はてなキーワード: 六法全書とは
その重箱の隅をつついたような事柄が法的に遵守されるべきか賠償されるべきかと
毎日六法ばっかり勉強して書類かいて事務手続き代行してる職業がある
間違いがあってはならないので極力間違いを減らすべく国家資格にしてる
それが弁護士
日常でどうしてもがまんならないこれは第三者の介入によって公平な判断で解決が望まれる
国が間に入って仲裁をする 公平な配分を命令するのでそれに従いなさいというのが裁判所命令
これがその一件だけでも守られていないとなればほかの何件かも
もしかするといきなり逮捕されて知らない罪を着せられて消される人間なんかもいるということになる
アイドルのスキャンダルも高官の贈収賄ももしかしたら繁華街連続通り魔も存在していないかもしれない
町中にスパイがいて犯罪をもみけしているかもしれないということも言える
そういう無駄なことを考えなくてもすむくらい日本が平和なのは法を遵守させる機関が十分に機能しているか
もしくは法を遵守させる機関がちゃんと機能していると市民の多くが考えているかのどちらかもしくは両方
法が一部でも正しく機能していないのではないかと疑うのは勝手だがそれを証明しろとかもしかして機能していないのではとか
騒ぎ出すと、法というものが本当に正しいのかいま手にしている単純な正義を履行すべきではないのかとなり
隣の町の異教徒を殺すのが正義だとか法が正しく機能してくれていないからこの子のような悪人が今日も私に迷惑をかけている
実際に起きている民族的な紛争は凄惨を極めるが法が機能しているという信頼がなくては止めることができない
その危険性を孕んでもなお自分が安心せねば実際に本当の罪で事実が隠蔽されていないかを問う必要があるのか
どうしてもその意欲が満足に至らず不安を払拭できないのであれば自身が法に近い立場にたつしかない
それ以外に解決方法はないし外野が正しい情報を示して外野にも納得できるようにしろと騒ぐのは
家族や恋人同士ですら対立民族として殺し合いになってしまった民族紛争に至った経緯と同じ思想だと言える
自分の理性を、素朴な解答を、あなた自身が懐疑的すぎるきらいがある
自分の信じる正しさを証明するようなものは外部には一切存在しない
あなたの信じる正しさを保証するものは、あなた自身の知性と心以外に他ならない
六法全書を読んで自分の考えや思考が正しいかの答え合わせをしたり、
哀れな老人の気持ちを汲み取り、理解したつもりになって、自分の正しさの答え合わせをする
それのどこに正しさが在る?
単に自分の持つ正義感に対して、自分で責任を取れない故に、いわば他人に自己責任論を押し当てて無関心になっているだけだ
俺は自分以外の80億人、100億人、1000億人から間違っていると指摘されても
正しいと心から信じているのならば最後までその正しさを主張する
お前が心から正しいと思い実行できるということは、
それほどのリスクや外部からの評価を得てしてもなお揺るぎないほどの価値観がそこに存在するからだ
全力で俺はNOと答える
例えば、地球が宇宙人に支配されて毎日生贄に子どもを差し出さなければ人類が滅びるとする
それでも俺はNOと答える
子どもを生贄にしなければ生き残れない種になったのであれば、全滅し、それ以上の犠牲者を作らないことが善だと判断する
死は恐れることが当然だといったな
だが理性はその当然な事実から真正面からぶつかりにいける勇気も生み出す
勇気がなければ怒りでもいい
死地に面した人間が誰しもが悲観にくれ絶望してきたわけではない
例えそれが狂気であったとしても人間は自らの手で死を選ぶことができる
問題は、死に対して恐怖があるかどうかではない
死という恐怖と衝突する際に人間らしい姿勢でいられるかどうかだ
人間の尊厳を守るとは、人間が人間として、本人の平時に思い描く理想的な死の形を実現することだ
困窮し、緊急であり、非常な人間性で、本来望んでいた形を迎えられないからこそ、死の準備が必要である。
死の準備を怠った老人は見難く、哀れで、同情する隙間に溢れているだろう。
あなたが未来のあなたに同情せずに済むようにそういった動物として自然な反応を示す老人で良いと思わない方が、
