はてなキーワード: はてな界隈とは
というのは冗談で、コロナのおかげで学校行かなくなって良かったと思ってるいじめられっ子のみんな。
良かったね。
無意味な学校行事やクソみたいな学校の規則に頭を悩ます事もなくなったよ。
何ら興味の無い科目の授業中にモニター越しにゲームしたり薄い本読んでてもバレなくなったよ。
逆に興味のある事を好きなだけ学べるようになったよ。ゲームを作ったり、プログラミングをしてみたり。
普段お世話になってるママンのためにお料理の勉強だっていいんじゃないかな。
近現代史を一切教えようとしないクソみたいな世界史の授業よりはるかに有意義だよ。
ソーシャルディスタンスのおかげで声のデカいスクールカースト上位ゴリラにドッヂボール中剛速球を顔面に喰らう事もなくなったよ。
連日の差別問題に対する話題を見ていてずっと違和感があるのだけど、結局何をしたいのかがよくわからないんだよね。
割と誰一人として、「差別はよくない。だからなくすべきだ。」という論点から脱することができていない。
その上で、「自分は差別をしていない。だから差別主義者ではない。」で終わってしまう。
それって結局は差別問題を娯楽として消費しているだけで、この世界から一つとして差別をなくすことができてないってこと。
べつにそれでも何も悪いわけじゃないよ。
悪いわけじゃないけど、それで差別問題に参加しているつもりになってほしくないし、ましてや議論した相手を黙らせて差別問題を解決したつもりにはなってほしくないです。
そもそも、差別問題を解決するために必要なことは差別をなくすことではないです。
なぜなら、差別はなくそうと思って簡単になくせるものではないからです。
例えばフランスの街角でカフェに入ったら、テラスはガラガラなのに外から見えない奥の席に通されたって話があるとします。
では、それに対して「これだからフランス人は!」って考えたとしたらどうでしょう。
そうです。これだってフランス人はそういう人種だと決めつける明らかな人種差別なんですよね。
もちろんここで、フランス人は人種差別する人種だから差別しても良い!とはならないし、フランス人を人種差別した被害者は救われる必要はない!ともなりません。
忘れてはならないことは、差別を受けた側だって当然差別はするし、それでも被害を受けたなら救われるべきだということ。
それくらい差別はなくならないし、差別をなくすことはできないんです。
例えば人が買い物をするときに、メーカーやブランド、もしくは販売店を選んで買ったりしますよね。
なぜなら、いちいち製品の良し悪しを考えなくても、製品を信用できるからです。
そのメーカーやブランドをよいと決めつけることも差別であれば、裏を返してそれ以外は信用できないと決めつけることだって当然差別ですから。
もちろんそれによって人は安全性やコスパなどといった多くのメリットを享受しています。
もともと差別というのは、人間が進化の過程で身につけた賢く生きるための知恵なのだから当然。
だからこそただ単に差別をなくすという議論は不毛でしかないし、それによって「差別がない」と結論付けることはむしろ臭いものにフタをしているだけで何一つ解決していないです。
ただ、こうした考えにいたるには、毎日のように当事者として差別に晒されてみないと難しいというのも事実。
一度も差別を受けたことがない人が、自分のしている差別に気がつくことはそんな簡単なことじゃないです。
多くの差別を受け続ける中で、ときに相手の自覚なき差別に理不尽を感じて、はじめて自分にも自覚なき差別があるかもしれないって気がつくんです。
そんなことを繰り返して、差別問題ははたして差別をなくすことが目的なのだろうかという疑問に行き着きます。
わたしは本人ではないのでその意図を知ることは絶対にできませんが、大坂なおみが個人の名前が入ったマスクを身に着けている理由は、黒人差別を今までの通り人種差別として終わらせてしまうのではなく、彼・彼女ら被害者個人の問題だと置き換えようとしているのではないかと感じました。
いずれにしても日本で差別問題が語られるとき、未だにそこに個人を見ることはないですよね。
それは世界に比べて日本における人種問題が深刻化していない証拠であり、それだけ議論の機会を失っている証拠でもあります。
どっちにしても最近はてな界隈でやれあれは差別だこれは差別じゃないなんて真顔で議論している姿を見ると、まだまだ差別問題に対して日本は平和だなと思って生暖かく見守っております。
