はてなキーワード: タートルネックとは
名札の入ったネックストラップをつけてるとどーにもやたらとムズムズして気になる。
我慢してつけてたけど段々首のストラップが触れてるところがズキズキ痛くなってくるし、
開き直ってデスクでの仕事中は首から外してデスクに置くようにしたら随分気分がスッキリした。
昔からタートルネックや肌にフィットする服や肌着がどうもダメだったり、握手でゾワゾワしたり、肩に手を置かれて振り払ってしまったり。
人に触れられるとちょっとしたことでもくすぐったさや不快感が強くて、笑ってしまったり逃げてしまったりしてなかなかスキンシップがしづらかったりする。
頭(髪)は割と触られても平気だから散髪は大丈夫だけど、医者は喉や胸、背中に手や聴診器で触れられるから苦手。
触覚過敏気味なのかなー。
男性特有のタブーといえば毛髪だと思っている女性は多いだろう。確かにハゲは深刻な問題だ。しかし、ハゲは外見で判別できるのためデリケートな相手に対して話題を避けることが可能だ。
フサメン同士で「いよいよやばいとなったらスキンヘッドにするよ!」「そうだな。俺もそう覚悟を決めてはいるけど、本当にその時が来たら決断できるかなー」「確かに。ばっさりいくのは淋しいよな」「だよなー」こんなふうに会話を交わすことは容易い。
しかし、ちんこの皮かむりに関しては、裸にならないと確かめようがない。そのため、話題にすることが非常に難しい。少なくとも私は20代以降、他人と包茎についての話をしたことがない。
10代の頃、皮が剥けるか否かは思春期の男子にとって重大な関心事であり、また、近い将来のイベントとして捉えられていた。10代の包茎は童貞と同じく、無垢なるものの象徴でもあった。
だが、成人が近づくに連れ、焦りが生じ始める。一向に剥ける気配がないのだ。手で何とか剥こうとするも、固いし痛いしで、とても剥けそうにない。
チョモランマに降り積もった万年雪のように、私の先っちょの皮が動くことはないのか。春は来ないのか。タートルネックを頬の辺りまで持ち上げて手術を誘うイケメン風の男が夢に出るようになった頃、突然にそれは剥けた、
ひょっこりと現れた亀頭は生々しいピンク色で、少し触っただけで痛みを覚えるほど敏感だった。つ、ついに剥けた・・・、感動に打ち震えていると、ひゅるんと音もなく皮がまた覆い被さってきた。
うむむ、これはぬか喜びなのか?一瞬の幻なのか?とがっかりしたが、この後、徐々に剥けている時間が長くなり、数ヵ月後、ついに皮が被さることはなくなった。
よかった。私は包茎ではなかった。安堵といくばくかの自信に包まれて私の20代はスタートしたわけだが、このまま包茎だったらどうしようと深刻に悩んでいたことは鮮明に覚えている。
そのため、大人になってから、包茎に関する話をしたことはない。自分から話を持ちかけることはもちろん、他人から持ちかけられたこともない。
ただ、ひとつ大きな疑問がある。
男性の約70%が包茎だといわれているにも関わらず、私は、銭湯や温泉で包茎の大人を見たことがないのである。
全員の股間を凝視しているわけではないのだが、目に付く大人はみんなちゃんとずる剥けている。
この70%という数字が間違っているのだろうか。
もうすぐ大学が始まる。
大学でもトップクラスに汚い、自分も他人も見ていられない己の肌は冬になるとさらに血やら膿やらを吐き出しカオスになるし、容姿の良い女はタートルネックやらを着て胸を強調してくるだろうから生きるのが苦しくなる。
父親の年収が数千万円でも自分は生きているのが苦しいのだから、やはり金ではもう如何にもこうにもならないのだろう。
でもどうして生きているかというと、父の作った人形がある街で4桁の番号をもらえるかもしれないのだ。
4桁の番号を手に入れると自分は数十億円の資産が手に入るそうだ。
しかし、父親が死ぬと全てがおじゃんになる。数十億円の資産も入らないし、父が稼ぐ金はなくなる。
ただでさえキモい容姿はより年をとり酷く醜くなるのは確定済みだ。
もし、父が生き続けて、数十億円の資産が入っても今の醜い肌や髪、容姿全て、腎臓は治らない。
美しい容姿で生まれたかったけども、どうにもならないのはわかっている。
人形が4桁の番号をもらって容姿が変わらないことに絶望するまでは生きたい。
もしくは4桁の番号がもらえないと分かったときまでは。
もうじき京都へ戻らないといけない時がやってまいりました。
東京では父親の会社で美人社員の写真を撮って歯ぎしりしたり、ブスと美人の会社での扱いの差や、既婚か未婚かなどを知って色々と悲しくなったりしましたが、エチオピアのチキンを食べたら嫌なことは忘れたので京都よりずっと楽しいです。
話は変わって、京都といえば皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
舞妓さん体験をしている女の子の写真を激写する外国人と偽物だと言い放つ日本人とか?
