はてなキーワード: 蕎麦とは
私はとにかく句点が嫌いだ。文中での句点の使用は、文章作成における怠惰だと思っている。一つのことを表現したい場合は、潔く一つの文で実現すべきである。それを疎かにするがごとく、澄ました顔で現れる句点を見ていると、本文の内容にかかわらずそのことだけで筆者の底が知れる気分になってしまう。長い文章を、長く、しかし読みづらくなることなく、すとんと頭に入ってくるようリズムよく紡ぎ出せる、そのことが即ち文章力といえるのではないか。当然、表現方法の一つとしての句点を否定するわけではない。ここぞというときに、それまでの流れの一切を断ち切るように現れる句点の使い方には、頭が下がる。私が言いたいことは、終わりもしない、変化もしない文章のつながりに現れる句点がどうしても許せないということだ。大げさにいえば、句点を打つということはその文の流れに死を与えるものと同意なのだ。その覚悟がないまま、水気とコシのない蕎麦のようにぶつぶつと途切れ途切れに登場する句点、それを見ていると、ストレスで気が狂いそうになる。いま一度、句点の意味を考えてほしい。文章を途切れさせることの意味を考えてみてほしい。自身の文章力を諦観するのではなく、長く書くことが難しいからこそそこに挑み、そしてその長文を紡ぎきった際に得られる達成感を、じっくり噛み締めてほしい。視認性、可読性などという言葉に躍らされ、句点・改行が溢れる文章を垂れ流すことをただちに省み、流暢な日本語の美しさが響く文章を紡ぐ楽しみについて、見つめ直してほしい。それこそが文章を紡ぐことの純粋な楽しさなのだから。そんな怠惰な存在であるくせに、ブコメであと一文字足りない時にも、句点は一丁前に一文字分カウントされていやがるのだ。私にはそれがどうしても許せない。だから私はとにかく句点が嫌いだ。
あまりにも酷かったので、普段食べログに投稿することがないのですが、腹が立ったので書きます。
大晦日に名古屋に用事がありまして、友人3人と食べログのレビュー高得点を参考にして来訪しました。
結果、あまりにも酷い内容でしたので、時系列順に書き記していきます。
あまりにも酷い蕎麦だったので、わたしは群馬県人でそば・うどんが大の好物なのですが、愛知の方は
蕎麦を食べる習慣そのものがないのかと愛知の知人に連絡したぐらいのショックでした。
夕方5時前ぐらいに「とりあえず大晦日なので年越しそばを食べたい」と友人と合意し、名古屋市内は詳しくないので
すると当店がヒットし高得点とともに大晦日は深夜まで営業とのことで、混んでいるのか問い合わせの電話。
10コール以上待ったのちに伺っても混んでいるのか、大丈夫か問い合わせると店の方「今なら全然大丈夫ですよ!」とのこと。
駐車場があるとのことだったが、軒先はどうやら満車…
右往左往していると店員らしき女性が出て来ていて他のお客を駐車場に案内していたようだったので聞いてみると
「あっちの駐車場の緑の車のところに止めてください」とちょっとカタコトの怪しい日本語。
暗くて指を差されてもよくわからない旨を伝えると嫌そうな顔をしつつ駐車場へ案内されました。
まあここまではなんとも思っていませんでしたが…
店に入るとなんだかよくわからない汚い瓶が陳列…蕎麦屋だよねここ…?
店内が綺麗か汚いかは正直気にしてない、味がよければどうでもいいのでこれもまあこの時点ではなんとも…
しかし店内を忙しそうに歩く店員の前掛けを見るととてつもない汚れ方をしていて、とてもじゃないが
接客する格好じゃあない。
黄色だか緑だか茶色だかに色々染色された服を来て接客している様はまあ最悪中の最悪。
正直ここで帰ればよかったのかもしれません。
店内はそこそこ盛況しているようでした。
メニューを見て、年越しそばやら十割、田舎、幻と色々ありまして、幻ってなんか凄そうだなと思っていたら
他のテーブルを対応していた女性が「今日は幻終わってしまったんですよ〜」とのことで諦め、
とりあえず寒くとも冷たい蕎麦が好きなので十割そばに目をつける。
1200円と大分高いので蕎麦以外に何が付くの?と聞いたところ
あ、なるほど、海老としいたけの天ぷらがついてくるのかな。よし、それで。
出てきた瞬間絶句。
早いことにびっくりしたからじゃないです。
明らかに紀文のそれの方が色艶弾力が10倍はいいであろう、うすっぺらい乾いたかまぼこに
日◯カップヌードルに入ってくる海老のようなちーさい海老の天ぷら。(最初天カスかと思いましたよ)
皿は水滴をちゃんと拭き取っておらず非常に雑な盛り付けでこれはまあもう食べる前から…
でも食べてみないことには…
インスタントより遥かに。
まずくてもせめて腹を満たせる量かとも思えば手のひらに軽く載る量しかないため…
蕎麦もあまりにも早く出てきたためにこれは作りおきしていたもの???