追記(意図しない読み取られ方があるので前に移動しました、誤解を招く表現だったことおわびします)
私は、書き忘れていたが、日本国憲法第14条に規定される属性による区別は当然のことながら差別だと考えている。私があげた絶対不可能な属性による区別の話は憲法上規定されていない属性に関してそれが差別かどうかを判断するガイドラインとして扱ってほしい。
日本国憲法14条
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
社会的身分には職業が含まれると考えるのが相当であるので、私も職業差別には反対の立場であることは変わりない。
そもそも先述のガイドラインにたどり着いた理由を説明すると、すべての人には自由があり、差別として行為の禁止を行う余地はできるだけ小さくしておくべきという私の価値観がある。ただし、生来変更不可能な属性に基づく差別は第三者による救済が難しいものが多いため、差別禁止によってもたらされるデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいのはほぼ間違いないであろう。一方で生まれてから少しでも選択の余地のある問題に関しては差別を禁止するよりも、その人が選択できる余地を増やすことを通した救済が比較的行いやすい。そのためそのような問題に関しては差別の撲滅に注力するよりもより救済を行う方へ注力するほうが望ましいと考えている。
加えて合理性を求めるひとがいるが、およそ全て人間はバイアスを経て観測した世界に対して最も合理的な行動を常にとっている(たとえそれが周囲に人間にとって不合理に見えたとしても)。合理性は客観的なようでその人の価値判断や目的などに左右されるきわめて主観的なものである。この文章は私にとっては合理的に思えるが、読む人にとってはそうは思えないかもしれない。合理性とはきわめて主観的かつ相対的なものなのである。ただ、社会的な意味での合理性は人々の議論を通じたコンセンサスの形成によるものであるので、成熟した議論を経た後での差別の描像がはっきりとより多くの人に共有されることを望んでいる。
追記ここまで
中学受験に関しての増田を端に発した議論がはてな界隈で盛んになっている。
大方ブクマカのダブルスタンダードを批判したものであるが、そもそも差別がはてなーすべて同じ意味で使っているとは思えない。例えば公立中学に通っていたことを黒人になぞらえて批判しているエントリがあったが、肌が黒いことと公立中学に通っていたことが全く同列に扱われるべきものとは現在の社会通念に照らしてもあまり一般的な考えではないと私は考えるが、その増田にとっては同じようなものとして考えていることは明らかである。その是非はともかくとして、現状においては差別は各人それぞれによって定義されるものといって差し支えないため、さまざまな形態の区別を明示し、その日本の社会およびはてなでの受容のされ方について考えるとともに同時に私見を述べてみたい。なお、どこから差別と考えるかは各人に委ねたいと思うのでここから先ではあえて「区別」という言葉を使う事にする。加えて強調しておくが、これはあらゆる社会通念に照らして問題とされている差別を肯定するものではない。差別とは何かを考える指標としていただきたい。
これははてなーはもちろん、現在の社会通念上認められていないといって差し支えない。特に性別についてはこれを支持する判例も存在し(e.g. 最判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁 いわゆる日産自動車事件) 、これはおそらく論ずるまでもなく明らかである。ただし憲法の私人間効力については間接適用説が主流となっているため、例えば三菱樹脂事件のような判例も存在する。ここでは憲法の議論を意図したものではないのでこれ以上は触れない。
これは最近聞かれる医療従事者への偏見にも関連している。社会的な建前としてはおそらく差別だと認定されているが、実際としては差別だとする意識が1.ほど完全に浸透しているとは言い難いところがあるだろう。おそらくはてなーに聞いてもこれは差別だと(それが建前であっても)答えると思う。なお、実際にHIVについては陽性者に対し無断で検査を行い陽性だったことを理由に解雇した事件についてはその解雇が無効であるとした判例も存在する(千葉地判平成12年6月12日労働判例785号10頁)。
