はてなキーワード: 嘲笑とは
その名に恥じない本当に美しい楽器だと、いち愛好家として思う。
しかしながら当然この楽器にもアンチはいて、嫌う理由は様々だが、特に見過ごせないのは
「なんだかお高く止まっている」
だろう。
少なくともヴァイオリンという楽器は、奏者のエネルギーを直接ぶつけるが如く弾くようにはできていない。
もう少し正確に言うなら、クラシックのヴァイオリンの奏法が、そういう弾き方を端から否定しているということになる。
具体的には、基本の基本として学ぶ「デターシェ」という奏法が、ヴァイオリンという楽器の性質を完全に固定してしまっているというか。
そしてこれこそが、実は奏者の性格をも良からぬ方向に変えてしまっているのでは…という話をしたいと思う。
デターシェ/デタシェはフランス語の"detache"のことで、英語でこの言葉に当たるものは"de-touch"らしい。
この言葉が示す通り、ヴァイオリンの基本の弾き方においては、ハッキリと「弓で弦をこすっている」感覚はほぼ皆無である。
(かといって浮遊感があるわけでもない)
なぜなら、ヴァイオリンは弓の木の重さだけで弦をこする楽器だからである。
言い換えるなら、多くの人がヴァイオリンは手や腕の筋力で、弓を弦に「押し付けて」こすると誤解しているわけだ。
だから未経験者はもちろん、未熟な人が弾くヴァイオリンは「しずかちゃん」と揶揄される、ギーギーガリガリしたノイズまみれになってしまうのだ。
ではどうしてこのような弾き方がヴァイオリンの基本になったかと言えば、そもそもヴァイオリンは当時の楽器では特大レベルで大きな音がする楽器であり、音量よりも音質が問題になったからと推測される。
音が大きいということは美音も雑音も大きな音で再生されやすいということであり、そこで奏者の体に極力負担が少なく、かつ美音だけを選択的に出す方法を極めた結果、行き着いたのがデターシェと。
ちなみにこのデターシェがきちんと出来ているかは、ある程度以上の腕前を持つヴァイオリン奏者だったら、プロアマ問わず聴いただけで判断できる。
すなわち「芯があって抜けのある音」という、非常に特徴的な、上質としか言いようのない音がするのだ。
例えるならアコースティックのギターやハープが「ポーン」と弦を弾いた音のような、アタックがあって、そこから非常に緩やかに減衰していく、不自然さを感じさせない音。
これがヴァイオリンが誕生した当時のヨーロッパにおいて、美音とされたサウンドとも言える。
そしてこの奏法を完璧に習得した(つまり呼吸をするかのようにデターシェで弾けるようになった)奏者は、それ以降どう頑張っても汚い音では弾けなくなる。
それこそどんなに激しい曲でもノイズを一切発生させることなく弾けるようになるし、だからこそ基礎の基礎と言える奏法なのだ。
(もしデターシェを習得しない状態で激しい曲を弾いたら、音が荒っぽくなって大惨事だろう)
では、そういう「ちゃんとした」弾き方ができるようになった奏者がどうなるかというと…耳もまた変化するのである。
つまり耳が「クラシックなヴァイオリンの上質な音」に最適化されるため、それを否定するかのような音に強い違和感を覚えるようになる。
そんな耳の変化は、最終的に奏者の感性をも大きく変えることになる。
具体的には、まずデターシェで弾けていない人を「かわいそうな人」あるいは雑魚扱いするようになる。
更にデターシェで弾けていても、デターシェを根幹とする「クラシカルに美しい音」の価値観に重きを置かないような、抜けのない濃すぎる音や、
あるいはインパクト重視だったり勢い任せの弾き方を多用するヴァイオリン奏者を嘲笑し、軽蔑するようになるのである。
どんなに上手い人であっても高確率で「残念な人」「分かっていない人」とみなされ、なんなら「何も知らない素人を騙すしか能がない」とさえ言われる。
しかし…これを差別主義と言わずしてなんと言うのだろう?エリート主義?
