はてなキーワード: 今日一とは
社会人2年目。やっと仕事にも慣れてきて、取引先にも顔と名前を覚えてもらえて、個人宛に仕事も回してもらえるようになった。
さあこれからどうやって頑張ろうか、なんて計画を立ててたところにようこそクソコロナ。
当時企画してたそこそこ大規模なイベントが中止になった。最近は取引先が遂に堪えきなくなり、バタバタと死んでいる。
何をやっても上手く行かなくなり、会社に行ってもネットで該当する助成金・補助金を探しては、申請書類をひたすらに書く日々。
プライベートでも飲み会が総潰れ。旅行も出来ず、帰省も叶わず、フォロワーとのオフ会もなくなった。
リモート飲みも最初は良かったものの、2回、3回となってくるとウルトラつまらん。
全員ペットの自慢しかしねえ(ペットは犬も猫も鳥もトカゲも総じてマジで永遠に可愛かったが、奇声を上げて可愛がる酔っ払いがキショくなってきてつらい)
そんなクソタイミングで畜生クレームのお知らせ。こちらに明らか非はないが、謝罪で丸く納まってくれるなら……ということで
最寄駅から電車に乗ると快速急行。目的地には止まりません。地獄か?
先方に謝罪が遅れる謝罪の電話を入れ(この世はクソ)この時点でだいぶ限界だったのでテトリスして気持ちを誤魔化した。
電車で戻っていると大変時間が掛かるので、駅前でタクシーを捕まえて先方まで直行することにした。
会社から先方までより流石に短い距離ではあるが、まあまあの運賃がかかった。
ちなみにレシートを何処かに落としてきたので経費で落ちませんでした。ウケる。
そんなこんなでメンタル終人(おわりんちゅ)、無事先方に到着!
知らんジジイに見に覚えのない罪でしこたま怒られ、挙句には「マスクが気に入らない!」とまで言われる。何?
この度は大変申し訳ございませんでしたー、と最後に追加で謝罪を述べ、開放してもらった。
どっと疲れがくる。ここは都会。自粛ムードなんてとっくに廃れてしまったのかと思うほどの人混み。
頭のてっぺんから爪先まで、高級ブランドで揃えたカップルとすれ違う。
一方の私は、3年着古した安物のコートにパンツまで全部GU。恋人なんかもう何年もいない。
私は知らんジジイに罵倒される一方で、彼ら彼女らはシャネルだか何だかの紙袋片手にお揃いのマスクでデートする。
年齢は私とそう違わない筈なのに、何がこんなにも違うのだろうか。
私だって頑張ってるのに、そう思ったら腹立たしくて虚しくて悔しくて涙が出てきた。
クソー!ふざけんなよ!といつもならこのまま安居酒屋に駆け込み、トイレと座席を往復しながら飲み散らかす。
が、コロナ禍。緊急事態宣言。飲食店はチェーンでさえ、午後8時に営業終了する。虚しい。
下唇が千切れるぐらい歯を食いしばって涙を堪え、ズカズカ歩く。
負けてたまるかよォ〜!と思った矢先、パンプスの底がベロベロに剥がれました。
しかも両足。あまりにも酷い仕打ちに私の心は終わりになり、ちょっと入った路地の植木に倒れ込むようにして座りました。
もう嫌〜!こっから電車で帰るってマジ?てか駅までまだ10分歩くってマジ!?都会、何!?
