連日の差別問題に対する話題を見ていてずっと違和感があるのだけど、結局何をしたいのかがよくわからないんだよね。
割と誰一人として、「差別はよくない。だからなくすべきだ。」という論点から脱することができていない。
その上で、「自分は差別をしていない。だから差別主義者ではない。」で終わってしまう。
それって結局は差別問題を娯楽として消費しているだけで、この世界から一つとして差別をなくすことができてないってこと。
べつにそれでも何も悪いわけじゃないよ。
悪いわけじゃないけど、それで差別問題に参加しているつもりになってほしくないし、ましてや議論した相手を黙らせて差別問題を解決したつもりにはなってほしくないです。
そもそも、差別問題を解決するために必要なことは差別をなくすことではないです。
なぜなら、差別はなくそうと思って簡単になくせるものではないからです。
例えばフランスの街角でカフェに入ったら、テラスはガラガラなのに外から見えない奥の席に通されたって話があるとします。
では、それに対して「これだからフランス人は!」って考えたとしたらどうでしょう。
そうです。これだってフランス人はそういう人種だと決めつける明らかな人種差別なんですよね。
もちろんここで、フランス人は人種差別する人種だから差別しても良い!とはならないし、フランス人を人種差別した被害者は救われる必要はない!ともなりません。
忘れてはならないことは、差別を受けた側だって当然差別はするし、それでも被害を受けたなら救われるべきだということ。
それくらい差別はなくならないし、差別をなくすことはできないんです。
例えば人が買い物をするときに、メーカーやブランド、もしくは販売店を選んで買ったりしますよね。
なぜなら、いちいち製品の良し悪しを考えなくても、製品を信用できるからです。
そのメーカーやブランドをよいと決めつけることも差別であれば、裏を返してそれ以外は信用できないと決めつけることだって当然差別ですから。
もちろんそれによって人は安全性やコスパなどといった多くのメリットを享受しています。
もともと差別というのは、人間が進化の過程で身につけた賢く生きるための知恵なのだから当然。
だからこそただ単に差別をなくすという議論は不毛でしかないし、それによって「差別がない」と結論付けることはむしろ臭いものにフタをしているだけで何一つ解決していないです。
ただ、こうした考えにいたるには、毎日のように当事者として差別に晒されてみないと難しいというのも事実。
一度も差別を受けたことがない人が、自分のしている差別に気がつくことはそんな簡単なことじゃないです。
多くの差別を受け続ける中で、ときに相手の自覚なき差別に理不尽を感じて、はじめて自分にも自覚なき差別があるかもしれないって気がつくんです。
そんなことを繰り返して、差別問題ははたして差別をなくすことが目的なのだろうかという疑問に行き着きます。
わたしは本人ではないのでその意図を知ることは絶対にできませんが、大坂なおみが個人の名前が入ったマスクを身に着けている理由は、黒人差別を今までの通り人種差別として終わらせてしまうのではなく、彼・彼女ら被害者個人の問題だと置き換えようとしているのではないかと感じました。
いずれにしても日本で差別問題が語られるとき、未だにそこに個人を見ることはないですよね。
それは世界に比べて日本における人種問題が深刻化していない証拠であり、それだけ議論の機会を失っている証拠でもあります。
どっちにしても最近はてな界隈でやれあれは差別だこれは差別じゃないなんて真顔で議論している姿を見ると、まだまだ差別問題に対して日本は平和だなと思って生暖かく見守っております。
多分、お前がルッキズムや年齢差別の被害者が傷付いてることを気にして生きてないのと一緒だよ
無数にある差別被害で心を痛めてる人をお前が忘れたことないなら、それも通るかもな けど、自分のことばかりだろ?