と思うぐらいにぼそぼそしていました。
ちなみに食べ終わっても最後までそば湯は出てきませんでした。
私は食べるのが早いため、友人二人が頼んだ年越しそばを待ちながら店内を眺めていたのですが
温かいつゆにさっきの十割そばと具材を突っ込んだだけのようなものでした。
※写真とればよかった
これが1000円。
つゆを少し貰って飲みましたが、小学生の頃給食ので出たそばつゆのような味です。まずい。
ここまでだったら食べログに書くこともなく
「面白い体験だったね〜」
で済むところでした。
私達より先に着席していたお客の注文が一つ到着。
隣の人も言ってくれればいいのに…
と思っていると天ぷらの盛り合わせがドン!とテーブルに置かれる。
頼んだ覚えはないけど、これが十割そばにつく天ぷらなのかな???と
改めて再認識するやいなや、実はこれが隣の注文。
さらに磯辺揚げもドン!と到着。(何故確認する前にテーブルに置くのか…)
これも隣です。
一人の友人が年越しそばを完食する間も、もう一人分の年越しそばが届かずに
待っていると、斜め前に着席したお客のオーダーを聞いている…
これ自分で言っていた店員のお姉さんがそのお客から幻のそばのオーダーを受ける。
いやいや、さっき幻ないって自分でないって言ったでしょ…
隣のテーブルのお客も蕎麦が相当酷く言葉を失っているのか箸が進まない様子。
元旦に伊勢神宮に行くようで、我々と同じく食べログを参考にしたと会話していました。
30分以上待っても友人二人が頼んだ年越しそばのうち一つが全く来ないので
店員にもう作ってないならいいです、帰りますとさっきの汚い前掛けの人に伝えると
で、30秒しないうちにテーブルにドン!とお盆なしでどんぶりごと雑にそばを置く…
レンゲも薬味も別個持ってくる…店は異常なほど混んでいるわけでもなく…
これには友人のテンションは最低降下。
店を後にしましたとさ。
それはよしとしても、レジで3456円だったので3500円渡すとお釣りを50円渡してきました。
これ多いよ?と伝えると1の位は切り上げですとのこと。うん、雑。
アタイ、アラサー職業プログラマーなんだが、去年の暮れ、米国に出張した際、
職場の同僚とアイリッシュパブで飲みつつ、いろいろ話したときの会話を書く。
同僚は、オートラリア出身の男20代後半、アメリカ某大学のCS専攻。
彼曰く、
パーティーとかで人と知り合うとする。
そうすると自己紹介するよね?
それで、相手が、
「私は医者なんです」
医学を学んできたんだろうなって
間違いなく思うだろ?
アメリカでは、ってことだけど。
ある人が
「私はプログラマーなんです」
っていうと、じゃあどこかでCSを学んできたんだろうなって、
当たり前のようになる。
CSの専攻だとしたら、もしかしたら俺の先輩か後輩かもしれないしね。
えーっと○○(←アタイ)は、、、
アタイ:×××××××××
そうか、Matzの後輩なのか! (←チゲーよ! いや、ツクバも受けたけどさ)
Lispは?Lispもやりなよ!Emacsで始めるのがおすすめ!
日本では、
「私はプログラマーなんです。」といっても
必ずしも、その人のこと、CSの専攻なのかな?とは思わないでしょ?
あれってなんでなの?
だってね、まあ極端な例えかもしれないけど、医学部を出てない医者に
手術させたら危ないでしょう?
