はてなキーワード: 史観とは
超手短に言うぜ。
義務教育の程度が低すぎて基礎教育を終えるのに12年もかかってることに対して最も手際よく出来ないのかをちゃんと考えろってこと。
端的にいやあ、小卒の段階で社会人として十分な能力、中卒の段階で頭脳労働者として十分な能力、高卒の段階で専門労働者として十分な能力を与え、大学に行くのは研究者だけという状態にしろ。
ていうか本来はそういう風に回すはずだったものを、無能が汚職と自己満足の繰り返しに胡座をかいた結果、高校卒業しても微分積分が分かってないやつが半分ぐらいの地獄になってる。
とりあえず、書道・図工・音楽・工作はなくして、総合的学習や英語といった高等教育ごっこも削除、体育の授業も身体の動かし方のトレーニングをメインとし球技などは完全になくす。
各科目の中にある形だけのごっこ遊びも減らし、作者の気持ちよみや単なるパズルの因数分解もなくす。
理科は無駄な部分を減らし、たとえば炎色反応の実験をするのに原子の構造も光の波長と色の関係を理解してないといった状態は完全に無駄なのでそういったものは削る。
社会科では思想的な教育は減らしていき、たとえばWW1・WW2に対して過剰にフォーカスを当てた敗戦史観的な教育は時間の無駄なのでやらない。
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
1 捕.ホロコースト否定論
2 一.江戸しぐさ
7 二.アジア解放
9 投.白人至上主義
控え
・日ユダヤ同祖論
ホロコーストはねつ造であるという言わずと知れた世界的に有名なトンデモ論。ちなみに国によっては否定するとこの論を唱えると逮捕されるので要注意。できれば他のトンデモ説もこれと同様に法律で取り締まってもらいたいものである。
江戸時代には傘かしげ(傘を指したまますれ違うときには傘を傾ける)、時泥棒(アポなし訪問、約束の5分前に到着しなければ死罪)などのマナーが普及していたが、明治政府の虐殺により失われてしまったというトンデモ論。これの恐ろしいところは小学校の道徳の教科書で取り上げられたり、ACのCMで放送されたことである。
南京大虐殺はねつ造であるというトンデモ論。犠牲者の数については意見が分かれているが、虐殺そのものがあったことは否定できない。しかし、自称愛国者達の間で固く信じられている。愛国者であるなら、正しい歴史を学んで国の恥を晒すようなまねは止めて頂きたい者である
原爆は戦争の早期終結のために不可欠だったというトンデモ論。原爆投下はソ連への威嚇のための人体実験であり、決して正当化できるものではないのだが、アメリカ人達の間では広く信じられ、学校の歴史教科書でも取り上げられている。日本人でも信じている輩がいる
アイヌ民族はいない、もしくは先住民ではないとするトンデモ論。アイヌの人々が日本による弾圧や差別によって苦しめられ続けた事実を無視し、現代でも差別の正当化に利用される非常に害悪な思想である。南京大虐殺否定、アジア解放と並びネトウヨの間で固く信じられている。
第二次世界大戦は悪の枢軸国と正義の連合国の戦いであるというトンデモ論。日本軍やナチスの残虐行為は決して擁護できるものではないが、原爆投下、ソ連抑留など連合国も信じられないような悪行を重ねており、単なる正義と悪の戦いではないことは明らかである。また、東京裁判、ニュルンベルク裁判は連合国の悪事に一切触れず、枢軸国だけを糾弾する、事後法で裁くなどの無茶苦茶なもので、その実態は裁判ではなく報復としかいえない。
太平洋戦争は東南アジアを欧米の植民地支配から解放するための正当な戦争であったというトンデモ論。無論、これは大義名分に過ぎない。白人の植民地支配が残忍であったのも事実だが、日本軍の残虐行為も許されて良いものではない。東南アジアの罪のない人々が数百万人犠牲になったこと、現地の人々が戦後自らの努力で独立を勝ち取ったという事実を無視しており、余りに無礼である。日本軍が独立に寄与したというのはあくまで結果論であり、現地の人々の思いを踏みにじってはいけない。そもそも、フィリピンに至っては近い将来に独立が約束されており、この大義名分は一切適応できない。
薩長はテロリストであるというトンデモ学説。歴史”評論家”原○伊○によって唱えられた。何事にも正と負の側面があるにも関わらず、「明治政府は100%悪!江戸幕府は100%正義!」と極端な善悪二元論で歴史を唱えるのは御法度である。
