金額的には得だといえそうだ
そもそもカーローンも支払いが終わるまで担保になっているので気分の問題かもしれない
いずれにしてもマメに計算して管理する管理費込みだと思うとそれはほっといても金積めば安心な保険はそういう価値でもって買うのではないか
個人的にはクーポン使い倒して現金ためて家計簿つけて節約するタイプではないので保険はありだとおもうがやる気があるなら保険はもっと選べると思う
同じル〇ネで働いてる若くて可愛い子連れてくるって女幹事が言ってまっせ。
ってかお前も可愛くておっぱい大きいから普通に誘いたいくらいだよ、俺は。まぁフラれそうだけど。
ってかアパレルって絶対ヤリマンだよね。うん。間違いない!(長井秀和風)
しかもクリスマス前だからね、これはね、もう行けってことなんですねー。
今週はめっちゃ仕事忙しかったけど頑張ったー。頑張った、俺!痛みに耐えてよく頑張った!(小泉風)
クーポン使ってメンズエステも行ったし部屋も掃除したしエビオス飲んだし
戦友達とは先月もナース合コンしたからね、アシストも余裕ですわ。
双極性障害で医師からは就労不可と言われている。障害者手帳の等級は2級。
この人間が、割引券やクーポンなどを駆使して美容室で3000円で髪をカットしてもらい、Amazonで1箱600円で売ってる髪染めでセルフヘアカラーをする。
ネットの激安アパレルショップで激安セールのときを狙って服飾品を買う。
これで化粧などしようものなら、一見すると普通のオシャレなお姉さんにしか見えなくなるのだが、この外見で生活保護受給者であることを明かしたら、おそらく多くの人から反発を受けるであろうことは想像にかたくない。
だから私は生活保護受給者であることを絶対に世間に向けて明かさない。
叩かれるのが分かりきっているからだ。
生活保護受給者であることを明かした上でオシャレしたり外食したりディズニーランドに行っている写真をSNSに上げている人は何を考えているんだろう、くらいに思ってる。
そういう人は案の定叩かれている。
いくら理想を言ったところで、私たちは税金で生かされている身分であることは間違いなく、目立つような真似をしたら反発をくらう。
楽しむにしてもこっそりする以外にない。
表立って楽しむことは許されない。