はてなキーワード: 正論とは
朝9:00から受付を始める。診察券を出して、午後に診察
家がちょっと遠いので早起きをしないといけない。精神科は大人気なので出遅れると終日待たされてしまう。
大体9時過ぎに行くと15時ごろに来てください、と言われる。でも15時に来てもそこから概ね1時間は待たされる。
30分待たされる時もあれば3時間近く待たされる時もある ムラっ気がやばい。
なんせADHDなので、他の事に集中してると呼ばれても聞こえない。看護師さんの声に集中しないといけない。無我の境地だ。
呼び出す看護師さんは受付番号を言わないので、何番目の人が呼ばれてるのか全く見当がつかない。
何番目くらいですか、と聞くと順番にお呼びしています。と言われる。そりゃそうだよな。
いつ終わるかわからないけど無我り続けるしかない。ADHDなのでこれもつらい。出会って4秒で診察してくれ。
そんな感じでまんじりとしているとすごく疲れる。ADHDだからである。
すごく疲れてるのでもう診察を受ける頃はお医者さんと話す元気はない。なんでもいいから処方箋ください、みたいになってる。
そもそもお医者さんと話すのも疲れる。最近どうですか?と聞かれても何が?と思う。これもADHDの業である。何をどう答えていいのかわからない。摩耗した精神だと尚更わからない。
あと相談できる友達いないの?とか聞かれる。友達と連絡とってみなよ。なんで連絡できないの?ってめっちゃ聞かれる。
書き出してみると当たり前の質問だけど聞かれるとすごくつらい。これは鬱気味だからですね。
人と話すのめちゃくちゃハードル高いからそんな簡単に言わないでくれよ。ちょっとマテ茶だよ。正論ティーはマテ茶つってね。
この10分強の為に1日待たされた虚脱感に支配されつつ処方箋もらって帰る。
すごい疲れるけどしょうがないよなぁ。大人気クリニックだから診る先生も大変なんだろうなぁ。
イレギュラーなことが沢山あって時間通りに行かない事もザラなんだろうな。抱えてる悩みは人それぞれだから、診察に時間もかかるよな。
そもそも受付してから受診するまでの時間がマチマチなのは普通なのかなぁ。ADHDだから死ぬほど苦痛なだけで、普通の人は別になんとも思わないのだろうか。
果てしなく疲れたので受診した日はもう何も考えられないし何もする事が出来ない。とにかくコンサータ飲んで抗うつ剤飲んで明日からも頑張ろうな。
人間同士の間の権利の問題を解決することなく、動物の権利を主張するのは、今現在人権を侵害されている人たちから見れば、動物の権利を人間の問題に優先する人々とみられても仕方ないのでは?
うがった見方をすれば、動物の権利を掲げることで、人間の間の権利侵害から目を背けているのみならず、消極的にだが人間間の問題を解決しないことに加担している。
もっといえば、動物の権利という「正論」を掲げることで、どんな相手であれ論難することができる。
これが恣意的に行われれば、本来の人種差別的感情を糊塗し、「動物の権利」の観点から文化や価値観の違う人たちを非難することさえできる。
ヴィーガンはキリスト教的価値観がが崩壊せざるを得ない現代において、隠れた選民思想を秘めた新しい新無神主義という宗教に近しい思想ではないか?