音楽は本来自由なものであって、「~しなさい」も「~するな」も、可能な限り不要ではないだろうか。
自分を含むヴァイオリン弾きは「美」を追求していたはずなのに、そこからかけ離れた、なんだか醜悪な感性が身に付いてはいないだろうか。
そうは言っても、もはや自分の耳は、粗野だったりわざとらしいヴァイオリンの音色を受け付けなくなってしまった。
とんでもなく耳にキツく響く上に、そんなものを何時間も聞かされた日には胸が苦しくなる。
自分が追求していることと違いすぎる音を、同じヴァイオリン弾きという「近すぎる」人種が平然と奏でる様子が、しんどくてたまらない。
これがエレキギターとかの他の楽器だったらどんなに良かっただろう。
まさか上手くなることでこんな悩みが生まれ、そして軽蔑される側だったはずがいつの間にか軽蔑する側に回ってしまうとは…暗澹たる思いである。
ネットの評判を鵜呑みにして某大人気映画を見に行ったら趣味が合わなくてたいへんひどい目にあった、インターネット上で無責任におすすめしてきた奴らふざけんな、という旨の note が大バズりしてますね。
記事に対するネットの反応の大半は呆れとか嘲笑とかもっとシンプルに罵倒とか、まあおおむね炎上と言って良い様相のようです。
ただこれ、単純に繊細なバカがバカなこと言ってるからバカにしてやろう、で済むような話とも思えないんですよね。
当該 note での著者の主張の核は要するに、「私が傷ついたのはネットで当該映画の宣伝をしてたお前らの責任だ」というものです(以下、当該 note から一部抜粋)。
そういう方に聞きたいのですが、こういう、RRRを観るべきでない人間が避けられるような形での宣伝をしましたか。
...
「全人類観るべき」「とりあえず騙されたと思って観に行ってくれ」みたいなことをツイートしたあなたに対して私は怒っています。
「いや別に映画見るように強要されたわけでもなくて、最終的に映画見る判断したのはあなたじゃん…」とか、「いや合わない映画だと判断したらその時点で退出すればよくない…?」などなど、映画をおすすめしてきた人に責任負わそうとするのは無理筋だろとツッコミたくなる気持ちはわかるし実際そういうツッコミをしてる人がインターネット上にも散見されるんですが、ちょっと待ってください、最近似たような論争がはてなで盛り上がってませんでしたっけ。
そうです、皆さん大好き「こども家庭庁ポスター」論争ですね。(当該ポスターは結局無関係なイラストレータの作品と類似性があると指摘されて取り下げとかいうなんだか気の抜けるような決着がついてしまいましたが。)
例のポスターについての論争では、「特に強要されたわけでもなく、ただセックスを持ちかけてきただけの人を性暴力で告発するのは無理があるんじゃない…?」とか、「相手と合わない、不快だと感じたらその時点で相手から距離を取ればいいだけの話で、暴力や権力による強要でも無い限り性暴力扱いするのは無理筋でしょ…?」みたいな主張はおおむねセカンドレイパー、家父長制主義者のミソジニスト、性加害擁護者のたわ言として否定的に扱われていたと記憶しています。
私個人の考えとしてはあのポスターを支持する人が現在の世間の大半を占めているならあのポスターの主張が今後の社会のスタンダードになるのはそれはまあ当然のなりゆきだよね、ぐらいなものなのですが、それと同時にあのポスターを支持しつつ某noteの主張を棄却するのは結構無理筋じゃないかと思えてしまうんですよね。
ここ最近、学校でのいじめを警察に訴えるべきだと言う話がよく話題になっているように思う。
勿論それには同意する。そもそも教師の負担が大きい中で、明らかな暴力行為、法に反する行為があればそれは警察に任せるべきだろう。今まで警察に任せていたのがおかしい。
とはいえ、こうした報道、いじめに関する話題が持ち上がる度に、かつて自分が学生時代に遭遇したものはいじめだったのだろうか?と自信をなくしてしまう。
暴力などがあった訳ではない。ただ、無視されていた。いないものとして扱われていたというよりは、何をしていてもその様子を嘲笑して良いものとして扱われていた。
