はてなキーワード: 曲解とは
腸煮えくり返りそうなので衝動的に書いている。事実誤認があれば申し訳ない。
何に腸煮えくり返っているかって
全国フェミニスト議員連盟とやらが、フェミニズムを表層的にしか理解せず、VTuberも表層的にしか理解せず、女性の主体性を弾圧している。まるでタリバンみたいだからだ。
ことの発端はコレですわ
千葉県松戸市ご当地VTuber「戸定梨香」が、松戸警察、松戸東警察の交通安全啓発活動に協力。
歩行者のみんなにお願い~千葉県松戸・松戸東警察署~【千葉県警察公式チャンネル】
「ちばサイクルール」って知ってる?~千葉県松戸・松戸東警察署~【千葉県警察公式チャンネル】
元気いっぱいで可愛いねえ、一生懸命頑張って解説してるねえ、でもちょっと説明口調だねえ、次からもっと頑張りなあ!でも応援したくなるねえ。程度のもんなんですが。
その結果、どうやら戸定梨香の運営代表である板倉節子によると、PR動画が削除されるようです。
ため息が出る。この全国フェミニスト議員連盟の批判が滅茶苦茶で、そんな批判に折れた松戸警察が、甚だ残念だ。
コレは間違いなく、女性の主体性を否定する活動に松戸警察が加担したことになりました。
私たちは、啓発動画に「松戸市ご当地 VTuber の戸定梨香」を採用した千葉県警、松戸警察署・松戸東警 察署に強く抗議し、当局の謝罪、ならびに動画の使用中止、削除を求めます。本動画は、女児を性的な対象 として描いており、女性の定型化された役割に基づく偏見及び慣習を助長しています。
戸定梨香という VTuber(アニメキャラクター)は、セーラー服のような上衣で、丈はきわめて短く、腹や へそを露出しています。体を動かす度に大きな胸が揺れます。下衣は極端なミニスカートで、女子中高生で あることを印象づけたうえで、性的対象物として描写し、かつ強調しています。
国連女性差別撤廃委員会の勧告(2016年)は、日本政府に対して「固定観念と有害な慣行」として「メ ディアが、性的対象とみなすことを含め、女性や女児について固定観念に沿った描写を頻繁に行っているこ と」に懸念を表明しています。公共機関である警察署が、女児を性的対象とするようなアニメキャラクター を採用することは絶対にあってはならないことです。
なるほどねぇ、認識の誤りも甚だしいわ。
問題とされているのは、性的に過度に誇張されているか、固定観念を助長する属性はどうか、ということですが、動画を見れば分かる通りかなり批判の内容とは齟齬があります。
まず問題された胸の大きさと揺れですが、過度に強調されているわけでもない、不自然に胸が揺れるわけでもなく注視しないと確認できない、おおよそ現実に即したものです。コレがアカンなら現実の女性の胸の揺れにも文句をつけるのかね。公の場に出る女性はガッチガッチに胸を隠すべきなのかあ
そして肌の露出に関しても、実際的なファッションセンスから大きく外れるものではない、ましてや表現者であるアイドルやアーティストの衣装であれば、ありふれている程度の肌面積だ。何かね同程度に肌を露出しているフワちゃんも公的な場に出るなと問題視するのかね。
そしてだね、セーラー服のような上衣だから女児を印象づけていると言うが、ひどい論理の飛躍だ。セーラ服そのものでないと暗に認めつつもセーラ服っぽいから女児の印象を受けるっていうなら、セーラ服そのものを着てる桜塚やっくんも女児の印象を受けるのかよ。だいたいね戸定梨香は女子学生でも女児でもないんだ、ファッションで着てるんだ。変な印象を持つな。戸定梨香は自ら望んで主体的にこの姿で自己表現しているのだ。戸定梨香というVTuberそのものをちょっとでも調べて理解していれば、こんな的外れは批判はしない。
そうだ、戸定梨香というVTuberそのもの理解していない、いやVTuberそのものを理解していない、これが根源的な間違いの元なんだ。
批判する文章の中にはVTuber(アニメキャラクター)とありますがね、VTuberはアニメキャラクターではない、VTuberはVTuberである。ここが非常に大事です。この認識がないから、全ての論理展開がおかしくなっている。
いいですか
VTuberはアニメキャラクターではないのです。アニメキャラクターは様々な人が関わり作るものだから主体性には乏しい。だがVTuberはVTtuberであり、大きな声では言えないが中の人がいる。
そしてこの戸定梨香は女性が演じている、そのうえ運営企業の代表も女性であり、表現者も組織も女性という、女性が主体的な活動である。
いいですか、つまりですね。
女性の表現者と、女性の経営者が、自ら主体的になって、最先端の表現技法で自らを表現して、愛するご当地を自ら盛り上げようと、最初から最後まで女性が主体的に行っている活動に対して
その女性の主体性をまるで理解せずに属性や表層的にしか見ないで全国フェミニスト議員連盟は批判している。
女性の主体性を尊重する。これは間違いなくフェミニズムの根本にあるものだ。
女性が主体的になって、自ら望んで自己表現する。これを批判するのは、フェミニズムの否定です。
全国フェミニスト議員連盟は、女性の主体的な表現や活動かどうかも理解せずに、教条主義的に一律的に表現を活動を弾圧しようとしている。
全国フェミニスト議員連盟がやっていることは、てめえの頭で考えず、相手のことを理解せず、曲解した勝手な価値観を押し付ける、女性の主体性を否定するタリバンと同じです。
じゃあ、これからはどうしたらいいのよって言ったらもう
これからはVTuberはアーティストであると表現者であると、もっとアピールしていく必要がありますよ。