何事にも準備を怠るな。
なぜ昔は栄養失調からの衰弱死が老衰と呼ばれ本人も周りも受け入れたのに、
今は枯れ木のような体に電気ショックで心臓マッサージを試し瞳孔にライトを当てなければいけなくなったのか
よく考えて欲しい
"漫画やアニメや小説や映画に触れた人が、そこに登場する「家族、友人、同僚、ライバル、相棒、知り合い、他人等々」の関係として描かれてるキャラ同士、あるいは片方から片方に、「恋愛感情がある」という設定を捏造した妄想をするのは当然"みたいな空気が流れてるのがとてもしんどい
"(前略)「恋愛感情がある」という設定を捏造した妄想をするのは当然"ということが前提にある発言を見るのがとてもしんどい
漫画誌の最新号やアニメの最新話の感想で「この二人やっぱり付き合ってる」とか「早く結婚して」とか見るのがとてもしんどい
pixivで作品を検索するときにマイナス検索の文字数が元のワードの5倍くらいになるのがとてもしんどい
恋愛対象というその人物の人生に深く関わるような重大な設定を改変する行為は「人々に広く受け入れられ肯定されるべきもの」だとは到底思えない
もしそれが許されたら六法全書に著作権が存在する意味がないから
本日(2日目)の司法試験中、池袋会場にて、2限目の会社法の試験開始から65分ほど過ぎた頃、倒れた方がいらっしゃいました。
突然の奇声の後、昏倒。しばらくして意識は戻ったようですが、うなされながら、起き上がろうとしていました。数分後、起き上がったかと思いきや、10メートル程の距離を倒れ込むように走りながら、前方の演台に向かって突進。机にぶつかりながら、二度目の昏倒。
試験は約30分間に渡って中断されました。再開後の試験は、中断時間を除いて正確に規定時間(120分)となるよう、中断時点での残り時間(52分)が正確に実施されました。
恐らく試験に対する精神的ストレスが原因でしょう。私見では、1度目の昏倒後は試験を再開すべき強迫観念に襲われてうなされ、立ち上がったように思われました。
司法試験委員の対応は、不満が残るものでした。傷病者は、1度目の奇声・昏倒からして、異常な様子が推察できました。司法試験委員が傷病者を寝かせたままにするなり、抱きかかえて救護所まで運ぶなりすれば、二度目の昏倒は防げたと思います。
また、他の受験者に対しての対応も不十分でした。試験を中断する際、「試験を中断します。法文(※試験用六法全書を指す)を閉じてください」としかアナウンスしなかったため、多くの受験者は問題冊子、書きかけの答案を読み続けていました。同室にいた受験者のうち、答案構成を続けていた受験者には、約30分の中断時間は極めて有利に働いたものと思われます。
他方で、中断の約30分の間、なぜ試験が中断しているのか、試験がこれからどのように再開されるかといった説明については一切アナウンスがなく、受験生はただ待機するしかありませんでした。もっとも、中断理由については教室内にいたおよそ200人の受験生の全てが傷病者の異常な様子を目の当たりにすることで把握していましたが…。再開の告知は、再開の1分前でした。
この間、律儀に「中断」していた受験生は、思考もまさに「中断」され、大きな不利益を被りました。また、傷病者の至近にいた受験生には特に大きな動揺が走り、試験どころではなくなっていたように思います。これらに対するケアは何もありませんでした。
司法試験は、全17時間の8分野の法律の論文試験・全3時間15分の3分野の法律の短答試験を、4日間にかけて行う非常に苛酷な試験です。加えて、司法試験の受験資格は法科大学院を卒業して5年以内の者もしくは司法試験予備試験している者のみに与えられ、司法試験に連続して不合格となった者の大半が高齢無職・フリーターとなる、失敗が許され難い試験です。受験者を専門職大学院卒業程度の者に限ったところで、平均合格率は20%前後の試験です。
心理的重圧は並ではありません。試験はまだあと2日続きます。法務省司法試験委員には、傷病者の発生も想定した、充分な対応を望みます。
辞書でひいたら書いてあること聞いてたの?
