はてなキーワード: 蕎麦とは
追記まで読んだ。
取引先にお願いして早く資材を届けてもらうとかしても、その分他の仕事に影響し、製品の歩留まりが悪くなる恐れもある。
今の時間に取引先が来る事がベストとは言わなくてもベターであり、残業一時間無くす為に歩留まりを下げずにする方法を考える方がよっぽど難しい。
こういうのをそれぞれ金額として明示し、比較できるようにして上に報告するのが、管理職である元増田の仕事なんじゃね?
「誰が考えたってわかるはず」って考えを元にして、元増田は書いているみたいだが、誰でもわかるのは、「その立場に立てば誰でも」という条件がつくものなんだよ。
社長ってのは、社長仲間との次のゴルフの予定とか、飲み屋のねーちゃんとどうやって懇ろになるかとか、今度入った受付の子かわいいから秘書にしようかなぁとか、そういえば健康診断で数値が悪かったから昼ごはんは蕎麦にするかなぁとか、そういうクリティカルタスクで毎日非常に忙しくて、業務の改革だとかを考える時間なんてないんだよ。そんな忙しい中、俺すげえだろアピールするのに「会社の業務改革をした」より「俺の一声で残業ゼロにした」という自慢のほうが、社長仲間や飲み屋のねーちゃんにでもわかりやすいじゃん。これが会社っていうか、社長の理屈。
これらを数字として書類にまとめて、社長を説得しなきゃいけないだろ。「残業ゼロ達成の代わりにこれだけのコストが掛かるので、追加の予算をください」と。コストをかけなきゃ売上は落ちるってことも数字で見せなきゃいかん。空虚な理念しか見ない社長には、数字、それも金額ベースではっきり見せてやらなきゃ、少しもわからんのだよ。
あと、歩留まり率を予想で金額ベースにするのは難しいだろうが、それもまた現場の人間だからわかる話なので、「過去の事例に照らしてみると、確実に10%〜20%歩留まりが悪くなる」とか適当に書いとけばいいんだよ。現場の残業事情さえ知らない社長が、過去の事例だの製品の歩留まりなんてわかるわけないし。
発端の「帰れよ」ツイートから、「そばアレルギーの人が蕎麦屋に行くな」という反応ばかりが数多く取り上げられまとめられている(実際、そう考える人の方が多いのかもしれない)。まとめやコメントの中には、この客の精神の異常や詐病までを疑っている人がいる。これだけ多くの人が、どうして平気でそういうことを言えてしまうのだろうと思う。
私は甲殻類アレルギーなのだが、症状はさして重くはなくて、誤ってひとくち食べてしまっても、せいぜい喉の内部のかゆみが数時間ほど続くぐらいだ(命に別状がないからといって、もちろんアレルギー反応がつらくないわけではない。喉の粘膜にごわごわとした毛がウジョウジョ生えてくるようなあの気持ち悪い感触を、どうしたら他人に伝えられるか、私には分からない)。でも「少しぐらい平気でしょ」と言って食べさせようとしてくる人には、「死ぬ人もいるんですよ」と説明するようにしている。飲食店に限らず、食べさせる側に立つ人には「死ぬ人もいる」ぐらいの認識をできれば持ってもらいたいと考えている。
でも、食べる側の権利についてはどうなのか。リスクがあっても選択がしたいと考える人はいるだろう。少なくとも私にはこうした考え全般が「何しに来たんだよ。帰れよ」で一蹴できるほど簡単な問題とは思えない。私は自分からシーフード専門の店に行くことはほとんど無いけれど、魚料理は基本的にだいたい好きだし、旅行なんかで周りの人に合わせて行くことはある。たまに、隠し味にエビが入っていたり、同じ鍋で調理していたりだかして、アレルギー反応が出るときもある。それでも私は、アレルギーが重くならない限りは、リスクのある側を取ることも数多くあるだろうし、それをあまり邪魔されたくないと考えるだろう。たとえば居酒屋でメニューをぱらぱらめくっているとき、シーフードの欄を丸ごとあきらめるか、食べられるものがあるか探すのでは、世界がまるで違って見えるのである。