かつての自分は野球部に所属していた。同学年のメンバーは偶数人おり、その内自分も含めた4人のメンバーでキャッチボールやペアでのストレッチなどを行っていた。ある日は増田とAとのペア、BとCとのペアでキャッチボールを行い、その翌日は増田とB、AとCとでキャッチボールを行っていた、という風に。
それがある日突然、AとBとCが3人でキャッチボールやストレッチを始めるようになった。当然のように自分は狼狽えた。AもBもCも、人間関係が出来上がった中で今更他のペアに仲間に入れてくれとも頼めない内向的な増田が一人で狼狽えている様子を見てクスクスと笑っていた。他の同学年のメンバーも、戸惑いながらもキャッチボールの仲間に入れてくれるということはしなかった。突然仲たがいを始めたグループの面倒を彼らが見る必要なんてないから当然だが、自分にとっては全員が敵に見えた。当然のように、何もしていない自分は先輩に怒られた。何もやらないなんてやる気あるのか、とっととキャッチボール始めろ、と。そこでようやくA、B、Cに小さな声で「すみません、キャッチボールの相手をしてください」と言うことが出来た。三人はじゃんけんをして、当然のように負けた人間が自分の相手となった。負けたAに対してBとCが「罰ゲームじゃんwww」とか「あんな奴の相手させて悪いねwww」と、自分に聞こえるような声で言っていて、何も信じられなくなった。三人とも、昨日までは普通にキャッチボールをし、一緒にストレッチをし、一緒に授業のことや漫画のことなど、他愛のない話をしていたので、こんなに自分のことを嫌っていると思ってもみなかったのだ。
これが中学2年になってすぐ、ちょうど今ぐらいの時期の話だ。部活動というのはだいたい3年の夏の引退試合まであるから、あと1年半はこうした状況が続くことは間違いなかった。けれど自分には部活動を辞めるという選択肢はなかった。1つには小学生から野球をやっていて、何だかんだ愛着があったこと。もう1つは、辞めた後の選択肢がないこと。自分がいた中学校は部活動には必ず所属する必要があったが、今更他の運動部に行ったところで、キャッチボールの相手も頼めない自分が他の運動部で新たな関係を築けるとも思えなかった。文化系の部活だって同様だ。そもそも、田舎の小さな学校の中で部活動を途中で変える人間なんていなかった。前例のないことをするのは自分にとって非常に恐ろしかった。今現在でさえ部活のメンバーから浮いている自分が、更に浮いてしまう気がした。
毎日頭を下げることでしかキャッチボールやストレッチをさせてもらえなかった。少しでもミスをすれば、ストライクを見逃せば、ボテボテの球しか打てなければ、走塁をミスすれば、すぐ笑いものにされた。ABCがそういう扱いをしているという空気はどんどん部活内に伝播して、同学年も、先輩も、挙句の果てには後輩にも笑われるようになった。自分が空振り三振した時、空振りをする俺の打ち方を誇張する物まねが部内で流行した。「オイあれやってみろよwww」と何度も言われた。そういう状況だから、例えばチームに貢献するようなことがあっても、褒められることなんてなかった。自分がヒットを打っても、後でベンチに戻った自分とハイタッチしてくれる人は誰もいなかった。透明人間みたいに無視されたかと思えば、突然あっこんなところに変な奴がいるぞwwwwと笑いものにされて、全部が苦痛だった。ちなみに顧問は試合の前後以外全く練習に来ない人で、このようなことが起きていたことも知らなかっただろう。
このような思春期を1年半過ごした。もちろん1年半の部活生活だけで済まず、部活以外のところでも無視や嘲笑されることはあった。けれど部活以外の場所には信頼できる、突然自分のことを笑いものにしたり無視を始めたりしない友人がいたので、それだけが救いだった。これがきっかけで高校を選ぶ時には、なるべく同じ学校の人間が行かない高校を選んで進学した。それでも自己評価は下がったままだし、新しい友人を作る勇気も湧かず、高校も大学も就活も、あまりうまくいかずに過ごした。
