はてなキーワード: 練り込みとは
今回は少年ジャンプ+
相変わらずシーンの切り取り方と繋げ方が無頓着なきらいもあるけれども、今回はアクションも比較的分かりやすい。
やり取りも簡潔かつ明瞭で、例えば「俺はアグニじゃない」のくだりとか。
ここでいう「アグニ」っていうのは偶像として民衆の拠り所になっていた頃の彼のことではあるんだけれども、それを否定することと行動の結果(目的)が繋がっている。
まあ、戦闘シーンのくだり自体は蛇足感が強くて、前回で消化しきってて欲しかったかなあと思わなくもないが。
主人公が自分の置かれた状況と照らし合わせて、デスゲームそのものをメタ的な視点から分析している場面が興味深い。
で、それを踏まえて「どこまでメタ的な視点から読み取ればいいのか」っていうのを、後半の展開で読者に提示しているのも良い。
とある劇中マンガに主人公たちはドン引きするんだけれども、視点を変えればあれは所謂「シリアスな笑い」なわけで。
主人公の「どこに続くんだよ」っていうツッコミはギャグの領域だ。
柱のコメント含めて、この作品をどの程度メタ視点で読み取ればいいかと混乱させている。
あと、「ヒロイン観察漫画」っていう俗称が作中で出てくるのも大概ネタだなあ(なにせジャンプの各WEBコミックサイトは、その系統の作品を大量に世に出している)。
この時点で、良くも悪くも本作の流れや作風を完全にモノをしているという印象。
なにせキャラの設定とか話の流れそのものは、既存の学園コメディモノで有名なのがいくつかあるからね。
その状態で構成まで似ていたら、細部では別の作品だとしてもほぼ同じ作品だという印象を持たれる。
ちょくちょく挟まれる先生の自分語りや、モブたちの独特な実況は良いアクセントになっているけれども、特筆して個性があるのはそこだけだから、その部分にうんざりされたら読み続けるモチベを保つフックがなくなるかもしれない。
感想は書いていないけれども、色んなWEBコミックサイトを巡回しているんだよね。
といっても網羅しているわけじゃなくて、基本は16ちょいのサイトを回って、気が向いたら別のサイトもって具合。
それでも週に100作は読んでいるわけで、そんなに頻繁に見ていると作品を構造的に読んでしまうことが増えてくる。
で今回も、RPGものや異世界ファンタジーものをモチーフにしたコメディで、それはもう割と手垢まみれなんだよなあと改めて認識した。
勇者じゃなく敵側のモンスター役が主人公とか、クズと善良なキャラの掛け合いだとか、そのあたりがもはや紋切り型になってしまう現代は、ある意味で本当恵まれているなあ、と。
仮にやる場合は既存のものより洗練されているか目新しい何かがないと厳しいんだけれども、それが難しいからキャラで勝負するしかないんだろうね。
で、そのキャラはというと、個人的にはあまり刺さらなかったかなあ。
失礼かつ身も蓋もないこと言わせて貰うなら、主役のゾンビか勇者をセクシーな女の子にするか、マスコット調のファンシーキャラとかにしたら一定のファンは獲得できると思うよ(冗談のつもりで言っているけれども、そういうのが効果的であることは否定できないからなあ)。
まあ私は、もうその系統は食傷気味なので読みたいかといえば読みたくないけれども。
なんか我ながらすごく投げやりな感想だ。
今のところバトル部分が盛り上がりに欠けるというか、だまし討ちとか不意打ちとか瞬殺で終わりとかばかりで。
じゃあ、キャラクターたちの掛け合いとかバックボーンのストーリーとかが重点かといえば、掘り下げも甘いまま死ぬから何の感慨もないしで。
今後も、能力の後だしジャンケンとか、不意打ちだまし討ちばっかりで決着がつくようならうんざりするけれども、さすがにそんなことしてくるようなストーリーテラーなわけがないと思いたい。
二転三転して、恐らく十二支以外の第三勢力とか裏に隠された大きな陰謀が露にとか、それ以上の展開はしてくる、と思いたい。
というか作品に深みを持たせるための練り込みが甘いから、そういった展開部分で惹かせるしか期待しようがない。
ただ、まあ、そういう展開を六話の時点で予想&期待している時点で、私の中で本作の評価はかなり低い水準になってしまっているんだなあ、と。
女性、という設定です。やってみたいけどとても面倒そうなので、メモだけ残します。
最近はそれっぽい人がちらほらいますが、実際はどうなのでしょうか。
→特に実年齢と大きく離す場合は、演じる年齢の言語チョイスをよく調べておく。 ※
・Twitterアカウントがあったほうが望ましい。