バーチャルなキャラクターに対していくら叩いてもいいと思っている人たちに対して、VTuberは生きた表現者だとアピールして、その価値を知らしめる必要があります。
あの言葉は不適切な仕事をさせてはならない。とくにマネジメントポストにマネジメントに不適切な人間を当ててはならない。当人は一生懸命働いているが、マネジメントとしては無能で、例えばパワハラだとかで組織全体をだめにするのだ。という意味だと思う。
しかし曲解して、自分が気に食わないやつを無能認定して、そいつ死ねや!みたいに使われるケースが多いな。とくにマネジメントポストに不適切なのにマネジメントやってるやつが部下を無能認定するとかみたいな。
記事の著者です。ごめんなさい、理解力がないのかもしれませんが、あなたの反論にすべて反論できてしまった気がします。
・まず「「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」」と言うが、鴻巣は「描写がある」と読んだのだから平行線で終わり。
→では、自分の主張を補強するためのツイートで「ICUにいる描写がある」という前提を設けた鴻巣が、「「Aは死んだ」という明示的な記述」に言及する合理的な理由を教えてください。この「明示的な記述がない」が「描写がない」を意味しないことを説得的に論じてください。「描写」と「記述」に差があるのだ、と言いたいのかもしれませんが、そこに差を設けるのであれば鴻巣の主張が成立するように注意してください。なお、この鴻巣の例で「「死んだ」と理解する」のは合理的だと思いますが、この例と「少女を埋める」の例を一緒にはできないと思います。
・鴻巣は「合理的」な読みの話をしているが、この記事の筆者は「客観性」と言い換えている。
→「描写の有無についての客観性」と「読みの合理性」は別の問題です。さもなくば「「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります」という表現は成立しません(読点の前が描写の話、読点後が読みの話)。また、言うまでもありませんが、描写についての「主観/客観」の語彙は当事者二人が用いているものを借用しており、元記事でも補論でも、引用部分を除く私の本文は読みについて「客観」という言葉を使っていません。
・誰かの「あらすじ」を先に読み当該小説を読むとして、読者はそのとおりに読んでもいいし読まなくてもいい。実際に小説を読んで鴻巣の「あらすじ」は「おかしい」「頓珍漢」と「わかる」人もいれば、鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む人もいる。どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」しない。
→私は「鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む」一人ひとりの経験的読者について、「「読み」が閉ざされた」と述べています。抽象的な読者群としてはおっしゃる通り「どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」し」ません。「どちらもあり得る」読者を排除して、桜庭解釈に「思い至りもしない」経験的読者に限定していることを明示的に記述するべきでしたね。反省しました。なお、全面的に閉ざされたとは言いません。鴻巣解釈が先行したことによって、桜庭解釈というひとつの解釈の可能性がある読者にとって「閉ざされた」という意味です。
・ある合理的な読みが誰にとっても一つ
→と、私が書いたかのように言われているんでしょうか? 明示的な記述がない部分を埋めるにあたって、合理的な解釈が複数あるのであれば、そのすべてが認められます。それがエーコの言う意味での「テクスト解釈の可能性」の「無限」さであり、また、空白を埋めるのは読者の「主観」でも経験的作者の意図でもなく「テクストの意図」に沿ってです。ただ鴻巣解釈、というか鴻巣の読みが合理的ではないだけ(「曲解」)で、桜庭とは別の合理的な解釈があるかもしれないし、それに思い至った人が桜庭解釈の視点を同時に持つことも可能なはずです。
・他の読み方(たとえば鴻巣のような読み方をした人も一定数いる)が合理的ではないということにはならない。
→「一定数いる」ことが「合理的」であることの条件、あるいは合理的であることの証明であると言いたいのでしょうか。私はその前提に乗りません。そのために「鴻巣解釈の検討」の項目を設けたわけです。また、非合理的な読みを複数の経験的読者がすることも当然あります。鴻巣の読解が合理的ではない(「曲解」)とするのは、鴻巣が削除したツイートの文言を借りれば、「どう見ても」テクストの意図にそぐわないからです。
・それが、開かれた「読み」
→ここは反論ではなく主張のようですが触れておきます。経験的にどう読むかという広い意味では、確かに、非合理的なものも含め、どんな「読み」をする自由もあります。ただしこの自由は自明(他人の思考=「主観」は制御できない)なので、せっかく「開かれた「読み」」というかっこいい言葉を使うなら、範囲を絞った方が有意義そうです。この意見に納得いただけたら、補論の最後に引用したウンベルト・エーコの諸著作をお読みになることをお勧めします。「結局多数派か少数派か(一人か)の主観ということになる」とおっしゃいますが、主観を排除できるように、「テクスト論」をはじめとした理論というものがあるのではないでしょうか。そうした解釈の方法を(体系的かどうかはともかく)学び、身につけた、かつ解釈をしっかり書くことのできる者が書評家や批評家を務めているのだと、私は考えたいです。