白人がアジア、アフリカ、新世界を植民地化できたのは白人が優れた民族であるからだというトンデモ論。長らく植民地支配や人種差別の正当化に利用された害悪な説で、今でも信じている輩が少なくない。歴史を全体的に見ればヨーロッパが覇権を握ったのは比較的新しく、その発展も中国、イスラムの繁栄があって初めて成り立つものであることは火を見るより明らかである。白人の覇権には地理的要因も多く絡んでおり、白人崇拝は偏狭な解釈であるというしかない。日本人でも右翼・左翼問わずこの論を受け入れている者が少なくなく、日本人は朝鮮人・中国人よりも白人の遺伝子を多く受け継いでいるという新たなトンデモ論を生んだ。
・日ユ同祖論
日本はユダヤ人の失われた支族であるというトンデモ論。明らかに嘘と分かるもので、フィクションとしては面白いのだが、まれに本気で信じている輩がいるので笑えない。
昭和天皇が自らの意志で積極的に日米開戦を推し進めたというトンデモ論。左翼の間で固く信じられている。確かに軍部の暴走を抑えられなかった天皇の罪は重い。しかし、僅かでも日本史の知識があるなら、天皇は日米開戦には反対であったとうことは分かるはずである。東條英機が首相に任命されたのもそのためである
大正時代が短いのは天皇が知的障害者であったからとするトンデモ論。大正天皇は病弱だったが、多くの漢詩を残す、朝鮮語の学習に努めるなど教養のある人物であり、決して知的障害者ではない。天皇をどうしても貶めたい左翼にねつ造された。
余談
最後にトンデモ本を見分ける方法を紹介したい。しかしながら、このやり方は完全ではないため、結局の所大切なのは、ものごとを多面的・批判的に判断し、すぐ「AはBである」と決めつけない慎重さである。またトンデモ論を信じ、発信してしまえばあなたも共犯者になってしまう。情報の受け入れだけでなく、発信の際にも慎重になろう。
・著者の経歴を確かめる
博士号はおろか、大学の歴史科学科すら卒業していない著者もいる。また、学術論文を雑誌に発表していない著者にも要注意である。更にプロの歴史学者にも専門外の分野に手を出すものがいるため気をつけるべきである
例外もあるが、”~のウソ”、”~の真実”、”~の陰謀”、”反日”などの扇情的な見出しには要注意。
・参考文献がない、もしくは一般書ばかり
・出版社を見る
講談社、岩波、中公は”比較的”信用できる”かもしれない”。百○尚○先生御用達の幻冬舎などの出版社には要注意。ただし、原○伊○の明治維新非難は講談社で出版されたものである。
統治者絶対史観も一つの観点としては全否定すべきではないけど、問題は現在の日本人の通俗的な中国イメージ、特に「やはり中国はいつまでも遅れている危険な国で、それに比べて俺たち日本はまともな国」という、質の悪い願望が入り混じったイメージを補強するものでしかないこと。
現在の中国も、もちろんジャーナリストや人文社会系の研究者、政治活動家にとっては暗黒体制そのものだけど、圧倒的多数の一般市民もそう感じているわけでは必ずしもない。住民委員会やコミュニティ組織など、「生活に困ったら訴える先がある」という点では、日本よりも民主的と言える面がある。少なくとも、NHK特集ぐらいはそうした面を伝えて欲しいなあ・・・。
日本共産党中央委員会の論文集『投降主義者の観念論史観』を読めば答えが見つかると思いますよ
日本共産党の志位和夫委員長ですが,1988年に,ほぼヒラ同然の専従から書記局長に抜擢されました。出世のきっかけになったのが,「伊里一智事件」での活躍だといわれています。 伊里一智事件とは,1985年当時,東大の院生支部の党員が,宮本顕治の引退なども含め,党の改革を訴える提案を党大会に提案しようとしたところ,その提案が連名であることを以て,党機関が「分派活動」と決めつけて,その動きを阻止したもの,および,その後の「党大会でのビラまき」「週刊誌のインタビュー」「伊里一智氏の著書出版」などの一連の出来事をいいます。伊里一智はその院生が名乗った活動名です。 この事件は,典型的な,民主集中制の原則を悪用した,異論の政治主義的な封殺でした。その主な下手人が,志位和夫委員長その人なのです。志位氏は,「変節者のあわれな末路」(「赤旗」1986年3月18日,19日)「退廃と遊戯の『哲学』 ――浦地実『<ポスト・モダン>と唯物論』批判」(『前衛』1986年4月号)などの論文を書いて,伊里氏を口汚くののしりました。この,異論排除の能力が宮本顕治に買われて,出世を果たしたとかなんとか,いわれているところです。これら共産党側の論文は,『投降主義者の観念論史観』という本にまとめられています(上写真)。 今回,上に挙げた志位氏の論文を紹介します。ぜひぜひ,読んでみてください。あの顔からは想像できないような悪口雑言の数々が並んでいます