ここで話していること ってのは どういうものかって…
説明というか そんなことまで話すのは無意味だよね
その辞書って どういう存在でどこが発行してなにが辞書だと定義しているもので
ひくっていうのはどういうことなのか それはだれがおこなってわたしは何の動作をおこなえばいいのか
そしてその情報を元に定義どおりの文言をふくめて話題や文章を構成しないといけない理由は何なのかは
わたしはまだ気づいてないのだけれども
すくなくともあなたひとりのためにはなるのね
わたしには 辞書を読んだ限り 辞書という物体を引きずる人がでてきやしないか心配になっちゃうけど
密接というのを例にするけど
夫婦間でも ろくに会話しない状態を密接でないとして 婚姻関係を維持するに困難であるため審判離婚の事案対象になる としたら 婚姻関係という状態にある二人は「密接でない」ことになる?
夫婦とは密接な関係だけど人間としては密接でないとか 言い得る? 言い得たとしたら相関の関係にある夫婦と人間二人という関係は どう表現するの?
密接だ と明示していないから密接でない または密接だと言っているそれは 誰かから密接だとはいいきれないと判断される可能性はない?
そういう言葉のあやとりで実際の話題である婚姻関係と離婚問題を先送りにする価値がそこにはある?
「辞書的には」で済む? 済むなら法廷には六法全書と辞書が完備で辞書にない表現をすると法的に無効とされたりする?
テレビでみかけたかわいいアイドルとわたしの関係性が 熱狂的であっても密接でないこととか それは密接とするとか そういう定義は辞書でみつかるのかしら
わたしは 密接の定義とか 密接の度合いについてとか 密接であることを明示的にする必要が話題にあるとは思ってなかったんだけど
あなたは 辞書を用いて それを必要とすべきと 判断したわけね
変化についてもおなじ 時間経過が存在するといえば変化とか明確に表現する必要はないと思うんだけど
それを議題にもってくる意図はなに?
学者の定義や学者として定義づける機関やその存在規模やそれらの価値認識なんかを話題にするつもりもなかったんだけど
そこですこしだけ話を戻したいのだけど 相対関係だってことにもどるのでいいの?
もうそれ相対でいいよ
テレビのむこうの学者と自分が なのか 学者とコメンティエーターが なのかわかんないけどさ
テレビ局が お迎えした学者の って紹介するのをみて テレビ局はその人を学者と認識して呼称していて
学者も テレビ局には学者として呼ばれてるって認識されてて その姿をみての感想だから
テレビ番組と視聴者は密接でもないしテレビ情報で人は変化したりしない とか
所詮出演者とテレビ局なんて密接なんかじゃないしお互いなんの変化もない ということをふくめて相対としたいとか
あったのかしら
密接でも変化でもない というのは文中にふくまれていないことから考察される って言ってもいいものね
わたしは テレビに学者ってよばれてる人をみて この人が学者って価値があるの?とかなり高い評価基準を持って見ている感情移入の大きい人を
一方的に密接度が テレビをみていない みても大して関心がない 関心はあるけど気にしない という人よりも上であることは
話題にするつもりもなかったし前提としてあるものだとおもっていたけど 明示的に表記されていないからそんなの伝わらない
他の表現も辞書を片手にこれ違うって 足りてないって 意図が読み取れないって 思われてるんだろうね
しょうがないや
好きにとってもらったらいいよ
そのとおりだもん
それもたぶん辞書に定義されてるんだよね どこ開けばいいのかわかんないけど
いつのまにか辞書に定義されている内容に即して明確に表現に盛り込んだ作文しようって話題になってたの気付かなかったのわたしだし
こんばんは。石井ゆかり先生ではないはてダユーザーの占い師です。
岡田育さんはTwitterで石井ゆかり先生のツイートをたびたびリツイートされている様子。
「水瓶座のABは占い師の世界では最凶」と書いているのも見た。
占い、すきなの?興味ある?