・「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」
・「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない
・「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない
・桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている
まず「「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」」と言うが、鴻巣は「描写がある」と読んだのだから平行線で終わり。
鴻巣は「合理的」な読みの話をしているが、この記事の筆者は「客観性」と言い換えている。客観的な読みとは、多数派が、合理性をもって読み、到達するような読みではあるが、合理的=客観的ではない。どのような「直接描写されていないこと」があるかないか、多くの人が「ない」と言えばそれは客観的な読みだろうが、だからといってただ一人が固有の合理性で小説を読み解くこともありえ、ある合理的な読みが誰にとっても一つ(閉ざされた「読み」)だとは言えない。多くの人が小説「少女を埋める」に「虐待」の描写がないと読む(この記事の筆者もそう読む)からといって、それは結局「主観」の集まりであり、他の読み方(たとえば鴻巣のような読み方をした人も一定数いる)が合理的ではないということにはならない。
もちろ特定の読み方い対して、それは合理的ではない「曲解」だと主張することは可能で、文学研究や批評においても後の研究・批評が先の研究・批評を否定することはある。それが「鴻巣解釈の検討」で行われていることだが、誰もがこの記事の筆者のように読むわけではなく、結局多数派か少数派か(一人か)の主観ということになる。それが、開かれた「読み」。
・あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はある
誰かの「あらすじ」を先に読み当該小説を読むとして、読者はそのとおりに読んでもいいし読まなくてもいい。実際に小説を読んで鴻巣の「あらすじ」は「おかしい」「頓珍漢」と「わかる」人もいれば、鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む人もいる。どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」しない。
「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210826203711)の著者です。
非本質的な、《誤読か否か》を議論するコメントが依然として多いので、記事を改めて補論を書きます(文中敬称略)。
元の記事では鴻巣の意見から矛盾を示すために使ったまでで、「解釈」という言葉を本文で一切用いずとも問題を整理できるし、他にも鴻巣の矛盾を指摘できるのでそうします。
「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」こと
である。
そしてこの点について鴻巣はスルー、もしくは無理筋の意見を出しているのみである。
①27日13時39分
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
②27日16時43分
繰り返しになりますが、そういった解釈の豊かさ、多様性が大切である一方、今回の
「直接描写されていないことがあたかも書かれているように掲載されてしまった」
は異なる問題だと思います。
ここは、どうも平行線で、同じやり取りをずっと繰り返しているので、そろそろやめたほうがよいかなと。— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭自身は鴻巣との対話をやめたが、外野はこの点について把握しておくべきであろう。
Aさんが重病にかかり、病院のICUにいる描写がある。
場面が転換して、葬儀のシーンになり、棺が運ばれていく。
Aさんの友人が泣いている。
「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります。
あらすじとして「Aは亡くなり……」と書くのはNGでしょうか?— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
このツイートが議論として成立するためには、「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない。「主張が正しいか」という検討以前の条件である。
よって鴻巣は、桜庭が言う「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない。
④27日11時6分
なにが作中に有り、なにが無いか、その判断もまた作者桜庭さんの主観にすぎない、ということはお分かりいただけないでしょうか。つまり、あるひとりの読者=作者の主観だということです。「読解の自由」はお認めになると。それは作中になにが書かれているかを決める自由でもあるのではないでしょうか。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
お分かりいただけただろうか?