自分にはピーターシンガーの思想は人間に対して恐ろしく差別的であると感じる。
ぶらさげとこう
久々にこっちで雑感。
ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。
いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格を描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスがたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。
本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭な性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるから分からなくもない。そういった経験から来る嫌悪感は普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。
安易な善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやすい悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合、言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。
「好きって感情はいいけど、嫌いって感情はダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画が打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画の顛末を踏まえた場合、逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフを安易に引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。
で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化しちゃうんだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなものを他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。
好きという感情を肯定する以上、嫌いという感情も肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定や否定は個人の感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間の本能だしね。だから私だって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いそのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。
そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚。
例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。
その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャル・アジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスをゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解な人間。「社会正義だから」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理が破綻してしまう。
とはいえ、そういった指摘をフィクションの世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我が袋小路に入ってしまうこともあるから、ちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範と一般社会の規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲームは本質から遠ざかっている。
そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定の作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分のツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画はもっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。
コメント欄がすごい。すごすぎる。
娘さんに今現在、どういう躾をしているかなんて一言も書いてない。厳しく体罰ばっかり与えてるなんて、一言も書いてないのに。
記事主が書いているのは、単に自分がされたように「マナー違反や迷惑行為をする場合は」厳しく躾けたい。それがどういう程度のものか。そこさえ詳しく書かれていない。
それなのに、この有様。
あのねえ、虐待がいけないなんて、わかりきってるでしょうよ。この記事だって、最初に大前提として、書いてあるでしょ。
読んだ?ちゃんと?
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これがね、例えば「今のニュースになってるものには躾の一環もあるだろう、今の世の中は厳しすぎる!」とかね、虐待を事実として認定されているものを、ただ否定してるだけならば「え、やばいですよ」ってなるのもわかる。
でもさあ、違うじゃん。
言い方、ほんとすごいよねえ。
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一般的に悪とされている、例えば今回は「体罰も悪とされている」という流れを汲んで、それに乗っかるのは馬鹿でもできる。
人間にはヒーロー願望があるから、そういう一般的に悪といることを叩くのは、自尊心も慰められるし、自分がいいことをしていると正義に浸れるから、気持ちいいんだよね。
娘さんかわいそう、とか。犯罪者の親の思考と同じ、とか。社会に出てこないで、とか。
あのさあ、もう一回言うけど、この人、そこまで言われなきゃいけないこと言ってる?
体罰自慢してるわけでもないよね。
それなのに、こうして、普通に考えたらひどいことを、酷すぎることを簡単に書く。
体罰=悪だから、私は記事主の子どものために言ってるから!だから、ここまで言うんだ!
…おかしいんじゃない?
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いいか、この記事だって虐待を容認してるわけじゃない。虐待する親はクソだ。
だけどね、今流行りの毒親はさ、「放任」だって当てはまるんだよね?躾をしないのも、また、悪なんだよね??
それは当たり前だ、子供は何も知らないんだから、指導されないのは社会から隔絶されてしまう。
でもそれってさ、子供によって変わらない?
言葉だけで素直に通じる子。
どんなに心を砕いても、丁寧に諭しても、こちらをバカにしてしまって、言葉がスムーズに伝わらない子。
そしてそれは友人や学校など、周囲の状況や、年齢による自我の成長によっても変わる。
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言葉がスムーズに伝わらない?そんな風に育てた親がいけないんだ!なんて言うなよ。
子供の性格は本当に千差万別。という大大大前提を置いておいても、人間は皆、完璧じゃない。
すなわち親も完璧じゃない。
だから絶対、指導漏れや間違った伝え方(や受け取り方)、こうしたほうがよかった…なんて後悔は絶対出てくる。誰だって。
それが認められないなら、完全無欠の子守ロボットでも開発してくれ。
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そういうね、いろんな状況があるわけだよ。
それを無視して、体罰を容認している?!こいつは悪だ!やばい、叩かなきゃ!って、ほんとさ…貴方達の方が、馬鹿なんじゃない?
どーせそうやって「厳しい子育て」を否定しててさ、今度はどっかののびのび育ったお馬鹿な子供が人殺したら、親なら殴ってでも止めろよっていうんだろ?
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この記事の目的は、虐待容認でも、体罰推奨でもない。のびのびとした子育てを否定するつもりもない。上にあるのは、例えです。どうせそうなったらそうなったでまた叩くんでしょ?人殺しは徹底的に悪だもんね?という。
私はね、安易な人叩きをやめなさいといっているの。
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それがどんなに正論で、善意の上に成り立っていたのだとしても。
内容を吟味してから、自分の中で、相手の立場でこの言葉を言われた時、どんな思いがするのか。どういう気持ちになるのか。
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娘のためにと心を折ってる、記事主に。
魔の2歳児って言葉、知ってる?