全部が全部彼らのせいだとは思わない。元々かなり内向的な性格なので、いずれはどこかで何かしらの引っかかりを感じていただろう。それでも、あの無視や嘲笑が、いい歳になった大人になっても忘れられない。人を軽い気持ちでからかうような人間がこういうものを読んでも、無視される側に原因があるだろうとしか思わないだろうが、かつて自分を無視したABCの名前を検索すると会社の役職が出てきてしまって衝動的にこれを書いた。お前たちは同窓会にも来ない俺のことなんてとっくに忘れているだろうが、俺は忘れていない。お前たちの名前も、顔も、俺にしたことも全部。
先祖代々続く正真正銘の薄毛家系だが、20代から育毛に心血注いできた。
いくらイケメンでも、スタイル良くても、髪が薄いだけで嘲笑の的。
決して煽りではない。50年生きてきた俺が言うのだから間違いない。
なんとか薬のおかげで髪を維持してきたが、ここ数年は白髪まで出てきやがった。
禿げも困るが、白髪もみっともない。
世の中にはシルバーグレーカッコいい!なんて風潮もあるが、そんなもん幻想だ。
美容院でやると金がかかるため、ドラッグストアで買った¥500くらいの
10分やそこらじゃ染まらない気がして、1時間くらい放置してたら
髪が抜けだした・・・・。頭皮も赤みがかってかぶれてきたかも?
染めないと白髪みっともないし、染めると髪が傷んで抜けてくる。
どうしたらいいんだよ。
安倍晋三に続いて岸田文雄が殺されそうになったのは、憂鬱なニュースだった。
日本は自由な民主主義国だ。(職質の警察官を除けば)荷物検査も何もなしに色々なところに行くことができる。飛行機以外の場所で手荷物検査がされることはまずない。そしてそれは政治家の集会も同じだ。政治家は市民に選ばれるために、たとえ元首相であっても街頭に立ち、支持を訴える(菅直人がたったひとりで街頭演説する写真を嘲笑する人を見かけたことがあるが、あれは誇るべき光景だと思うのだ)。市民はそれをスルーしてもいいし、気まぐれに足を止めてもいいし、ペンライトを振って応援してもいい。俺もちょうど地元に来ていた福島瑞穂と握手したことがある。そのときの俺は見るからに不審者ルックだったが、一瞬怪訝そうな顔をしただけで愛想よく握手に応じてくれた。
アメリカ大統領が来たときの警備の物々しさとは対照的だ。アメリカのシークレットサービスは皇居にもズカズカ入り込んでこようとしたのを日本側が必死に止めたらしい。野蛮人め。品位というものを知らんのか。だが彼らにもトラウマがある。昔のアメリカの大統領はもっと市民と近かった。だが、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、そしてJFKが暗殺され、レーガンが殺されかけたことで、アメリカは異様に厳しいセキュリティをVIPに求める国になった(※)。
安倍が殺されたとき、警察が無能だと散々言われた。それは事実かもしれないが、しかし、彼らが無能なのは政治家に対する深刻な攻撃の懸念に晒されていないからだ。警官が平和ボケして無能なのは、ある意味では、わが国で要人に対するテロを懸念する必要性が薄かったことの、つまりわが国の自由と民主主義が問題なく機能していることの証だったのだ。
だが安倍晋三は殺された。俺は去年の夏、今後日本の政治家は気軽に国民の前に立たなくなるかもしれない、と思っていた。政治家がろくな警備もつけずに街角に立ち市民に支持を訴え、市民はそれを日常風景として聞き流すような、そんな光景はもう戻ってこないかもしれない、そのような平和で自由で民主的な日本はもう失われてしまうのかもしれない、と悲観していた。あれから半年が経ち、多くの政治家が従来どおりのドブ板選挙を続けている景色を見て、よかった、杞憂だったのか、と胸を撫で下ろしていたところに、今回のニュースが飛び込んできた。ああ、今度こそ、大物政治家が気軽に街頭に立つ光景は失われるのだ、と思った。
だが、岸田文雄は遊説を続けた。暗殺未遂事件に遭ってなお、市民の前に立ち、訴えかけることをやめなかった。
岸田は、身を張ってテロには屈しないという姿勢を表明してみせた。それは一見すると単に事前のスケジュールを墨守するだけのつまらない行為かもしれないが、この状況では、それは紛れもなく自由と民主主義の側に立つという崇高な意思表示だ。