たぶんこんな感じだったろう。
正直ね、うるさい奴だなーと思いました。
気分がよくなっていて2杯目のギネスで、もういい気分だったもん
だから、酔いにまかせて、言ってやったんだわ。
そうよ、□□(←ソイツ)の言うとおりよ。
出来たってねつ造したって騒がれてる。その騒がれ方にしてもね、
なんだろう、サイエンティフィックではないわけ。
ファナティックっていうかさ。
そういうね、なんだろうね、国の閉塞性?が嫌になって自殺する人や、
成功したアーティスト(漫画家さんだっけな?)のイベントを中止させて
「人生格差犯罪なんっす」とか言っちゃう、そういうのが流行っていて、
で、そんな中、男はみんな無気力で、セックスしたくなくなっていて、
でも日本にも良いところもあるんだよ?
とかってテキトーに答えたんだけれども。
まあでも、
メスもって人の体切り刻むようなもの
っていう感覚を持っている人といっしょに働くのは、
感じないで済むので、そこは良いなと。
すぐに仕事をホサれるというストレスはある。(これもけっこうキツい)
だが、同じストレスなら、後者のストレスのほうが、アタイには合っていた。
前者のストレスを我慢しながら働かされると、
基地外になっていたと思う。
メスもって人の体切り刻むようなもの
であることを感じない、もしくは感じても感じていないフリをする
のがお約束という慣習にどっぷり浸かった業界や会社や組織にうまく適応しつつ、
ストレスたまったら、それこそ美味い蕎麦を食べたり温泉に行ったり、
職場の 仲間とソフトボールやった後、ビール飲んでウサ晴らししつつ、
いつかオフパコを夢見てはてなで、頭のいいプログラマーっぽいブログ書いたりとか、
フェイスブックやブログに、日本人技術者ばっかりとで群れあって、
(日本の汚い)海にいって、ビーチで男女仲良くバーベキューして、
俺ら私らリア充だぜ!的な画像を載せて、自己マンに浸るっていう、なんか
そういう人生を送って年をとるっていう感じなわけじゃない?
それで基地外にならないで、シアワセになれるんだったら
憂鬱を今年はどうにか解決したい。
以上、年頭所感にかえて
「結婚できない女の実情」という女性誌の特集記事をめくる指が震えている。すでにオフィス内には自分のほかに誰もいない。さっきまで残業していた男性社員も今は満員電車に揺られているころであろう。
帰ればよいのに、帰る気にならないのだ。デスクの明かりだけが灯された薄暗い室内の静けさにいよいよ心は締めつけられる。帰る場所もこことそう変わらないことを思うと自分の居場所がどこにも無いのに心づく。はあ、と思わず大きなため息がでる。
女性誌を放り出すように手ばなし、おもむろに腰を上げた私は、夜の外気をもとめて窓を開けた。日中のうだるような暑さがうそだったみたいに、夜空はさえざえと澄み渡り、満月のひかりが目の前にたたずむ樹木の梢を照らしている。その傍では小さな羽虫が二ひき、恋人同士だろうか、闇夜の到来をよろこぶかのように、愛のダンスを舞い踊っていた。
ふうっと深い息を吸ったら、涼やかな空気がにわかに全身を満たしたので、すこしびっくりしたけれども、その心地よさに浸るまでもなく、涙がほろほろあふれ出てきた。
ああ、私はきのう、なぜあんなことを言ったのだろう。仕事ができないとか、遅いとか、心にもないことを同僚の彼にぶつけたのは、男だらけの職場で働かなければならない境遇や、男に負けじと気を強く保つところからくる疲労、そして、何をやってもうまくいかない彼を変えたいという願望のせいだったかもしれない。ほかの社員同士の噂によれば、かれは職場で友達がいないだけでなく、プライベートでも独りぼっち、ランチの時間には、毎日毎日ひとりでざる蕎麦を食べているという。根がまじめで紳士的なのに、ちょっと不器用なせいで損ばかりする彼を救ってあげたい、陰口をたたくほかの社員を見返してほしい。想いはみるみる心の中に鬱積し、ついに私は吐き出してしまったのだ。長いあいだトイレにこもっていたのは恐らく泣いていたのだろう、きょうも始終元気がなかったが、たまに私のほうへちらと鋭い視線をあびせていた、きっと、私を恨んでいるのだろう、ああ、私は最低な人間だ、なぜあんなことを言ったのだろう.....思えばおもうほど大粒のしずくがはらはらと落ちてゆく。
