はてなキーワード: 意図とは
だよね、そこだよね。
別トラバに書かれてた「森の中でわざわざ女の前に現れる男と、森の中でわざわざ女の前に現れる熊、で比較しないと意味ないでしょ」が、たぶん最大の前提条件の食い違いだと思う。
そちら側に寄り添ってより明確にするなら、
「過去の日本国内で実際に起きた女性1万人分の 、山の中の獣道での、森の中でわざわざ女の前に現れる男性との遭遇経験」と
「過去の日本国内で実際に起きた女性1万人分の 、山の中の獣道での、森の中でわざわざ女の前に現れるクマとの遭遇経験」とを比べるべきかもしれない。
この場合、山菜シーズンみたいなのを排除して、本当に人里離れた遭遇経験となると、本当に事件性のある少数事例しか残らない気もするけど。まあ方向性としてはそういう話なんだよね。
とは言え、クマのほうがマシでしょ派の多くは「完全にランダムにピックアップ」に近い条件を想定してると思うよ。そこ明確にするだけで、だいぶ違うと思う。
これは大元のツイート(?)の意図とは別に、クマ派がどう解釈してるかっていう話なので、クマ派が大元ツイートの意図を正しく把握してないのがけしからん、みたいな議論はまた別の問題としてほしい。
んで、「森の中でわざわざ現れる」の場合は、男性である私でさえ、どっちもめちゃくちゃ恐いよ。論点はズレちゃうけど、男性である私の前にわざわざ現れる、しかも人里離れた森でってことは、強盗とか怨恨(身に覚えはないけど!)とかで殺される可能性、十分高いもんね。クマなら(男だからこそなおのこと?)死を免れてどうにか追い払える・やり過ごせる可能性もあるし。
退職金ゼロにする奇策が全国自治体で横行 非正規公務員5.8万人、勤務が毎日15分短いだけで「パート扱い」
非正規の地方公務員には退職金を払いたくない? 全国の自治体でそんな観測が浮上している。退職金の受給資格があるフルタイム非正規より1日約15分だけ勤務時間が短いため、受給できない「パート」が約5万8000人いることが国の調査で判明したからだ。専門家は「自治体が恣意的に勤務時間を短くしているのではないか」とみている。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/325889
171人いる東京都内の自治体は「施設の運営時間や窓口の開設時間などを考慮した」とした。退職金を払いたくない意図があるかを問うと、いずれも否定した。
しかし非正規公務員に詳しい立教大の上林陽治特任教授は「パート化が進んでいる状況をみると、退職金の支払いを逃れるために自治体が恣意的に勤務時間を短くしている可能性が高い。フルタイムにして国が退職金の予算措置をすべきだ」と強調。「
ITとかテクノロジーと縁がないと人間って土人のままで一生を終えるんだな
せこすぎて草
ASD男性でも、彼女がいるなら問題ないという人は考え直してほしい
雰囲気がわからないことをはじめとして、利用されていることに気が付けないこと、相手の立場に立つことができず傷つけてしまう苦しみ
大切にしたい関係性を壊したあとの、声にできない悲しみを聞いてほしい
むろん彼女がいないこと、異性から求められない苦しみは甚大なものだ。
それはとても深刻な、自分の尊厳や魂が傷つけられるような、深い飢えと絶望なのだと思う。
それに比べればこの苦しみは恵まれていると考えたことも何度もあった。しかし、好意を持っている人を傷つけてしまうことは、これもまた悲しいものだ。
発する言葉と意図が違いすぎるのだ。「大丈夫だよ」という言葉は大丈夫ではないし、「怒ってない」といえば確実に怒っている。「プレゼントのお返しはいらない」と言ってもお返ししないといけないし、「一人にしてほしい」と言うから放置したらさらに機嫌が悪くなる。
言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの差が大きすぎる。ふざけんな。毎日ブービートラップをかいくぐっているようだ。
「女なんてそんなもん」といわれることも多々ある。というかそういわれた記憶しかない。面と向かって言えないがめんどくせえ。男女の関係に合理的配慮なぞ存在しない。
考えても考えても、自分の持つ全ての知見を総動員しても至らない。そりゃそうだ。一番大切な情報である「相手視点」が欠けているわけなんだから。クソゲーだなってよく思う。
ゴミみたいだ。どれだけ強く想っても相手になんて伝わらない。傷つけて後悔して謝って、原因に気がついたころにはもういない。部屋に浮かぶ面影を見つめながら、懐かしむことも悲しむことも、僕にはできない。
車両中ほどが空いているにもかかわらず、手前で立ち止まる乗客の存在だ。
彼らは自らが車両中ほどに行くことを頑なに拒むばかりか、他の乗客が中ほどに進むことを阻む。
私は彼らを「蓋」と呼んでいる。
黒の完全ワイヤレスイヤホンを装着しており、ノイズキャンセリング機能のためか他人の声に決して反応しない。
不思議なことに、「蓋」は近くの駅で降りるわけではない。
長い距離を乗り続け、その間、周囲の乗客たちの動きを制限しているのだ。
私は違和感を覚えた。
これは単なるマナーの悪さではない。
何か意図があるのか?