本当に大変な時期なんだよ。
そんな人に、ここまでの暴言吐けるほどの、
私はそんな記事には、思えない。
風見が降谷零の服選んでたくらいで炎上すな。
公式凸とかアホか
安室透のキャラと矛盾してるとかどうかで愚痴垢以外の人も文句言ってるけど、やめとけやめとけ
公安としてどうのこうのとか零くんのプロ意識がうんぬんとかもっともらしいこと言ってるけど、そんなんゼロシコでコナンくんに動いて欲しいから小五郎のおっちゃん逮捕した時点でガバガバじゃん
小1に本気出して欲しいから毛利家巻き込んだのはええんか。コナンくんの中身高2だけど。いや高2でも高2に期待する公安てやばいな
あと公安しかいないビルが爆発した時にテレビ映ってたのもやばない?
もっと遡ったら純黒で任務ほっぽりだして観覧車の上で赤井と殴り合いしてたとことか全然公安勤まってないよ
トリプルフェイスのスパイで犯罪組織に潜入してるのにSNSで炎上するくらい有名なのはええんか
降谷零の時も安室透の時もあんな派手な車乗り回してるのは大丈夫なん?
てな感じで今までの時点で安室さんのツッコミどころいっぱいあったじゃん。なんで風見が服買ってただけで炎上するのか
そもそもコナンて大筋以外いい意味でも悪い意味でも色々ガバガバじゃん
蘭ちゃんに迷惑かけたくないから正体黙ってるのに修学旅行にはウキウキで参加するし
新聞に載るくらい有名な高校生探偵が事件解決してたらSNSですぐバレるよね
生きてるのバレたら黒の組織に身内が狙われるかもしれない設定どこいってんて感じよな
でもそんなノリ含めてコナンじゃん
1話でジンとウォッカが仲良くジェットコースター乗ってた漫画やぞ
マジレスマンと言えばこのTogetterとかコメント欄含めてすごい面白い
https://togetter.com/li/1355894
服買ってるくらいでゼロティはキャラもっと大事にして!とか言ってるの見ると正直アホかと思う
そもそもコナンのキャラとか、描いてる内に色々設定足されたり性格変わってくのなんて常じゃん
映画オリキャラから準レギュになった白鳥刑事のキャラの変わりっぷりとかやばいじゃん
あからさまに差別的だったり政治色入ってきた訳でもないし、安室透の変化だけ受け入れられなくて文句言うとか普通にクレーマーだわ
いやお前のお気持ちの問題で今までの作品のカラーやノリ変えようとすんなてなるわ
もう単行本買うのやめる〜と言う嘆きをチラホラ見るけど正にその通りだよ。
25年くらい連載してて純黒でバズる前からずっと売れてる漫画だから多分文句言ってる層が買わなくなっても問題無いと思うよ。
公式に文句言わずにいられないメンタルだと買ってもストレス溜まるだけだしね。その判断は正しい。買うのやめとこ
あ、でもスピンオフのゼロティの方は安室透ファン狙い撃ちだからその層が買わなくなったら連載終わるかもしれない
ただ、メインキャラがほぼ全員男女カプな作品の中で安室さんだけそういう影ないのは、安室さん人気を知ってる側がガチ恋営業とか腐向け営業してるからだと思うので
その人気のパラメータを測るスピンオフが終わったら普通に営業も終わって後はいつもの流れで誰か相手出来てくっつきそう
パッと思いつく中で作中で生きてて異性の影ないメインキャラとかウォッカくらいだし
描写無くてもおじさんとかおばさんキャラにもだいたい配偶者いるもんな
いや書いてて思ったけどコナン世界の男女カップリングの成立率やべえわ
話逸れたけど今回の炎上もスピンオフが悪いんじゃなくて、自分の中の安室透像と公式がズレてるだけだよってことを言いたかった
正論ぶってるけど公式凸の内容「あーん!スト様が死んだ!」みたいなハガキ送ってるのとメンタリティが一緒だよ
青山先生が毎回すごく細かい拘りの赤ペン入れて監修してるゼロティを所詮スピンオフとか言うのもやめとこ
