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はてなキーワード: 仏教とは

2017-01-10

宗教が違う人と結婚できるかどうか

長崎まれ長崎育ちで今は東京に住んでいるカトリック信者で、

うちの親は違うけど、親の兄弟や親戚には神父シスターがいる家系

冠婚葬祭カトリックのものしか体験したことがない感じ。

そろそろ結婚を考えているんだけど、相手仏教?の人(詳しい宗派は聞いていない)なので、

このまま結婚していいのかなとも思う。

土曜の夜or日曜の朝に教会へ通っているので、住むなら教会が近いところがいいなぁと思うし、

自分の中には「家族教会に行って家族でお祈りしてご飯を食べる」というのが常識というか、

どんなに家族ケンカしていてもそれで一旦落ち着くというか、そういうのがあったので、

教会に行くのを習慣としたいなぁというのはなんとなく思う。

子供が生まれたら洗礼も受けさせたいし、堅信までちゃんとやってほしいなとも思うし。

個人的には宗教一種道徳だと思っているのだけど、

世間一般からすると、あまり宗教って良いイメージがない気がして、

子供に先例を受けさせたい」とか、「毎週教会に通いたい」っていうのは、「熱心すぎる信者イメージ」がある気がして、引かれるんじゃないかなって感じもある。

宗教に対して「私はそんなの気にしないよ」とか「オレはそんなの気にしないよ」なんて言う人もいるけど、

正直そういうのはあまり信じていない。(「自分の中のキリスト教イメージ」を押し付けてきそうだから。)

本当なら同じカトリックの人と結婚するのがいいんだろうけど、

普通結婚相手として相性が良くて、尚且つカトリックの人を探すのって難易度が高いなとも思うし、

どうしたもんかな〜。

2016-12-30

http://anond.hatelabo.jp/20161230072559

神道教義がないかキリスト教とかイスラム教とかと並べて「宗教」とくくるのにはきつい気がする。そこでいう「神」っていうのも大昔の大王(つまり人)だったりするし、かなり異質。

仏教には教義はあるけど、現代日本でやってる「仏教」はほとんど宗教の名に値しない。サンスクリット語で書かれた経典中国語翻訳したもの日本語音読みしてカネ貰うって何それ?って感じ。朗読してる坊主自身不勉強意味が分かってないことが多いし。舐めてんのか。

何より「宗教」ってのはやっぱり人を救うためにある。仏教神道が、無職貧乏人・童貞ハゲチビデブ障害者を救っているのか?というとかなり怪しい。こういう機能日本だと創価学会ぐらいしか担ってない。

まとめると、日本人はほぼ無宗教宗教を持ってると言うときの「宗教」「神」はかなり広い意味で使ってる。

2016-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20161227193811

古い・評価の固まった宗教はどれも安い

仏教キリストイスラム経典読むにも単行本いくらでもあるし

かじる程度のイベントならいろいろ参加可能だろう

2016-12-15

http://anond.hatelabo.jp/20161215005611

ネットでちょろっと調べた程度だけど、問題は主に医療拒否お布施みたいだな。

ただ医療拒否といっても重篤な場合病院で手術を受けることを否定するとかではないみたいだな。西洋医学の薬に懐疑的な程度。

お布施借金して貢げとかいレベルではないみたい。基本が月500円で、玉串料として任意に支払う金が別にある(ただし額は他人には分からない)。年1回の大きなお祭りでは5000円ぐらい支払うことがあるとのこと(任意)。

教えは新興宗教によくある伝統宗教仏教キリスト教イスラム教神道)の寄せ集めという感じみたいだな。

まあトラブルもそんなになさそうだし、いいんじゃないか?それで救われてるなら別に問題あるまい。結婚とか子どもとかで問題が生じそうだが、その都度解決していけばいいだろ。

もしやめさせるとしたら増田自身が真光に入って勉強するしかないだろうなぁ。信仰宗教の外部から攻撃してもやめるものではないからね。

2016-12-14

[] 遊戯三昧

(ゆげざんまい

なにものにもとらわれることなく、仏の境地に遊ぶこと。

または、嫌なことでも、やることそのものを楽しむこと。

遊戯」は仏教言葉で、仏や菩薩悟りを開いた修行者がなにものにもとらわれることなく、思いのままに振る舞うこと。

「三昧」は一つのことに夢中になること。

http://yoji.jitenon.jp/yojif/2588.html

http://anond.hatelabo.jp/20161213211342

伊達政宗の幼名は梵天丸だし、政宗という名前は遥か昔のご先祖様の名前だぞ。

薬師丸ひろ子の薬師は薬師如来からで、釈由美子の釈は釈迦から

仏教的な名前有名人あやかった名前なんか普通にあるだろ。

なにが日本人感覚だよ。

正社員になれなければ手を動かしても意味がない

正社員になれなければいくら資格を取ろうが技術を学ぼうが独立を試そうが企業正社員にかける機会や教育コストに敵うはずがない。諦観して生き地獄の中で生きるしかない。仏教は救いではなく地獄健康寿命は短く、老後はこの寒空の中孤独に死んでいくのだな。

誰が発信してるのかが重要言葉意味はなかった?