鴻巣は桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている。この矛盾について解決しない限り、鴻巣の意見は無理筋であり、鴻巣は桜庭と議論する土俵にも立てない。
なお、鴻巣は主張が成立しないのだから、厳密には「平行線」ですらないだろう。
テクストに「ない」ことを「ある」かのように書いた(ことが検証できる)あらすじなどという珍妙なものを読む機会がないので、そのようなあらすじを目にしたのちにいざ対象のテクストを読み始めた者がどう反応するのか、筆者には確たることは言えないが、あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はあるだろうと考える。
それは「読み」が閉ざされたことを意味する。なお、「どこかでおかしいとわかるはずなのでそうはならない」と言うのであれば鴻巣の書いたあらすじが頓珍漢だと認めることになる。
また、鴻巣はEvernoteでは「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいことです」と述べていたが、「むずかしいこと」ではなく「不可能な」ことにすり替わってしまった。
たいへん明快なご解説を拝読しました。今回、作者は「あらすじと解釈の分離」という一点に要請を収斂されました。仰る通りそれ自体は不可能なのですが、「読む」という行為この根本的なことが、意外にも一般に理解されにくいようなのです。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
こうしたすり替えをわざとやっているのであれば大した度胸だと感心する。同時に、不誠実な書き手だと評価する。
ついでなので、鴻巣の読解が「曲解」であることも示します。(「誤読」とは言いません。桜庭が使わないので。)
不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。離婚の話が出たことなど具体例を挙げてみるが、「そうだったっけ?」と不審げになる。それから急に目を光らせ、「人の記憶って、その人によって違うね?」と言った。
瞬間、母とわたしが同じ過去の〝ある時〟……七年前に最後に会った時のことを思いだしているとわかったが、いま対立するのは不毛だと、「ふーん……?」と目をそらした。
それから、
「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」
と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。
(桜庭一樹「少女を埋める」https://note.com/sakuraba_kazuki/n/ne3b7aa29cd58)
「不仲だったころ」は「病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってた」を指すのではなく、介護していた「この二十年」を指すというのが鴻巣の読解です。
この読解を支持できる方は根拠をつけて教えてください。「病気になる前」であるという解釈をあえて却下する理由込みで。
なお、この点についてのツイートを鴻巣はなぜか削除していますが、ツイートはこちら(https://twitter.com/maffumi/status/1431506303784943616?s=20)へのリプライの形でした。(スクリーンショットを見たければTwitterに上げても「私は」構いません。)
さて、(桜庭も言及している)「母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」に呼応する、
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
内心、(覚えてたのか……)と思った。
(Ibid.)
の「内心、(覚えてたのか……)と思った」も、「不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞」いたのも、「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない?」と言ったのも、すべて〈わたし〉なので、「不仲だったころ」をいつとするかによって、母が「お父さんを虐めた」のがいつだったと〈わたし〉が考えているかも決まる(と考えるのが普通だと思いますがどうですか?)。
当然のことですが念のため言っておけば、実際にいつ「虐めた」かは、作中世界では〈母〉のみが把握し、〈母〉の心中に作品の視点は入り込めない。よって問題となるのは〈わたし〉がどう考えているかを、〈わたし〉視点の文章で解釈することです。
私は「不仲だったころ」を「病気になる前」としか解釈できません。よって「虐めた」のも「病気になる前」としか解釈できません。
困りました。私の読解力がないんでしょうか。解釈の自由を標榜する皆様、お知恵をお貸しください。
「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「解釈の対象、つまりは焦点を当てるべきもの(事実やテクスト)が存在しない」ということにはなりません。「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「どのような解釈の試みもうまくいく」ということではないのです。
(ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの小説講座:若き作家の告白』、和田忠彦、小久保真理江訳、筑摩書房、2017年、48頁)
2(https://anond.hatelabo.jp/20210828220400)のつづき
『アイアンリーガー』は、基本的には優しい物語だ。彼らの努力や苦闘は最終的には報われ、そして(恐らく)最後はハッピーエンドを迎えるだろう。(迎えますよね?)