「詐病だろう」「釣りだろう」派のコメントの中には、より重い症状の例を挙げて、そんなのは本当の蕎麦アレルギーではないと言う人がいる。本当のアレルギーとはなんだろう。いろいろ調べてみた挙句、そのままのエビはどうしても喉がやられるのだが、かっぱえびせんなら食べられることが判明した私は、本当の甲殻類アレルギーではないのだろうか。未だにカニカマからの類推で蟹の味を想像しているこの私が? あるいは彼らにとっては「本当に」そうなのかもしれない。務めている企業の不満を漏らしたら「そんなのは『本当の』ブラック企業ではない」と言ってくるような、不幸のトップランカーでなければ発言権を認めてくれない謎の審査員のような方々は、インターネットにいくらでもいらっしゃる。中途半端な不幸ほど認められにくいものはない。
アレルギー反応には個人差がある。私のようにごく軽い人もいれば、命に関わる人だっている。冒頭のまとめの人がどうだったのかは分からない。私は蕎麦アレルギーの個人差について何の知識もない。ツイートでは読み取れない部分で明らかに問題のある対応をしていたのかもしれない。蕎麦屋で「そばの入ってないものってありますか?」という質問をするのは、確かに店側の人にとっては迷惑だろうが(白杖を持った視覚障害者にも「迷惑だから外を出歩くな」と言えるのなら確かに主張は一貫しているが、私はそう言う人を軽蔑するだろう)、注文できる物の範囲が分からなければ選ぶこともできない。
「リスクがあっても選択がしたい」人の権利を、そもそもそんな権利を認めない人はいくらでもいるだろうが、上のtogetterまとめに発言を残している多くの人たちがどのような理屈で否定しているのか、私には今のところよく分かっていない。「迷惑だから見えないところにいてほしい」というだけの話かもしれない。しかし、口論の前後の文脈もよく分からないのに、「帰れよ」「おかしいのはお前の頭だ」と言い放つツイートが10,000近くRTされて、どうやらそれが笑い話として浸透しているらしいというのは、やはり不気味なことじゃないだろうか?
いくつかは納得のいく反応もあったことをつけ加えておく。
〈個々人のアレルギーの程度とか考慮しないで「死ぬ人もいる」なんて無意味なこと書いてる連中もなんだかな…。…無意味なだけならともかく、詐病の疑いかけ出すからね。この手合い。〉
http://b.hatena.ne.jp/entry/260771349/comment/yas-mal
〈私もそばアレルギーだけど蕎麦屋によってはうどんとかカツ丼とかそばが入ってないメニューもあるし、私のは比較的軽度なので「そばと同じ湯でゆでたうどん」は大丈夫(ダメな人もいる)なんで、蕎麦屋さんが「ない」って言うならしょうがないけど、あるんなら特段問題ない質問だと思うけどなー。 〉
彼は、まぁいいけど、と言った。私に逆らえないことをよく分かっているからだ。
渋い蕎麦屋ではなく、白を基調としたシンプルお洒落な蕎麦屋。客層もシャレオツ。
そんな中紛れ込むクールビズの彼と、全身が灰色の私。こちらも負けじとシンプルイズベスト!
一つ隣の席には、雑学しか話さない男とそれに相槌を打つ女が座っている。
私達は蕎麦と向き合いに来たのだ。
彼は、うーん、と一言唸ったあと、カレーうどんと蕎麦で迷っていると言った。
私ではない。同じくメニューを選んでいるカップルの発言が奇跡的に一致したのだ。
彼は、蕎麦と出し巻き卵、と注文した。
出し巻き卵はそれはもうふわふわで、キラキラしていた。
ダシが薄く、上品だ。大根おろしとも合う。主役ではないけど、優しい味。
そして、蕎麦である。必要以上に大きい皿の上に、蕎麦は盛られていた。
鴨蕎麦を食べながら私達は色んなことを話した。しかし何を話したかはよく覚えていない。
行こうか、と蕎麦湯を飲みながら彼が言った。私も席を立った。隣のカップルはまだ話していた。
歩きながら、私は、出し巻き卵美味しかったねと言った。
それ言っちゃう?と思った。と同時に、なんだか嬉しくなった。
ニヤニヤして黙ってたら、彼と目が合ったので手を強く握った。
今でこそ1回に6ピースとか買ったりしないけど、
週に何回来るの?馬鹿じゃないの?って思われてるに違いないし
たまにはコールスローサラダも一緒に頼めば?なんでいつもオリジナルしか頼まないの?馬鹿じゃないの?