ほかは、解釈は広いし、そこまで酷くないだろ……
と思って、歌詞を見てみた。
https://www.uta-net.com/song/304161/
この歌、コロンブスは別として、2つ現実の事象を描写している。
それ以外はぼんやりした何とでも取れる話。
で、その2つは、
途方もない時間を割いて
捻り出してきた(ようやく)
拍子抜けに乾杯(完敗)です
ポテトヘッドは(what's rule)
謎めいてく昨今のルール
なのだが、
まあ、あだ名なしルールは、20世紀に子供時代を過ごした者にとっては違和感を持つところは無いではないが、現場の知恵として、有効だと考えてやっているのだろうし、単純に愚かな事と断じるのも浅はかだろう。実際昔からあだ名で加速するいじめはあった。そもそも、いじめ対策はそれだけでないだろう。
これに続けて、『正義ふりかざすいじめっ子 一番厄介な現実』と言うにいたっては、何が言いたいのかわからない。
そして、後者のMr.ポテトヘッドにいたっては、事実誤認である。
おもちゃのシリーズブランドが『Mr. Potato Head』から、『Potato Head』に切り替わるのであって、Mr. Potato Head も Mrs. Potato Head もキャラクターとしては変わっていない。Mr. も Mrs. もいるのに、ブランドが Mr. なのはどうか、というので単に「Mr.」を外すのだ。
https://corporate.hasbro.com/en-us/articles/create_your_potato_head_family_launching_this_fall
つまるところ、この歌の芯は、ワイドナショー史観というか、予断に満ちた『いきすぎた』ポリコレを笑うという程度の視点しかもたないのである。
(ワイドナショーでポテトヘッドの件を揶揄していて、わかってないなーと思った記憶がある)
本気で作ったという歌が、ポリコレを揶揄する視点しか持てないのは、まあなんというかね……。せめてそれ以外の視点もあれば説得力が多少あったろうに、自民党のLGBT法案めぐる情けなさとか、オリンピックのあれこれとかさ。
フェミニズムというかマルクス主義フェミニズムと言った方が正確だろうが。
マルクス主義には、階級闘争史観という歴史の見方があって、資本家が労働者を搾取してきた、
ここで注目したいのは、資本家とか労働者とかの階級の中にどれほどの多様性があるのかは、
まったく考慮していないという点。
資本家といっても世界的なグローバル企業から、町工場みたいな中小企業まで全部資本家だけど、
資本家と、労働者の関係を、男性と女性に置き換えたのがマルクス主義フェミニズム。
男性とは全員搾取するもので、個人個人の男性が実際にはどんな生活をしているのかとかは全然見ていない。
だから、「弱者男性」のような、男性カテゴリーの中にもいろいろいるという点を指摘されても、
バグって理解できない。それで、苦し紛れにあてがえ論とか言い出す。
疑問どころか、網野氏の史観は「国民の物語」との格闘の結果と言ってもいいくらいだよ。
それが形を変えて「日本とは何か」や「天皇とは何か」に繋がっていく。
この辺は最晩年の対談集「日本をめぐって」の最終章、小熊英二との対談でかなりあけすけに語っているので、是非。
https://www.amazon.co.jp/dp/4062110237
国民的歴史学運動については、同じく小熊英二の「<民主>と<愛国>」の第8章に詳しい。
あと呉座氏や亀田氏が、ベタに「国民の物語」を希求している訳はないけど、トータルヒストリーの語り口としての「国民の物語」に、関心がないはずはないと思うんだよね。