はてなキーワード: 券売機とは
二郎系は二郎よりも脂っこくコッテリしていることが多いことを意味する
ニンニクをコールすると、これでもかという量のニンニクが盛られる
「ニンニク少し」も試してみたが、例に漏れず「少し」で出てくることはない
まさに「二郎らしい」店だ
豚ラーメンにはしばしば足を運んでいる
一方の東口
豚ラーメンからほぼ線路を挟んだ向かい側には、ラーメン大がある
「く」の字型のカウンターと、券売機の隣に並ぶ例の自販機がいかにも二郎らしい
多くの二郎や二郎系の店では、非常識な量のニンニクを盛られがちだが、
しかし塩と脂とニンニクで構成された、もっと危険な何かであったはず
ところが目の前のスープからは、しっかりと素材の風味が伝わってきて、
しかも、それがきちんと旨いのだ
今回の件で頭がおかしくなったので要約だけ書く。
休みの日の地元の小さなスーパーへ自転車で食料品を買いに行った。
食料品や日用品をかご入れてレジに向かったが、レジはいつの間にかセルフ形式なっていた。
セルフレジは使ったことがなかったので、戸惑いながら画面の指示に従ってバーコードを読み込ませた。
会計画面で5975円と出たので丁度の額の紙幣と小銭を入れた。
だが、投入金額は0円のままで1分ぐらい待っても何も起こらない。
仕方ないので店員を探したが回りにいなかい、呼んでみたが誰も来ない。
さらに3分ほど待ったが誰も来ず、画面にも変化がなく、レシートも出てこない。
どうしようもないので、かごの中身を持ってきた袋に詰めて店を出て駐輪場に向かった。
店の横ある駐輪場について自転車に乗って帰ろうとしたとき、店の裏手から警備員らしき人が走って出てきて腕を掴まれた。
万引きしただろうと言われた。
そんなことはしていない、お金を投入したがレシートが出てこなかったと説明しようとした。
だが、まったく聞いて信用してもらえず、警察が来るまで店の中に来いと、半ば無理やり店に引き戻された。
警察が来るまでの間、お金入れたのでレジがおかしいを言ったがまったくレジを調べようとしない。
10分ぐらいして3人の警察官が来た。事情を説明したがレシートがないから窃盗罪になる言われた。
お金は投入したといってもまったくのスルーでレジを調べようともしない。
監視カメラでは精算を完了せずに店外に商品を持ち出しているというのである。
このあと、警察署に連れて行かれて、いろいろ聞かれ、写真や指紋を取られ、よくわからない書面に署名させられた。
結局、万引きの疑いは晴れず、窃盗罪で書類送検されることになり、お店には商品の代金を更に支払うことになった。
この辺りから、頭がおかしくなりよく思えていない。しばらく会社を休んだ。
一週間ほどして会社から電話がかかってきて来て欲しいというので出社した。
そして、スーパーで万引きした件について聞かれた。スーパーから連絡があったらしい。
それから、更に一週間ほどして社長に呼び出されて、従業員規定により解雇するという。
頭が真っ白になり、何も言えなかった。
もしかして自分は本当に万引きをしたのか?とさえ思うようになった。
もう二度とセルフレジは使わないと決めた。
入店する
↓
↓
食券を買う
↓
他の客の隣りに座らないこと。店内が混んでいる場合のみ隣に座っても良い。
食券を出すとき、店員が確認しやすいように食券の向きに気をつけること。
↓
ここで店員に確認を求められるが。黙って頷くこと。声を出して返事するな。返事をしたら戦争が始まってしまう。
↓
牛丼と味噌汁が揃うまで待つこと。神聖な牛丼を食す場でスマホをいじりはご法度。恥を知れ。
↓
ここで他の客と目があったら戦争になるので絶対に目を合わさないこと。
↓
食べ終わったら丼の中に汁椀を起き、その上に箸を揃えて中央に置く。
↓
そのまま出口に向かう。
店舗によっては威嚇射撃で「ありがとうございました!」射撃をしてくるが受けてはならない。逃げるのだ。
ここは激戦地だ。ごちそうさまを言うのは厳禁。食堂と勘違いするでない。
↓
田舎から通える範囲で専門学校まで出て、就職で再度生まれた都市に戻ってきた。