と、思ってるかも知れない。
ウソ電話を装って「今日何人いるんだっけ?でもそんなピース数いらないよね?」と相手のいない電話を片手に
逆に店員に「調子に乗っておまえごときがクリスマスか?いっちょ前に!馬鹿か」と思われてたら嫌なので
あえてそういうシーズンは避けている、これは仕方がない。
あまり、こっちの不機嫌な顔を見せると、美味しい部位が当たらなくなると思うので、
いつもニコニコするように心がけている。
でも、部位の当たり外れは仕方ない。
次はきっといい部位が当たりますようにと次に期待する日々だ。
好きなことだけ主張して、嫌いな物については黙ってろっていうんですね。
嫌いを主張するのはいけないことだ、人として恥ずかしい、と。
本当にそうでしょうか?
嫌いの主張を恥ずかしいと思うの人がいるように、好きの主張を鬱陶しく思う人がいるのかもしれません。
好きの喜びを共有して楽しみたい人がいるように、嫌いの苦しみを分かち合って救われたい人もいるはず。
それって間違っているんでしょうか。
それって例えば蕎麦アレルギーだと主張することと同じじゃありませんか?
「じゃあお昼は別々に食べよう」か、「それならハンバーグを食べに行こう」と返すでしょう。
「蕎麦嫌いとは友達になれない。さようなら」という人も勿論、いていいと思います。
「私もなんです!蕎麦は無理!パスタはむしろ好きだけど」と返す人もいるかもしれません。
私は蕎麦が好きなので共感できませんが、貴重な仲間に出会えたのなら良かったね、と思います。
「世の中の蕎麦屋が全部パスタ屋になってしまえばいいのに」と言いだしたとします。
それに対し「蕎麦の素晴らしさがわからないなんて可哀想w」とか
「蕎麦を好きな人も大勢いるのに!」とか「これだからパスタ厨はw」とか返すのって
なんだか恥ずかしくありませんか。
「普通のスイーツだと思って食べたら蕎麦粉が使われてて死にかけた!」という愚痴に
なんだか大人気なくありませんか。
誘ってもいないのに勝手に蕎麦屋までついてきて調理中の店主に「蕎麦は悪魔の食べ物だ」などと言いだしたら
「何を言ってるんだこいつは」と恥ずかしくなるでしょうし、
こちらが勧めた蕎麦を拒まず食べた挙句、倒れて愚痴られでもしたら
「無理なら断れよ!食べたのは自分だろ人のせいにするな!」と腹を立ててしまうかもしれません。
「蕎麦好きなのが正常」
「好き嫌いは甘え。我慢しなさい」
などとつっかかる大人には絶対になりたくないと思うのです。
誰かの「嫌い」は、本当にあなたの「好き」を否定しているのでしょうか。
私は蕎麦アレルギーの人をわざわざ蕎麦屋へ誘おうとは思いません。
そして自分も大好きな蕎麦を食べるのをやめなければ、とも思いません。
それと同じように、
あなたの好きと誰かの嫌いは、同じ世界の違う場所で共存できるはずです。
嫌いの主張はいけないことでしょうか。
※地雷についての説明のために、
住む世界が違いすぎる。
【追記】
自分は蕎麦屋に行っても基本的に呑まないし、だし巻き玉子を食べたいという感情もさして無いのに、なんでこのエントリ書く気になったんだっけ? ま、いいや。
最近、評判の良い蕎麦屋にあちこち行ったりしていたのですが、とある名店の客層は明らかに住んでいる世界が違いました。
平日の昼間だというのにみんな酒を飲んで最後に蕎麦で〆るというスタイルなのです。
大テーブルで相席なので、二種の盛り蕎麦だけ頼んでいる自分はなんとなく場違いに感じたものです。
ブコメより