大きな事件、時事問題、はてなの揉め事も何かあったら星を見る。
そんなわけでホロスコープソフトで岡田育さんのチャートを出してみた。
そしたら星を見る前と、見た後で自分の岡田さんの印象は変わった。
今回騒がれている件に関して「もしかして」と思うところがあったので書く。
公開されていたプロフィールから生年月日は1980年1月23日、時刻と場所は不明。
これ、年数が一年でも違っていたら星の位置は全部変わる。
太陽の位置は近いところに来るけど、他も見るから違ってたらごめんね。
ちなみにこのチャートでは、3月6日の21時前後から岡田さんは受難タイムだった。
まず、常識とか形式とか大嫌いな人なんだろうなー、と思った。
その種の手続きをきちんとやることは苦手ではなく、むしろやらせたら得意。
出来るか出来ないかといったら人より出来る。
しかしやっていて苦痛だし、内心「こんな茶番に意味があるの?」と思ってそう。
それもあってやりたくないけど、そんなところを克服したい気持ちが強い。
こりゃ片付かないだろうなーと思った。
本は年代順にするか、作家順にするか、ジャンル順にするかとか考えちゃう人。
こだわり強いのに長丁場が苦手だから、もーまた今度!ってなる。
弁が立つ。嫌味言わせたらかなり人を嫌な気分に出来る。
具体性があって、なんとも後味が悪くなるような細かい皮肉が言える。
しかも相手の出方で熱量を微調整する。重箱の隅をちまちまつつき続けずにいられない。
でも人生の方針は「きっぱり!」なので、そんな自分を肯定することが難しい。
一方で、好きな人には真冬に自分の服を全部差し出してしまうような優しさもある。
どんなに酷いことを言われても情状酌量して救いの手をひっこめまいとする。
ダメ男に注ぎこんだりもしたんじゃないかなー。
この人のそういう健気で見返りを求めない愛情を見た人は惚れ込むと思う。
そしてこの人は、そういう心から優しい気持ちでいるときにしか、相手の気持ちがわからない。
レッテルを貼ること、貼られている人が嫌い。
分類が好きだから結果的にレッテル貼っちゃって気が付いてないこともある。
でも意識の中では「人は平等であるべきだ」と常識の範囲を超えて信じている。
生き方を変えたくない!と思いながら、常に突っ走れる何かを探している。
こういった性格と今回の騒ぎを照らして思ったこと。
この人、おーつねさんに同情したんじゃないかな。
自分が人からレッテルを貼られて、webであらぬ噂を立てられたように
おーつねさんも「嫌らしいケチなおっさん」というレッテルを貼られていると思って。
売り文句に折りこんだりしてせっせと宣伝してたのは
「おーつねさんに貼られたレッテルを剥したい」という気持ちがあったんじゃなかろうか。
自身が中傷された痛みを書いたコラムだったのは、そのせいでは。
「彼にも釈明する場を与えるべきだ」という主張だったのかもな、とこの人のチャートを見て思った。
ほかの久谷女子はどう思っていたのか知らんけど
この人の中では「増田を紙にしただけ」と合理化されていたんじゃないかと思う。
と大半の日本の社会人たちは思うわけだけど、彼女はその枠の外で生きている。
周りはわかってやってるんだろうと思うのでそれをベースに批判する。
本人は弁が立つし馬鹿じゃない。でも相手の気持ちと立ち位置が分かってない。
だから「これだけ説明したのに決めつけられた」「孤独だ」ってなる。
悪いと分かっていながら言い逃れをするわけじゃなく
自分の六法全書の中ではOKだ、むしろそっちがおかしい!と思っちゃう。
そして自分が納得していないことを形式的に謝るのはぜったいにイヤ。
くわえてめっちゃ喧嘩っ早い。いつも引火できるものを無意識に求めている。
どんな形であれ「負ける」というのは本当に嫌で、辛い。
で、まったく赤の他人の占い師の戯言なんだけれども、岡田さんに伝えたいこと。
先入観で決めつけられて損をしている人もいる。
その人たちの肩を持ちたいと思うのは立派なことだと思う。
岡田さんの他には友だちがいないような人も、まわりにはいるだろう。
おっさんにも言い分があるはずだ。
常識やマナーというのは、道理にかなった背景を持つものも少なくない。
あなたは常識のおしつけは嫌いだと思うが、採用してかまわないルールもたくさんあるはず。
岡田さんはそうやって誰かに全力で肩入れしていても、心はべったりじゃなく自由だ。
「だけどあなたと心までは共有できない。」
友達が多いのに「ソロ活動」というのはそういうことなんじゃないかと思う。
対戦相手に対してフェアに戦ってください。
