はてなキーワード: 媒介とは
ある大学生と一部の人の「中流階級」という言葉の定義の違いからその大学生のTwitterが小さく炎上している。
その学生は東大学部入学式の祝辞と今年の入試の現代文の文章を引用し、自分が恵まれていたことを振り返っている。
その際、自分の生まれが東京の中流階級であったという発言をし、その後の恵まれていた環境が多くの人の中流階級の定義から逸脱するようなものであったため、炎上している。
その後学生は自分の定義として社会学者の定義を引用し、批判の一部を反論を述べず晒しあげ、同調する人にのみリプライをした。
また、リプライの表示設定をよりプライベートなものにするという提案のリプライに賛同している。
以下ではこの件について意見を述べる。当該学生を攻撃する意図は全くない。むしろ私がハラスメントを受けているようにすら感じている。
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祝辞と現代文で扱われた文章のメッセージについて、今回の話に関係する範囲については、次のように捉えている。
祝辞、努力したら報われるという思考は恵まれた環境で育ったからこそ与えられる。それを忘れるな
入試の文章、現代では教育を媒介として格差が再生産されるが、その仕組みは一見平等に見える
当該学生は自分が恵まれていることに自覚的であることは重要であると解釈して、その旨を説明していると私は捉えているが、
多くの批判は学生が自信を表現した「中流階級」という言葉の定義の差から生まれているようであった。
言葉の定義の差なので当該学生のツイートになんら誤りはないが、学生が世間知らずとして批判されている。
祝辞や入試で扱われた文章から多くの人が連想すると考えられる、一部のインテリの自分の努力への自信や他者への誇示(努力マウンティングと呼ぶことにしている)の原因として、
世間知らず(自分の社会階層での位置を知らない)が強い要因であることは間違いないと考えられる。
学生の「中流階級」の定義の引用元については、おそらく20年以上前の社会階層を元に定義されていて、
現在の社会改装で「中流階級」を定義し直せば世論を反映するような、全く異なるものになるであろう。
ここ20〜30年程度の中流階級の喪失などはインテリなら一度は耳にしたことがあるだろうし、それを想起すればそういった使い方はしないだろうが、学生は知らなかったのであろうか。
学生が後からツイートで定義を付け足す様子は強引に見えるし、本来なら世間一般の定義を用いるべきであろう。
もし私が祝辞や入試問題の背景、さらに当該学生の意思を正しく捉えられているなら、
当該学生はまさしく祝辞や入試問題の背景にあるような世間知らずのインテリなのかもしれない。
また、中流階級の喪失がインテリの「世間知らず」をさらに加速させるのは明らかで、この不適切な定義の使用も皮肉なものであるように自分には感じられる。
「現代の著名な社会学者」という、内容ではなく発言者の権威で自分の主張の裏付けをとるような引用の紹介も、一応理系であった自分には不適切に感じられる。また、自分は学生より無知であるのは強く痛感しているため、むしろ小馬鹿にされている印象も受けた。
批判のツイートを、(裕福な家庭に生まれ、ゆがんだ社会構造の下で集められた税金で提供される高度な教育を受けた人間が当然義務を有すると考えられる)
理論的な反論をなしに、感嘆詞のみで引用リツートしているのも、意地悪さを感じてしまい、憤りと悲しさを覚える。
加えて、不愉快な批判リプライを表示しない設定を勧められ、その実施を宣言している。議論を放棄しているようだ。
こういった態度が、インテリへの不信感を生み、民主主義における反知性的な政治家の台頭を助長しているのではないか。
自分はこの20年ほどで先進国、特に日本やアメリカでは富裕層と貧困層の分断が進んでいて、それが人類の次なる悲劇に繋がるのではという悲観論を持っている。
そのためインテリによるこの分断を促進するような発言を強く嫌っている。
また学生の炎上に対して、学生を励ますようなツイートも見られ、それらの多くは学生の元々の認知の差について言及せず、嫉妬は放置しろなどといった態度も見られる。
自分の判断する限りそれらのツイート主も、分断の上側に属しているようだ。
このような分断を感じさせるやりとりを以前にも見た記憶がある。東京大学ミスコンテスト(東京大学でこのような催しが未だに行われているのは理解しがたい。ブサイク・ブスで東京大学に勉強をしに来ている学生の気持ちを考えて欲しい。テニスサークルの男女差別より遥かに重要性が高いと思う)の候補の学生があまりのハイスペックに炎上した(のだったと記憶している)際に、多くの東大生が、嫉妬は気にすんなよとリプライしていた。