安倍が頂点にいた頃は、岸田は凡庸な後継候補のひとりに過ぎないと俺は思っていた。ソフトなイメージはあるが、安倍ほどの人を惹き付けるもの(あそこまで右派に崇拝された総理も異様なら、左派からあれほど蛇蝎のごとく嫌われたのも異様だった。正負ともに存在感のあるキャラクタだった、と思う)を持たず、強い信念もなく、自民党の伝統ある派閥を大過なく差配するだけの面白みのない男。それが岸田へのイメージだった。だが、先日のキーウとブチャへの訪問といい、今回の暗殺未遂事件といい、行動によって自由と民主主義と国際秩序を擁護するのだという強い決意を見せていることには、正直驚いた。見誤っていた。
俺は自民党に入れたことはないし、安倍が総理であることには苦々しい思いを常日頃抱いてきたが、岸田に関しては、俺はあいつに入れていないがあいつは俺の総理大臣だ、と言っていいかもしれない。とにかく、今回の事件を受けての岸田の動きは見事だった。よくやった。ありがとう。
※ 海外旅行中、壮麗な建物を見つけて、何気なくカメラで写真を撮ったところ、自動小銃を構えた警備員が飛んできて写真を消せと凄まれたことがある。実はそれはアメリカ大使館だったのだ。そしてその国はかつてアメリカによる介入を受けたことのある国だった。その話を憤慨して隣国の友人に話したところ、そりゃそうだよと呆れられたので二度驚いた。大使館は相手国との友好も目的の一つとしているため、普通の市民から反感を買うような行動はしないものだと素朴に思い込んでいた俺は衝撃を受けた。街中であんな大規模な土地を専有して、たかだかカメラを向けただけの一市民を自動小銃で威圧するのか。そんなことをあちこちでやってりゃ、そりゃ占領統治もままならんわ。俺にとっては旅行中の不愉快なエピソードにすぎないが、仮にその国に生まれ育っていたら熱心な反米活動家になっていただろう、と思った。
① 怨み屋はColaboをネタにして「デマの」再生産をしてるという批判
② ①に対して、様々な嘲笑・切断が行われる
b 怒るって事は自覚があるんですか~(怒ってるのは係争中のデマに対して、裁判待ち)
c 何も明示してないのに勝手にクリリンの事か~とか怒るの馬鹿じゃね
↓
③ チートスレイヤーは各種なろう系転生作品をネタにして誹謗してるという批判
④ ②-cみたいな奴(〇〇が描かれているから××)ってチートスレイヤーの時すげぇ湧いたよな
↓
# ①のケースで、あれでネタにしてないとか通らんってイキリちらすリベサやフェミが大勢観測された
# ③のケースで、あれでネタにしてないとか通らんってイキリちらすオタクは大勢観測された
# この話題は「〇〇が描かれているから××」と勝手にエスパーして怒る人を同列に並べている
↓
ここで、⑤や⑥になる奴ってどういう思考でそこに至ったんだろ
そして、そういうダブスタを開陳するオタクの何が嗤われているのか
理解できてないって事だよな
怨み屋騒動への嘲笑を引用するなら、「怒るって事は自覚があるんですか~ww」、となる
人生楽しそうだよね
https://togetter.com/li/1737874
マジレスすると「他作品の特定のキャラクターを想起させるような登場人物を悪役として描いている」(by謝罪文)のは当該作品の作者の著作権=実在人の人権を損なう恐れがあるからね。お気持ちヤクザの言う「なんとなく差別っぽい」とかとは問題の程度が明らかに違うんで。
黒人を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
部落民を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
障碍者を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
同じ理屈は
女性を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
と展開可能だ
ここで展開されるべきは「差別との主張はこれこれこういう理屈で誤りである」であるべきなんだけど
作者側が表現の自由を行使した結果、版権等別の他者の法的権利を侵害することになったと出版社が判断したことで掲載が中止になったものであり
で、表現の自由を行使した結果、主催者なり施設なりが「判断」して撤去されるなら
お気持ちが表明されて、その声が大きくなり、「判断」されるのは健全なんじゃないの?
