はてなキーワード: 偏狭とは
久々にこっちで雑感。
ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。
いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格を描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスがたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。
本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭な性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるから分からなくもない。そういった経験から来る嫌悪感は普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。
安易な善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやすい悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合、言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。
「好きって感情はいいけど、嫌いって感情はダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画が打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画の顛末を踏まえた場合、逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフを安易に引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。
で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化しちゃうんだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなものを他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。
好きという感情を肯定する以上、嫌いという感情も肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定や否定は個人の感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間の本能だしね。だから私だって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いそのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。
そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚。
例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。
その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャル・アジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスをゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解な人間。「社会正義だから」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理が破綻してしまう。
とはいえ、そういった指摘をフィクションの世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我が袋小路に入ってしまうこともあるから、ちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範と一般社会の規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲームは本質から遠ざかっている。
そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定の作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分のツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画はもっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
うーん。普段「オタクは多様性を尊重する」「老害になるな」「ニワカを叩くな」とかそういう事言うのにこういう時は地が出てるねー
少なくとも20年ほど前私が所属してるオタク系サークルでは「何々という作品はオタクなら当然知っているはず」などという事は成立しないし逆に言えば「何々を知らないなんてオタクじゃない」というのは成り立たないというのが共通理解だったけど、今はそうじゃないの?
いや「アレくらいは抑えておけよ!」とか、自分が熱を入れてる物をスルーされるとカチンと来るのは分かるけど。
でも「何々を知らないなんてオタクじゃない」ってのは「多様性を尊重しない」「ニワカ」を叩く「老害」そのものでしょ?
足りないなら足せばいい。
間違ってるなら直せばいい。
論ずるに足らないならスルーすればいい。
それにコミケを語るのに何々を知らなければならない!
みたいな主張は「コミックマーケットの理念」とは正反対まではいわないけど、かなりはずれた感じだよね?
増田は確かに偏りも穴もあるけど、まあこれくらいなら十分オタクでしょ?
天地無用!スルーとかどうなんだよ?と思わないでもないけど、オタクはこんなオタクの与太話も許さないくらい偏狭になっちゃったの?
だからあなた方の不快な気持ちも分かるが、それを制止して公平な判断を心掛けるべきというのはいささか高圧的で偏狭だと思う。もちろん、「オウム真理教はかつてあんなことやらかしたからぶっ殺してやる」とか「アメリカ軍の奴らなんて畜生ばっかだからどんなことしたって責められないだろう」なんて言うようなことがまかり通るとは言わない。限らない限らないで言ったらリスクヘッジも予測も予防もできない。人の恐怖心を、あまり意味のない個別的例外の想定からいましめようとするのは、尋常な価値観で考えて道義的ですらないと思う。
オウム真理教がそうするとは限らないけど、そうした事例があるから避けよう……ただそれだけで批判されるのはよくわからない論理だ。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)が大好きな野郎が身近にいてかなり鬱陶しいので、なんでお前らが嫌われているのかわかりやすく伝えてやる。バズって本人の元まで届けこの想い。
まずこれを見て欲しい。
こんなことを言うやつは潜在的に留学生を見下している!日本語不自由を女に変えて「女なのに凄いな」って書いたら駄目さわかるだろ!
言うまでもなく見下す意図で言っているのではなく、「日本語が不自由な環境でも努力して結果を出すなんてホント凄いな」という意図で言っているし、仮に「女なのに凄いな」と言ったとしても「現代社会ではまだまだ女性に目に見えないハンディキャップを背負わされているにもかかわらず結果を出して凄いな」という意図で言っている。
しかしポリコレ野郎は「レイシストが『そんな意図はなかった』と言っても、根底にそういう考え方があるのが駄目なのであって、意図のあるなしは問題にならない。それで傷つく人がいるかもしれないのであれば、二度とそういう言葉を言わないように反省すべきである」という主張をしてくる
その主張は正しい。正しいから「コレクトネス」と言われる。この場合の正しいは「面と向かって否定することが出来ない」という点で正しいが、本当にその正しさって社会に必要なのか?本当に全ての人間が正しい社会が理想なのか?
意図からして差別的だった場合は注意すべきだ。「韓国人はクソ」みたいなのがその例だ。一部クソな韓国人はいるが、クソではない韓国人もいる。関わりのない未知の韓国人をクソであると断じるのはレイシストだ。それは発言者を注意するなり、発言者から距離を置くなりすべきだ。
しかし意図全体が差別的でない表現も「未知の人がしてショックを受けるかもしれない」と言うのはどうなの?そりゃいるかも知れないが、本当にそんな人がいたらその人が「この表現にショックを受けました」と表明してきた場合に「こういう意図だった」と説明し、その段階で初めて元発言に注釈を付け加えるなりするのが正しいだろう。知らない間に相手にショックを与え、その人が自分に対して距離を置くことがあるかもしれないが、それは仕方ないし、差別的な意図がない以上それはもう個性として受け止めるべきだろう。
Twitterなどで公に発信した場合は、意図しない受け取り方をする人がいる確率はダントツに上がる。なのでポリコレ的に問題のある発言が指摘を受ける機会は多いだろう。しかしネットであれ、実際にそれでショックを受けた人が直接的に表明するのが正しいあり方で、第三者が「それはおかしい!」と声を上げるのは余計なお世話としか言いようがない。
そういうと「そのツイートを見た他の人も同じようなミスを繰り返し、結果としてポリコレ的に間違ったツイートが増えることになり、将来傷つくかもしれない人を増やす要因になる」みたいな反論があるんだけど、これこそまさにポリコレ警察ですね。そういう奴らをまとめてカリフォルニアにディストピア都市を作って引きこもってもらいたいもんです(←ポリコレ違反だ!)