そして最後にチームの仲間だけでなく
ギャラリーの中のあなたのファンが、誇りに思うような試合をしてください。
最後に、あなたはだめなおっさんをいよいよダメにする星を持っている。
あなたの優しさは結果的に人を社会復帰出来ないところまで追い込むことがある。
自分のためにもまわりのためにもその辺の自覚をしっかり持ってください。
がんばってね。
岡田育さんが生まれた日、金星は魚座の7度にあり、魚座の4度にパラスがあった。
金星は美の星、アフロディーテ。パラスのアテナは知略に富む戦いの処女神。
ユニセックスなヘアスタイルにその辺現れているようでおもしろい。
追記:以前書いた増田
http://anond.hatelabo.jp/20130903144920
最近、昔読んでいた小説を読みなおすのが自分の中で流行っている。
「新しい話」を読んでいるようであって、以前の自分との対比ができて面白い、からである。
以前読んでいた時には引っかからなかった表現に、「ああこの時この人はこう思っていたのか」と新しい発見を感じることが多いのだ。
よく考えりゃそりゃそうだよな、と納得したり、当時の思い違いを修正するのも楽しい。
また、過去との違いを自覚し、成長を感じられるから楽しいという側面もある。
これは、小さいころわからなかった歌詞の意味が、大人になってふと耳にした時には理解できた、というような経験に近いようにも思う。
ただ、それとは違いがいくつかある。
まずは「空白」の長さだ。
僕が今読んでいる本は5年前当時読んでいたものだ。
他のものも、読み返していてなんだかんだ最後に読んだのは3~5年前のものが多い。
先に出した歌詞の例は10年は余裕で経っていると考えると、なかなか短い。
おそらく、わかるようになった(あるいは、わからなかった)要因も異なるのではないかと考えている。
5歳の時の「わからない」を10歳の時にわかること、というのは、
20歳の時にわからないことが25歳になってわかるようになる、というのとは違うように思うのだ。
幼いころの「わからない」は多分、単語や比喩表現の意味・また比喩に使われる「モノ」を知らなかったからだろう。
「知らずに口ずさんでいたけど「ろっぽーぜんしょー」って「六法全書」のことだったのか」、といったような(まあ当時驚いたのはそんな歌じゃなかったはずだけど)。
これは学生時代に勉強を重ねていくことでそれなりに身につくから、それで解釈できるようになったのだろう。
つまり知識の増加に伴い、知ることのできる事象が増えているといったもの。
けれど今、昔よりも本の中の世界を拡大できているのは、それが重要な要因ではない、と思う。
まず、「大学入ったばっかりの国語もろくに勉強する機会のない自分」と「アラサーの新聞も見出ししか読まないような自分」を比較したところで、
同じ本を読み返して人物の機微をより多く掴めるようには思えない。
ろくに訓練もしていないし、しようとも思ってなかったし、
大学では文学作品に触れる時間が増えたりすることも、それらを読解する専門家の話を聞くこともなかった。
つまり単純に知識が増えたから、理解の範囲が増えたとは言いにくい。
少し話がそれるが、自分は中高生ぐらいの頃から「自分で経験しないと学習しない」性質だと自覚している。
頭で想像の翼を広げたところで地面へ落ち損なうことなど到底できず、数秒間地面を離れる程度の想像力しかないのだ。
貧相な想像力だな、と思うことはあるが、いろんな経験を積む理由になるからと今のところこの素養で悩んだことはない。
想像力がないので落ち込むパターンも時間も多くできないためだろうとふんでいる。
・・・・つまり、今回の件で思ったのは「この5年間は今までで一番人間関係において多様な経験をしてきたから、読書をして分かる範囲が広がったのではないか?」ということである。
『気心知れた心地良い友人関係』以外の世界に足を踏み入れたり関わらざるを得なかったりして、様々な立場についた。
それまでは1パターンの自分しかなかったのだから(我が強すぎていつでも同じスタンスだった)、
それに比べたら何倍も経験を積んだことになる。n種類の立場についたらそのままn倍の経験をしたことになるのだ。
様々な環境に図らずも身をおくことができ、様々な立場の心境をちょこっとでも体験することができたから、
本を読んで「他人の機微」が理解できるようになったのだろうと思う。
今回こんなものを認めたのは、感謝の念を人知れず発信したいと思ったからである。