昨日ふと気づいたのだけれど、自分の周りに東京生まれ東京育ちの人間が1人もいない。
東京はあんなに人が多い人が多いって話だし、いくら近隣県が東京のベッドタウン状態とはいっても、東京生まれ東京育ちの人間の数だって結構いそうなものなのに。
神奈川の人とか千葉の人とかは周囲に結構いるし、生まれ育ちは違うけど現在東京在住みたいな友達も5,6人は思いつくのだけれど……。
職場の100人ぐらいの同僚とは大体出身地とかの話をしたことがあるけど、東京の(大学を出た)人(生まれは神奈川)とかばかりだ。
東京生まれ東京育ちの人たちはたくさん存在してるけど、その人たちがあんまり外に出ていかないとすると、
自分から東京やその近郊に飛び込むなどの行動をとらない場合、実は思っている以上に、「東京の人」と自分は接点が生まれなくて断絶していて、
普段は意識してないけど知らない間に思いっきり「世間知らずの田舎者」になっているのかもなあと思った。
ホンマモンの都会モンの感覚とかが、自分は全然わかってないのかも、っていう。
「あー、(都会モンは一般的に)そう思うんだー」みたいな経験値が全然ない感じ。
ちょっと違うけど、駅の券売機が何回小銭を入れても吐き出してくるので、「なんでやねん」と手の甲をペシリとしながら言ってるのを関東出身の同期に見られて、
「うわああああ機械にツッコんでるううううううう(ガタガタガタ)」ってドン引きされたような類の体験が不足しているというか。
なんかこう、東京モンが家に遊びに来たりして、
東「この近くのコンビニどこ?」
俺「10分ぐらい歩いたとこにファミマやったらあるで、セブンやったら15分くらいやで(すぐ近くやで)」
東「えっ(なにそれ怖い)」
俺「えっ(ローソンがよかった?)」
みたいな会話を楽しみたいのだけれど、そもそも東京モンの知り合いがゼロだから、今のところ可能性がないっていうところに寂しさを感じる。
私が二十歳そこそこの30年も前の昔話…
当時銀行のATMや駅にある券売機のメンテナンスを仕事にしてました。
定期点検に行った時の話。
壊してしまいました。
交換基板がありません。
復旧までに、何時間もかかりました。
当時駅員の方は、
「これは300万位の損害だな~」
ありませんでした。
要求されるかも知れません。
気がします。
「今の世の中は便利になったはずなのに、人は生き辛くなってきてる」
と述べてましたが、本当にそう思います。
新社会人を職場に迎え入れる時期ですが、失敗するのが目に見えていても、
ちゃんとその機会をあたえ、場数を踏ませてあげてください。
顧客側の方も、使えない奴が来たと分かってても、
自社の新人を育てるつもりで接してあげてください。
自分が子供の頃、公衆電話の使い方ってそんなに手取り足取り教えてもらったっけな?と疑問に思う。
少なくとも、親からテレホンカードの使い方を教えてもらった記憶はない。
さらに言うと、オレンジカードで切符を買う方法については絶対に教えてもらっていない。
でも何度か切符買ってる。
小学校に入るか入らないかのあたりで、我が家にCDとCD再生機がやってきた。(それまではテープ)
説明書を読まなくてもCDは再生できた。裏返さないものだといちいち教えてもらっていない、裏返していない。
自分が子供の頃はまだSuicaは無かった。首都圏に住んでも居なかったから、上京して初めてSuicaというものの存在を知った。
誰かにSuicaでの改札のくぐり方、チャージの仕方をいちいち教えてもらったわけではない、今はPasmoを使えている。
昔使ってたガラケーだって、i-modeだってiPhoneだって、使い方は誰にも教わっていない。
全部ね、見ればわかる作りになってるのよ。
公衆電話に使い方、図で書かれてたのよ。
警察や消防はボタンを押せば通話無料っていうのもばっちり書いてた。押したらどうなるんだろうってドキドキしてた。
券売機には「ここにカードを入れろ」って書いてるし、音声でアナウンスもあるし