全部が無理になって、もうこのままトチ狂ってクソデカ車線の真ん中に踊り出るか!?とえぐえぐめそめそ。
そんなところに現れた、救済。女性の優しい声。
目の前にわざわざ座り込んで私に視線を合わせ、心底心配そうにこちらを伺う男女2人組。
「体調悪い?水とか買ってこようか?」と男性はタメ口だが確かに優しさのある、決して不快ではない声かけ。
いや道端で泣いてる見ず知らずの人間にいきなり触るか?とも思ったけど、今はとにかくその優しさが染みた。
話聞くよ、と言われたがあまり話したくはなかったので、ちょっと今日一日大変で……とぼかして話す。
それだけでもその男女2人組はうんうんと大袈裟な相槌を打ち、慰めの言葉をかけてくれる。
都会にもこんなに良い人がいるなんて……と感動し、お礼をメチャクチャ述べた。
それからちょっとした雑談に移る。男女は社会人サークルの仲間らしい。年も私と変わらないぐらいだ。
社会人になってから友達とも疎遠になるし、コロナ禍で人との出会いが少ないのが寂しくて〜、と女性が言う。
近辺のカフェを数人で巡っており、お勧めのカフェを聞かれたので、無難なところを答えた。
そこ、良かったら今度一緒にどうですか?と女性が差し出したのは彼女のLINEのQRコード。
カフェ巡りを趣味のひとつとしていた私は、喜んで連絡先を交換した。
それで彼らとは別れ、少し元気を取り戻しベロベロのパンプスで駅まで歩いた。
本当に良い人達だったなあ〜、良いカフェ探しとかないと。何人ぐらいで行くんだろう。友達増えるかな〜。
と電車の中でウキウキしながら、誰かに伝えたくて幼馴染に連絡した。
『それアムウェイじゃね?』
『うちのねーちゃんそんな感じで勧誘されてズブズブなうです!ウザすぎ(笑)』
だが一度メッセージが送られてきた。
『美味しかったー!また今度、一緒に行こうね!』
これはアムウェイじゃなくて本当にカフェ巡りサークルなのでは?と思ったが
幼馴染から送られてきた内容を思い出し、返信をグッと堪えた。
お礼をきちんと言えなかったのが非常に残念ではある。
それぐらいなら返信しても良かったのかもしれない、と今でも少し思うが
でもあの男女には本当に感謝している。
あそこで声をかけてもらっていなければ、あのまま帰れなかったかもしれない。
コロナ禍、ボロ布みたいな私を助けてくれたのは、間違いなくあの2人だ。
だからもしかしたらダブル節分の日をやる人多発するんじゃないかしら?
気を付けた方がいいわよ。
7月8月10月はなんか場合によってはカレンダーの印刷された物によっては
児玉清さんばりに言うと
なぜ角を取らない!って
児玉清さんが出演していたラストダンスの主題歌みたいに「さよならはダンスの後に」を歌っちゃうわ!
まあそんなことより、
方角分からなかったら、
私がずっとここで欲しいと言っている、
豆まくときのやつを
そんなパーティーグッズがあったら私買うし、
豆まいてるってレヴェルじゃねーぞ!
ってもうインターネットミームになりかねないこともないかも知れないわね。
だから私はどちらかというと、
こんなのもう節分じゃない!って
お父さんの首を守らなくっちゃ!って
節分!その前に首!ってダイレクトな名前の首の防具があったら、
それは避けられないわね。
でも圧縮空気で派手に豆をまくってメカニズムはありそうなものよね。
手放しで喜べるので手掴みで食べるけどね。
ニューヨーカーがホットドッグを食べながら街を闊歩するようなそれの日本版よ。
だから恵方巻きもホットドッグに見立てて手に持って街を歩きながら食べて闊歩して欲しいのよ。
私は手を汚さずにお父さんを豆バズーカーで抹殺出来ることが出来るのよ。
そう私の手を汚さずにね。
豆だって鳩が食べるってレヴェルだし、
ごめんね気が付かなくて!
鳩さんが食べやすいように水のお皿も横に置いて上げるの。
町で見かけるハトを見ていると水たまりの水を飲んでいるハトがいたりなんかして、
切なくなるわ。
そっちの水の方が少なからずしも水綺麗なはずよ。
例え筋力が充分にあったとしても羽前で蛇口を回せるとはとても思わないわ。
ここのお水のお皿からお飲みなさい!って
釈由美子さんばりにおゆきなさい!って勢いでお飲みなさい!って言うのよ
スカイハイだけにね。
だから私は方角がどうのこうのとかっての気にしないの。
とりあえず
明日は節分じゃないんだかんね!って力一杯言いたいわけなのよ。
鳩さんが水飲むで思い出したけど
飲んでる途中の猫さんの後ろ頭を押してあげたら、
押してと言われて押さないのなんて上島さんだけしか通用しないんだからね!
うふふ。
まあパッとしないけど、
今日海苔巻きあるから恵方巻きね!ってちょっと期待しちゃうわ。
今日は朝のホッツ緑茶ティーウォーラーを水筒に仕込んできました。
朝は暖かく温活で目覚める朝にして欲しいんだな!
