はてなキーワード: 認知科学とは
http://www.nicovideo.jp/watch/sm33823218
と、このギャグ動画を見て、コメントで「面白くない」と言い切ってしまう女(だと思う、それ系のいじりネタ)ってほんっとどうすればいいの?って悩む。
いや、女性が主張できるような社会になる。いやなったのはいいと思うよ。
だけど、主張が出来るようになったのと、主張していいのとはまた違う、それこそ言っちゃっていい事は相手も考えてほしい。
自分はADHD持ちなので、相手の事を考えながら言葉を選びながら話をする。なんてことは出来ない。
(そもそも出来ること自体、認知科学としても離れ業なので、出来る人間が限られるのだが…10代ほどそんな人間を求める)
だから、話す言葉をまず限定してしまうのだけど、それをすると大体の人と話が出来ないぐらい単語が限定されてしまう。
つい、とかうっかり、とかも近代許されなくなってきてるんだなあ。とこの動画見て感じるようにもなってる。
で、ここから本題。だので、個人単位で言っていい事悪い事を聞くのだが、だいたい
「聞かなくても解るでしょ一般常識無さすぎ」
かっこの中を言いたいがグッと堪えて、それじゃこれとこれとこれだからこう。と極力単語のみで感情を交えないようにすると
「喋ってて楽しくない。話ししたくない」
と逆切れされ(いやお前が言わないから極力揉めない様に抑えてるんだからねってか上から目線になってませんか!?!?9
と切れそうになるのを何とか抑えて調節出来ないけど何とか頑張って感情を入れ始めると、いきなり
と対話終了。(実話)
(お前もうくらあああああああああああああああああああああ)
という事が何回かあって(毎回全敗)それから女性とは話をしたく無くなったんだが。
認知科学を少しかじっただけの知識で書くので間違っていたら許してほしいんだけど、旦那さんはイメージによる認知機能が平均的な人よりも発達しているのではないかと思う。
人間には言語による分析的な認知機能とイメージによる比較的原始的な認知機能があるらしい。そしてこれらは片方が強まれば片方が弱まる(両立が難しい)関係にあるらしい。これは増田が、旦那の頭はあまり良くないと言っているところとも矛盾しない。
いわゆるサヴァン症候群もこの認知機能のトレードオフが関係しているといわれている。チンパンジーの動画を例として張るのは悪いとは思いつつも、京都大学霊長類研究所の動画が参考になると思うので置いときます。
http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/gallery/video-chimp-Ayumu-memory-task.html
2016年5月12日にMXテレビの番組「今夜は寝れ9!!ナイン」で放送された
企業の言い訳:ぶった斬る|ひめとあとむのブログ(旧サファイアのブログ)
http://ameblo.jp/himetoatomu/entry-12162514563.html
https://www.youtube.com/watch?v=Dwu0KrUrHh0
ICSJ記載租税回避日本企業名の ほんとうのリスト(一部) 電通 バージン諸島経由(スイス銀行口座経由) 東京電力 バージン諸島経由(スイス銀行口座経由) JAL バージン諸島 住友金属工業 バージン諸島住友林業 バージン諸島* ドワンゴ バージン諸島 NTTドコモ バージン諸島 楽天ストラテジックパートナーズ ケイマン諸島 ライブドア バージン諸島 ソフトバンク バージン諸島 オリックス(ファンド) バージン諸島 モナコ野村證券 ニウエ(2015年まで国交なしの新興租税回避地)* 大和証券 バージン諸島 日興証券 バージン諸島 東京海上 ケイマン諸島 日商岩井 バージン諸島 三菱商事 バージン諸島 伊藤忠商事 バージン諸島 丸紅 ラブアン(マレーシアの租税回避地) 豊田通商 バージン諸島 大日本印刷 ケイマン諸島 日本製紙 ケイマン諸島 商船三井 バージン諸島 バンダイ バージン諸島 ケイマン諸島 ドリームインキュベータ ケイマン諸島 セコム バージン諸島 東洋エンジニアリング バージン諸島 JAFCO(野村證券系ベンチャーキャプタル) バージン諸島 ケイマン諸島 ファストリテイリング シンガポール JX バージン諸島