また、学生はこういったツイートをすることで自分が努力をしていないと考えらえるのは嫌と感じるとしている。
私が例の入試の現代文の文章を読んだ限りでは、努力の因子も環境から与えられるため、努力やその能力は他人に対して優劣をつけるものではないと解釈できる。
ただ、私が文章を読んで思ったのは、負の環境も努力に正に働きかけ、しかしその中での努力は精神的に相当な苦痛を与えるであろうから、その苦痛の中での努力に対しては同情的な賞賛を送ることができるかもしれないということだ。
もちろん私はアメリカの素晴らしい大学院に合格していないし、勉強も全くしてこなかったため、私の推測は間違っているだろうし、推測も論理構成も正しくても、私は誤っているだろう。
なお、学生に対して、嫉妬は気にせず頑張れよなどとリプライを送っている人々に対しては、
私の考える範囲では、インテリに限り、どうして批判が殺到しているのかを理解していない場合は愚かだし、理解している場合は指摘するべきだ。
一応自分もこういった人たちと同じような大学を卒業しているが、こういった発言をインターネットで衆目の前で行う人間と同じ大学卒としてラベリングされるのは非常に苦痛だ。
なお、私は中流と下流の間くらいの家庭(過小評価している可能性は多分にある)で育ち、貸与・給付奨学金を利用しながら大学に通った。
経済的な理由で、家族の泊まりの旅行が5年に1回程度しかない家庭だ(海外旅行は20年で1度だけあった)。
進学実績のある高校に入学した時も、裕福な家庭出身の学生の多さに驚いたが、東京大学に入学した時の驚きはそれ以上であった。
裕福な家庭出身で、仕送りを沢山もらって一人暮らしをしていたり、お小遣いをもらいながら実家から通っている学生が多くいるように見えた。
彼らと同じように青春を謳歌しようとしたが(当時の自分はサークル活動や恋愛へのコミットに強迫観念を抱いていた)、家事やアルバイトの手間が多く、勉強がおろそかになった(文章から滲み出る頭の悪さからご理解いただけるだろう)。
理系だったので学年が上がるにつれ忙しくなり、しかしついぞ一度も集中して勉強することはなかった。
牢獄とも呼ばれる三鷹(場所が悪く通学時間が長い)にある大学の寮で、裕福な学生に対する嫉妬や自分の惨めさを日々感じていた。
都内の一等地に住む学生から、前年度に親が休職していたため、授業料免除の収入基準をクリアすることができた、と聞いた時には本当に気分が沈んだ。
就職活動においても、裕福で勉強に集中し、高い能力を身につけた学生に幾度となく遭遇し、格差を実感し、嫉妬と悲しみを覚えた。
貧しさが原因で、留年したり、退学したり、失踪したりする学生を何人か見た。例えば貧しい地方出身の学生が、家事やアルバイトをこなし、貸与・給付の奨学金を適切に申請し、その上で勉強に集中するのは、私には非常に難しいことに思える。
炎上した学生は違ったようだが、私にとって東京大学はまさしく教育を媒介として格差が再生産されていることを強く教えてくれる場所だった。
GDPが世界3位の資本主義国家の、最も優れた大学である東京大学は、当然教育を媒介とした格差について詳しく調査し、国内外に発表する義務があると思う。
私が知らないだけで、学生にアンケートをとって学生の家庭の親の年収や資産を調査したものなどが公表されているのだろう(道義的に公表しないはずがない)(追記:公表されていました(https://anond.hatelabo.jp/20200304112604]))。
多様性を謳い女子学生の増加に日々努めている東京大学は、私が知らないだけで貧困な家庭で育った学生の増加にも日々努めているのだろう。
(本件とは関係ないが、現役の東大生が東大における女子学生の少なさと貧困について考える にて女子学生の少なさと貧困が語られている。私の推測では、東京大学では学生の家庭の経済状況の分布が性別でかなり異なっている。私より貧しい家庭出身で、在学中苦しんでいた男子学生を私は何人も挙げられるが、女子学生については1人も思いつかないのだ。(追記あり))
一部のコメントへの返信
美醜以外の要素でも争っていると思いますが、賢さは争っていないように見えます。
でも格差が再生産された結果大学に入れずキモくて金のないオッサンになってしまった人は自己責任であると決めつけ叩いてもいいんですよねわかります
そういう自己責任論を否定する理論が、祝辞や現代文では展開されていると捉えています。
ID:IthacaChasmaって奴は鶏並みのバカなのかな? この増田はこいつみたいな奴に対する批判に読めたけど。 https://b.hatena.ne.jp/entry/4682255784618895810/comment/IthacaChasma