窓を閉め、彼のデスクをぼんやりと眺める。きちんと整頓された上に、まるで用意してくれていたかのように、ていねいに折りたたんだ紺色のハンカチが、しずかに据えられているのだった。
私はそのハンカチを手に取ると、ますます湧いてくる涙の粒を押さえようとした。どうせ誰もいないのだ、泣きたいだけ泣こう。子供のような喚き声が室内にとどろくと、胸もとへ落ちた結晶がするすると流れ込み、下着のついていない露わなところをひいやりと冷たく感じさせた。
ようやく家に着いたころにはもう日付が変わっていた。靴を脱ぐのに足元もおぼつかぬ玄関の闇のうちでも、あえて電気をつけず、暗い廊下をそろそろとすすんでゆく。絨毯敷きの部屋にあお向けに寝ころがり、洗濯するつもりで持って帰った彼のハンカチを、下腹部に当てて目をつむる。置時計の針がちくたくと音を刻むいがいに何も聞こえない。明日も仕事か。はあ。
腹の中から声が聞こえるので耳を疑った。
おつかれさま。あなた、きょうはよく泣いたわね。ちょっと疲れてるんじゃない?まあ、ゆっくり休みなさいよ。こういうときこそ休息がかんじんなのよ。ところで、私いいこと知ってるの。あなた、いつもよくがんばっているから、きょうは特別に教えてあげるわね。あのね、そのハンカチの持ち主さん、もうすぐおうちに着くころだけれど、たのしみにしていることがあるみたいよ。じつはね、今夜、あなたをオカズにするらしいの。うふふ。おどろいたでしょ。あなた顔が赤らんでるわよ。いい?あなたはね、わたしなんかって、ご自分を卑しめているみたいだけれど、それはまちがいよ。もっと自信をもちなさい。あなたを必要としている人は、かならずどこかにいるの。信じることよ。よくって?
いい加減に尽きたとおもっていた涙がまぶたの底から再びどっとあふれてきた。疑いや恐れはもはや無かった。震える口がしぜんにありがとうの言葉を伝えていた。
さあ、涙をお拭きなさい。あそこの引き出しに、年賀状のはがきが入っているでしょ。それをたよりにこのハンカチを彼に届けるのよ。終電はまだ間に合うわ。さあはやくしなさいな。そのハンカチ、おかあさんからもらった大切なものらしいわよ。
玄関のとびらを開けると、夜空に星がきらめいていた。満月の輝きのなかで松虫たちが恋の唄を奏でていた。私はいっさんに駆け出した。
などとニコニコしながら会話するJK三人組のとなりで、そのどれにも当てはまらない俺は信号を待っていた。
ようやく秋になったばかりなのに、きょうは暑苦しいくらいの陽気なので、オフィスの皆は不満を漏らしていたが、俺は内心わくわくしていた。
そして今、ランチタイムで賑わう街中へ繰り出してみると、期待どおりに、いつもよりは薄着の女性が華やいでいる。
透けブラ全開のJK三人組はもちろんのこと、その横で髪を撫でつける仕草が色っぽい20代後半の女性の背中も、一見するとキャミしか見えないもののよーく観察すればあの妙なる線が浮き上がってくる。横断歩道の向こう側で同じく信号を待つ女性たちの透けブラは見えるはずがないけれども、ピンク色のリュックサックを背負った女子大生の上半身を膨らませる丸い二つのものの大きさや、その後方で日焼け止めを塗っている30代後半の熟した色気などは、遠目からでも容易に明らかとなる。
信号が青にかわった。
Dはあるだろうと踏んでいた女子大生の胸は、近くに寄ってくるとまるで小さくなったように感じられ、実際にはCどころかBにも満たないくらいな貧しさであった。きっと気を失わせるくらいの香ばしい匂いを漂わせているであろうと察したあの30代女も、横断歩道の中ほどで俺のそばを通りすぎたが、いくら残香を吸ってみてもそそられず、見かけ倒しであった。
なーんだ、どうせ現実はこんなもんだ、目をつぶって横断歩道を通れれば夢は壊れなかったのに。はあ。
と心の中でため息をつく折から、信号を渡りきろうとする自分の方へ、まもなく赤になろうとする信号を見つめながら駆ける40代のおばさんが、少なくともFはあろうその巨乳をぼよんぼよんとさせるのが目に入る。
おおお。顔だけ見ればただのおばさんなのに、視線をちょっと下へ移すとまるで女王様。人生には意外がつきものだから面白い。
ふふふ、とまた心の中で呟いて、俺はランチ時の混み合う蕎麦屋に入った。