今後出て来そうな記載者の言い訳 1「ビジネスのためで租税回避目的ではない」 →租税回避目的以外で租税回避地は使われない 2 「投資先の依頼で」 →投資先の租税回避に協力、 更に自身も租税回避、言い訳にならない。 3「損したから租税回避ではない」 →国内で課税対象の元本の租税回避であり、 投資後のゲインの話ではない。 租税回避への投資そのものが税逃れ行為。 4「租税回避地として認識していなかった」 →契約書に登記地明記。プロとしてありえない。 5「金額が小さい」 →大小の話ではなく 国民の当り前の義務を回避したということ。 6「政治家ではないから節税は問題ではない」 →節税ではなく脱税。政治家でなくても犯罪。 7「みんなでやっている」 →子供の論理
彼の発言について言うべきことはない。
それ以上でも以下でもない。
別に彼ではなく、別な誰かが言ってもよい
ごくあたりまえの常識にすぎない。
というテロップを出していた。
苫米地が語ったことを苫米地個人の責任とするための「配慮」だろう。
巨悪と戦うためには知恵も必要だ。
訂正されていない企業の住所は、
だから完全にクロ。
実際のところはよくわからない。
裁判で訴えられても受けて立てばよかった。
「関係ない」と言ってしまったのはテレビ局として譲歩しすぎだが
安倍内閣のキツネ目の総務大臣は「局の認可取り消しもあり得る」などと
「日本のマスメディアがいかにコントロールされているかがよくわかります」と、
したり顏で書いている。たしかにそういう側面はある。だが、
東京メトロポリタンテレビジョンだという事実は事実として
そこはしっかりと冷静に見ておく必要がある。
ちなみにMXテレビについていえば、
「報道の個々の内容に経営が口をさしはさむべきではないと考えております。
局の責任者がきっぱり言えばよいだけのこと。
ほめられるような偉いことをしたのではなく
あたりまえのことをしただけとも言える。
東大基礎科学科卒。過去250~340年間世界の大数学者達が解こうとして解けなかった、世界史的数学難問4つを解き、現在ロシア科学アカデミー数学の部で審査中。マスターした11ヶ国語を駆使したプロの通訳・翻訳家。矛盾だらけの現代物理学を初め、全科学(自然、社会、人文科学)の主だった物を体系的に批判し各々に別体系を提起。各種受験生(医学部、難関大学入試、数学オリンピック、社会人大学院入試、IT関連資格)支援。
■経 歴
2002年 (至現在)セント・クレメンツ国際大学 物理学教授
2001年 英国系セント・クレメンツ大学で数理物理学の博士号取得
2002年 ロシア科学アカデミー・スミルンフ物理学派論文審査員となる
1999年 英国系ウィットフィールド大学でコンピュータ科学人工知能の博士号取得
1991年 (~1993年)University of California、 Irvine人工知能研究所で確率論批判・学習システムの研究
1988年 (~1991年)世界の認知科学の権威ロージャー・シャンクのCognitive Systemsのデータベース研究所IBSで自然言語処理研究
1986年 (~1988年)欧州先端科学研究プロジェクトESPRITにESPRITディレクターとして仏Telemecanique研究所より参加(生産ラインへの人工知能導入の研究)
1985年 西独ジーメンスのミュンヘン研究所で生産ラインへの人工知能導入の研究
1982年 (~1985年)[仏国]世界一速い列車TGVのメーカーAlsthom社の知能ロボット研究所
1981年 (~1982年)[仏国]グルノーブル大学院、ソルボンヌ大学院で通訳の国家免状取得