元記事を読みましたが、大学入試が才能と努力量の掛け算の下で公平であること、また格差を生み出す元であるより良い教育を得るため頑張る価値があることは間違いではないと思います。
しかし入試で求められる才能(努力できる才能も含め)、努力できる環境の全人口への配分は明らかに不平等になっています。
東大生の親の資産を調査したものがあるかどうかは分かりませんが、世帯収入については学生生活実態調査で調査されているのでリンクを貼ります。議論の参考になればと思います。
ご教示いただきありがとうございます。こちらの資料(学生生活実態調査(2018年))
の39〜42ページに出身地や世帯収入、家計支持者の収入が、男女別も併せて記載されていますね。
このようなデータがあることを知らずに上のような言及をしてしまったのは間違っていました。
東京大学は入学した学生の貧富の調査・公表を私の価値観の範囲では正しく行なっています。
世帯収入と出身地について、2007〜2008の間に特異的な変化があるものの(リーマンショックの影響でしょうか)、基本的にはより裕福な学生、首都圏に住んでいる学生が増えているようですね。
特にその傾向は女子で顕著であるようです。そういった傾向を反映してか、東大が以前に女子学生向けの住まい支援の施策として新たに「月額家賃の一部を補助(月額30,000円)」を実施していました。
当時の私としては、その傾向を理解できてはいたのですが、それはすなわち男子学生の方が在学中に貧しい生活を送っていることを意味しているため、非常に悲しい気持ちになりました。
努力のできる才能を持ち、努力のできる環境で育ったような特に恵まれた人間には、勉強をする義務があると考えています。そういった人間の不勉強については反射的に批判してしまうのですが、もしかしたらその態度は間違っているのかもしれません。
個人的には2/3で全てのイベントの提供を辞めるべきだったと思っている。
その時点で事の重大さに気付いていれば死者ももっと少なかったかも知れない。
勿論、その辺りで中止されたイベントの多くは糾弾されたりしていただろう。
でも、それを恐れて実施し続けた結果がこれ。
責められるべきは東京事変単体ではなくここまで事態を悪化させた他のイベント関係者にもある。
実施すれば人が集まり、媒介となりSNS上に上げることでまた人が集まろうとする。その流れを早急に、ひと月前には遮断すべきだった。
魔法が解けた話というタイトルの文章がネットにあったので、自分も年末年始の女性声優の結婚報告について書こうと思う
わたしの感想は、「その報告は何のためにあるんだ?」というものだった
わたしにとって結婚それ自体はどうだってよかった ただそれが報告されることの意味がわからなった
よくある意見の例「中の人とアイドルは分離して考えろ」はとても正しい意見だ だが次にくる典型的な文「なら素直に祝福しろ」はどうなんだ 結婚という社会制度が苦手な人は想像もされないのだろうか 「祝福しろ」というように強い命令形で誰かにある行為を強制してよいという自信はどこから来たんだ
わたしはただの底辺男性オタクだ 女性声優と仕事で一緒になるみたいなそんな特異な生活を実生活で送っていない すなわちわたしと女性声優の誰かが結婚する可能性はゼロだ わたしの生活にとって女性声優が結婚すること自体は何の影響も及ぼさない しかし「報告」という行為に媒介されるとわたしの生活に嫌でも影響を及ぼしてくる 報告というのは誰かの耳に入れるためにあるのだから
では結婚報告はなぜ行われるのだろう
結婚は、生活を共にするパートナーを見つけ今後もそれを継続していくことをお互いに確認し合うするためになされる 出産や子育てが視野に入っている 生物学的には、結婚によって互いに相手が他の相手と交尾しないことが保証され、男性にとっては相手が妊娠したときそれが自分の子であると確信できるため安心して子育てができ、女性にとっては、男性が他の相手を妊娠させその子に資源を投じるようになり自分との子に資源を投じてくれなくなる、というようなリスクを回避できる
その報告を他者に向けてする意味は何か 自分にはすでに相手がいるから他の人は近づいてくるな、という宣言である 自分には誰かからの求愛はもう必要ない、というメッセージである 社会的には、自分は結婚を軸とする社会のメンバーの一員です、社会の外側にいるのではありません、という宣言である
それを祝福するのはどんな意味があるか 結婚によって家族を形成しそのユニット内部で子育てをする、という社会習慣に賛同し自分も共有するということ、結婚という社会制度のDNA保存における価値を自分も認める、という意思を表明する意味がある
結婚が生の価値とか幸福と結び付いて語られるのはどうしてか 自分のDNAが保存されることが高い確率で保証されることを意味するからだ