→複垢してる場合はクライアントなどに注意が必要。本垢バレぬよう。
→写真などの用意するなら、カメラ機種・位置情報などに注意が必要。あらかじめ準備しておくのが無難か。
※これを利用として「若い設定だったのにババアだった」という演出をするのもよいかもしれない。
※一般的な要素
・特徴的な語句の誤用(炎上時、コメ欄でおもわずつっこみたくなる感じのやつ)
・激しい知ったかぶり
※対女性向け
・中途半端なおしゃれ感(これでイケてるつもりかよ層のツッコミ待ち)
・もてている感(これで以下略)
・「あからさまでなく、さりげなく男がいる演出」をしているのが「あからさま」な写真。
※対男性向け
しかし、オタ系男でも界隈有名人には媚びる姿勢。そしてサブカルは逆に崇める姿勢。
・童貞風味の男性のキョドリ具合について煽る(あからさまにではなく、苦笑ってかんじにする)
・男は女に○○すべき系(これ系は難しそう。モチーフを選ばないとわざとらしくなる)
・男に○○させた系(同上)
メモ:あまりあからさまだと狙いがバレるため、頻出炎上課題は避けたほうが無難か。
・有名人を煽る(ハゲの方あたりが食いついてくれそうなかんじのもの)
※忘れたけど誰かがすごいウエメセでやっていたような。そして本人が出てきたら急に謝罪しだしたと記憶。
・まりさアイコンの方は常に(しかし、これを真似するのは多分相当高度な技術が必要)
・要検討
メモ:補助としてやっていきたいが、時間的コスト高し。出現時間帯もプロフにあわせスケジューリングしたいところ。
出現時間帯の演出を利用し、社会で活躍してると見せかけて無職、と匂わすのよいかもしれない。
↓
上記を受けての記事を追加。煽る。Twitterでも煽る。紹介されたら積極的にうざ絡み。
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ネタかとすら思われていたが、真性だった!という感。
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逃亡。捨て台詞も用意。
メモ:これは練り込みが必要。ウォッチャーのためにも起承転結にあふれるものとし、エンターテイメント性を高めていきたいところ。
Twitter界隈はウォチってないので知識不足です。うざい絡み方について一家言ある方はコメント頂けると幸いです。
「過去に学ぶ」についても観測不足の部分もあるので、近年で印象的だった話があればお聞きしたい。
艦これアニメ弓道問題の本質は、やる気のないアニメートに尽きる
http://anond.hatelabo.jp/20150113233602
を書いた増田です。
巷では第3話の内容が取りざたされるなか、今さら第2話に言及するのかよ、ってツッコミはごもっともですが、ニコニコ配信で視聴してる人へのネタバレ回避のためのこのタイミングの投稿ということでご理解いただきたく。
さて本題。
艦これアニメ第2話における如月のセリフによって「足柄が合コンに行って失敗した」ことがほのめかされており、そのことに反発が集まっているという経緯がある。ツイッター上での感想などはtoggetterにもまとめられていたりして、ちょっとした騒ぎに。
よくある演出じゃないかと擁護する向きもあるけど、そもそも足柄というキャラに男漁り的な属性を付加しているのは二次創作でしばしば見受けられる描写であり、しかし今まで公式の媒体でそのような扱いを受けたことはない、という事情がある。つまり問題のセリフは、単によくあるテンプレ描写という位置づけではなく、公式にはもともと無かった属性が二次創作で盛んに用いられているからという理由でアニメに輸入されたという構図に見えてしまう。これは原作ゲームの足柄のファン(かつ、二次創作での描写に不満を持っている層)にとってはキャラ改変・改悪にも映るわけで、荒れるのもむべなるかな。過去にも赤城の大食い属性が二次創作から原作ゲームに逆輸入されたという前例もあって(そのときも一部の赤城ファンを中心に荒れていた)、二次創作ネタが公式に採用されることを嫌う提督が少なからずいるということがあらかじめわかっていたのに。
本筋に関係ない枝葉末節なのだからスルーしろという向きもあるけど、枝葉末節ならなおのことこのような描写をする必要性がないはずで、なんでこんな描写を入れたのかと、よりいっそう制作側のセンスが問われる話になる。こういう点について鈍感な制作陣は、そもそもキャラクター人気に支えられている原作のアニメ化になど携わるべきではないのでは?