私とのお約束よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
男の年齢って、見た目じゃわかりづらい。
知人のアラフォーを見渡しても、30前後にしか見えない人もいれば、
スンっと冷静になった。
共通点が多いな~と思ってたら、干支も同じだったっつーオチかい。
年齢なんてただの数字、というけど、数を重ねた分だけ、経験も積んでいる。
そこには誇りを持っていて、27歳に戻りたいなんて思わないけど。
ビジュアルは2、30代、中身はアラフォーなんて都合のいい人はいないだろうし。
その逆はもっとだめだし。
素敵な人は売り切れてるんだよね。
在庫があっても、高くて手が出せないの。
人手不足で溢れ出た仕事がほとんど僕のところに回ってきているからだ
週6出勤で週に1日の休みも家事をやるだけで終了して、いやそもそも家事すら満足に終わらず終了しているからだ
職場に来てもできの悪い同僚がつまらん仕事をギャーギャー騒ぎながらやたら時間をかけてやっているからだ
上司は上司でくっそ暇なくせにいかに自分は忙しいかのアピールに必死で、今日一日なにして時間潰そうか、メモ帳にあれやこれやうんうん唸って書きながら朝の一時間を潰しているからだ
仕事を円滑に進めていきたいがゴミみたいなLAN回線が設置してあるのでさっきからプリンタで印刷しようとしても応答しない。誰もこれを解決できない老人企業なので、PCやネットで困ったことが起きるとすぐに呼ばれる。また仕事が増えましたね。
早く帰ってよく食べてよく寝ればいいんだろ?わかってるよ。
でもじゃあ今この瞬間何すればいいんだよ。帰っていいのか?
はてな匿名ダイアリーというものの存在自体は割と昔から知っていたが、
時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。
ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。
文章を書くことは苦手で、ここ特有のルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、
色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。
30年前、私は子供だった。
近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。
母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。
A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。
歳が近いこともあり、こちらへ帰省してくる度によく一緒に遊んでいて、幼馴染も含めて全員とても仲がよかった。
こちらにいる間、その3人は知り合いが私たちしかいないのもあってとにかく同じ時間をともに過ごした。
鬼ごっこをしたり、缶蹴りやドロケイをしたり、おしゃべりをしたり、
とにかく何をしても楽しくて今思い返してみても幸せな時間だった。
数年間、そうやって過ごしていくうちにB子を好きになっていった。
もしかしたら年に数回しか会えない環境がそうさせたのかも知れない。
愛だ恋だなんてわかる歳ではなかったが、今振り返ればあれが私の初恋だった。
26年前の正月、いつものように帰省してきた3人と遊んでいるうちに、原因は思い出せないがA太と喧嘩になった。
喧嘩と言っても「お前の母ちゃんでべそ」的な稚拙な言い合いだったが、
A太の味方をしはじめたB子とC美にも矛先を向けた。
初めは稚拙な言い合いだった喧嘩が段々とエスカレートし言葉も荒くなっていった。
何を言ったのかほとんど覚えていないが、別れ際に吐き捨てるように
「○ねばいい」「お前ら○んだらみんな地獄行き」と言ったのだけははっきりと覚えている。
1995年1月17日、その日は私の親類の葬儀で前の日から福岡にいた。
こちらだけの風習なのか知らないけれど、私の親を含む大人たちは交替でロウソクの番をしていたり朝食の準備をしていたらしい。
私はぐっすりと眠っていたが、その大人たちの声で目が覚めた。
ぼんやりとしか覚えていないが「揺れた」というワードが聞こえたことは覚えている。そのまままたすぐ眠りに落ちたけれど。
朝になってテレビを見て映し出される光景に愕然とした。B子たちが住む街だった。