次第に疑念が募っていく。
「蓋」は本当に単なる通勤者なのか。
それとも都内の公共交通機関に何らかの影響を与えたい組織の一員。
あるいは都民の生活に不快なものにする意志を持つ秘密結社なのではないか。
その謎を解明すべく私は京浜東北線の奥地へと向かった――。
この文章でもなんか適当なこと言ってるだけで何も考えてないのが見て取れる。
性差を助長する表現があって、それが男性の生きづらさに繋がってるとか考えたりしないの?
もしそういうのがあったら教えて欲しいし、尤もな内容であれば連帯するよ。
尤もな内容であれば連帯するって話だと、結局自分に都合のいい奴にしか連帯しない。
すでにそういうことを各自でやってるのが現状で、それでは君は満足してない。
弱者男性だからブルアカ好きだけど、元々セルランではマイナー寄りのゲームだから持ち上げる意味も分からん
女人気が高いゲームで日本産じゃないからジャップオワコンと言いたいがために持ち上げてるリベラルな人達が大量にいる
あのCMの意図は「あれらの楽器や道具がすべてあの薄いiPadに詰まってますよ」というものなわけで、
つまりAppleが言いたいのは「iPadには価値のあるもの(=楽器や道具)がたくさん入ってます」でしょ。
催眠商法(密室に人集めてサクラ仕込んで、判断力鈍ってる人に売るやつ)に、意図せずして状況が似てるなと思った
「こんなかわいい子たちまで好きなんや」って「好き」の根拠の強化になってそうや
「実はおれ魔法少女と告げる雪」
俳句としては「「実はおれ魔法少女と告げる/雪」」と二つの流れに分かれるね。
意図したかどうか分からんが、「告げる」で切れが来ている。季語を「雪」にしたのは良いチョイスだ。おふざけで詠んだのかもしれんけど、これわりと俳句になってるよ。分かち書きしてないのも良いね。俳句っぽい。
「実は」と「告げる」からすると、これは秘密にしていたことを誰かに告白する/し終えたっていう場面だと想像できる。そういうことを人が多いところでやるのは考えにくいから、真っ先に思い浮かぶのは、「おれ」と告白する相手との二人きりの場面だよね。人気のない場所、人気のない時間帯だろうか。昼間の冬枯れの雑木林だとか、夜の静まりかえった公園だとか、そういう寂しげなイメージがある。
「雪」は、降っているだろうか、それとも積もった雪のことだろうか。それは読み取れないけど、雰囲気としてこれは動きがあって欲しいから降っているところを想定しよう。秘密にしていたことを告白した瞬間、打ち明けられた側は驚きで一瞬動きが止まるのではないだろうか。その「静」と雪の「動」が重なってくる。そして「おれ」は、告げた事実に対して相手がどういう反応をしてくるのか、「静」の時間の中で固唾を呑んで待っているのだろうな。じっと待っている中、視界の中でちらちらと雪が舞っている。時間が止まった二人と、動き続ける雪。もしかしたら「おれ」は、「静」の時間を迎えて初めて雪に気付いたのかもしれない。それまでは、秘密の告白に意識が集中していたとも思えるから。そうやっていろいろ想像が出来るね。
今のは、告げた後の解釈だったが、告げる前だとしたら、いよいよ秘密を告げるという緊張感の中、心臓も早鐘を打つようになる中で、ふと雪に気付いたということだろうか。秘密を持っていたという後ろ暗さに、白い雪が被さってくるという対比にも読み取れるね。