KADOKAWAアニメでいうと、キディ・ガーランドにおいてニコニコネタをふんだんに突っ込んだエピソードを放送して視聴者の顰蹙を買ったという事例が思い出されるけど、二次創作との距離の取り方がわかってないアニメスタッフ(それも上流工程)がぼちぼち現れてきているのではないか、という気もする。
ここまでが前振り。
今回の問題も、第1話における弓道描写の問題と同様に、単なる一描写の巧拙の問題にとどまらず、制作全体に潜んでいる本質的な問題の氷山の一角であり、駄作化の兆候なのではないか、というのがここからの主張。
まず1つ言えるのは、作品の方向性がスタッフ間で共有・統制されていないのではないか、ということ。
アニメでは提督の姿の直接的な描写が避けられているが、提督を具体的に描かないことで男の影を排除している、あるいは提督=視聴者というニュアンスを込めていることは、様々なスタッフインタビューでもほのめかされている。いずれにせよ、いわゆる美少女動物園型の作品が志向されていることになるが、ならばなぜ合コンなどという男の影ちらつきまくりの要素を出してしまったのか。提督の描写を避けるというかなり強い枷(実際にそれによって作劇が不自由になっている部分は多かろうと思う)を自分たちでハメておきながら、その意義をスポイルするような要素を、まったく本筋に関係のない枝葉末節のところで触れてしまう、というのは、自分たちがどういう方向性で作品を作り上げていこうとしているのかコンセンサスが取れていない、または誰一人として自覚していないか、あるいはわかっていながら実務がコントロールしきれていないか、いずれかである。
もう1つは、原作のキャラ描写を読解し理解したうえでアニメという媒体ならではキャラ描写をしていく努力を放棄しているのではないか、ということ。
この点については、「ハラショー」しか言わない響、という例もあるが、もう少し議論しやすい例として暁を挙げたほうがわかりやすいだろう。アニメにおける暁もまた、レディーに絡めた発言ばかりしている。これは一見すると原作通りであるかのようにも思えるが、ではなぜ原作ではそのような描写になっているのかを考えてみると、その大元には背伸びをする女の子像を描きたいという動機があると容易に想像でき、しかし原作は立ち絵が静止画ゆえ動きが表現できず、また提督と艦娘の会話どころか艦娘どうしの会話すらない造りとなっていて、モノローグ的なセリフによってのみ背伸びしがちな女の子のキャラ性を描かなければならないため、その条件に最適化した結果が、ある種テンプレ化したようなあのセリフ群になっているのだろうと思い至る。その点、アニメという媒体ならば動きもあるし会話もさせられるから、個々の場面に合わせてキャラ描写をもっと柔軟に行うことができるし、むしろ原作通りのセリフ回しをそのままアニメでやってしまうとテンプレ臭が強すぎて場面から浮きかねずかえって不自然になるだろう・・・にもかかわらずアニメでは愚直に原作のセリフを真似てばかりいるのである。
公式コミカライズやそれこそ同人誌などでも、場面とセリフとをきちんとすりあわせて、テンプレ臭くならないような、それでいて暁が背伸びしようとしている感じを醸し出し、その可愛らしさをうまく表現している例は多々ある。そういった例と比べると、アニメでのキャラ描写は練り込みが足りてないし、そもそも練り込もうという意欲もなくただわかりやすいレディーというキーワードを振り回しているだけの、ひどく雑に記号化された描写にしか見えない。
足柄に合コンを匂わせる描写も全く同根で、原作における足柄がいったいどんなキャラなのかということを掘り下げて考えることをせず、ただただわかりやすい記号として男漁りという要素が二次創作界隈に流通していたから、それを拝借してきて一丁あがり、という安直な脚本になっているのである。