舞妓体験をする女の子は基本的にわりかし可愛い顔をしている子が多いのは京都で気づいたことであります。
顔に白粉をべったり塗りつけたり、水溶きの紅をつけたりして、色々身につけて街歩くなんて相当自分に自信がないと出来ないから当たり前でしょうか。
京都という街は何もありません。
エチオピアはないし、ボンディもないし、プティフ・ア・ラ・カンパーニュもない。
カレー屋もあるし、財布の中に金はあるし、本屋もあるし、セックスできなくても笑ってられます。
そして、自分が通う頭の悪い京都の私立大学は「セックス」が一番の価値を占めます。大学生ならみんなそうだろとか言うと思いますが京都でも特に頭の悪い大学は金閣寺くらいしか周りにないので、逃げ場がないのです。
容姿が醜くて、勃起はする自分が常に「セックス」をするための「性的魅力の格差」というものを見せつけられていたらもう苦しいのです。自分が顔がいい女なら京都がクソとか言いません。性犯罪のリスクはあっても、「セックス強者」であれますから。
「性的魅力」は金で買えないので、自分は弱者で、どうにもならないまま鏡を見て泣くだけです。そして、大学内や自分の下宿先付近でバカなセックスしか考えていない女のタートルネックやら、トップスに浮き出る胸を見て自分よりも価値があるということを見せつけられて泣くのでしょう。
みんな京都を楽しく書いていて、経歴欄には誇らしく自分の出身大学を書いてます。
自分の大学出身の頭の悪い評論家の本の経歴欄には大学名が書かれていないからやっぱり自分の大学は恥なのでしょう。
左京区のみんなが尊敬する大学の学生はみんな顔を上げて街を闊歩してます。美男美女に並ぶ京都の王です。
北区には何もないから死ぬ気で府庁前まで歩いてきたとき、スーパーマーケットの前で地べたに座りノートパソコンを弄っている、髪を染めた学生らしき人間がいたので、恐ろしくて北区の家まで逃げ帰ったことがあります。
あの知性を感じさせる雰囲気と奇抜さはあの川の向こうの大学の学生に決まっています。
先天的なものが幸せを決めます。「性的魅力」と「頭のいい大学に入れる知能」。
自分は年間学費200マンの大学の金づるとして○○館○像学部でバカなやつらと嫌々カメラいじって、セックスに困らない学生を見たり騒ぎを暗い部屋の中で聞いて、北区にはご飯を食べるところがないから財布に金はあるのにコーラ1本で1日過ごしたり、京大生とか美人を見て嫉妬で泣いたりするんだろうんでしょね。
ある一定を超えたら、自己防衛のため大学には行かないようにしようと思います。
胸を強調し男に媚びるためのファッション。
せやろか
アトピーになった光浦靖子みたいな同僚がタートルネック母音やらミニすかに見えるショートパンツやらニーハイブーツと言う格好で
胸の大きい人は薄着だとどうしても目立ってしまうというのはある。
けど、長袖着用の冬にわざわざ職場でボインを強調させるって意味がわからない。
仕事しにきてるのにだよ。
そりゃ、ブラジャー関係の会社でその形ふくらみぐらいを服の上から判断する必要があるような特別な事情があるならしょうがないよ。
そうじゃなくて、普通のビルの中、男満載の職場にタートルネックのボインとか一体全体どういうことだよ。
チラチラ目が行ってまったく集中できない。
しかもそんなに強調してるくせに、こっちが「お、今日もまたボインが炸裂してるな」と軽口たたきながら後ろからモミしだこうものなら一生終わりだよ。
近づくと怪我するとかどんだけだよ。
逆の立場で考えてみてよ。男がピタッとしたズボンにフル勃起のシルエットをわざと目立つように浮かび上がらせていたら、
チラチラ目が行って仕事にならないし、ついつい手が伸びてしまうってこともあるだろう。