このあたりから判断が難しい。現在、社会的に定年制は受け入れられている(是正しようとの動きもあるが)ため、年齢”差別”という言葉が社会的にまだ受け入れられていない可能性は高く、受け入れられるにしても近い未来ではないだろう。おそらくはてなーでもこのあたりから認識が分かれ始めると思う。以前あった私立医科大学が女子生徒と多浪生を意図的に排除していた問題にあってはこれを問題視する風潮がはてなにはあったのは覚えている方は多いと思うが、定年制への問題視はあまりなかったように思える(これは自分の印象)。なお、判例においては定年制は公序良俗には反するとは言えないとの判例が出ている(東京地判平成6年9月29日判時1509号3頁)。
これは今渦中にある問題である。実際として就活においてはいわゆる学歴フィルターは存在しないと断定することはできず、存在するものと考えるべきだろう。しかも厚生労働省のガイドライン(https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm)にも採用の可否を決める要素となってはならない項目の中に大学名・学校名に該当する項目は存在しない。少なくとも採用の場においては大学名のみによる扱いの差を設けることは認められているといって差し支えないだろう。私の周りを見渡しても実際学校の評判とそこへ通っている生徒への評価が関連づけて語られることも多く、私的な場においてもこれがタブーとされているとは到底言えないであろう。実際はてなーでも公立中学を「動物園」とまで評する向きもあることからそこまでのタブー視もはてなーの中にはないと言える。
いわゆる「オタク差別」などを念頭にしたものである。これを例にとると過去には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などに端を発したいわゆるオタクへの偏見があった(が、現在の社会では薄いものとなってきていると私は感じており、マクロな視点に立つならそもそも区別が存在しなくなってきているのではないかと考えている)。これの社会的な受容を考えてみる。個人のミクロな視点にたつならそういった嗜好を理由にハラスメントを受けた例はあるだろう。ただ、それは嗜好を理由にしたハラスメントが問題とされるのではなく、そのハラスメント自体が問題とされる(ことが多い)ため、おそらく社会的な問題視はあまりないであろう。ただ、そもそも属性による区別はその属性をもつ者がある一定程度存在しないと成立しないものである(その嗜好を持つ人が単独ないし少人数でしか観測されなければ単なる変人として扱われるだけで、それは区別とはよべない)ため、嗜好による区別に接する機会がすくなく、議論の俎上に上がるレベルにすら到達していないかもしれない。これはぜひ読んだ方に該当する例とその社会への受容のされ方を考えていただきたい。
と思いつくものを上げてみた。どれが差別に当たるかは皆さんに考えて、議論していただきたい。正解は存在しない。なお、私の中での差別の定義は「絶対に選択不可能な属性・事実に基づいて行われる区別」と考えている。これに立脚するなら1-3までが差別に該当し、私は公立中学に関して「動物園」と評するなど、悪い評価を与えるものについては差別的表現ではないと考えている。なぜなら公立中学に進むかの選択は自由意志に基づくものである(経済的な事情などにより私立への進学は到底不可能な方がいるのは重々承知している。その実態はともかく)からだ。ただ、その表現は褒められたものではないのは確かで、やはりひどい公立中学の現状があるのだとしてもそれへの是正措置に関する言及があるべきだっただろう。つまりこれは差別の問題として扱うのではなく、公的な機関からの財政的支援などによる学習の機会均等や学習環境の改善の問題に還元されるべきである。これを差別であるからと現状への批判を封じるのは実態への改善の議論を封じることになり、好ましくないと考えている。ただ、度を過ぎた中傷は理由の如何を問わず控えられるべきであることは注記しておく。
また、学歴の問題は、生来変更不可能なものではないのでこれもまた差別ではないと考えている。ただ、大学の再入学を経た後の不利な扱いは年齢差別として問題視されるべきだとも考えている。年齢への差別に関してはこれを問題視し、排除へと議論がより進むことを期待したい。