以上2つ、艦これアニメにおける足柄の合コン言及から垣間見える問題点を述べた。前者は制作全体がきちんとまとめきれていないことを示唆しており、後者は脚本家の技量不足を示唆している。このような事態に陥っている制作体制から良作が生まれてくるなどとは、全く期待できないだろう。
■本文。
今年上半期の美少女ゲーム業界を見渡すと、市場の拡大に伴う、保守化の流れに向かいつつある感がある。これは、おたく業界全体が内包している問題ではあるのだが、正直な所、拡大する市場を追いかけるのは既に辛くなっている。個人的にも、久々に行った秋葉原で、ギャル絵の洪水に立ち眩みがしたのも確かだ。
さて、コンシューマ市場は肥大したが故に、一般性の高さが必然となっていった。例えば、ドリームキャストの失敗は、古くからのセガファンが放つ、マニアックな重力から作り手の側が脱する事ができなかったが故の悲劇とも言えるのだが、一般性ばかりを追い求める状況は、作り手の側にも不満が蓄積されていく。
その、取り残された創作性を実現させる場所として、美少女ゲーム業界が成立したという背景がある。実際、筆者が一番面白かったのはDOSからWINDOWSへ移行する過渡期で、けったいな野心作が多く出た時期だったのだが、その後、市場として、成長・拡大すると、やはり、メディアミックスなど、資本主義的な視線が入り込んできた。
そして、今の美少女ゲーム業界は、昨年来からのレーベル数の増加と、タイトル数の増加と反比例するように、ゲームのジャンルの多様性が失われる傾向が生まれている。タイトル数の増加の背景に、発売サイクルの短期化があり、制作期間の短縮に伴い、システムやシナリオの練り込みが薄れている作品も多い。バグなどの不具合の発生が日常茶飯事になっていて、インターネット上での差分ファイルの配布が流行している現状に至っては、もはや何をいわんかや、という感じでもある。
不幸中の幸い、筆者はそういうゲームにあまり遭遇したことはないのだが、シナリオの練り込みが足りない上に、一時間程度で終わるゲームの為に一万近い金を出すのは、効率が悪いよなあ、という心境は間違いなくあるだろうと思われる。また、メイドものや恋愛ゲームがタイトル数の半分以上を占めるという状況では、やる気そのものが起きなくなってくるのは事実だ。
まあ、メディアミックスを基盤とした企業複合体のシステムに組み込まれた大手では、実験的な企画はほとんど通らないという話もあるし、一獲千金を狙う中小メーカーも、安全パイの企画しか通さない所が増えた。市場が拡大すればするほど、ジャンルが逆に淘汰されていくというのは、当然と見るか、皮肉と思うべきなのだろうか……。
このような、メーカー側の風潮と相互作用しているであろう、ユーザー側の意識についても、前回、「オブジェクト嗜好」と指摘したように、非常に即物的な傾向を示している。キャラクターの消費サイクルが非常に早くなっているため、自己の内面においての批評的な掘り下げが生まれなくなったのだ。
既に、ゲーム誌の編集者すら、全体を把握しきれない程、美少女キャラクターが氾濫している現在の市場状況では、その心性に惚れ込むのではなく、快楽的な記号の組み合わせだけで、売れ線のキャラクターが成り立ってしまう。あまりにも多い選択肢に対峙した時、人間というのは表層的で直接的な視覚イメージを優先してしまうからだ。
ところが、快楽的な記号を積み重ねれば積み重ねるほど、どんどんキャラクターはフリークス化していくし、リアルな少女像から離れれば離れるほど、逆説的にキャラクターがイノセンスを獲得して、ユーザーはヒーリングされる……といった構図になっているのだろう。多分。