1980年 (~1981年)[スペイン]マドリード大学院で言語学履修 西国政府給費留学生
■専門分野
数理物理学Ph.D.、コンピュータ科学人工知能Ph.D.、マスターした11カ国語を駆使したプロの通訳・翻訳家
■講演テーマ
「ビジネスマン、文系卒社員に理工系技術と技術的発明を評価できる眼を」
近年世界の大学でビジネス志向の学生向けに、理系の技術的な事がある程度分かるためのカリキュラム改変が始まっている。しかし申し訳程度であり、また理系の拠って立つ数学物理学の科学理論自体に欠陥が有る事が最近明らかとなっているため、正しい数学と物理学の粋を伝授し、文系でも本物の理系技術評価が出来るように支援する。
「英語を完璧に&現地語(非英語)を或る程度使えるマネジャー急遽創出と、社員の中から各国語通訳をネーティブに肉薄する敏捷性と正確さで急遽育成を支援」
海外のプロジェクトや企業と折衝するとき、英語がネーティブ並みであったり、現地語を自社のディレクター自身がある程度こなせるか、英語、現地語につきネーティブ並みの社員が通訳出来ると先方との話が大きく好転する場合が少なくない。それを本当に実現する教育訓練を私は提供できる。平明に説明し、実体験をしてみたい方がいらっしゃるなら講演会場で手解きをしてみたい。
「発見された言語学理論と外国語訓練方法論を基に、文科省と英会話学校の英語教育訓練方法論の根本的誤りの中枢を詳説」
統語法意味論、文脈意味論、実世界意味論の3レベルで進展するネーティブの母国語習得過程の中、言語能力の真の中枢は解説も無しに親の喋るのを聴いているだけで分かるようになる統語法的意味把握能力で、これは文法用語を全く使っていなくても徹底した文法訓練となっている。ネーティブが敏捷性、精度の点で万全であり、先ず文法的間違いをすることはない理由はここにある。全文法分野について書き換え問題の「即聞即答訓練」を一気に中学生以上の年齢の人に施し、全文法のビビッドな一覧性を習得させるとネーティブに肉薄する敏捷性と精度で外国語を使いこなせるようになることが発見された。
「<証明された欠陥数学> 確率統計と微積分学のビジネス、金融工学、保険業界での使用に対する警告と、それに取って代る新数学体系」
我々物理世界は離散値の世界であることが原因で、物理世界に住む人間の頭脳が考え出した数学の中で連続実数値に基づく確率統計学と微積分学だけが欠陥数学として発現していることが証明された。決して建設的な予測をすることができず、崩壊していく事象に後ろ向きにしか適用できず、せいぜいリスク管理にしか使い道の無い確率統計学をビジネス学の分野では金科玉条の如く信用し積極的やり方で利用しているが、ここに「理論」と現実との間に大きな食い違いが生じている点に警告を発したい。そのためそれに取って代る新数学体系を提起する。全てを分かり易く解説します。
「新エネルギー・エコ向けの発想を大転回した技術的な重要な発明を提起」
20世紀初頭に数理物理学者Henri Poincareは二体問題までは解けるが三体問題(三つの星が互いに重力で引き合いながら運動している時の時々刻々の位置を計算で求める事)以上は微積分学を使って解く事が出来ない事を証明した。これは無限小差分を使う微積分は計算式中で交差する項をほぼ同等とみなして相殺してしまうため、作用反作用の法則(F1*v1=-F2*v2)の取り違い(F1=-F2が作用反作用の法則であると圧倒的多数が信じている)と相俟って、交互に対称な運動しか記述できないため、対称性の有る二体までは記述できても対称性のない三体以上は記述できないためである。この欠陥数学微積分を基に二体までは「エネルギー保存則」を証明したものの三体以上の「エネルギー保存則」は本来的に証明不可能であることが明らかと成った。現に永久磁石がエネルギー保存則を大きく超えることが実証され始めている。それらの実験につき具体的に物理学の素人の方々にも分かりやすく報告したい。
「世界史的体系的誤りに迷い込んだ現代物理学とその使用者への警告とそれに取って代る新物理学」