あの当時、今となっては考えられないことだけど死亡者の名前の羅列がテレビで流されていた。
それももしかしたら記憶違いかも知れない。(あるいは新聞?誰かによって何らかの方法でもたらされた情報?わからない)
だけどその羅列の中にB子たち3人とその母親の名前を見つけて震えた記憶がある。どうやら祖母の名もあったらしいが私は知らない。
要するに世帯全員だめだったということだ。
当時死というものへの認識は既に持っていたが、その時は混乱していたのかうまく理解ができなかった。
何もわからずただただとんでもないことが起きたことだけは、自分の体が震えたことで理解できた。
痛かっただろうな、怖かっただろうな、苦しかっただろうな。まず浮かんできたのはそういうものだった。
「大切な人をなくした」とか「愛するあの子をうしなった」とかそういう感情ではなかったが、
ただもう会えないことと最後に言ったあの言葉だけが月日を追うごとに重くなっていった。
最後に会ったとき、最後に言った言葉、やり直せない時間に悔いても悔やみきれない。
子供ながらに言ったこととは言え、なんてひどいことを言ったのだろうと。
あんなに仲良く遊んでいたのに、どうしてよりによってあれが最後なのだと怒りすら沸いた。
あの震災で起きた出来事で、トラウマというほどでもないが、人との別れ際がすごく怖くなった。
大切な人ならなおさら、そうでない人相手にも「さよなら」という言葉がどうしても言えない。
どれだけ喧嘩しても必ず別れ際には仲直りをしたい。仲直りができないままには電話も切ることができない。
「さよなら」という言葉の代わりに必ず「またね」というようになった。
私が高校生ぐらいになった頃から毎年1月17日に、よく一緒に遊んだあの公園へに花をそえに行っている。
本当はお墓に行くべきなのだけれど、さすがに兵庫まで行くわけにもいかないのと、行ったところであてもないので場所がわからない。
その場所に老人向けのグループホームが立ってからも、施設の人に事情を説明してお参りを続けていた。
月日流れて数年前の1月、私が生まれる前から散り散りになっていたという私の父のいとこが興信所やら何やらの調査を経て愛知から訪ねてきた。
数十年ぶりの再会とのことだ。長い長い思い出話の後にお墓参りがしたいということで、近くのお寺の納骨堂へ一緒に行くことになった。
納骨堂へ着いて一通りお参りしたあと、何気なしに周りの仏壇に目をやって驚いた。
目の前の仏壇にB子たちの名前と戒名が書かれた札が下がっていたのだ。
(法事が近くなった頃に「もうすぐ法事ですよ」ということでお札を貼られるお寺だった)
その納骨堂へは毎年お盆にしか来ていなかったからそれまでの約20年間気づけなかった。(ご先祖さまごめんなさい)
色んなことが重なり合わさって知ることができた事実だった。
まさか私の先祖と同じフロアに眠っているとは考えつきもしなかった。
こんなに近くにいたとは。毎年目の前を素通りしていたなんて。
それからは毎年1月にその納骨堂へお参りに行っている。(もちろんご先祖さまにも手を合わせている)
今日も花を添えてきた。お参りが済んだ別れ際に言うのはもちろん「またね」
まさかこうやって会うことができるようになるなんて、と今でも不思議に思うし、直接祈りを捧げられることに
誰へかはわからないが、何へかはわからないが、色んなことにとても感謝している。
人との別れ際、トラウマとしてじゃなく、これからもやっぱり大事にしていきたいと思う。
おわり。
今というのは言葉の通りであり,現在進行形でオンラインのインターンシップに参加している.
とてもつまらない.就活とはそういうものだと理解はしているがここまで意味を感じないものだとは思っていなかった.
オンラインインターンシップの内容として多くは次のような内容である.
まず企業理念等を見せられる.その後,新規事業の提案を参加者同士で議論し発表する.終わり.
志望業界をある程度絞っているのもあるがどこの企業も似たり寄ったりである.
たくさんのインターンに参加するにつれて傾向も見えてきた.およそ実現のできないアイデアなどが意外と受けがいい.
これに何の意味があるのだろうか.
職場や会社を見学できたり,現場の人と話したりできるものではないのか.
コロナ禍のインターンシップは何もない.質問をしようとも企業が用意する社員からはよそ行きの綺麗な回答しかもらえない.今日一日を振り返るとただパソコンの前に座っているだけ.