ここまで様々な属性への区別について述べてきたが、おそらくそれぞれの考える差別があったことだろう。ただ、差別の問題を考える際に忘れてはならないのはそこへの是正措置である。公立中学の問題に関してもそれを差別であるからと議論の提示を封じるのではなく、ではそこにどのような是正措置が行えるだろうかと考えてもらいたいのである。なぜなら本来の理想の状態であれば誰でも自由にその中学に行くか選択できるから、そのような偏見など生じないからである。偏見や差別は現在の不完全から生まれる。差別の問題はセンセーショナルになりがちで議論している双方が異なる差別の概念を持っており、話がかみ合わないという事はありふれたことである。そうなりそうなときには一度立ち止まって双方が差別の概念を共有するよう歩み寄ってもらいたい。以前として世界にはびこる差別への問題提起および是正のきっかけとなればうれしく思う。
自分は個人開発でいずれはそこそこ稼げるようになればとかちょっと夢見てる田舎のIT土方。
一応運営しているサービスは一定以上のPV数は稼げているもののマネタイズという段階で行き詰まってて、
今後の運営の一助となればと考えてSEO/Webメディア運営のオンライン勉強会というのに先日参加してみた。
講師はWebメディア運営を主とした会社を運営しているらしい30代くらいの経営者。
勉強会は「Webで儲けるなんて難しそうだけどそんなに気張らなくて大丈夫ですよー誰でもできますよー」というような精神論含めた意気込み的な説明から始まった。
講師の割とリテラシ低めな人に向けてるような言い方に自分が参加するにはちょっと易しすぎる趣旨の勉強会だったかなと思った。
『SEOとは』の説明から始まって、メタタグとかCMS=wordpressのテンプレートがウンタラカンタラの説明。
ここはまあ本職の自分は当然全部知ってる情報だから半分聞き流していた。
その次は収益化を考慮したwordpressの運用方法とかメディア構築の具体的なテクニックとかが紹介された
ここは勉強になるかもなーって話を聞いてみたんだが、なんだかなぁ……
講師の話を要約すると、大体↓みたいな感じだ
いや、このテクニックで生み出される記事って本当にただのゴミなんじゃ……
このとき気づいた。この講師はいかがでしたかブログを量産してるだけのただの社会のゴミだった。
勉強会の最後に質疑応答があって、「その方法じゃ低品質な記事が量産されて問題じゃないですか?」とだけ一応質問したんだけど、
「コピペとかやりすぎるとGoogleや広告会社に制裁食らう可能性があるので注意しましょう」みたいに言われて、
ああ、この人達にとっての『品質』とは需要のある情報を徹底的にリサーチして理路整然とまとめた記事だとか、面白い文章だとか、
そういうことじゃなくて『Googleに制裁をくらわない内容』『人間にとってはゴミでも検索エンジンというシステムに評価される内容』のことなんだなぁって。
「あなたが作っているものは何の価値もないゴミであなたは情報社会に害悪しかなさない社会のゴミだけど生きてて恥ずかしくないんですか?」という質問が頭に浮かんだが流石に口には出さなかった。
そんでこの手の人間がこういう講座で似たような人間を集めて互助会作ったり才能ないけど夢だけ大きい馬鹿に情報商材売りつけたりして勢力増やして更にWebにゴミばら撒くわけだ。
はてな界隈だけ見ててもなんとなくは知ってたけど本当にこの手の人達はITエンジニアじゃなくて転売屋とか情報商材屋とかそういうのの仲間なんだなぁって。
Googleはこの講師のような人が量産するゴミコンテンツと良質なコンテンツを機械的に判別する術を未だに持っていなくて、
「良いもの作ろう!」って人より「とにかくゴミを量産しよう!」の人の方が得をしてしまうこの検索エンジン開発における技術的な限界点が
やっぱり自分はこんな小手先のテクニックじゃなくて本当の品質や発想の面白さで勝負しよう、良いもの作ればいつかは誰かわかってくれるかな。
食通になればなるほど金はありきで「予約の取れない店」が重要になってきて
予約の取れない店に参加するには食通同士で横でつながるのが手っ取り早い
こういうのって例えばコミケにおけるオタクにも似てし、他のジャンルでもあると思う
そこに仲のいい人が参加していると謎の疎外感というか、混ざれないなーという切なさが芽生える
同好の士であり戦友だからこそ通じ合う何かがあって、容易には混ざれない
たとえ同好の士であってもコミュニティに参加できるかどうかは別になるんだ
私は性格的には参加しない方だしそもそも同好の士(食に対する意識が高い)でもない
こいつ
http://negineesan.hatenablog.com/