CDは片面が装飾されていて、こっちは使えないんだと分かったし、
コンボでCDのサイズが入りそうなところは上面にしかなかった、そこに丁寧に「OPEN」てかかれたボタンがついている。
ああ押せば開いて、ここにCD入れればいいんだなって分かるのよ。子供でも。
iPhoneだって最初に見て、どこを押せば良いのか分からないなんて人いないでしょう。
まあ、文字が読めないくらいの小さなお子様なら仕方ないけれど、
公衆電話かけられないとか、Twitterしてる年齢で警察や消防に無料で通話できるの知らない人がいるとか、
松屋にて券売機のお釣りが少なかった。防犯カメラ上に、私が 購入後、券売機の前で数分お釣りを数え、手に持ったまま店舗に入店し店員に確認していただいた映像があるにもかかわらず、返金しないとのこと。
松屋に対する同じような書き込みがインターネット上には溢れている。「券売機 お釣り 足りない」で検索しても引っかかるのは松屋のことばかり。サジェストも松屋のみ具体的な企業名(もしくは商品名)で引っかかる。
再度松屋本社は 警察に行く手間>被害額 に調整することで訴えられないようにするプチボッタクリ行為を企業ぐるみでしているとしか考えられないがどうなのか。と問い詰めたが否定しなかった。挙句、今後の対策や、今まで起こした同様の多数報告されているの同様の事象に対しても、特に今後も何もするつもりがないと。
だいたい同じなのだけど、
右手の人差し指(場合によっては中指も)と親指とで紙幣の長辺の投入したい側近くをつまむようにする方法。
新札であればこの手法は有効であることが多いが、しわになっていたり折り目がついていたりすると、つまんでいるのと対辺の側が垂れ下がってしまい、挿入口にうまく入らない。
投入しようとする方向の反対側にあたる短辺を持つ方法。
挿入口が大きめのものであれば有効である場合もあるが、紙幣が一枚ずつしか投入できないような間口の狭いものだと案外入れにくい。
いわゆる名刺を差し出す時のように、紙幣の長辺の両端を両側で持つ方法。
いちばん確実な方法ではあるものの、指の位置については相手の機械に応じて調整する必要がある。
つまり、挿入口の前に受け皿のようなものがある場合(JRの券売機に多い)は、あまり先端を持ってしまうと受け皿部分に指が当たってしまい、紙幣が挿入口まで届かない。受け皿の分のクリアランスを目測で考慮して、指の位置を中ほどに設定する必要がある。
逆に挿入口までのクリアランスが小さい場合(清涼飲料水のベンダーに多い)では、指でつまむ位置を紙幣の先端付近に配置し、挿入口に紙幣を挿入してからもスルスルと指を長辺に沿って指を滑らせるのがコツ。
なお、清涼飲料水のベンダーで紙幣の挿入口にカバーが付いているものがある。この場合は片手でカバーを持ち上げつつもう片方の手で紙幣を挿入せねばならず、両手作戦は使えない。
その他、挿入口の高さによっては手首をひねりそうになるような体勢になってしまうなど、机上のシミュレーションだけで挑もうとしても現場では臨機応変の対応を要求される。
ICカードを使ったお手軽な決済方式がさらに普及していくと、紙幣の入れ方がわからない、などという利用者も今後増加していくのではなかろうか。
それは券売機を二代以上設置しない店側のマネジメントが責められるべきであって
食券制で飯食うところに集まる底辺同士で争うのは滑稽
初めて立ち寄る豚骨醤油ラーメンのお店にて。券売機で「大盛りは100円増しかあ……腹減ってるし今日は大盛りでもいいかな」と食券を購入。
食券を渡すタイミングで、店員「ただいまのお時間、ごはんが無料で付きますがいかがしますか?」
・・・そういうのあるなら普通盛りにしておけばよかったよ! 断るのももったいないのでお願いしたけど。実際ごはんも含めて完食したよ。
店内をよく見渡したら、壁にベタベタ貼ってある張り紙に混ざって「ランチタイムごはん無料サービス」のポスターを見つけたけど、購入の意思決定に関わるそういう大事な情報は券売機の目に付くところに掲示しておいてもらえると有り難いかな!