そんだけのことをやっているという自覚が欲しい。
いつも言うけど、最高におしゃれなiPhoneを作ったボス スティーブ・ジョブズは
イッセイ・ミヤケの黒いタートルネックのみを着続ける(といっても気温次第)ユニフォーム族である。ということで超有名。
センスってそんなもん。
TPOはあるけれど、なんだろう。うーん。きたい服を着ればいいよっていうのは、本当に酷い時に無責任になってしまうから。
ファッションセンスを見てもいない人に、気軽には言えないけど・・・
なんだろう。一生懸命勉強することを『楽しみながら』やってくれれば、人生が楽になるんじゃないかと思います。
それに、好きな人ができたら、その人が気に入る服を着ればいいだけの話で・・・なんだろう。皆に気に入られようと思ったら大変だけど
ようするに、自分の奥さん、旦那さんがOKといえば TPOを除けばたいていはOKなわけで。
楽しみながら やって 楽しんでほしいなと 思いました。
http://anond.hatelabo.jp/20130809230230
すげーとはまあ認めるんだけど、信者の
「起業家としても経営者としてもクリエイターとしても至高!未来が見えていた預言者!」
みたいなほめ方はどうかと思うんだよね。
時代に助けられたこともあれば、時代の流れに逆行して痛い目を見てる。
将来が見えていたからこそ、ポリシーを突き通したのかと言えば、そうでもない。
だって、将来がみえていて、いずれ上手くいくことがわかっていれば、復帰後にアップル株を売却したりはしない。
クリエイターとしては、そもそも本人が作ってるわけじゃないし、プロデューサーだとしたって、何一つ世界初の新しいモノを作ったわけではないし。
MP3プレーヤーだって、スマートフォンだって、タブレットだって。
それまでの製品と違って、完成度の高いものを提供したと言えばその通りなんだけど、結局はどれも後発に負けていったわけだし。
やはり、非の打ちどころのない評価というと、最終的にはiPhoneを世に出したことだと思う。
間違いなく、MacはiPodにつながって、iPodはiTunesにつながった。
NeXTもピクサーも、iTunesもiPodも、最後は、iPhoneにつながった。
いままでの彼の仕事が、点が線になり、iPhoneという製品につながった。
時代が、世界中で起きた出来事が、うねりが、思想が、線になり、iPhoneにつながった。
「未来に先回りして点と点をつなげて見ることはできない、
君たちにできるのは過去を振り返ってつなげることだけなんだ。
必ずつながっていくと信じなくてはならない。」
と言っている通り、本人は「何らかのかたちで必ずつながっていくと信じ」、無根拠に回りの人間をつき合わせた。
言い換えれば、結果オーライ。
ドラマチックだったのは間違いない。
俺としては、村西とおるのような評価だろうか。
本人いわく日本一の販売成績。
暴力団の事務所にアポなしで突入し、英会話教材を売って帰るなどのエピソード多数。
「これからの任侠はインターナショナル、中略、右手に拳銃、左手に英和辞書…」
この時に磨いた巧みな話術は彼の人生に与えた影響は大きい。
セールスマンで稼いだ金でインベーダーブームに乗り、筐体の設置販売で財を成す。
裏本の制作・販売業に転じ、またたくまに業界一位の大グループを形成。
絶頂も束の間、摘発、資金繰り悪化で廃刊、会社解体、猥褻図画販売容疑で逮捕され有罪確定。
監督・男優・カメラマンを兼ねて本番をする「ハメ撮り」というジャンルの確立。
彼がハメ撮りの他に、アダルトビデオにおいて確立したものは主に次のとおり
・駅弁
・ストッキング破り
AV女優の焼き肉店を出店するなど、AV女優のタレント化のはしりなどもこの人。