現代物理学の二本柱、量子力学と相対論の中、量子力学は水素原子の原子核と軌道電子の関係説明を辛うじて試みただけで、水素原子より複雑な原子や分子の構造の説明に実は悉く失敗し、繰り込み・摂動理論はその失敗を隠すため後に持込まれた。軌道電子は光速に比べ無視できぬ速度でクーロン力で原子核に引かれて急カーブしながら等速加速度円運動、大量のエネルギーを消費するが、半永久的に軌道を回る。しかしシュレーディンガーの波動方程式(その波動関数とその共役関数の積は確率)はエネルギー消費に一切言及せず、エネルギー・レベルが一定に保たれるという明らかに矛盾した論を展開する。また確率を持ち込んだからには、エントロピー単調増大法則がここに適用され、水素原子は瞬時に粉々に飛び散らなければならぬ現実に反する二つ目の重大矛盾に遭遇するが、これもシュレーディンガーは見てみぬ振りをする。つまり水素原子の構造の説明にすら量子力学は完全に失敗した。量子力学とは動力学でなく各エネルギー・レベルについての静力学でしかなく、「量子力学」の「力学」なる名前とは裏腹に力を論じられない。論じればエネルギー消費が起こりエネルギーレベル一定論が崩れる。
「現代のフォン・ノイマン型コンピュータ・アーキテクチャーの誤りと、創るべき新コンピュータ・アーキテクチャー」
現代のフォン・ノイマン型コンピュータの計算機モデルが取りも直さずチューリングマシンそのものである。チューリングマシンは決ったパラメータ数の状態間の遷移を静的モデル化したものであるのに対し、歴史的にその直前に発表されたアロンソ・チャーチの計算モデルのラムダ・キャルキュラス(人工知能プラグラミング言語LISPの言語理論でもある)は関数の中に関数が次々に入れ子のように代入されて行き擬パラメータが増えていくダイナミックな仕組みを持つ。この後者は人間が作ったコンピュータを遥かに凌ぎ、宇宙の始原から発生した環境データから関数をf1(t),f2(t),.,fn(t)と次々に学習し入れ子のように代入進化し、次の一ステップの計算には宇宙の始原からの全ての関数f1,f2,...,fnを思い起こし、そのそれぞれの差分を取って掛け合わせる事をしているコンピュータとも言える物理世界とその時間の学習・進化を時系列順に模写するのに持って来いの仕組である。関数と言っても多項式で充分である事を世界の7大数学難問の一つPolynomial=Non-Polynomialの私の証明も交えて平明に解説する。これは日本の国と世界の先進諸国のコンピュータ科学の今後の研究方向を左右する発言となる。
■実 績
【講演実績】
Trinity International University
「コンピュータ科学」 学士号コースの学生に卒業まで全コースを講義
St.-Clements University
「金融工学に必要な数学・物理学」の博士号コースの学生3年間に渡って講義、研究テーマと研究内容、博士論文のアドバイス
St.-Clements University
研究テーマ「コルモゴロフ複雑系の二進ビット・ストリングの下限=Lower bound for binary bitstring in Kolmogorov complexity」の博士号コースの学生Dr. Bradley Ticeに英語でアドバイス
St.-Clements University
外国語学部のポルトガル語・伊語の通訳・翻訳の学士号コースの学生に教養学部のレベルから全社会科学(経済学、法律学、社会学、経営学)、人文科学(哲学、言語学、心理学、歴史学)、自然科学(数学、物理学、化学、生物学、医学、計算機数学)、エンジニヤリング(Information Technology、ソフトウエア工学、電気工学、電子工学)の各々の学科の全講義を行う。
Госдарственный Университет Санктпетербургской Гражданской Авиации (サンクトペテルブルグ国立航空大学)
物理学学会の論文発表会で幾多の論文の露語によるプリゼンテーション。