しかし、物語でロボットたちが直面する苦難は、決して甘いものではない。先述したロボットとしての宿命はもちろんのこと、彼らが心を持つモノであるが故の葛藤は非常に厳しいものだ。そして彼らの葛藤を通して僕たちに投げかけられている問いも、また厳しい。
彼らは意志を持つモノだ。意志を持つからこそ、自らの宿命を乗り越える余地がある。しかし一方で、意志は必ずしも良いものとは限らない。あるいは、仮に良いものであったとしても、それが良い方向に働くとは限らない。一つの意志は、別の意志を阻害する可能性を持っている。あるいは、意志もまた一つの「制約」になりうる。トップジョイと彼を取り巻くシルバーキャッスルの葛藤は、その象徴的な物語だ。
トップジョイのスパイ行為がまだ明るみになっていなかった時点で、トップジョイとシルバーキャッスルは相容れない様相を見せていた。ラフプレーをするトップジョイを、シルバーキャッスルは認められないのだ。
それまで、シルバーキャッスルのメンバーはトップジョイを温かく受け入れていた。そしてトップジョイ自身も、スパイという立場でありながら、シルバーキャッスルに好意を抱いていたに違いない。それにも関わらず、ラフプレーを繰り返すトップジョイに、シルバーキャッスルは厳しい態度を取った。
ラフプレーは、トップジョイのスパイ行為としてのものではなく、真にトップジョイが良かれと思ってした行為だった。それでも彼らはそれを認められなかった。試合で決勝点となるオウンゴールを決められてしまった時でさえ「笑って済ませた」彼らが、である。彼らは結果として、トップジョイを追いやったダークのバスケットチームと同じことを、トップジョイに宣告する。
それは、シルバーキャッスルの「意志」と、トップジョイの「意志」が対立した結果だ。
フェアプレーを貫く。それがシルバーキャッスルの意志であり、同時に、シルバーキャッスルがシルバーキャッスルである理由だ。もしトップジョイのラフプレーを受け入れてしまえば、シルバーキャッスルとしてある意味がなくなってしまう。特定の目的(つまり意志)を持った集団は、その目的や意志に反するモノを本質的に受け入れられない。たとえそれが悪意でなかったとしても、そして、「あなたが好き」であったとしてもだ。
そしてトップジョイのスパイ行為が明かされた時、シルバーキャッスルは、彼に手を差し伸べることができなかった。
シルバーキャッスルのリーガーたちは、皆善性の象徴のような存在として描かれている。それまでの話を通して、彼らの正々堂々を尊ぶ精神や、仲間を思う優しさ、苦難を乗り越える強さは、繰り返し描かれていた。その彼らが、目の前で苦しんでいるトップジョイを、仲間として助けることを一度は拒絶したのである。
そこで提示されたのは、彼らが、彼らの持つその善性故に救えないモノがあるという事実だった。
仲間を傷つけかねない状況を作ったトップジョイを、彼らは許すことはできない。仲間を、大切なものを守りたいからこそ、それを裏切ったトップジョイを許すことはできない。彼らは自らの意志で彼を拒絶することを選んだ。それは決して悪意ではなく、誰かから強制されたものでもない。
トップジョイの背景を知っている僕たちは、その光景に胸を痛める。しかしその光景は、僕たちに一つの事実を突きつける。僕たちもまた、トップジョイを受け入れられないかもしれないという可能性を持っているということだ。あのシルバーキャッスルでさえ、彼を受け入れられなかったのだから。
『アイアンリーガー』は、シルバーキャッスルのリーガーたちを聖人にはしない。彼らもまた迷い、限界を持つ、あくまで僕たちと地続きの存在として描く。それ故に、シルバーキャッスルの姿は僕たちの一つの側面である。時に悪意のないものを悪とし、集団から排除する冷酷さを、僕たちは抱えている。
シルバーキャッスルの「シルバーキャッスルを守りたい」という意志は、トップジョイの「ここにいたい」という意志を阻むものだった。それは同時に、トップジョイが好きだという、シルバーキャッスル自身の意志をも阻んでいる。「意志を持つ」こと、そしてそれを貫くということの逃れ得ない宿業を、『アイアンリーガー』は真正面から描き出す。