そしてもう一つ。「秘密にしていた期間がある」ことが想像できるということは、相応の期間、「おれ」は秘密を打ち明けるべきかどうか悩んでいたのかな、という想像もできるわけだ。その期間の長さ、思い悩んでいた時間の長さの「重み」も、言葉としては書いてないけど感じられる表現になっているのがとても良いね。俳句にはスケール感(より大きなものを、短い中で表現すること)も大事なんだけど、時間的なスケールの大きさ(長さ)を感じるよ。
隠していた秘密が魔法少女だというのはアンリアルな事象なんだけど、実は案外この「句」の中では効いてる気がする。「おれ」はまず男なんだろうけど、それが魔法「少女」という二重になったアンリアル感。それを句の中ではおふざけなしに告げている。全体が俳句として成立しているからこそ、そのアンリアルさが「なんの冗談だよー」からの「え……マジなやつ?」という反応を想像させ、それが上で書いた「静」の時間とも繋がっていくと思う。
(俳句を客観写生と定めるならこのアンリアルさはアウトなんだけど、ここでは固いこと言わないどく)
よくぞ最後の季語を「雪」にしたなと思う。だから映像にフォーカスできてる。「冬」とかの時候にしてたら、映像や情景ではなく、告白した「おれ」の体験や状況や心情にフォーカスされてしまうので、それだと俳句としては「心情入れすぎ」なものになってしまったんじゃないだろうか。雪だから俳句になった。
映画のワンシーンみたいな、演出された映像、情景に感じられるので、自然に発生した情景ではない分、俳句としての評価はどうかなと思うけど、俳句か俳句じゃないかといったら、俳句だと思うよ。
いまさら何を言ってるんだ。
そもそも、第二次大戦後に連合国が憲法で日本に戦争を禁止したのは、日本人絶滅を企図してのもの。
それに抗って日本人の種の保存を図ったのが自民党の改憲派だったんだよ。
しかし意図せず国外勢力の手先となったパヨクによってこの果敢な挑戦は粉砕され、斯くして日本人は百年かけてジワリジワリと絶滅への道を歩み始めてしまったわけ。
どうせ女性専用○○が流行ってた時代に、ガルちゃんのブクマバージョンみたいなのを作られただけのことを、「女性叩きが多いから作られたんだ!」って被害者ぶって男叩きしてたフェミ腐女子の妄想を既成事実にしてるんだろうけど。
もしそんなものがあったとして、実際の制作者の意図は、「そうやって女が被害妄想だけで男叩きして荒らしてるから隔離したい」って理由の方がありそう。
本当にお前は、お前らは頭が悪いよな。
あるいは、そのフリなのか?
搾取の問題としてより深刻なのはさ、「貧乳」が「貧乳」として愛でられてるところだろ? それが搾取って言いたいんだろ?
毎回毎回その視点がないんだよ。お前らは。ただただ男を馬鹿にして気持ちよくなってるだけ。
高身長じゃないチビ短足で不細工な君にも価値がある!可愛い!かっこいい!興奮する!
そういう「マイナスを良きものとし、ネタにし、作品として消費される」描写じゃないと、ミラーリングにはなりません。
でも、そうなると男は文句を言うか?=その描写に嫌悪感を抱くか?