午後の仕事も男どもに囲まれながら。紅一点の女性社員は、貧相なうえに気が強いのでオカズの対象にもなり得ない。今日は俺のことを罵倒しやがった。仕事が遅いとか何とか。トイレで泣いた。俺にはM嗜好は無いつもりだ。
連日残業つづきだから帰りは暗闇になる。疲れた足でようやく駅に着くと、今度は満員電車の罰ゲームが待っている。この日も乗り込むやいなや反対側のドアへ押しつぶされた。背中の感触があまりに柔らかだったから、きっと若い女性の胸が当たっているんだろうと思って股間を熱くした。が、降りるときに顔を見たらただの太った男だった。
真っ暗な部屋の明かりをつけるとそのままトイレへ一直線。疲れを癒してくれるのはアレしかないのだ。ペーパーをぐるぐる巻きにして、一息ついたら、きょうの収穫を頭に描きながら、一気にする。女子大生や30代女、40代おばさんと俺とが戯れているところへ、ときどきあの女性社員が邪魔をしてくる。この野郎と怒鳴りつけてやり、顔にぶっかけてやったところで、もう紙は濡れていた。
ああ、疲れたなあ。と呟いたら、甲高い声が聞こえた。
おつかれ。いいこと教えてやろっか。
一匹の精子が微笑をたたえながらこちらを見つめていた。
あのな、お前の悪口を言ったあの女、よく見てみろ。暑い日には、ノーブラで通しているんだぜ。
マジか!と叫ぶと、笑顔でピョンピョンと二跳ねしたきり、精子は消えてしまった。
こいつの命はこれ限りだが、俺には明日がある。夢がある。希望がある。
なんだかおかしくなってきてヒャッハーと奇声を上げて大笑いする。勢いよく立ち上がり、テレビをつけると、明日の天気予報は今日以上の炎暑を予告していた。
名古屋を境にして、もう一挙分断してしまえばいいんじゃないですかね。
これで平等でしょ?
名古屋が関西批判・関東批判に出てくることをあまり見ることがないので、
関東からは関西の文化、上方お笑い文化や、和食・割烹文化を引き上げさせて頂きます。
関西のお笑いは下品だし、そんなやつらが食ってる飯も理解できないわけだから
問題ないですよね。
関東には寿司と蕎麦くらいしか残らないですが、その他の外食文化がたくさんあるから
それで十分満足できるでしょ。
あと、もんじゃですか?
元々関西にはないんで、引き上げるまでもないですけどね。
テレビからも関西出身者は撤退しますので、まーーおもしろくなくなると思いますけど、
見たくないと仰せなので、大丈夫でしょう。
製作会社や企画会社も実際に面白い番組を制作しているのは関西が多いのですが、
関西弁や博多弁が最近人気コンテンツになってますが、これも全部撤収させて
頂ければ幸いです。
元々気持ち悪いと思うんだから、使う必要ないですし、なくなっても
困ることはありえないでしょうしね。
これで、お互いに嫌なところを目にすることがなくなって
争いはなくなるんじゃないでしょうか。
寝ることが趣味なんて、趣味とは言えないって今まで思ってたけど、寝ることについていろいろ考えてたら楽しくなってきた。
例えばベットはどこのメーカーのものが一番寝心地がいいのか、シモンズか?フランスベットか?はたまた東京ベットか?
いや、もしかしたらベットじゃなくて布団がいいかもしれない。最高級の布団てどんなんだろう?羽毛100%ってどんな感じ?
サイズもいろいろあるな。俺、独りだからシングルで十分か?いや、いちいち寝返りをうたなくていいように幅広のキングサイズがいいかな?
あっ、枕はどうしよう。やっぱテンピュールかなぁ。いや、蕎麦の実がはいったら昔ながらの枕が実は一番好きなんだなぁ。
うーん。いろいろ考えてたら眠れなくなってきた。
~は体に悪いというシリーズだと、ワクチン、マーガリン、そんで牛乳だと思うんだが。
具合がわるいわけでもないのに保険適用外で高い金を払って、副作用だってあるかもしれないワクチンを打ちたくない気持ちもわかる。
作り方が化け学チックで、よくわからないものを敬遠したくなる気持ちがあるのだろう。
好きか嫌いか、体質的に合う合わないかはあると思うけど、なぜそんなに熱心に反対するのかが理解できない。
「豆乳で十分」
大豆だってほうれん草だって、人に食べられるために生きてるわけではないと思うのだが。
イワシがあればサバは要らないとか、そういう論理なのだろうか?