中野駅は、千葉から三鷹市を結ぶ総武線や、山梨の大月まで伸びている中央本線の中継点になっている。ふだん通勤で新宿駅と阿佐ヶ谷駅のあいだ(つまり総武線のほんの一部区間)を毎日行ったり来たりしているだけの私には、中野は少しイラッとさせられる駅だ。停車時間がいつも長いからだ。中野駅に電車がいったん着くと、ドアを開けたまま、再び走り出す気配すらない。思い出したように電車が再び走り出すまでの間、乗客は列車の中で押し黙っている。
乗客の忍耐を承認と受け取ったのか、国鉄は中野駅での停車時間を少しずつ延長しはじめたみたいだった。
2分間停車とアナウンスではいっているのに、それより長く感じる。たぶん自分が焦っているだけだろうと思い、最初の頃は気に留めなかった。数日後、やっぱり長いなと思って時計で計ると、5分を越えていた。それから日ごとに中野での停車時間は長くなっていき、20分を越えた頃にはさすがに乗客のほとんどが異変に気づきはじめた。停車時間が2時間を越えた頃にはもう国鉄は隠すこともしなくなった。これから2時間停車する旨アナウンスが流れると、乗客は全員降りていった。
中野で毎日2時間電車を待つのはそれなりに大変だったが、しだいに慣れた。電車待ちの客をあてにした商売が中野駅の周辺で増えて、時間を潰す場所には困らなかったからだ。駅前広場のパブリックハンギングで人が首にロープをつけたまま落下するのを眺めたり、うずら園へ行ってお茶を飲んだり卵を拾ったりしていると、それなりにしのげた。
停車時間が2日間になったときには、もっと腰を据えて時間を潰さなくてはいけなくなった。それだけ時間があるなら歩いて阿佐ヶ谷へ帰ろうかとも思ったが、検問が行われていて中野から西へは自由に行けなかった。これほど長く乗客を中野に留め置くことは疫病対策になにか関係があるらしかったが、詳しいことはわからなかった。
なんにせよ2日間は長い。食料を仕入れて寝る場所を探そうと思い、とりあえずブロードウエイに行った。その名のとおりブロードウエイはとても広く、20〜30mくらい幅がありそうな道路の両端にはかすかに黄色い葉を残す銀杏が並び、樹の下には雑多な屋台が出ていた。植木屋、金物屋、肉屋、魚屋、おでん、綿あめ、射的、大人のおもちゃ、根付、オーディオ用品、型抜き、スマートボール、骨董品、ありとあらゆるものがあった。
道路脇にプロパンガスのボンベを持ち込んでソーセージを焼いていたので、2本買った。真冬でも麦わら帽子をかぶったおばさんが、ちぎった生のキャベツ、青い唐辛子と一緒に小さなビニール袋へ入れてくれた。この辺でどこか安く泊まれるところはありませんかとついでに訊くと、最近電車待ちの人向けにキャンプ場ができたよと教えてくれた。
キャンプ場はうずら園の裏手にあった。入口で受付を済ませると、カーキ色のテントと寝袋を借りた。米も売っていたので買った。調理場にたくさん積んである飯盒を借りて米を炊いているうちに日が暮れた。
暗くなると一気に寒くなった。このまま寝られるかどうかもわからないほど寒かったので、斜め向かいのテント前でやっている焚き火にあたらせてもらった。そこにいたのは自分と同じくらいか少し上の年頃の男性で、柔らかい物言いのわりに目の奥の光が鋭かった。焚き火の上で沸かしていたお湯で焼酎を割って飲ませてくれたので、自分はポケットに入っていた南部せんべいを渡した。
これから毎回、西に向かおうとする度に足止めを食らわせるつもりなんですかね、国も呑気なもんですね、などと話し合っているうちに私たちは打ち解けた。国分寺に住むミヤシタさんというその男性はカメラマンで、戦場というよりは紛争地帯の取材を専門にしているらしく、数年前、パキスタンからアフガニスタンへ入った時の話をしていた。自動小銃を持ち、黒い布で顔を覆ったタリバンの兵士が乗るピックアップトラックについて村を、学校を周って子どもたちを撮影したこと。片目のない子、腿から膝にかけて爆撃の痕で肉がえぐれたままの子が珍しがって寄ってきたこと、阿片栽培関連の場所は一切撮影を許されなかったこと。暗闇の中で炎を眺めながらそんな話を聞いていると、自分が東京にいることを一瞬忘れた。
テントに戻って眠りについたものの、寒さで目が覚めた。寝袋が冬用なのかどうかわからない。奥歯がガチガチ鳴るのを自分では抑えることができなかった。このまま横になっているのに限界を感じて外に出ると、空がかすかに明るくなり始めていた。バラックのトタン屋根が、木が、電柱が、金色と紫色の混じった光から現れてきた。今日一日をどうするかはまだ決まっていなかった。
よく思うことなんだが、外ではとても言いづらいことなのでここに書かしてもらう。