何故、おたくのセックス観がリアルな肉体から遠く離れなければならないのかを考えると、それだけでこのコラムの3回分になってしまう位に深くて浅い問題なのだが、やはり、日本の特殊なフェミニズム環境が背景に存在しているような気がしてならない。これほどまでに、二次元の美少女を消費しなければならない、内的な問題とはいったい何なのかについては、また改めて書くとしても、これらの背景に、戦後日本の構築した、過剰な消費社会のターゲットが若者のみに向けられ、若さの素晴らしさや、青春の幻想をメディアが強調しつづけた蓄積の結果であると思われる。その副作用として、「オブジェクト嗜好」も含めた、おたくの奇妙な性嗜好が構成されているようにも思う。
これは、日本独自のフェミニズム的なものに対する、無意識下での抵抗と位置づける事もできるし、その中で形成された美少女概念と現実のズレが生み出した現象ともいえる。現に、美少女ゲームにおけるヒロイン像の大半が、十代中盤の保守的な少女に設定されているのは、当たり前と言えば当たり前だが、不自然といえば不自然でもある。だが、少なくとも、筆者はこの状況を全面肯定できるほど、気楽にはっちゃけられないのだ。
しかし、同じおたくの枠に括られているとはいえ、メタ的なものやフェミニズム的な表現を賛美するサブカル好きなおたくと、ひたすら癒しを求めて空想世界に依存し続ける昔気質なおたくは、明らかに正反対の方向を向いているし、それ故に、前号の本誌「オタク定点観測」にもあったが、双方の感情的な対立も表面化している。だが、前者には普遍化させようという意志が欠けているし、後者には相対化する視点が欠けているので、おそらく、どこまで行っても歩み寄ることはないだろう。
まあ、自分のことは棚に上げるが、本誌のコラム陣もまた、サブカル否定・おたく保守の傾向が強すぎるようにも思うし、最近はあらゆる所で極端な対立が起きるので、さすがにどちらかに与して云々という気持ちも無くなってしまったのだが、おたくという言葉が生まれて、15年の歳月が経ち、その括りだけでは収まりきれない時代になっているのだろう。美少女まんがはそれぞれのニーズに応えようとして、遂に80誌を超えようかという所まで肥大してしまったが、ならば、美少女ゲームはどうなっていくのだろうか?
加えるならば、前回の原稿を書いている時にインターネット上でぶつかった、萌え派と泣き派の思想的対立というのも、拡大する市場と、それに伴う価値観の拡散に伴う混乱、そして、批評軸の喪失といった状況が、結果、ユーザーの思想を脆弱にしてしまったという意味では、分かりやすい例だと思う。
快楽記号が多くてキャラクターに萌えられるから良いゲームだ、とか、心の琴線に触れて泣けるから、良いゲームだ、というのは、はっきり言って、どちらも同じ穴のムジナだし、良いゲームかどうかを決めるのを、一元的な価値観のみに拠って決めること自体が、ゲームの本質を歪めているようにも思うのだ。そして、作り手の側も、「時代がそれを求めている」とかいう言葉で、その表層的な状況をそのまま受け入れているようでは……なんだか、ヒヨコが先か、タマゴが先か、といった話になってきたのだが、もう、この世界は良い方向へ向かうことは絶対にない、と言わざるを得ない。これは、鬱のせいばかりじゃないと思うし、美少女ゲームに限った話でもないのだ。
批評軸の無い世界は自由に限りなく拡散していくのだろう。だけども、空洞化した世界には秩序は生まれないし、結局、内面の闇から逃げる為に、無意味な祭りを繰り返すのだろう。そして、絶望と祭りを行ったり来たりする筆者の心は、まるで墓場と酒場を行ったり来たりする沢田研二のような気分なのだ。ダバダバダバダ(意味不明)。
■暑くて憂鬱な夏の総括。