答えは違うよね。なんでかな。
むしろ上記のように「高身長じゃないチビ短足で不細工な君にも価値がある!可愛い!かっこいい!興奮する!」なんて言われたら気持ちよく摂取されちゃうよね。
ここで俳句の解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアルで相談した方がいいよ。
…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト(文脈)に依存する芸術だからだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力をもつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会(特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。
それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和の俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。
「ここで昼餉(ここでひるげ)」
初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わずか17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこちの公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。
ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)
「真赤な夏の/花佇つゆゑ」
最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初ののんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。
もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。
一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くその花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ、向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任に適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的に楽天的で天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。
二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかったからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから、人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈・深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩、創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反の用字である。
結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。
そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的な俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的に俳句はもっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語+感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用に物語調で独特だ。一般的な俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか。
まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。
特に、生成AI運用者が開発の実態や利用者の実態を無視して「(他は知らないが俺は)クリーン」を謳う欺瞞的商法を指す。
無断学習(生成AI開発工程においてデータ提供者の許可を得ないまま利用する行為)は、元々は著作権侵害行為だったが、2018年の著作権法改正でなぜかAI開発だけ引用要件が大幅緩和され無断学習は合法化された。過剰な特定産業優遇としての無断学習合法化をアンフェアと感じるデータ提供者が多い。
後述する脱法ビジネスは、データ提供者の才能や業績に依存しつつデータ提供者と直接競合するビジネスを運用するパターンが多い。このような脱法ビジネスを許したきっかけである無断学習合法化をアンフェアと感じるデータ提供者が多い。
生成AI開発工程において海賊版サイトのデータを利用した事例が報告され、非倫理的だと批判された。生成AI開発の際に利用したデータを公開する義務は開発者にないため今でも利用され続けているのではないかと疑惑を持たれている。
生成AI開発工程において児童虐待画像(児童ポルノ)を利用した事例が報告され、非倫理的だと批判された。生成AI開発の際に利用したデータを公開する義務は開発者にないため今でも利用され続けているのではないかと疑惑を持たれている。