映画化は継ぎ接ぎだ。
ある状況下において必要だった形質も、喉元すぎれば不要になる。その場その場で必要であった言葉の集合、小説の文体は場当たりの継ぎ接ぎでできている。映画化なんて前向きな語は間違ったイメージを人々に与えやすい。エンタメは、いやすべてのコンテンツは膨大なその場しのぎの集合体なのだ。
だとしたら。我々読者が獲得したこの伊藤計劃なる奇妙な作家を、とりたてて有り難がり、神棚に祀る必要がどこにあるのだろう。『ハーモニー』は、『虐殺器官』は、すべて時代への適応として作家が描出したにすぎない継ぎ接ぎの一部だ。死後の評価も、映画化の「プロジェクト」も、すべて「ある時代で」においてのみ、皆が生きるために必要だったから、SFというジャンルの生存に寄与したから存在しているだけだ。
かつて読者には、怒りが必要だった。
かつて読者には、喜びが必要だった。
かつて読者には、哀しみが必要だった。
かつて読者には、楽しみが必要だった。
1990年代(かつて)、2000年代(かつて)、伊藤計劃が生きていた時代(かつて)。
かつて読者には、「これ」こそがわたしであるという思い込みが必要だった。
<list:protocol>
<p:その他パンフ等を入念にチェックする>
</list>
「大丈夫。わたしは観られる」
そうつぶやくと、斜面に並べられ、ふかふかのウレタンの詰まった座席に腰を沈めた。
「やあ、読者。七年ぶり、だよね」
「でも、仕方なかったって言うんでしょうね、きっと」
「ええ、言うわ。『仕方なかった』」
わたしは例の盗撮注意CMを聞いた。映画泥棒がパトランプの白い指先をかすめ、法で定められた条文が読み上げられる。
「わたしにとっては、仕方なくないわ」
「そうだね。でもこれ以上衰退させるわけにはいかないんだよ。わたしたちの世界(SF)をね」
「そう。わたしたちの望みはね、伊藤計劃読者のハーモニクスなの」
わたしはね、永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与えたい。
わたしたち三作の死が、その一撃なの……。そうわたしは聞いた。世界って変わるの。
わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。
「ついに、わたしたちはここまで来た」
「ここまでって」
業界の幸福を目指すか。真理を目指すか。読者は<天才の夭逝>のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないなコンテンツであることの否定を選んだ。人格を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが読んでいるこの世界のすべてをシノギに置換すれば、それが得られる。読者はもう、戻ることのできない一線を超えてしまっていたんだよ」
わたしは画面にくぎづけになったまま、戸惑いの表情を浮かべる。
それを憎んでいたのは、
誰よりも否定していたのは、
「そ、わたしは『意識のない』作家の一員。というより、生を必要としない作家の一員、と言ったほうがいいかな。生を獲得した今となっては、だった、って過去形になっちゃうけど。わたしの生はあなたたちのそれとは管理する現実のセクションが違うんだよ。TOHOアニメーションと早川書房の一部でエミュレーションしている、らしい。わたしのプロジェクトはね、ここで生まれたんだ」
性器が屹立したような桃色の建造物の群れ。『チャージマン研』のころの未来像。
「ここはね、アニメのスタジオだった。書店から誘拐された原作本(おんなのこ)たちが、ここで毎日アニメーターにやられてた」
「わたしにのしかかってきたプロデューサーはね、わたしに繰り返し繰り返し入れながら、原画と台本をわたしに触らせてた。これがアニメだ、これが贈与だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつのペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口にredjuiceを突っ込んで、何度も何度も突き入れた」
わたしは計劃の話を聞きながら、既に涙を流していた。
これほどのことを、こうもにこやかにさわやかに話すことのできる意識。