なんか、またゲームの話をしなかったなあ、このコラム。最初は普通にゲーム評をやるつもりだったんだけど、すっかり別物になりつつあります。ごめん。しかし、ゲームのことを書くと、褒めても褒め方が気に食わないと文句付けられるらしいので、いっそ全く書かない方がいいのかも知れない。まあ、これは某メーカーの広報誌と化した、とあるコンシューマ系ゲーム雑誌で書いている友達の台詞なので、美少女ゲーム誌では、そんな事はないと僕は信じているけどねっ☆
■はじめに。
今のリーフの隆盛を準備した作品が『雫』なのは、『To Heart』から入ったユーザーには理解できない事かもしれない。その理由については後述するけど、筆者が美少女ゲームについて書いたのは、『雫』の紹介記事が最初なので、思い入れも強いし、ある意味で呪縛にもなっていた。そんな筆者が、1998年の最初に買った『雪色のカルテ』は、その呪縛を見事に吹き飛ばしてくれたのだ。まずはここから始めよう。
■雪色のカルテ
『WoRKs DoLL』のTOPCATが、昨年、Peachから発売した作品。3人の患者を診療しながら、診療所を運営するSLG。原画は緒方剛志氏。
最初はポンと投げ出されたような状況で、迷いつつプレイしていた。しかし、過剰さを抑えたキャラクター、台詞、イベントの数々が、散発的ながらも徐々に物語を形作っていく緊張感の虜になってしまった。具体的には、主人公に対し、患者たちが徐々に心を開いていき、医師と患者の関係性が変化していくあたりの展開の上手さだけども、何よりも世界観の徹底ぶりには敬服した。
まず、登場人物全てが、多面性を持っていた事には驚かされた。加えて、投薬などで感情を制御し、それが数値化されてしまうという、人間の限界と悲しさを突いたクールな設定にも惹かれた。『プリンセスメーカー』で、ぬいぐるみを大量に与えて、娘の機嫌をコントロールするという、安永航一郎のまんがのネタにも使われた設定があったが、医師と患者という設定で、それは、普遍的なリアリティを持った訳だ。
このゲームでは、病の本質を「精神的、または肉体的コミュニケーションの欠落」と捉えた上で物語を形成している。そして、シナリオだけでなく、システムやビジュアルなど、全ての要素が有機的に結びついて、完成度の高い作品を作り上げた事には、驚きを越えた衝撃があった。
■いちょうの舞う頃
Typesから発売された、「純愛」をテーマにしたAVG。恋人や家族との関係を軸に、青春の原風景を丁寧に描いた作品である。
『To Heart』という、強烈な爆弾が炸裂した後の、美少女ゲームに於ける恋愛の扱いというか、回答としては、一つは『ホワイトアルバム』のように、恋愛のダークサイドに踏み込んでいくというのがある。ただ、この方法論は、安全な幻想を提供する為に純化されたギャルゲーの流れに逆らっており、自身の属するジャンルの存在意義を否定しかねない、パンクな危うさも孕んでいた。
『いちょう』の場合は、その逆で、過剰な演出をできる限り抑え、細かい日常描写の積み重ねで見せる手法を、更に押し進めた形になっている。この方向性は『To Heart』自体が、TVアニメ化の際に強調している。ただ、物語性よりも、ピュアな感性がものを言う領域であり、むしろ、作り手側の負担は大きくなっている気もする。イージーリスニングというのは、発想としてはさておき、技術的には非常に難しい。
『いちょう~』の洗練されたビジュアルイメージは、この方向性の作品では屈指だ。ただ、個人的には、あまりにも健全明朗な展開には、気恥ずかしさを感じてしまうし、都市圏周縁のベッドタウンという、土着的な要素が少ない舞台設定には、渇きにも似た不安を覚えてしまった。もっとも、中上健次の『枯木灘』のような舞台設定のギャルゲーがあったら怖いし、出る訳もないのだが。