ただ、時代を先取りしすぎた。
「空からスケベが降ってくる!」
一時、私も栄華を極めたころがありました。会社が年商100億円。4億円のクルーザーを持ち、1億円のロールスロイスに乗り、10億円の家を建てたりも致しました。それが倒産したら、緑の楽園があっという間に見渡す限りの荒野です。残ったのは50億円の借金だけでした。何カ月もマンションの家賃さえ払えない状態が続きましたから、楽しみは妄想することくらいです。日々、妄想しまくりです。でも、俺がこうだったらこうしてやろうと、あれこれ考えたことが、結局は再起の原動力になりました。
借りた金は返す。口の上手さばかりが目立つ彼だが、約束は守る、熱い男である。
ここ数年、毎年自殺者が3万人を越えるというニュースに接するたびに、私ははらわたが煮えくりかえるのであります。なにが自殺することがあるのかと。
私は現在63歳ですが、かつて50億円の借金を抱え、ひどいときは毎月3000万円ずつ返しておりました。女房(元AV女優)としているところを無修正で流されたこともございます。
前科も七犯ございます。借金している相手から夜中にダムまで連れて行かれて、「人殺しするわけにはいかないから、ここから飛び降りて自殺してくれないか」と頼まれたこともございます。
どうやって切り抜けたか? そりゃあもう「返しますよ〜」という情熱のマシンガントークでございますよ(笑)。朝、家を出ようとしたら大家からためた家賃を払えと怒鳴り込まれ、女房が土下座して許してもらったこともございます。
マンションの全戸に「村西借金払え」と張り紙をされて、一軒ずつ頭を下げて回ったこともございます。住民からは「あんた、日本から出て行け」と言われたこともあります。
こんな私のところに、青い顔をした人がたまに人生相談に参ります。「借金の額はいくら?」「7000万円です」「女房のオ○マンコを世間の皆様にご紹介したことはございますか」「とんでもない」「前科はどのくらい?」「ありません」。
いったい、なんで死にたいのかと。ふざけるんじゃないですよ、と。そういうと皆さん、「ああそうか」と憑きものが落ちたような顔をして帰られる。
「ナイスですね」
しか知らんだろうが、彼の
「ワタシは最高にツイている」
を、ここで紹介したい。
最近私が名刺に刷っているスローガンは「ワタシは最高にツイている」です。私たちはみな、何千億という精子の争いから勝って生まれてきました。その時点でもうツイているのです。人様から見れば私の人生は歯を食いしばって生きているような、凄惨な姿に見えるかもしれません。しかしそのおかげで、こうして話を聞きに来てくださる方もいる。
トラブルも借金も、もっと最低、最悪の事態があったかもしれない。いま生きていられるのは、最低・最悪の状態を回避できていた、ということなのです。ツイているではありませんか。
古代ギリシャの哲学者のエピクロスという人がこういった趣旨のことを言っています。「私たちに死はない。なぜなら自分たちの死を見た人はいないから。見たと言うことがなければ、無い同じことだ」。そう考えれば死を恐れることもない。
一般化したのは彼だが、フェラチオも顔射もストッキング破りもハメ撮りも、彼がするより前になかったわけではない。
経営者としてはどうか?
経営者としては最悪だ。
しかし、彼を愛さずにいられようか。
ジョブズは結局、iPhoneを出すまではマイクロソフトに勝てなかったが、日本という小さな庭ではあるが、村西とおるは三度も日本一になった。
彼の言葉を借りれば、
「一番は、すばらしいのです。」
たとえそれエロであっても。
彼の四度目は、普通に考えればないだろう。
まだまだ借金返済中の彼の再起はあるのか?