「そうして突き入れられて、台本を修正校でべたべたにしているときに、わたしは生まれたの。このスクリーンのなかには、LINEスタンプも新装カバーもコミカライズも特集もトリビュートアンソロジーもグッズも本屋大賞も、すべての夢がたっぷりと染みついている。わたしは希望のなかでもう一度生まれた。いわゆる、プロジェクトとしてね」
「計劃は言ってたじゃない」と言うわたしの顔は涙と鼻水でぼろぼろになっている。
「計劃はこの世界を憎んでいるって。愛し愛され真綿で首を締められるようなこの産業を憎んでるって。どうなの、あそこはここ、この劇場よりひどい場所だったの……わたしたちの読んでいたジャンルは、この生首ディスカッションばかりのアニメよりひどい作品だったの……」
「どうしたらいいか、わからなかった。
この世界を憎んで、この世界に居場所がないって、どの作品も叫んでいた。わたしはそのときに思ったの。わたしは人間がどれだけに自意識過剰になれるか知っている。そしていま、逆に人間が自意識を――自然を押さえつけようとして、どれだけ壊れていくかを知った。そのときは、わたしは単純に思ったの。この社会が、このクール・ジャパンが、この2010年代という時代の仕組みがおかしいんだって。内部から、自分の裡からあのときの感動を徹底して求める読者がおかしいんだって考えたの」
そうだ。商業的健康を何よりも優先すべき価値観とするイデオロギーの許に、ポジティブな感想を常に提出しつづけなければならない空気。ジャンルの存続のために自らを厳しく律することが平和と協調と新作を生むと皆が信じている社会。
「何を」
「読者は変われるってこと。読者としての、信者としての偏狭な視点の限界を突破できるってことに」
「この業界を、わたしたち読者を憎んでいるから、あんな桜Trickを作ったわけじゃないのね」
「うん。わたしは愛している。この映画を全力で愛してる。あなたたちを愛してる――すべてはこの世界を肯定するため。すべては『わたし』を忘却できず、『わたし』に侵食される世界を救うための」
「この世界にとって完璧なプロジェクトを求めたら、作品の質は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」
「わたしは、笑わなかったよ」
感動げな大自然の映像が流れる。感動げなコーラスが流れる。どこからかニコニコ動画の亡霊の歌声が響いてくる。
「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万というコンテンツが発生している。日本でもね。ジャンルが要請する小さな利益とか、そういう細々した関係性を扱う以前に、わたしたちはまずどうしようもなく読者で、継ぎ接ぎの機能としての快楽や欲望のよせあつめにすぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」
「あなたは思ったのね。この現状に信者たちがなじめず腐っていくのなら――」
伊藤計劃が指をぱちん、と鳴らすと、今度は『ファイト・クラブ』の上映がはじまった。
「というより、読者であることをやめたほうがいい。SFファンを、オタクであることをやめたほうがいい。文化が生み出した継ぎ接ぎの快楽摂取行為にすぎない読書を、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。社畜になったほうがいい。書を捨てよ、会社に行こう――『わたし』とか意識とか、夭逝の天才だとか、プロジェクトだとか、SFだとか、アニメだとか、映画だとか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、復讐を目指したあなたたちに、本物の復讐が訪れる」
「じゃあ、計劃は戻りたかったんだ。あの『エヴァンゲリオン』以前の風景に。自分の民族が本来はそう在ったはずの風景に」
「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」
「じゃあ、それを奪うことは、わたしのささやかな復讐になるのかな」
「え」
「SFは死ぬ必要がなかった。だから早川はコンテストを再建したんでしょ。創元は短編賞作ったんでしょう」
「……そう、なのかな」
「あなたの『プロジェクト』は自己正当化する必要があった。あのときは。既に受賞済みの、止めようがない才能たちに対して」
「そうなのかな」
わたしはうなずいて、そしてきちんと座り直した。
「どうやって」
そして、わたしは席を立った。
人感センサー式の電灯は大概、まだここにいるのにもかかわらず消えてしまう。