自分は「もし自分が明日死んだら」ということをよく考える。誤解されないために明記するが、これは自殺したいと思っているということではない。自分の余命が決まっているというわけでもない。自分はありがたいことに安定して(多くはないが、生きていくことはできる)お金が手に入る状況にあるし、友人にも恵まれており、趣味等もある。体もまだ20代前半で特に大病を患っているわけでもない。かなり恵まれている状況にあるということは自覚している。
だが、こういう状況にあっても、明日死ぬ確率というのは決してゼロではない。交通事故、なんらかしらの社会とのトラブル(事件に巻き込まれるなど)、突然の体の異常の発生(心臓発作等)、最近だとコロナもある。もちろん、小さい確率ではあるが、無視できるものではないだろう。明日ではなく1年後になれば、人間関係のトラブルからの鬱の発生→自殺願望の発生といったルートや生死にかかわる病気を患うといった、もっといろいろな要因が存在する。1年後、今と同じように心身ともに健康にいられる確率というのは決して100パーセントではないだろう。死というのは、たとえ恵まれた自分であっても決して遠い状況ではないのだ。
こういう考えを持つようになったのはなにも最近のことではなく、小学6年生のころからであり、23歳になった今になるまでずっとこのことを意識している。小学6年生のころに一時的に親との関係がうまくいかなくなり(今思い返せば反抗期の始まりのような些細なことであったが、当時の自分にとっては世界を揺るがすような重大ごとであった)、自殺を考えたことがある。実行はしなかったし、「自分が死ねばみんな困るだろう」という小学生らしい浅慮な考えだったが、幼いながらに死に方に思いを巡らせた経験はかなり強烈であり、それからも事あるたびに、死は近くにあることを思い返すようになった。
最初はこういった考えが悪い方向に働くこともあったが(どうせいつかは死ぬんだといろいろ投げやりになった時期になったこともあった)、高校を卒業したあたりからは「いつ死んでも後悔しないような生き方をしよう」というように考えるようになった。これは、色々なことに対して「プロセス」を重要視するようになるという変化を自分にもたらした。例えば、何か目標がありそのために努力をしなければいけないとする。すると、それまではその目標を達成するために努力をしようという考えだったのが、努力する過程も楽しもうという考えになった。そうすれば、目標を達成する前に死んでしまったとしても後悔しないからだ。これは極端な例だが、なんらかしらの結果を出すために何かを我慢するのではなくそのプロセスを楽しむ、あるいは選択をするときにプロセスが楽しそうなほうにする、という風に考えることができるようになった。
他にも、人との出会いを一期一会と思って大事にすることができるようになったり、なにより「今日一日は楽しかったか?」ということを意識しながら生きることができるようになった。これは後ろ向きな考えをしがちだった昔の自分からするとずいぶんとよい傾向だと思っている。
(ちなみに、今死ぬなら誰にどういう遺言を残したいか、といったことも考えたりする。そうすると自分が本当にお世話になっている人はだれか、とかやり残したことは何か、みたいなものが見えてくるのでよい時間だと思っている。もちろん、本当に自分が遺言を書かなきゃいけない場面になった時にこういう考えができるかといわれたらそんなことはなさそうだし、おままごとの域を出ないとは思う。)
まあこういう感じで、死にたくはないが、明日死ぬことになっても後悔したくない、ということを念頭に置いて生きているんだが、こういう話をする(もちろん、本当に親しい友人にしかしないが)と「やめてよ、そんな話」とか言われたりすごく傷ついた顔をされる。本当にやめてほしいと頼まれる場合がほとんどだ。もちろん、自分のことを必要な存在だと思ってもらえること自体はありがたいことである。だが、「もし死んだら」みたいな話をそこまでタブー視しなくてもよいのではないか、という気持ちになる。「今本当に死にかけてる人とかに失礼じゃん」みたいなことを言われたりするが、その発言こそ「自分はまだ死ぬ側じゃない」という傲慢さを自分は感じてしまう。○○歳まで生きてあれとかこれとかやりたいみたいな話をしておいて、それよりも早く死んでしまい、「もっとやりたいことやっておけばよかった」となるよりはよっぽど良い気がするのだが、「それはそうだけど死ぬなんて言わないでよ」みたいに言われてしまう。
先ほども述べたように、死はいつだって割と近くにいると思ってるしそんな状況でも死なんてどっか他人事みたいな扱いをするよりは、もう少し気楽に話せてもいいのになあといつも思っている。
ここまで書いて思いついたのだけれど、こういう話を笑い話としてできるフォーマットが「明日地球に巨大隕石が落ちてきたら」なのかもしれない
全部正しい。しかし正しさではこの「家に帰って落ち着いた状態で胃になんか放り込むことで今日一日労ってる風」はどうにもならないのだった…