しかし、それでもなお、『アイアンリーガー』は希望を提示する。トップジョイは自らの意志でダークの呪縛を断ち切り、シルバーキャッスルのメンバーもまた、彼を許し、受け入れる。
トップジョイもまた、自らの意志が自らの制約となっていたキャラクターだった。過去に観客を沸かせて得た喜びと、それに基づく「あの場所に帰りたい」という意志は、新たに生まれた「シルバーキャッスルにいたい」という意志を最後まで阻み続けた。第八話から続いた、シルバーキャッスルや子どもたちと心を通わせながら、ダークのスパイであり続けるという彼の矛盾した行動は、その葛藤の現れだったのかもしれない。
しかし最後、トップジョイは自らの中にあった意志の相克を決着させた。本当に自分にとって大切なものは何かを、自分の意志で決めた。そして、たとえそれがシルバーキャッスルに受け入れられなかったとしても、ダークにも、そしてシルバーキャッスルにも、どこにも自分の居場所がなくなるとしても、それでも「守りたい」という意志を貫いた。外面的な制約も内面的な制約も乗り越えて、トップジョイは意志を固め、それを全うした。
シルバーキャッスルも、そんなトップジョイを受け入れることを選んだ。それは、トップジョイがシルバーキャッスルに受け入れられるようになったから、というだけではない。許すという行為は簡単なことではなく、受動的な行為でもない。彼ら自身がトップジョイの行動と意志を見て、彼ら自身の意志で、彼を許すと決めた。彼を再び仲間として迎え入れることを選んだ。「トップジョイと一緒にいたい」という意志を貫くことを決めたのだ。
『アイアンリーガー』で描かれているのは、人間に操られる可哀想なロボットたちの悲劇ではない。第十三話の最後、仲間に囲まれたトップジョイの絵に描かれているのは、与えられた場所で、与えられた形で生きざるを得ない「意志を持つモノ」ーーそしてそれと地続きにある僕たちーーが、その意志故に苦しみながらも、最後に至った希望の姿だ。意志を持つモノは、僕たちは、内にそれ故の冷酷さを抱えたままで、それでも誰かに優しくなることができる。過去の呪縛を振り切り、過ちを許し、弱さを乗り越え、そして、自由になることができる。『アイアンリーガー』は、意志を持つということの宿業に向かい合いながら、それでもその先にある希望を見つめている。
『アイアンリーガー』という作品を、あえて外形的な説明を諦めて一文で表すとしたらーー月並みで申し訳ないが、「意志を持つモノが思う通りに生きるために戦う物語」とでも言うのだろうか。
ロボットという存在が、人間の隠喩としての機能を持っていると既に述べたが、それは作中で描かれているスポーツにしても言えることだ。確かに『アイアンリーガー』でロボットたちはスポーツをしているが、作中ではどうにもスポーツに対する拘りが見えない。グローブをはめてサッカーフィールドに出るわ、サッカーチームが野球の試合に出るわ(おまけに「野球なんて簡単よ」という暴言まで吐く)、剣の道はバッターボックスにあるわ、スポーツをしている人間が怒り出しそうなほどのいい加減さが、『アイアンリーガー』にはある。
結局のところ、スポーツもまた、一つの隠喩、象徴に過ぎないのだろう。大切なのは彼らが「思う通りにやりたいことをやる」ことであり、その場がたまたまスポーツだっただけだ。乱暴に言えば、別にクラシックが持て囃される世界でロックを奏でる物語でも、新古典主義に対抗する印象派という物語でも良かったということである。もしかしたら『アイアンリーガー』の世界のどこか別の場所では、やはりロボットたちがそんな戦いを繰り広げているかもしれない。いずれにしても、それがどんな場所であれ、大切なのは彼らが「思う通りに生きる」ということである。
『アイアンリーガー』の中で、ロボットたちは「人」と呼ばれる。『アイアンリーガー』では、人間もロボットも、同じ意志や感情や心を持つモノとして、同じように「人」と呼ばれているのだろう。ロボットたちは「人」として、「人」故の葛藤に苦しみながら、自らの意志で、為したいこと為したいように為す。それはシルバーキャッスルのロボットであろうと、ヒール側のダークに所属するロボットであろうと同じである。誰が何と言おうとも、それが望まれたものでなくても、それが好きで、ここが好きで、ここにいたいから、だから、戦う。世界と、そして、自分と。