トイレの手洗い場とかで蛇口の下に手をかざすと水が出てくるタイプだとなかなか水が出てこない。
自動ドアが開いてくれないこともよくあるし、
ちゃんとチャージしてあるTOICA が反応しなくて改札を通れないこともある。
駅の券売機や銀行のATM でもなんだか反応が悪くてイライラする。
スマフォなんか持ちたいとも思わない。
店の会員登録みたいなのでタブレットを使って記入させるところがあったけど、文字が書きにくくて苦労した。
あんな不便なものをよく使い続けることができるものだと感心してしまう。
もしかしたら自分は機械に存在を認められていないのではないかと疑念を抱くことがある。
自分はここでこうして生きているつもりだけれども、実は存在していないのではないか。
機械的なセンサーの類では感知しにくい、あやふやな存在なのではないか。
人間が支配している世界だと思って生活しているけれども、実は電脳ネットワークが創り出した幻なのではないか。
web ブラウザの向うには広大なインターネットの世界が広がっているように思えるけれども、
本当はM.A.S.U.D.A. (Mother Advanced Super Ultra Dynamite Agent)によって狡猾に形成された虚構の世界なのではないだろうか。
・ワ・
http://anond.hatelabo.jp/20150711002502
昨日このエントリを書いたが、一つとても重大な不満を忘れていた。
既に何人もの人が書いてくれている通り、「自転車」は京都市内において最強の移動ツールである。
街には南北の非常に緩やかな傾斜がある程度で目立った坂はなく、渋滞に巻き込まれることもない。
外国人観光客が家族でレンタサイクルを使って観光している姿はもはや見慣れた光景である。
http://travel.cnn.com/explorations/play/asias-most-bike-friendly-cities-982373
このような記事も存在する程度には自転車の利便性が高い都市なのだ。
残念ながら日本人観光客には一種の公共交通信奉があるのか、あまり乗っていないように思えるが。
それはともかく、この自転車と言う移動ツールを行政側が疎んじているようにしか思えないのが京都市だ。
四条通や河原町通の繁華街部分では自転車通行が禁止されているし、その周辺の駐輪場は日中ほとんど常に埋まっている。
駐輪場が埋まっているからといってその辺りに停めてはいけない。瞬く間に撤去されて受け取る際には2300円が徴収されるのだ。
ちなみに僕が知る限り、とある撤去自転車受け取り場所には支払証明書の券売機が2台設置されているが1台は全く使われていない。
民間駐輪場も増えてきてはいるものの街中では全く足りていない。
「料金がかかっても停めたい」という人も停められないのが現状である。
しかし京都市は今年7月1日より「自転車撤去強化区域」の範囲を市内ほぼ全域に拡大した。
京都市建設局自転車政策課曰く、「マナーが先、駐輪場整備はそれから」だそうだ。
なかなか笑わせてくれる。
河原町御池で、烏丸今出川で、有料駐輪場に停めようとして停められなかった自転車がどれだけあるか。彼らは知っているのだろうか。
どうにもならない交通事情をなんとか成り立たせているのが自転車の自由度だというのになぜ自転車の使用を萎縮させるような政策を取るのか疑問で仕方がない。
念の為に言うが京都にはとても愛着がある。不便以上に得るものがある場所であることは間違いない。
歴史や文化といった観光的な面ももちろんそうだが、いかにも日本的な組織絶対主義と一線を画す社会こそ何よりも体験に値すると思う(異論は認める)。
日本政府が出展しないような旅行博覧会への独自出展や産官学連携の分厚さなど、京都市の戦略性には感心する部分が多い。
だからこそ、この点で不満は大いに募る。
食券販売という形にしていない理由としては、「お客さんとのコミュニケーションを大切にしているため
」ということのようだ。
「接客も大事な商品の1つ」と吉野屋では考えているようだ。自動販売機による食券販売だと、食べ終わったお客さんがそのまま店を出る、ということが多い。そうなると、お客さんとのコミュニケーションが少なくなってしまう。
そこで、あえて券売機を置かないことで会計の際、お客さんと接することができるようにしているようだ。効率化のみを追い求めているだけでは、長らく愛される店とはならない。いつの時代でも、お客さんを大事にすることが、成功の近道ということだろうか。