結婚した人が結婚しない人に結婚をすすめるのはどうしてか 結婚した人達のコミュニティにとって未婚の人は自分達の交配相手を奪う可能性のある脅威だからだ
結婚周りのことをだらだら生臭い言葉で書いてきた 結婚報告は配偶目当てで自分によってくるなということと、自分は結婚という社会制度に賛成しそれを軸とする社会のメンバーの一員です、というメッセージを発するため(結婚に価値を認め実行しその価値を共有することで社会のメンバーの一員となる)行われるということを見た 結婚はDNA保存至上主義に支えられている社会制度だということを見た
でも本当は現代の社会はどうだろう 自由主義が謳われ人生の意味や価値や何をするかは個人で決めるもので他人が判断するものではないというようなものではないのか 結婚を報告する必要はこの社会の中に埋まっているのか するかしないかは人それぞれ、親戚のおじさんおばさんに結婚のことを聞かれたり祖父母に孫の顔を見せろと言われるのはまっぴらだ かく結婚の価値は絶対的でなく相対的になっていても、誰かのご報告には喜びいさんでおめでとうして、しなかった人には敵意を向けて罵倒するのはなぜだろう 結婚こそ至高の価値であるという、生殖だけが価値だった時代の言説を再生産している自覚はないのか 理性による自由主義社会の理念より生殖本能の叫びを重視しているのだろうか
ましてオタクの世界の中ではどうなのだ オタクの世界は現実を構成する要素、配偶者の有無や年収の大小で人間の価値を判断されることのない、個人がコンテンツをどれだけ味わうことができているかだけが問題となる世界ではないのだろうか この世界でまで生殖を代表とするような現実世界の価値を認めることを強要するようなご報告を聞かされ、真っ先にそれを祝福した者から、お前も結婚こそが人生の価値だ、現実を視ろと諭されるのはなんなんだ
結婚は個人の行為である やるなら自由に役所に届ければいい だがそれを見せつけるかのように、オタク世界でご報告する意味はなんなんだ オタクに現実以外の理想世界を作って見せる女性声優が、自分は現実の価値を最も重視する人間だからみんなもそれを祝福してねとばかりに見せつけてくるのは何故なんだ 個人でやって黙っているわけにはいかなかったのか ご報告を経なければ個人の幸せは得られないのだろうか ツイッターでP同士結婚しましただのどや顔で謂っている人々にも同じことをいいたい オタクであり続けることは、生殖本能とその社会的な承認の欲求に負けてしまうのか
加えると、未婚の女性声優をいじる下品なオタクどもの存在は本当に恥ずべきものである 人間の価値は結婚したかどうかで決まるものではないから、結婚したかどうかで人間を測る目線はただの女性蔑視だ 声優さん自身も自分が結婚していないことをネタであるかのように扱うことはやめてほしい 結婚しようがしまいがあなたの素晴らしさは変わらないのだから
集団レイプはホモソーシャルの究極形だからな。本当はホモセックスしたいくせにホモフォビアだから代償行為として女を媒介してセックスすることで「穴兄弟」という強い絆で結ばれる。きっしょ
一方で女体消費はむしろホモソーシャル内での格を増すので、「女心を憎みながら女体を愛する」ようになってしまうのが「有害な男性」の形成過程
ちょっと前の「少年の心」ってやつの正体がこれだと思う。女なんか仲間じゃないよな、っていうホモソーシャルな絆の確認のために、女の体を使うやつ。/追記:自分が「男」だと証明するため、ってのもあるか。
なんの本だったか忘れたが、フェミ学系の本で「要するに、男性は男性に評価されるために美女を好むのである。女性そのものには殆ど関心がない」的なこと書いてあったな。結構当たってる部分もあると思う。
要は男の結束のために女とセックスしたり美女を求めたりエロい漫画を見たりするそうだ。
こんなもん男から見たらマジで何言ってんねんとしか言いようがない。美女とセックスしたいエロいもんが見たいという気持ちが先にあるしそれが99%だ。
ヤリサーや恋愛工学みたいなグループでやった数を自慢したりゲーム的に競ったりすることはあるかもしれんが、女同士でいくら貢いでもらったか自慢し合うようなするようもんだろ。
が、ホモソーシャル話になると必ず女からこの手の意見が出てくるんだよな。
逆に女の直接的でない性欲のあり方を表してる気もする。もしくはBLの読みすぎかなんか
==以下、引用==
(略)
以下の記述は、記憶によるもので、あいまいな点が多々ありますし、小沢さんの言葉ではなく、私が自分なりに解釈、要約して書いている部分もあるので、誤解や間違っている部分があるかもしれないことを念頭にお読みください。