【メディア出演】
【執筆】
ti-probabilistic Learning by Manifold Algebraic Geometry, SPIE Proceeding, 1992 Orlando 等 人工知能学会論文
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
認知心理学やってたことが大きいんだと思うけど、霊的体験とやらはきっと、恐怖が認知ミス引き起こしたとか
何でもないものを幽霊だと認知したとか、そういうのだろうと考えてる。だいたい目が見えるとはどういうことかというと(ry
とことん冷静でも認知ミスは起こるものだし、正確に把握できるとも限らないのが人間だから。だから信じる気になれない。
なんだけど、たとえばここ5年だけでも、身の回りのちゃんとした人たちが「そういう経験がある」ってぼそっと言ってて、真面目に考えてみたくなった。
普段からスピリチュアルな発言の多いやつは除いても、冗談では絶対にスピリチュアルトークなんかしない人たちがぼそっと、そういう話を告白する。
院で理系研究者やってるとか、認知科学やってる奴とか、そういう、人の認知システム分かってそうな奴までも、そういう経験があるとか言うんだ。
無論懐疑的に。たぶん疲れてたか、恐怖に支配されてたかと思うんだけど……でも研究室の先輩も同じこと言ってんだよ……こええよ。とか。
大抵の場合、「あそこにいる/いた」ってのが一致してるのがひっかかる。「いた」という幽霊の特徴も。
あと、そういう奴らが酔っ払って、守護霊とやらの話をし始めたことがあって、人の斜め後ろ上をちょっと見て、コメントするんだけど
そのコメント内容が、一致してる。全く交友関係のないグループから自分の守護霊とやらについて同じようなことを言われて、どうもひっかかってる。
もちろん、そういう存在を信じるかっていうと、やっぱりできない。
でも、何か自分は壮大なドッキリに巻き込まれてるんじゃね?って気持ち悪い感覚がある。
考えるのも無駄かなーって気もしてきたんだけど、なにせスピリチュアルトークなんかできるキャラじゃないので、リアルでは相談もできない。
それになんとなく、そういう話は避けたいって空気もある。誰だって怖い話は嫌だしな。
なので、ネットでみんなの意見を聞きたい。もしよければ、だけど。
みんな、幽霊についてどう考えてるんだろうか?
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
元増田。まぁ、確かにそうなんだけど、それは、否定の証明というのでは・・・否定の証明を試さないと「非科学的な態度」になるのであれば、ほとんどの疑似科学は否定できなくなってしまうよ。以下で、「神様がいないこと」を、「霊がいないこと」とか「水は言葉を理解すること」とかに置き換えてみれば分かる。
科学は神様がいないことを証明し、それを査読し、論文に載り、世界中の科学者が追実験し、証明が確認された。
という事実は聞いたことがない。
自分の言いたかったことは、次のようなこと。
・「神の存在」はもともと反証不可能な命題で、反証不可能な命題は信じていても科学的な態度(=反証可能な命題は証明か反証をする)とは矛盾しない。
・「神頼み」は、反証可能な命題に対して証明も反証もせず、原因を神に求める態度であるため、科学的な態度とは矛盾する。
よって、非科学的なのは「神頼み」であって、「神の存在」を信じることは科学的な態度に矛盾するものではない、ということ。要するに、反証可能なことだけに注目して、そこは白黒つけましょう、というのが科学だ、と言いたい。
「神の存在」は、神が見つからなかったとしても、「神は全知全能だから人間には分からないように隠れられる」と言い逃れられるので、もともと反証不可能。