この食事・男・美女、という構図がどうも乱交パーティーのように見えてくる
そして実際に性とも大いに関係している
自分ははてな界隈では「滅ぼすべき邪悪」とされることが多い秋元系アイドルが結構好きで、その流れで月曜深夜枠放送中の「青春高校3年C組」という番組を見流ようになったのだが、これが結構面白い。
いや、素人半の10台20台前半の子たちがやってることなので、バラエティとして面白いという意味でなく、これが仕掛けられて、視聴者想定の10代に一定の受容をされていることが面白い。
この番組は元々、平日17台に帯でやってた番組が改変で深夜に移動したもので、コンセプトとしては「理想のクラスを作る」というもの。
枠といい、未完成のものをフィクション半分、ドキュメント半分で見せる体裁といい、おニャン子クラブの男女混成版のようなものだったのだが、このクラスの構成というのが、ハーフあり(日本生まれ育ちで英語は喋れない。1人はナイジェリア人、1人はカナダ人とのハーフ)、女装男子あり、キモカワ男子あり、クラスに一人はいるおっかさん的ルックスの女子あり、見た目はどう見てもギャルだがフニャフニャしてて保育士が夢みたいな「何かいそう」なタイプあり、そうかと思えば幼い時代からアイドルのオーディションを受けまくってた芸能少女あり、と言った具合。
彼らがふつーにおなじ教室で机を並べて教室でわちゃわちゃしている姿が「理想のクラス」として提示されている。
結構な多様性を含むものが「理想」という提示のされ方をしている。
甘いとかそういうツッコミはまああるんだろうけど(支援が必要な子とかいないじゃないかとか、そもそもみんな芸能事務所所属だろとか)、そこまでリアルを詰めないエンタメだよ、としてみると、「2000年代以前でテレビのエンタメでこういう学級って描かれなかったよなあ」って思う。
これが10代にウケるなら、10代の見てる世界ってだいぶ変わってるんだなって。
あと、「アイドル部」という活動があって、CDも出してるんだけど、母体がこの教室だし、その教室では男子生徒が女子生徒に告白したりしてるので、「アイドル部で恋愛があっても3年C組の生徒ならいいか」っていう空気になっていて、そこも「アイドルが恋愛禁止ってそういう時代じゃないだろ」っていう「時代とともに今までの構造を過去に押し流そうとしている」という挑戦みたいなものが感じられて興味深い。
あとここら辺に関しては現センターの子が並行活動として姉妹ユニットでYoutubeチャンネルを持っており、恋人と結婚を意識する条件などを姉と語り合っているのだが、この一緒に活動している姉というのが少年院出というなかなかパンチのある経歴の持ち主であって、そのせいで「あの子は見た目は可愛いけど闇の国から来たお姫様だよね、裏があるのはみんな知ってるよ」という不思議な状態で、そこらへんの恋愛事情も「そこを気にしても仕方ない」という感じになっている。
あと浅井くんがイベントでやった女装で初めて自分を出せたことをカミングアウトして、次から基本女装で収録参加になった回は妙な感動があった。
はてな界隈にて定期的に話題に上がる恋愛工学だが、その反応は驚くほど冷ややかだ。
なんの思想を持ってるんだか分からないはてな男は「そんなのでは本当の愛は手に入らない」と言い、謎に意識が高いはてな女は「私は関係ないわよ」とでも言いたげに見下す。
この際はっきり言おう、お前らは恵まれているのだ。お前は学生時代に1人とでも付き合ったことがあるかもしれない、それはお前が生まれつき「たまたま」恵まれた容姿を持っていたからにすぎない。お前は成金の家に生まれた馬鹿子供と大差はない。
俺は恵まれなかった。
顔は団子鼻で一重、生まれつき太りやすい家系に生まれ肥満体質、30歳を超えて童貞、女性とは手すら繋いだことはなく、まともに話した経験もなかった。
お前にこの苦しみがわかるのか?
ただ「生まれつき」「運が良かっただけ」のお前らには一生わからないだろう。
ああ、わかるぞ。この怨嗟の書き込みを見てお前は苦笑でもしてすぐに忘れる。だがお前は恵まれているのだ。それだけは変わらない。
そして俺は恋愛工学に手を出した。数打ちゃ当たる、テンプレ言動、効率化された最低限の容姿を整える方法、それらを使い始めて女性と触れ合うことができたのだ。
もし恋愛工学を知らなかったら?考えたくもない。
だから、お前らが恋愛工学を馬鹿にするのはやめろ。これは弱者の武器でありはしごなのだ。お前らがこれを馬鹿にするのはやめろ。