その経験をさせてくれた皆様と、その蓄積をすべて意味のあるものだと気づかせてくれたある人には本当に感謝してもしきれない。
なぜなら今の段階で僕がこのことに気づくということは、この年齢まで付き合ってくれた友人諸君は、「人の機微もわからない僕」と仲良くし続けてくれていたということにほかならないからだ。
今、本を読んで、知らなかったキャラの機微に気づいて、楽しめている。
それがすごく楽しいことだけでも感謝なのに、今までのことを考えると土に埋まっても感謝の念は表しきれない。
申し訳無さがこの身を覆い尽くさんばかりに襲ってきている、が、そんな醜態を見せても友人は喜ばないのである。
ーーこれからは実生活の方でも、人の機微にもう少し聡くなりたいと考えています。
本を読み返して反芻するのは、その練習になっているといいな、と下心もあるのです。
というわけで、ぜひ、新しくなっていく僕に乞うご期待してくれたら嬉しいななんて。
以上です。
素人にはわからないので、理研側も早大も実態について説明すべきだ。(報道されたが俺が見てないだけかもしれないが)
大学で研究職についてた知人に聞いたが今回の話はぶったまげて笑うことさえ出来なかったという風だった。
ミスで違う画像を載せたり、記事を転用したりということが出来てしまうということが驚き以上愕然としかできない。
研究職の方にとって論文は走り書きのメモ帳のいう認識しかないのか?と思ってしまう。一般民間企業ならエビデンスも納品物の1つだ。違った画像を出したものなら下手すれば信用問題。払ってもらえるものも頂けないことになる。
チーム組んでやるなら仲間にチェックしてもらう、レビューしてもらうということはやらないのか?と思う。
六法全書のような厚みなら一気読みはできないだろうが、少し厚い文庫本を読む程度なら頼み込んででもチェックしてもらうべきではないのか?と思う。
昔はそりゃ、法律有りきで戦うに、ある程度頭の中に入れておかないと戦うことすら
出来ないから、記憶力の高い人間が必要で、しかもそればかりやって覚えないと出来ないレベルだったけど、
そもそもなぜ弁護士資格が無いと法廷で弁護出来ないのかが意味が分からないんだけど、どういう意図があるんだ?
誰が弁護しようとも、おかしな事を言ってたらすぐバレて負けるだけなんだから別にいいじゃん?
それにしちゃ、弁護士がバカみたいな法律の目をかいくぐって何とかしようと、
場合によっちゃ法に反する様なことも抜け抜けと言ってるから、もう、スムーズにする理由にはなってないと思うけど。
奴らが優位なのは、開示請求権など様々な判例や細かい情報にアクセスする権利を持っていること、裁判で弁護することを国から許可されてること。
それだけ。
ディベート力も論理力も全くない連中だから、はっきり言って、法律の知識を総動員したDQNの言い争いの様なことをしてるにすぎない。
簡単に調べて分かる法律の範囲で、バカみたいな請求をされた時に、理詰めて一つ一つ話していったら、
奴らは最後には、そういう話はもう置いておいて、解決するために考えましょう、とか逃げようとする。
ただ、益田のように、弁護士相手に闘うことは多くの時間とお金をムダにすることになる。
一方、相手は最初のウチは法的な根拠の無いことでもさも弁護士がいうから正しい、と言った態度で来るが、
内容が無いのは明らかで、片手間で適当に相手しているに過ぎない。
健康でないなら別に体力を使う労働じゃなくてもいいと思うよ。規則的で健康的な生活をさせることに意味があるんだから、内職的な軽作業があればいいけど、無ければ最悪、六法全書でも百科事典でも書き取りさせればいい。書き取りならかなりの年齢までいけるでしょ。
もう労働じゃなくて拷問だろそれは。週四十時間月百六十時間写経を強いられて五千円とかありえない。働ける人間でも逆に健康損なうわ。
穴掘らせて埋めさせて掘らせて埋めさせてってやると発狂するっていうアレに近い。
生活習慣や金銭感覚のリハビリって目的もあるけど、生活保護世帯をまとめて生活させて衣食住にかかるコストを抑える目的もあるので、高齢者とかシンママとかは除外せずにまとめたいよね。
今、生活保護世帯200万人に、3兆5千億くらいらしいから、1人あたり175万かかってる。各世帯で衣食住を個別に支払っているのを、数十〜百世帯をまとめることで、これを半分から3分の2くらいになる予想。シェアハウス・学生寮レベルの集約でも可能な節約だから、マンションレベルで集約出来れば無理はないのでは。建設費とか考えても10年以内には回収できるんじゃないかな。