「霊の存在」の反証不可能性は微妙。霊の定義に「霊は人間には分からないように隠れられる」という命題が含まれていれば、もともと反証不可能になる。そうでなければ、「既存の光や音に関する科学実験結果は、全て霊の存在と関係なく説明可能」ということから、間接的に、物理的な霊の存在を否定できる。これが、「人間は霊を感じる」という認知科学の命題であれば、話は全く別で、これは真になると思う。実際に一人「私は霊を感じます」みたいな人を連れてくればいいだけだし、幻覚作用のある物質を投与したときに霊を感じたりする場合の記録などがあるはずなので、正しいはず。
「水は言葉を理解する」という命題は、「過去の水に関する実験結果は、全て水にかけた言葉と関係なく説明できる」ことから、間接的ではあるが、否定実験をするまでもなく容易に反証可能。
申し訳ないのですが僕の頭が良くないので宜しければ代わりに文章を修正して頂けないでしょうか。
本当に「アニメやゲームの暴力的表現は子供に何の悪影響も与えない」のでしょうか。
認知科学の応用分野における物語メディア(または視覚メディア)と認識に関する研究では、先行研究の成果によって「影響あり」が前提となっていることくらいは知っておくべきだと思います。
その上で、どのような影響があるか分からない、というネガティヴな感覚は排除すべきでない重要な問題です。
個が全体のために、全体が個のためによりよい文化を選択していくという意識を持ち続けるべきなのではないでしょうか。
オタクは自分の本能に従っている。
博学というのは理性に従っている。
「オタク/博学」「本能/理性」の二分法がテキトーすぎる。だから、
社会性というのは他人とのコネクションのことを指すので、
そして、そこには理性的な努力が必要だったりする。
の部分で論旨が混乱してる。理性的な努力が必要な領域に関わっているオタクがいるのであれば、「理性に従ったオタク」と「博学」の差はどうなるの? 今書かれている文章だけだと、リテラルには破綻しているようにしか読めない。さらにいえば、そもそも「社会性」と「オタク社会の中だけで通用する社会性」を分けるためには、「社会」と「オタク社会」の差を明確に指摘できないとダメなんだけど、そこはどう考えてるの? 分析的な文章が書きたいのであれば、イメージに頼らないようにすべきだと思う。たとえ匿名で緩く書き込める場であっても。
以前「オタクはルサンチマンで説明できる」とかなんとか言って、ボコボコにされながら粘着していた天然クンを思わせる……。
ついで。
http://anond.hatelabo.jp/20070428012327
(東浩紀しかそんなこと言っていない)
http://anond.hatelabo.jp/20070428015502
(このレスをしてるのが元エントリの増田かどうか確証はないが)なんだ、無知かと思って反応してみたらただの馬鹿なのか。がっかり。
世の中、大と小だけじゃないけど、
大と小で表現するわけだ。
なんで? 大と小で表現する必然性ないじゃん。
それどころか、分析対象に中間領域があるってわかっているなら最低でも大・中・小に分けて分析して表現するべきじゃないのかね。
複雑さの度合いが「現実>分析」なんてのは当たり前の話。その中でどこまで分析の精度上げていけるかが大事。その努力を怠る奴が、知った風なことをほざく権利はないね。たとえ増田でも。
しっかし釣りにしてもツマランなぁ。以前の天然クンはなかなかにアジがあったのに。
http://anond.hatelabo.jp/20070428012327 の追記3
理性ってなんなんですかね。人間の本能の一部じゃないのかな。
生物学的な意味での「人間」に、何の教育も与えずに孤独に放置しておいても「理性的」な振る舞いができるようになるんだったら「人間の本能の一部」だろね。一時期、認知科学方面でそういう発想に基いた研究が流行ったけど、今どうなってんだろうなぁ。まあ、きっちりと証明されていない以上、フツーに「(人間の)理性とは後天的に身につけることができる論理的思考能力のことで、対比物は『悟性』」とか考えたら良いんじゃないのかなあ。俺も哲学シロート同然なのでなんともいえんとこだけど。