ポリコレを指摘する奴らがうんざりなのは理由は上記の通りだが、本当にクズなのはここではない。内心ではポリコレ違反だと思うけど、わざわざ注文つけるほどではないな、という奴も間違いなくクズなのである。
なんでか。ポリコレはそもそも、「絶対的に正しいあり方があって、そこから外れたものを否定する」面がある。もっと別の言い方があるだろうとか、誤解を招く書き方をするなとか、ポリコレ的に間違っていることを指摘すれば、それは100%議論で勝てる。
だからポリコレ野郎は「ポリティカル・コレクトネスは絶対的に正しい基準である」と考える。
そうするとポリコレ野郎は「外れているやつはその点で配慮がない、劣っている」と考える。
ポリコレ野郎は、徹底的に減点法の考え方になる。傾向として今までの人生に自信がないので(←ポリコレ違反!)、絶対に間違いのない基準があると安心するのだろう。自分が正しい、ということを何より大事にし、重症の奴に至っては構造図を書いて正しさを確信し、それを相手に突きつけたりする。信じられないだろ?いるんだよ。
減点法は最悪だ。他の良い面が一杯あったとしても、その1点だけが気になってしまい、悪い評価をつける。人の良さを評価することが出来ない。才能豊かで社交的な奴でも、何度かポリコレ的に正しくない発言をすれば、内心で「こいつは正しくない」とか思う。
何様だお前。
そういう奴に限って、例えば育ちの悪い奴を否定することを極度に嫌がる。ご飯に箸を突き立てて何が悪い、そういうのを否定することこそ間違いだ、というわけだ(さすがにそんなに育ちの悪い奴を見たことはないが)。そして自分は寛容だと思いこむ。なぜなら、それは正しいから!育ちが悪いのは本人のせいじゃないから!誰にも迷惑をかけていない以上否定することは出来ないから!世間の人は差別して偏狭だ!俺は寛容だ!
アホか。
言うまでもなく人間には脈々と受け継がれてきた文化があり、その文化の中で発展してきている。文化の中で育ちの悪さは文化の否定となり、社会全体として育ちの悪い人間を排斥するのは当たり前の話だ。その程度の前提の教育も受けていない人間は、社会から見れば底辺であり、悪い評価になるのは仕方ないだろう。
そして、普通に育っていれば(←ポリコレ違反!)、そうでない人に対して生理的嫌悪感を抱くのは文化的な反応で、それをただ「正しくない」という理由で否定するのは視野が狭いと言わざるを得ない。また文化というのは深いし絶対的な正解がないものだ。敬語の使い方とかも各人各様で、とんでもルールを持っている人がいる。絶対的基準がない。だから否定出来るのであればその方が楽だ、というのはそうだが、文化や各人の有り様を学んでその人の立場に寄り添う方がよほど寛容だ。それはポリコレ違反を指摘するよりはよほど大変だし、その結果受け止めきれず注意すべきことはあるだろう。でもそちらのほうが健全だ。茶碗に箸を突き立てる人を注意しない人の方が嫌だよ。
ポリコレ野郎はよく「理性で生理的な衝動を抑えつける」ということを言っているけれど、そうではない。ポリコレ野郎は、判断するのが怖いから(正確には判断を否定されるのが怖いから、議論に負けるのが怖いから)ポリコレ基準を絶対視しているのがほとんどだ。むしろ「怖い」という生理的な衝動に負けている。理性をなくして基準だけで生きていたいと思っている。生き方が規定されていれば生きていくのは楽だ。自分の行動を規定に従って完璧にコントロールするのが素晴らしいと思っているけど、それならあなたいらないです、あなたの規定一覧を頂ければそれでいいですから…。
そんな奴ら、生きている価値は十分あるが(社会貢献は十分にしてくれるだろう)、人として付き合う意味は極めて薄い。かかわらないでくれればそれでいい(が、ポリコレ警察は望む望まざるにかかわらず、向こうから頻繁にやってくる)。個人的にはポリコレに生理的嫌悪感を覚える人の方がよほど真っ当な人だと思う(←ポリコレ違反)。
ここまで否定して最後に持ち上げるのは卑怯だとも思うが、信念を持ってこういう活動をしている人たちは社会にとって大事だと思う。本当にマイノリティで辛い思いをしている人たちのアンフェアな状況を改善したいと活動することは立派だ。例えば広く嫌われている動物愛護団体とか、イっちゃってる行き過ぎた主張が注目されている側面はあるけれど、一方で彼らがいないと一線を超えて何かをやらかす人たちを留めることが出来ないし、文化や法律の変化も起こらない。それが仮に茶碗に箸をぶっさす人に嫌悪感を持つのをやめよう、という活動であったとしても、本気で取り組んでいる人たちは立派だ。自分は近づきたいとは全く思わないが、社会の多様性のためには必要な存在だろう。
ただ、ポリコレを正しいと思っているやつのほとんどは、特にそういう信念もなく、人との関わり合いを定型化しようとするクズなんだよなぁ(←ポリコレ違反)
匿名じゃないとこういうことを書けない自分が情けないと強く思う。情けないと思うので、せめてこの記事に対する反応はしっかり読んで咀嚼したい。罵詈雑言でも構わない、遠慮なく書いて欲しい。釣り気味の記事にしてすまなかった。