青山先生なら赤ペンに行く前に自分が納得行かなかったら例えスピンオフでも「安室はこんなことしない言わない」って普通に止めてくれるよ
今こそGOSHOを信じる時だよ
それでもどうしてもこんなの無理!ってなるならもう安室透や降谷零、コナンという作品から卒業する時が来たんだよ
「志望動機は良いので、あなたが働く本当の意義を5つ答えてください。」これは、とある企業の面接で唐突に聞かれた言葉である。このことを聞かれた際、一瞬頭が真っ白になってしまった。
本来ならば、頭が真っ白になったとしても単純に思い出す、というよりは腹のなかに溜まっているものを取り出すことができれば問題なく回答を続けることができた。できるはずだった。
「自分の知見を広げるため」
ここまでは回答が出来た。ここまでは良かった。(今考えれば「働くという行為の中でわざわざ取り上げる必要ある?」と返されているので全然良くなかったが。)
しかし、それ以上がどう考えても出てこなかった。
詰まりながら無理やり捻り出した言葉が「地域」「日本」という単語であった。
自分が仕事の内容自体は知っていても、それを数あまたとして関わる人たち、会社というものの具体化が出来ていないこと、頭の中での拙い想像でしか考えが出来ていないことを先の厳しい言葉で指摘されてしまった。
何を話し直そうにも、この事実が存在している時点で私の発する言葉は面接官には一言も響かない。
「考えが散漫している」
「自分で何でもできると思っているでしょ。そんなの仕事じゃないよ」
ただただ正論を提示されているだけなのに、半ばパニック状態になってしまった自分にはもう正常な思考が出来なかった。
せめてもの耐えとして表情だけは曇らせなかったが、もはやそんなことはなんの意味も為してないことは自ずより明らかであった。
思えば、自分というものなんて高々20年ちょっとの塵のようなものの積み重なりでしかなくて、そんなもの風が吹こうものなら一度になくなってしまう。
環境にはとても恵まれていた。助けられて、助けられてようやく大学に受かり、サークルで活動して、代表をして、勉強をした。することができた。
それなのに、知らず知らずのうちに「自分の努力だ」なんて励ましの言葉を鵜呑みにして、誇るようになってしまった。
「自信を持っていい」なんてなんて励ましの言葉を鵜呑みにして、尊大な人間になってしまった。
「傲慢」
暴かれたくなかった。
傲慢な自分を見透かされることではなく、「傲慢」という殻の中に何も残っていないような、それこそ芥子粒のような自分が見られたくなかった。
あぁ、就職活動がもはや何を意味しているかすら分からなくなってきた。
すれ違う人々、車内で隣に立つ人々が日々夢や目標に憧れているとは思えない。「会社辛い」「やめたい」なんて言葉が世に溢れているのだろうか。
何で就職活動では謙虚さを求めておきながらリーダー経験、特殊な経験を求めるのだろう。
矛盾しないはずなんだろうけど、そうなんだろうけど、若輩者にそんなのは無理だ。いや、自分が「ダサい」だけか。
「お祈り」はマッチングミスだなんて言葉があるけど、どうやら私は社会とマッチングミスしているみたいです。
何とかして手に入れた経験や体験を「面白い」「すごいね」と評価していながら「お祈り」する人たち。
だからと言って面と向かって否定なんてされたところで潰れてしまいますけどね。
心のどこかで「傲慢」を取り去れば上手くいく、なんて「傲慢」が私を覆っているのです。