生成AI運用者がクリーンなサービスを自称する場合、クリーンとは「日本の改正著作権法に照らして合法」を意味し、上述したアンフェアな無断学習問題については無視していることが多い。消費者の技術的無知に漬け込んだ欺瞞的広告だと指摘されている。
新聞記事要約AIは、完全に合法であるが、新聞社のコンテンツにフリーライドしながら新聞社の営業を妨害する悪質なビジネスだと指摘されている。
有名声優の声を真似る声質模倣AIは、完全に合法であるが、声優の才能や知名度にフリーライドしながら声優の営業を妨害し名誉を毀損する悪質なビジネスだと指摘されている。
有名絵師の画風を真似る画風模倣AIは、完全に合法であるが、「消費者は画風に価値を感じているのに画風は法的保護されない」という法律のバグを突いた悪質なビジネスだと指摘されている。
生成AIの3店方式はビジネススキームの悪質性を指摘したものであるが、それとは別に、生成AIを用いた犯罪についての懸念もある。
具体的には
が問題視されている。
ふっくらすずめクラブがリニューアルをして早くも1ヶ月以上が過ぎた。
これまでのふっクラを眺めてきて、率直に思うことを書いてみたいと思う。
まずはじめに、私はふっくらすずめクラブに対して元々そんなにいい感情を抱いていなかった。
オモコロチャンネルが軌道に乗った所で、姉妹チャンネル?として大々的に始めた第二のバーグ社員のチャンネル。
率直に言うと、オモコロチャンネルに比べてパッとしない面子だと思った。
まあでもそれは仕方ない。一軍はオモコロチャンネルに集められているのだから。それに動画になったらまた違う良さがあるかもしれない。かまどがオモコロチャンネルで無茶振りされる苦労人として輝いていたみたいに。
そう考えながら視聴したふっくらすずめクラブは、あんまり面白くなかった。
メンバーのオモロへのシナジーもなく、ツッコミもなんだかギクシャクしており、おまけに編集のクオリティもオモチャンに比べてあからさまに低かった。
企画だけならオモコロチャンネルよりよっぽど面白そうな物が多かったのに、パッとしないやり取りでぼんやり進んでぼんやりと終わっていく動画たち。この企画オモチャンでやったらかなり面白そうだなって何度も思った事がある。
今日のオモチャンつまらなかったなと思っても、ふっクラを見るといやこれよりは面白いなと思える。要するに私にはふっクラはあんまり合わなかったのだ。合わない物は仕方ない。
私にとってふっクラは、気が向いた時にたまに見て相変わらず面白くなりそうであんまりならないなって思う程度の存在だった。
そんなふっクラも、ほのぼのして仲良しで好きと言ってくれる独自のファンを獲得し、オモコロチャンネルのコネをフル活用して、低空飛行ながらもじわじわ成長していった所で例の騒動は起こった。
ただでさえうっすらつまらなかったふっクラが、どストレートにめちゃくちゃつまらなくなってしまったのだ。
4月1日のいう日付、週2からいきなり毎日投稿宣言、あまりにもあんまりな改名、露骨に安っぽくなった動画のクオリティ。きっとこれが合わさってのモキュメンタリー騒動だったのだろう。
私はモキュメンタリーなわけねえだろと思ってはいたが、かと言ってモキュメンタリー派を馬鹿にする気にもなれなかった。
だって、何の意図もなくただ急に好きなチャンネルの全てのクオリティが下がるなんてあまりにも残酷すぎるだろう。
モキュメンタリーって言い出した人たちも、ただふっクラを信じたかっただけだろう。いくらふっクラでも、ここまでつまらないのにはきっと意味があるはずと思いたかっただけだろう。
ふっクラになんの思い入れもない私ですら引いたくらいだから、ファンからしたら相当ショックだっただろう。
ふっクラだからいや純粋に滑り散らかしただけだろと冷静になれただけで、オモチャンが同じようなリニューアルをしたら私もモキュメンタリー説に縋っていたかもしれない。そのくらいには酷い有様だったと客観的に見て思う。
お気持ちがどうこう繊細だなんだとかファンが叩かれてたけど、そりゃ騒ぐだろあんな惨事になったら。穏やかに全てを受け入れろ、嫌なら静かに去れなんて無茶だろう。
逆に騒ぐのがおかしいって言ってた人達は会社にしか友達がいないをいいと思ってるの?マジで?どさくさに紛れて気に食わないファン層叩きたかっただけでは?
まあ感性は人それぞれなので(旧ふっクラが好きってのも個人的にはマジで?って思うし)そこは仕方ないけど、騒いだおかげで会社にしか友達がいないがふっくらすずめクラブに戻ったんだから、今回に関しては騒いで正解だったんじゃねと思う。
だって本当にろくでもないし。会社にしか友達がいない(笑)。大喜利で「嫌すぎるYouTubeチャンネル名、なーんだ?」ってお題の回答として出しても違和感ないレベルじゃん。
ふっくらすずめクラブがいいチャンネル名なのか?って言われたら別に…とも思うけど少なくともうわぁ…とは思わないからなあ。その差はでかい。
あんまり好きじゃないはずのふっクラにこんなつらつらと色々お気持ちを書いてしまったので、なんだかんだで私はふっクラに思い入れがあるのかもしれない。この感情がかまどの言う落語なのだろうか。わからん。
オモコロチャンネルにこんな長文書く気一切おきねえもん。だってオモチャンは面白いから。週5で面白くなるって言って、今の所本当に面白いから。
方向性を全く変えずに数だけ増やした。これこそふっクラの行くべき姿だったんじゃないだろうか。今の動画なに?内輪受け特化に舵切ったの?なんで?それで人気出るほどメンバーに華ないだろ。
YouTuberである前に会社員だし、動画なんて裏方の存在もかなりでかいから内部で色々あったのかもしれないけど、それにしたってあんまりだろう。
最後に、改名が滑ったとふっクラ側は認識しているっぽいけど、それは違う、全てが滑ってたから炎上してあんな露骨に再生数下がってんだぞと言いたい。