Leafが『To Heart』に続いて、世に送り出したAVG。美少女ゲームのセオリーを覆す、実験的なシナリオが賛否両論を巻き起こした。
かつて、『雫』で描かれた心情は、マイノリティの闇だった。毒電波というメタファーは、思春期の疎外感や、強烈な自意識を揶揄していた。物語である以上、結末に救済=日常への回帰を用意してはいたが。
だからこそ、まだ若かった筆者や、筆者の周辺はこの作品を熱烈に支持していたのだ。そして、『To Heart』は、その闇を潜り抜けた人々の物語だった。でも、それは同時に闇を忘れてしまった人々の物語でもあった。もっとも、思春期という暗黒は、いずれ回収されていくものだし、ユーザーの支持を得た以上、闇を見つめる必要は無くなっていた。美少女ゲームもまた、開かれた場所に向かっており、闇を知らない幸福なユーザーも増えた。
しかし、闇を忘れられなかった人々もいた。そして産み落とされたのが『ホワイトアルバム』だった。確かに売れた。しかし……もはや、毒電波に心情を仮託する事もできず、幸福な妄想の為に仕掛けられた世界にすら、違和感を感じる……荒涼とした場所に取り残されたマイノリティの為の物語が、予定調和とも言える、約束された祝福の世界を描いた『To Heart』の次回作なのだ、ある意味、これほど不幸な作品も無い。
肉体性を見事に排除した「マルチ」という理想の偶像を作り上げた後で、既に、過去の神話に過ぎないアイドルビジネスを、物語の舞台として、肉体性との相克を描いた事が、既に同時代的ではないし、結果的にこの作品のバランスを崩している。
けれども、不完全ゆえに、プリミティヴな負の破壊力を生み出し、まさにロックンロールな、『ホワイトアルバム』の名に恥じぬ作品が出来上がったのだと思う。
丁寧に練り込まれたシナリオのAVGと、明朗明快なRPGという違いはあれど、アリスソフトは1998年も好調にヒット作を出している。
もう一つ、筆者の遺伝子に刻み込まれた作品として『AmbivalenZ~二律背反~』がある。ロマンティックな復讐と因果の物語は筆者を大いに酔わせてくれたが、その流れを汲む『デアボリカ』では、内省的な描写を突き詰め、同じテーマに対しても、異なるアプローチを試みている。理想と現実、純愛とエゴ、といった、二律背反なテーマの相克に対し、複数の回答を用意した(選択の幅を増やした)事で、物語としての奥行きが深まったのは特筆できるだろう。
『ぱすてるチャイム』は、前回も取り上げたし、こちらも良いゲームだけど、説明不足の事柄もあり……例えば、ゲームが進行して、実際に呪文などを覚えて、パラメータの意味がやっと分かるというのは、昔とは異なり、ストイックさとは無縁のユーザーが増え、レベル自体も拡散拡大した状況からユーザーを幅広く取り込むには、少々敷居の高さも感じたのだ。……そう、長い間、最も安定したメーカーであるアリスソフトも、時代との折り合いを考えなくてはならない時期になったのだな、と筆者は痛感したのだった……。
■反省と近況と総括。
前回は某誌で使いそびれた文章をベースに書いたんだけど、これからは、特定のゲームに絞らない状況論の方向で行こうと思います。文体もまだ一定しないしなあ……。それ以前にちゃんと続くのか、これ(笑)。……ところで、筆者は、ギャルゲーの本質は、ストーリーの練り込みによって、キャラクターへの感情移入を高めていくものという認識があるのだけど、声優の起用やグッズ展開の方を前面に押し出す昨今の状況には、正直言って、違和感があるんだよな。まあ、これも、年寄りユーザーの単なる戯言なんだろうけどね~。あ、次回のサブタイトルは、「アンドロイド少女は電気羊の夢なんか見ない」です。BGMは野口五郎『甘い生活』でどうぞ。