マッハウインディはダークの支配を、ブルアーマーは生まれながらに課せられたバグと過去を、極十郎太は剣士としてのプライドと固定観念を、キアイリュウケンは自分に与えられた役割と機能を、トップジョイは与えられた心の特性と思い出という呪縛を乗り越えた。
S-XXXは、その可能性を垣間見せつつも、乗り越えるところまで行き着くことができなかった。悲劇ではあるが、それもまた戦いの一つの結末である。
そして、マグナムエースは、GZはーーそれはきっと、これから描かれていくのだろう。彼らの物語は始まったばかりだ。
そういうわけで、冒頭に戻る。「ロボットがスポーツをするアニメ」では『アイアンリーガー』の何たるかは一ミリも伝わらないし、しかもこのアニメ、子ども向けでもない。いや、もちろん子どもも観れる内容であるし、ぜひ見てほしいアニメであるが、しかし、この物語に真に共感するのは、社会の中で何らかの役割や立場を与えられて生きづらさを感じている大人の方ではないかと思う(無論、子どもは子どもで様々な制約の中で生きているのであるが)。覚悟もなく軽い気持ちで見始めた人間が、何もかもが詐欺だと喚き散らすのも許してほしい。心の遣り場がないのである。
覚悟ーーもちろん『アイアンリーガー』というエンターテイメント作品を楽しむのに覚悟などというものは不要な訳だが、しかし、彼らの生き様に心を震わせられる僕たちは、ロボットたちの姿に、一つの覚悟を問われているような気がしてならない。
意志を持つということ、意志を貫くということは、痛みや葛藤と隣り合わせだ。しかしその道の先に、意志を持つモノだけが見ることのできる世界が広がっている。僕たちを雁字搦めにする世界のあらゆる制約の中で、それでも、僕たちが「意志を持つモノ」として生きていくことへの厳しくも温かい声援が、僕が第十三話の時点で『アイアンリーガー』に見た、僕の指針としてのテーマだ。
『アイアンリーガー』は三十年近く前の作品だが、未だ色褪せることのない魅力と、令和の時代にもなお僕たちが向き合い続けている命題を宿している。この時代にこの作品に出会えた幸運に思いを致し、僕にその切っ掛けを与えてくれた先達たちに心より感謝を申し上げる。
おわり
※本筋とまったく関係がないのでここに書くが、そもそもとして、作品のテーマというものは、作者が自分の表現したいものを「表現するための」指針の一つであり、そして作品の受け手の側に立てば、受け手が自らのフィルタを通して、ある種「勝手に」見出した「何か」、あるいは作品を「受け取るための」指針であると僕は考えている。そして、作品というものが、作者の発信と受け手の受信の双方によって初めて成立するものである以上、作者の意図するテーマと受け手の受け取ったテーマが異なっていたとしても(あるいは、作者がテーマを全く設定していなかったとしても)、そのどちらかが正しいということはあり得ない。(曲解を元に作品や作者を誹謗中傷するのなら、それは作品テーマの解釈とは別問題である。)作品に「真のテーマ」などというものは存在しないし、作者が作品にテーマを込めようと込めまいと、そして受け取り手がテーマを見出そうと見出すまいと、それは作品の本質には何ら関係がないのである。
「ゲイでもない異性愛者の男性達が女性を除け者にして仲良くしているのが気に食わん」って事?
「異性愛者の男は全てのゲイと女性を馬鹿にしている差別主義者で謝罪すべきである、反省して自分達がゲイと認めてホモセックスしろ」って言いたいの?
でも貴方達BL好きな腐女子って男所帯の集団に女性が混じったら率先して攻撃して排除しようとしてるじゃないですか
「原作からゲイって設定だと媚びてるようで萎える、ノンケと分かってるキャラをホモにするからこそ萌える」って散々言ってたじゃないですか
一番意味が分からないのがこのホモソーシャルという変なレッテルを腐ェミニストは自分の好きな作品にあえてやってる節がある事
ホモソーシャルは悪だけど腐女子としては美味しい~とか訳分かんないよ、好きだからこそ差別加害者のレッテル貼ってマウント取りたいの?
好きなキャラの性的指向を捻じ曲げられた上にいきなり差別主義者のレッテルを貼られたこっちの身にもなれよ!