体質的にサバを食べられない人がサバを食べないのは勝手だが、サバを食べたい人にサバを禁止する理由にはならないと思うんだが。
別に牛乳アレルギーがある人に飲ませようってわけじゃないし、乳糖不耐症の人に飲ませようってわけじゃない。
アレルギーを起こす人がいたら、それは食品として禁止すべきってんなら、小麦も蕎麦も卵も禁止しないといけない。
お前は米を食わないのか。
「歳相応」という世の中の空気によってパターン化された年代のモデルが崩壊。
好きに生きられるようになった結果、若いころのママで居る人が増えて、コミュニケーション能力が必須になった。
粗雑な要約からも分かる通り、コミュニケーション能力が必要とされる機会の増大の部分がちょっと弱い印象。
世代間コミュニケーションのような、世代を自覚せよ、という結局世代という枠に納めないとイカンのかいな、という感じ。
読んで真っ先に思い出したのはキムタク。
ただ、若い趣味が続けられる、若いままでいられるというのは、別に悪いことじゃないと思う。
それが出来ない人間が脱落したり、それでいる為にコミュニケーション能力が必要とされてキツくなるっていうのは、
脚気を思い出した。江戸患い。白米の食い過ぎで発症してた病気。蕎麦食え。
昭和の頃は良かったなあ、からの、若作り・晩婚化・孤独死の三段落ちを未成熟で繋げて原因に設定する感じ。
思い出は美化されるような気がするし、増田にもあったけど、空気感で「歳相応」に矯正されてた頃の弊害は意図的にスルーしてる印象。
議論が発散するしストーリーから外れるからなんだろうけど、「歳相応」を強制されるってことは、外れた人には辛いワケで。
出戻り、行き遅れ、独身が昇進できない、夫婦は子供を作るもの、若くないんだから。
年金支給開始も遅くなるぐらいみんな元気に長生きになってるわりに、区切りは付けたいというところに違和感があった。
なんというか、ある特定の時代へのノスタルジーが透けて見えるというか。
誰も歳を取らなくなったように見えるから、若いままで居なければっていう強迫観念の一部の患者向けの為の処方箋
病気自慢を始めちゃうようなオッサンになるなら、あんまり気にしなくても良さそう。
命短し恋せよ乙女みたいな、今年の夏は今年だけみたいな、人生は後戻りの出来ない廊下を歩いてる感じを意識するのは難しいんじゃないかな。
ぶっちゃけ、乳児期とか老年期とか、人によって開始も終わりも違うわけじゃん。
富裕層と貧困層みたいな、カネの差は判りやすいけど、身体にも差があるわけじゃん。
ブスも美人も、ガリもアスリートも、ある程度は持って生まれたモノってのがあって、
絶対的な数字である年齢を基準にしなきゃ不公平だっていうそういう絶望みたいなものがなんとなーく見えなくもない。
成長期、安定期、衰退期、移譲期、みたいな年齢から切り離された言葉で自分の状況を語る必要があって、
自分は安定期を長くするために、関節に負担をかけない運動を続けようかなー、みたいな。
なんつーか贅沢だよね。
ただ、脚気にせよ成人習慣病にせよ、社会構造が変わったことで生まれた病気てのには対処しなくちゃいかんだろ、というのは判る。
話題として読むには面白いんだけど、コラムというか雑談というか、何かを期待して読むのは違うかもしれない。
正直なところ昭和な頃って、成熟してたんじゃなくて、成熟してる、ということにしてただけな気がするんだよね。
未成熟でも成熟として扱ってもらえた時代、というか。そう振る舞うことを求められて、未成熟部分は見えないことにされた、みたいな。
全体として、ちょっと本でも読もうかな、という時に気軽に読める新書。
「老い」について考えたいなら、モーニングKCの『きのう何食べた?』(よしながふみの漫画)を読んだ方がタメになる気がする。
料理美味しそうだしね。