自分自身で自分の経験を否定したくない「身の丈」が分からない「世間様」としては善いとされる学歴と経験を身にしたそんなものを自ら捨てられない捨てればいいって言うんだろうお前はそんな体力も気力も心も全部否定と「肯定」という名の否定の嵐ですり減って今にも倒れそうなんだ世間はお前のことをそこまで気にしていやしないと言うだろうだからってそれを観ているのは自分だそう感じているのは自分だそうだよ私は承認欲求がなければ生きていけないんだよ自己肯定感がないんだよ苦しいんだよ苦しすぎて逃げ道も逃げ道への逃げ方も足の踏み方も足の上げ方も全部全部全部見失ったよ
それでも悪いのはこの自分です。
今話題になっている
https://www.facebook.com/kitano.hiroaki.7/posts/2406933752704235
ただしこの議論の方法の問題点は、何もしないことの正当化に使われる事。大体、何かをしようとすると、「その前にやるべきこと」はたくさん見つかる。だからそれをやってからとすると、それを片付けているうちに、世の中は変わっていってします。それを続けたのが平成の30年だろう。
その危険性を感じるので、私はこの意見は正論ではあるが、それゆえに危険だとも言える。平成の間違いは繰り返したくない。多少乱暴でも進むべし。
言いたいことは分かるけど,
・やろうと思っても出来ないこと
が多すぎるから皆から顰蹙を買っているのではないだろうか・・・
個人的には,
「いまから教育をいじるといったって泥棒を捕らえて縄を綯うような話である。どんなに政府がイキったところで、教えられる教員が急に増える訳でもなく、中途半端な理解の教員がにわか勉強のデータサイエンス教育を学生に披瀝したところで、データサイエンス嫌いを量産することになりかねない。」
教員の問題は、指摘の通りで、頭が痛い。どうやって質の高い教員を増やすか??この政策の最大のボトルネックがこの部分だ。しかし、積み上げたのでは、またく話にならない数字しか出てこない。やれることを淡々とやったのでは多分ダメなのだと思う。
どうしようもなく追い詰められてる人間にこの言葉で迫るのはまじでやめろ。まあ俺は追い詰められてる人代表ではないから、他の人はどうかは知らんけれど。少なくとも俺はこの言葉を言われただけで、「ああ、こいつとは分かり合えない」と断絶を感じる。こいつに何を言っても無駄だと思ってしまう。
それは周りの人間からしたら、その人がどうしたいのかがわからないから出てくる言葉なのはわかるけどさ。追い詰められてる人間は何がしたいかなんてわからんわけよ。わかってたら追い詰められてたりしないからさ。
で、なんでそこまで追い詰められてるかを説明しなきゃ、どれだけ辛いかを周りの人間に理解してもらえないんだが、この説明自体が難しい。単純でわかりやすいきっかけがあれば説明もしやすいし理解もされやすいだろうさ。でも些細なことでも、長い間の積み重ねで心が折れることがある。それを「ちゃんと言ってくれないとわからない」なんて言われても、こっちだってどう説明しようかわからんし、そもそも心がくじけてしんどいところをどう説明すればいいのよって思う。
でさ、この間心療内科に行ったんだけど、行ったことを後悔したわけさ。ああ、結局理解されないんだなって。
そこでも結局何がしたいのって聞かれるわけだが、そんなの一言で説明できるかよ。うまく説明できるほど口が達者でもないし、口が達者ならここまで追い込まれてねえし。
でもさ、心療内科行ってみて得たこともある。俺が欲しかったのは寄り添ってくれる人なんだと思う。現状分析してアドバイスしたり解決策を提示してくれるような人はいらないわけ。もうこれ以上何もやりたくないのに、さらにあれをやりなさい、これをやりなさい、今のままじゃだめだとか、そういう追加のタスクを投げられても、すでに抱えきれない状態なんだ。死ぬよ。