「"胸がデカくて不快"だのと言った申し立てのほとんどは権利ではないか権利としての重要性が大いに劣後するから表現の自由を優先すべき」
とか主張されて真っ赤になっちゃう
LGBTも「その程度」と言われてた訳なんだけどね
▪良く分からんかったら無難な回答、あるいは質問文の語義を答える
▪2,3個前に出てきた質問文から適当に拝借して答えるとバカは喜ぶ
例)
1. メグレップとは何ですか?
メグレップとは目暮警部+ジャップからなる合成語で、目暮警部が頭の硬い日本人であることを嘲笑するスラングです。
目暮警部を不快にすることがある他、誤解を生むのであまり使わないほうが良いでしょう。
元増田にもつながるけど「恥しい」「許されない」と言ってるのは一部の繊細な人だけで大半の人間は別に何も考えてないと思うよ
アップデートとか言っても、ネトフリとかでも昔のダウンタウンよりえげつないコンテンツはやってるし、去年ウィルスミスが妻を嘲笑したスタンダップコメディアンを殴ったのは記憶に新しい
https://twitter.com/johnny_onpuchan/status/1642903103392591872?s=46&t=UvFEBu5M0FowcJERBgVctw
「ひろしま奨学金」という、核兵器反対が政策の市長が集めた寄付金を原資とした奨学金を中国人留学生が取得する
↓
・「被爆者には同情できない」と笑う
↓
もちろん日本のネット民の間では批判殺到、奨学金の取り消しと学位剥奪を求める声が
↓
良しとする派…「2人は本音を言っているだけで日本人を攻撃しようとする意図はないはずだ」「たったこれだけのことで何かの制裁を加えるなら日本は頭がおかしい、被爆しているだけある」「原爆がなければ日本人によってより多くの殺人が行われたのだから当たり前だ」「言論の自由は?」
中立(?)…「こんなのに奨学金出すなよ…出す前にわからなかったのか?」「こいつはアホだが学位の剥奪はさすがにやりすぎ」「日本人は優しい。こいつを街で見かけてもぶん殴ったりしないんだろうな」
反対派…「日本にへりくだれとは言わないが、その奨学金を貰っておいてその言動はおかしい」「これを許すなら、日本人留学生が『南京大虐殺の被害者には同情できない』と言うのも許さなければならないがそれはあり得ないだろう。だからこれも許されるべきではない」「自分の非を認めない行為(日本のこと)を笑うのならば、被害者を嘲笑う行為(この留学生のこと)にも笑うべきだ。それはどちらも平和を害する行為だからだ」
個人的に、日本が100%被害者ぶってるのはおかしいと思うし、この留学生たちの気持ちも分かる
賢いだろうに「この動画を出せばどうなるか」というのが分からなかったのかなあとは思う
奨学金の種類がね…
ネットでアレコレ叩いたり嘲笑ったりしてる奴等なんて自分の攻撃範囲に入ったら本能のままに襲い掛かるモンスターみたいなモノで、そういう人達は他者を貶めたいという負の欲望を発露させられる場所があったら"主義"とか"文化"とかに関係なく暴れ回るモノだと思うんだよなぁ。
あとは、はてなだと社会運動(沖縄のデモとかグレタとか)が馬鹿にされた時によく「冷笑主義のせいだ!」みたいに言ってる人をしばしば見るけど、これも立場が違えばその運動を批判的に捉える人がいるのも当然のことだろとしか感じられない。
前者は狂人に名前を付けたいだけで、後者は「まともな人達ならば皆、私達の運動に賛意を示してくれる」という傲慢にしか思えないんだよな。
……書いてて思ったけど、"何かを叩くこと"ではなく、その叩く際に真っ向から批判するのではなく笑いを手段とするのが冷笑主義なのか?
それなら、まあ分からないではない。