ジョブズ信者のために最後にジョブズを少しだけ持ち上げてみる。
今回行った街コンは、500m範囲にある3店舗のお店を男女150人が40分ごとくらいに総入れ替えし、総当りという感じだった。
【申し込みから当日まで】
友人がサイトから申し込んでくれた。同姓でペアで申し込むそうだ。
女4,200円、男6,200円、とあった。このへんは街コンによって様々だと思う。
友人が事前に振込しておいてくれたらしい。
開催日の5日前くらいになると、サイトが更新され、最初に行く店が公表される。
メールでお知らせとかではなく、自分でサイトに見に行かせるあたりで少し、屈辱的な感じがしたのは私だけだろうか。
(出会いたいんだったら大量のランダム8桁のIDから自分のID探してみろよぉプギャみたいな)
街コンで出会いなんてあるわけないよね~なんて話しつつ、何着てけばいいんだよ~なんて
浮き足立ってみたものの、頭につけた控えめな黒い葬式のようなリボンのバレッタも
私みたいな不細工が「こんなリボンつけて街コンどんだけ意気込んでんだよ」と思われるのが
【当日】
会場に開始ギリギリについた。街コンは15時から18時まで。お店の開店前にやるんだね…
受付の若い男性たち(学生かと思ったがあとから聞いたら違った)のリア充臭が半端ない。
ジャストサイズのネルシャツの腕をまくり、こなれた感じで受付をしていく彼らを見ただけで敗北感がすごかった。
こいつら、私のことバカにしてんだろうな、、と当たり前のことを改めて悟った。
名前を告げると、3店舗の案内地図と紙製のリストバンドが渡され「お席は...(苦笑)、この、手前の、ここです(苦笑)」
と近くのテーブルを指定された。
この店舗は1階、地下1階とわかれており、メインは地下だった。地下は男女ががやがやと座っており街コンらしかった。
1階の10席くらいだけのコーナーには、綺麗に女子が横並びで2組座っていた。男子はいない。
そこに私達も案内された。来場順に地下から案内しているっぽく、ギリギリに来た我々はここ。そして男子は遅れている、とのこと…。
やっと来た街コンで、案内された席が男子のいない席である。いきなりコレである。
告ってもないのに振られた気分。運命と書いてサダメだよ、、そういって友人と慰め合い、
男子もいないのに横並びで待つのはあまりに屈辱的なので向かい合わせに座って、リア充運営者の乾杯コールに合わせて静かに乾杯した。
食に走っていると我々とペアの?男子がやってきた。この街コンは指定された人たちと一生懸命時間いっぱいまで
話さなければいけないシステムで、1店舗で1組、司会が気がきいて頑張って席替えを促せば2組と話せるシステムだった。
クラブのように「ちょっとトイレ~」などといって交わしたりできないのである。
坊主+デブ+街コンなのにマスク外さない+明るい水色のパーカみたいな人とペアになった日には、もう合掌するしかないシステムである。
男女ともにそう思ってるだろう。
会場には、ちょいぽちゃ女子(ヒョウ柄の大判ストールを頑なに肩からかけ、シルエットが岩のようになっている)系と
「今日はワックスつかってみましたwww」みたいな30手前の男子が多かったと思う。
服装は大体、太くも細くもないデニム+パーカか、太くも細くもないデニム+配色のおかしいアーガイルセーターみたいな人が多かった。
時間が経つと、リア充が「それではまもなく移動の時間ですので~アドレスを交換してください~~~」などとマイクで叫び散らかす。
戦慄が走る。余計な事言うのはやめてくれよぉ。でもここで感じたことは、LINEはいい。
ID検索から、またはふるふるで友達になれば、電話番号もアドレスも教えなくていいし(分からないし)帰ったらブロックすれば良いだけである。
会場には、岩城滉一に憧れてます!みたいな40歳くらい男の人とかがいた。
一番目が離せなかったのが、白いタートルネック(綿)に黒いデカジャケットを着た、ヒョロヒョロの地味な童顔男性である。
最初、競馬の騎手が開会式からそのまま来たかと思った。その人から出る武豊感がすごい…。
そういうわけで、お話した人たちとLINEで友達になり帰ったのでした。「このあと飲みに行かない?!」なんて何人かに言ってもらえたりもしましたが、
もう疲れて一緒にいった友人とケーキ食べて帰ってきました。
【結論】
街コンは一回の合コン代で10人弱と話す機会があるので、効率はいいかもかもしれない…出会えたらラッキー程度で。
男の人は、あれで6000円7000円取られるのは高いと思う。。
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。