俺自身は追い詰められてるけど、振り返ってみると逆の立場で「それはこうすればいいじゃん」とかアドバイスしてたことがあったし。そのアドバイス、相手は馬鹿だなぁ、そんなこともわからないのか、俺ってできる男、みたいな気持ちでアドバイスしてなかっただろうか。今の自分が強く思ってる「そんなのいらない」ということを俺自身がやってるわけさ。
「こうすればいいじゃん」ていう解決策はさ、追い詰められてる人間にだってわかるさ。わかってない場合もあるけど。でもそれを行動に移す気力がないわけよ。追い詰められてる状態の人間にさらにがんばれって言ってるもんだよ、それ。がんばれないからつらがってるわけじゃん。その状態が理解されないから追い込まれるわけじゃん。
だいたい「そんなのこれやるだけじゃん」と簡単そうにアドバイスをするやつは、現状を知らないから言えるだけというのを理解して欲しい。同じ立場・状況に置かれてその現状を実感した上でのアドバイスなら聞いてやれなくもないけど、そんなこちらの状況をまるで知りもせずにする上から目線アドバイスなんて、さらなるストレスでしかない。気分としては安全地帯から石投げられてる気分よね。
介護問題で悩んでる人に、それはもう施設に入れるしかないじゃんとかアドバイスするのは簡単だろうさ。でも、その施設に入るまでの間は何も変わらないわけよ。あんたが面倒見てくれるわけ? 違うよね。
老人が運転してた車で若い人が命を失う。免許を返納させろ、それをしなかった家族も同罪だなんて、無責任に言ってる奴ら。それだって現状を見てないわけよ。免許を返納したあと、その老人の世話を周りの家族が見なきゃいけなくなる。それどうすんのって視点が欠けてる。返納させればいいじゃんって言ったあなた、あなたが面倒見てくれるんですか? タクシー使えばいいじゃんって? そのお金はどこから出てくるのよ。タクシーくるまでの間、どうすればいいのよ。口でいうだけなら簡単なんだよ、それちゃんと実行できるの? 正論のつもりで言ってるのかもしれんが、それめちゃくちゃ無責任な発言だぞ。
・・・ああ、ちなみに。俺は介護で追い詰められてるから、老人に若者や子供の命が奪われる現状が憎くて憎くて仕方がないよ。老人なんて等しくこの世から消滅してしまえと思ってるよ。老人の肩を持つ気はさらさらない。自分のばばあ憎しから拡大して、世の中の老人全部が憎悪の対象だよ。
ただ、老人なんてみんな死滅してしまえと思うのと同じように、現状をよく知りもしないくせにアドバイスのような、その実相手を追い込めるだけでしかない呪詛をばらまく奴らも同じようにこの世から消滅してしまえと思ってる。
別にさ、俺の状況知ってるわけでもないやつに、なにかアドバイスしてほしいなんて欠片も思ってねぇよ。ただ話を聞いてくれよ。
とりあえず現時点で、同じ境遇に置かれてる家族と傷のなめあいして心を紛らわせてなんとか耐えてるよ。紛らわせたところで俺を追い詰めるものが消えてなくなるわけじゃない。本当にクソみたいな世の中だ。
ああ、気がついたら呪詛が出るな。すまんすまん。
まあこれで何が言いたいかって言うとさ、追い詰められてる人間、疲れてる人間にさ、「お前はどうしたいんだ、どうしてほしいんだ」って聞くときはさ、ちゃんと本人に寄り添ってからにしてやってほしいってこと。
本人がどうしたいのかってところはさ、すげえ大事な部分だし、それを聞かないと周りも何もできないんだけどさ。それを聞き出すのが第一声なのは、少なくとも俺はめちゃくちゃ傷つく。ああ、こいつには時間がないんだなって思うもん。そんな単刀直入にすぐ説明できるようなもんじゃないし、そもそも自分でもわかってないのに、開口一番それってことは、お前の相手してる暇ねえんだよってことなんだなって思うもん。ああ、こいつには理解されないんだなってその時点で無力感感じるね。