↓の増田が俺の言いたい事を俺以上に分かりやすく説明してくれていて感心した
今更だがブコメ読んだ
nanamino 「ホモソーシャル」って別に腐女子用語じゃないんだが。
tGsQqV 根本的に意味を取り違えているのは釣りなのか本当にものをしらないのか… ホモ=ホモセクシャルを略したものという意味しかしらないの?
fukken この場合の「ホモ」は「ホモソーセージ」とか「ノンホモ牛乳」とか言う時の「ホモ」で、つまり単に「同質性の高いコミュニティ」と言う意味。同性愛のニュアンスは1ミリも含まれない。
cinefuk ホモ=ホモセクシャルしか思いつかない愚かな日本人のために、中学校でラテン語を必修にしよう
ponpon_qonqon …え。増田、ホントに「ホモソーシャル」の「ホモ」を「ホモホモ7」の「ホモ」と同じものだと思ってるの? ちょっとかわいくね? この増田総受けの同人誌コピー本24pで緊急創刊しなきゃいけないレベル
grdgs 反フェミはこのレベルのアホが多いんだよな。ミソジニーと言われて三十路の年齢差別をするとは許さないってのもいたし。
kumpote これは恥ずかしい
anguilla なぜ調べないのか
shimajitan 百歩譲って初見で意味わからんかったとしても、これくらいググればすぐわかるじゃん。。。別にネット用語でもなんでもないんだからさあ。。。マジggrks
fnm ホモ・サピエンスって単語知ってるのかな?まぁ「ホモ」っていう単語は、お笑い業界やテレビが雑に侮辱言葉として使いすぎたよね。学のない人が拒否反応示すのも理解する。
esbee 増田の知能が心配なんだが……とりあえずググってみたら?
shiroinu744 「ホモソーシャル」は「ゲイの社会」じゃないよ。カタカナ語は調べてから使うほうが良いよ。 リベラルとリバタリアンの区別付いてない人も多いし。
noukomakuta いやさすがに釣りでしょ
LuckyBagMan わかんない用語あったらググる習慣って大事よね
takashi1982 SNSはじめネット社会の良いところは個人が自由に意見表明できることだけれど、基礎知識さえ無い暴論により「良貨を駆逐する」ことが起こりうる。「それくらい勉強してこい」とゼミで教授から言われることもないし
toro-chan ホモの逆はヘテロ。男性の集団を意味してない。ただ、最近では男性の集団だけを言う場合も多い。弱者男性はホモソーシャルに関わってないので男性「全体」に使うのは間違ってるが、その誤用で、このような誤解される
agricola ホモジニアスなソーシャルといわれて意味がわからないのであればもはやいうべき言葉は一つしかない「十年ROMってろ」
umarukun 意味がわからないなら怖がる前に調べなされというお話だった。
inatax やたら同性愛を話に絡めてくるあたり、本当に「ホモソーシャル」の概念が理解できてないっぽい
お前らフェミニズムに被れた腐女子がホモソーシャルが云々言ってるの見た事無いの?
言いたい事を分かってる上で意図的に曲解してるなら悪質だけど、何が言いたいのかも分からないなら馬鹿じゃないのか
ホモソーシャルって「異性愛者の集団が同性愛者と女性を疎外して同じ属性だけで絆を深める」事だろ
それくらいは知ってるわ調べたらすぐ出てくるんだから
https://note.com/palette_lgbtq/n/nef751beeeb21
「男だけの異性愛者の集団は女性と同性愛者への差別と蔑視を伴う」からフェミニスト的には悪なんだろう
でも腐女子的には「必死に女好きアピールして言い訳してるけどどう見てもゲイじゃん美味しいです」って妄想の燃料になるんだろう
「お前ら本当はホモなのにノンケの振りしてるだけだろ?認めろよ!」ってノリでホモソーシャルの問題性がどうの言ってるから嫌なんだよ腐ェミニストは
「男性の問題を指摘するために女性の学者が提唱した概念だから指さない事が多い」んだとさ
それにしても何か叩けそうな日記だと思った途端ウジャウジャ湧いてきやがって気持ち悪いなお前ら
まず自分の事を恥ずかしいと思わないのか?
differential ???/誤用してる人がいるからといって、増田もその御用に習う必要は1ミリもないと思うし誤用してる人達と同類のアホとみなされるけど大丈夫ですか?
…本当に分からないのか?もうここまで来るとわざと曲解してるようにしか思えないけどもう疲れたぞ俺
いきなり好きなキャラにホモソーシャルって同性愛者・女性差別主義者のレッテルを貼られて