小沢さんは、これから自分の語ることは誰か特定の人を攻撃するものではないので誤解しないでほしいと何度も断った上で、「アートという罠:アートではなく」という講演を開始されました。
小沢さんが取り上げたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか。」という問題です。
行政的にはその答えは明瞭で、
第二に、職を作るためであり、
第三に、セルフ・エスティームを高くするためであり、
第六に、再犯を防止するため
なのですが、小沢さんはこういったアート政策が、実は新自由主義、ネオリベラリズムの息のかかったプログラムそのものであると指摘されました。
ネオリベラリズムとは、簡単にいうと、人びとを激烈な競争に巻き込んで、優勝劣敗、弱肉強食のジャングルの法則を貫徹し、社会を一部の大金持ちと、残りの貧乏人に分断し、様々な格差が拡大することをもって良しとするような主義・主張です。
勝ち組の新自由主義者たちは、アートを媒介にして、貧しい人たちが暴動を起こさないよう社会の中に取り込もうとします。こっち側に入れてあげるよ、といった彼らの傲慢さは、ソーシャル・インクルージョンとでも言えば、何かカッコよく今風に響くから不思議です。
なぜ、ソーシャル・インクルージョンをネオ・リベラリストたちには必要とするのでしょうか。端的に言えばそれは、暴動を抑え、革命を阻止するためです。そんなこと「野蛮」なことを、夢にも思わない人間を作り出すためです。
(略)
「企業的な社会、セラピー的な社会」で小沢さんは、セラピストの前で自らを語ることは、実は「灰色」=システムが用意した一定のヒエラルキーの下に、「あるべき自分」を位置づけて、希望を失っていくプロセスなのだと批判していました。
小沢さんは今回の講演で、同じことがイギリスのコミュニティアートにも起きているといいます。
セラピストが皆、気持ち悪いくらい落ち着いた低い声で、その患者たちをシステム内に柔らかく取り込むように、コミュニティアートも、誰にでも受け入れられるような、丸っこく優しくゆるーいアートを媒介にして、貧しい人達が「暴発」しないよう、その力、希望をソフトに去勢して、システム内に取り込んでいる、と批判しているのです。
イギリスではソーシャル・インクルージョンを目的にすると企画書に書けば、補助金が比較的容易に降りるということもあって、この言葉が大氾濫しているそうです。
そして、実際に許可して一年で700億円もの金を分配している男は、アートのことなど何も分からない小役人で、アートを通じて、貧乏人の心に野心を高めさせ、燃えたぎらせ、優秀さへの野望を常に胸に抱いて他人を出し抜こうとする嗜好など、ネオ・リベラリストたちが好む欲望を植えつけることをアート政策の目標にしているのです。
小沢さんは、こうしたイギリスの取り組みが「コピペ」されて実施されたのが、大阪ではないか。世界と地域はつながっているのだと主張されます。
The Economistとかいったネオリベの雑誌を好んで読み、「アーツとビジネスの融合した創造性豊かな都市をめざす「創造都市戦略」を掲げた」(ウィキペディアから)關淳一第17代大阪市長を名指しで批判している最中で、なぜかスカイプの音声が乱れ、もう時間ですからと急かされて、最後は駆け足気味の話になって終了。
小沢さんは1時間の講演を予定していたようで、話を止められた後、両手を頭に組んで仰け反っていた姿から、もう少し語りたいことがあったように見えましたが、私の気のせいでしょうか。
それにしても、これほど過激な、これほど尖りまくった講演は聞いたことがありません。
下手すると、企画の趣旨を全てぶち壊すような、シンポジウム関係者を激怒させ、二度とお呼びにかからないようなリスクをあえて冒して、小沢健二さんは自らが信じることを堂々と語ったのです。資料を持つ手は微かに震えていたとしても。
「アートの力を信じる」というシンポジウムで、「アートという罠:アートではなく」という、まるでちゃぶ台をひっくり返すような講演をやる蛮勇さ。なんという毅然さ、なんという美しさだろう。私はただただ感動していました。
小沢さんは、どこにも帰属せず利害関係を超越した場所から、誰も反論しようがないお行儀のよい正論をぶつだけのイデアリストではありませんでした。
アートしている人たちの苦労を理解した上で、行政からのお金であっても貰えるものならば、貰っていたほうが良いとはっきり言われました。
しかし、彼らの意思、権力作用を十分理解しながらも、それを逆手にとって、何か思いも掛けないあらぬ方向に投げ返してやること、突拍子もない事件を呼び起こすこと、例えば、親のカネを使って自由に遊ぶ頭のいい不良少年、内から食い破るエイリアンのように振る舞うこと、
これは私の解釈ですが、そんな但書きを小沢さんは付けたかったのではないかと推測しました。
==引用ここまで==