追い詰められた人間が自ら助けを求めに行くのって、めちゃめちゃハードル高いの。そんなのが簡単にできるのであればそんなに追い詰められてないだろうしね。
それでも助けを求めに来たときは、まずアドバイスじゃなくて話を聞いてやってくれ。溜まりに溜まったものが渦巻いてて、本人はどこからどう話したらいいかよくわかんない状態だからさ、急かさず、ただそばにいるだけでいいさ。お前の話はしなくていいよ。ただ本人のそばで、うんうんって聞いてやってくれ。それだけでだいぶ救われる。
絶対に、そのプロセスを飛ばしてアドバイスなんかしないでくれ。ああ、やっぱり何を言っても無駄なんだ、伝わらないんだって絶望感しか残んねえから。
何がしたいのか、どうしたいのか、ってのはとても大事なこと。追い詰められてる本人には見えてないもんだからね。だからどこかのタイミングでそれを切り出さざるを得ない。でもそれは、どっちかっていうと、追い詰められてる人と一緒に見つけるくらいのスタンスでやってほしいのよね。まあそれができりゃ誰も困らないんだけどね。
追い詰められてる人に対してもなんか書いとくかね。
とりあえず、貯め込むのだけは良くない。絶対に良くない。これだけは間違いない。だからどこかに吐き出すのだ。吐き出す際、王様の耳はロバの耳方式が良い。返信を期待しないところに吐き出すのが一番だ。何も解決しないけど、溜め込んだものを吐き出すのは大事だ。
増田に書くのもいいし、怪文書としてマスコミに送りつけるとかでもいいんじゃない、知らんけど。誰に見せるでもなく、紙に書き出すとかもありよ。吐き出せ吐き出せ。
そんなことしたって何も解決しないけどさ。少なくとも頭の中でぐるぐるぐるぐる悪い感情がループしてるのからは気が紛れると思う。
誰かに助けを求めようとする人は偉大だ。追い込まれてる状態なのに、拒絶されるかもしれない・理解されないかもしれないという恐怖を抱えながらも、助けを求めに行ける君はすごい。俺は尊敬するね。
君はどうかはしらんが、俺はようやくわかったよ。アドバイスがほしいんじゃなくて、現状を理解してもらいたいってのが俺のしてほしいことだってね。だから理解されないかもしれないけど、助けを求めに行動をすることにも意味はあるとは思うよ。そのせいでさらに傷つくことになるかもしれないけど、そこから見えてくることもあるかもしれない。
まあ悩みの大本がさっさと消えてなくなってくれるのが一番なんだがね。
知人の話なんだけど、長く子供ができなくて不妊治療してたときに夫が途中で嫌がってたのを無理くり協力してもらって何とか妊娠した。
で、多胎児だったのをいろいろやって何とか双子ってことにして出産したんだけどやっぱある程度年齢高いのもあって結構大変らしい。
そこで夫に協力を求めると「お前が欲しがったんだから愚痴をこぼすな」「お前が欲しがったんだから責任もって見ろ」というふうに言って結局ほとんど協力してもらえないらしい。
確かにそうなんだけど、それを正論みたいにしてもう数年たってるのに全然子育てに興味示さない男ってなんだかなあって気がする。
知人、なんかよくないことしなきゃいいけど。
オリンピックの代表選手は日本の威信を背負って出場するんだよね。
オリンピックってのはそもそも「スポーツの競技会の集合体」ではなく、
国と国が戦争をする代わりにスポーツというルールを使って争う、という側面があるんですわ。
その辺をきちんと学校教育で教えず一般的に理解できてないから、
さも正論かのように述べる人がいるわけですな。
国と国が戦う場に国の代表選手が行って戦うわけなので、その国民が応援するのは至極当然な流れですし
そういう応援を受けた代表選手が応援に対して感謝の意を述べるのも至極当然な流れでしょう。
こういう側面に気が付けるくらいにはよく目を開いて世の中を見るべきだと思いますが