言葉価値って誰が言ってるのかではなく言葉の持つ意味重要だと思ってたんだけど、

数字記号と違って文学というか文章って生きてる人間が誰かで誰が書いたか重要になってきてるんだよね。

その点、増田は誰が書いたのか分かんない言葉っていうか、電子掲示板BBSの素晴らしいところって、

どこまでいっても便所の壁に書かれた落書きしかないよね。※

※あとから名乗り出たり最初から名乗っているのを除く。便所の落書きに著名書いてるって馬鹿だよね。

ともかく言いたいことが色々あるんだけど文才がないのでまとめきれない。

でも増田には俺よりもずっと上手い文章書く人が居る。

事実存在していてすごいと思う。

日本死ねが名乗り出て一気にクールダウンしたのも匿名性の名無しのゴンベエが言った言霊なのに強烈だったから一気に流行ったんだと思う。

素人共感漫画人物に顔かいてなかったり棒人間だったり、ギャルゲ主人公の前髪が長くて目元うつってないのも共感やすいところがある。

名乗った時点で無限ンオ共感性が失われる。

聖書も生まれとき無名イエスが言っていた言葉を本にしたとき陳腐になった。

言葉ではなく、「あのイエス・キリストが発した言葉」になった。

言葉意味よりも誰が発したか重要になった。

仏教仏陀が恐れてた。

憲法も国が言ってる。

自分無名言葉こそ本当に尊いものだと思っているがたくさんの人は今を生きるマツコの言葉が好きなようだ。

一部の層に"できない子"の存在が見えなくなっているのではという話

今秋、人工知能による東大合格を目指していた「東ロボくん」がその目標を断念したというニュースがあった。AI文章の読解(意味理解)が苦手である、というのが大きなネックだったようだ。

このニュース自体は、現在自然言語処理限界という観点からはそれほど驚くにはあたらない。だが同時に一つの問題が提起された。

「AIの性能を上げている場合ではない」──東ロボくん開発者が危機感を募らせる、AIに勝てない中高生の読解力 - ITmedia ニュース

AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?(湯浅誠) - 個人 - Yahoo!ニュース

文章意味理解できない東ロボよりも、得点の低い高校生がいるのは、どういうことだ?」

「この高校生たちは、文章意味理解できているのだろうか?」

義務教育で、教科書文章を読める力は本当についているのだろうか?」

その実例として挙げられているのが次のような問題である

例えば「仏教東南アジア東アジアに、キリスト教ヨーロッパ南北アメリカオセアニアに、イスラム教北アフリカ西アジア中央アジア東南アジアにおもに広がっている」という例文からオセアニアに広がっているのは(   )である」という文の空欄にあてはまるものを選ぶ問題がある。

文章をしっかり読めば、答えがキリスト教であることは明白だ。しかし、全国約1000人の中高生のうち、約3割が正答を選べなかったという。他にも問題文に回答が書いてあるような同様の問題で、文章を正しく読み取れない生徒が一定割合存在しているという。

複雑な論理関係や推論の必要ない、むしろほとんど同語反復に近いこの問題に、中高生の3割が誤答したという。

この問題は文中の語の意味理解することを必要とせず、文中の語と語の関係だけから答えを導くことができる。すなわち"AIが解ける"レベル問題なのに、である

この事実は、ある種の人々にとって衝撃的なニュースとして受け止められたようである

だが個人的にはむしろ納得のいく結果であると感じている。自分公立中学校に通っていた時の実感と合致するからだ。"そういう子"は間違いなく、そして少なからずいた。

この"実感"を言葉説明するのはなかなか難しい。音読は(一応)できる。目で文字を追って発声することはできる、が、その文の意味が明らかに理解されていない。あるいは会話をしていて「アルファベータカッパらったらイプシロンした」くらいならまあ通じるが、「アルファベータカッパらったらイプシロンしたけどデルタがゼータにイオタしたかベータデルタシグマった」みたいになるともう通じない。時間をかけて一つ一つ説明すれば通じるのだが、とっさには理解されない。中学の段階でそういう子は間違いなくいたのである

40人のクラスで3割と言えば十数人というになろうか、決して盛りすぎとはいえないと思う。

しかし、ある一定の層、特にある程度以上の学歴があって、社会でもリーダーシップを取っているような層の人にとってこの結果が衝撃的だというのは、つまりそのような人たちに"そういう子"の存在が見えていなかった、ということだろうと思われるのだ。

ある種の人達に、別のある種の人達存在が見えなくなっている、それは社会にある種の分断を生んでいるのではないか

"そういう子"が見えなくなる背景には、中学受験存在があるように思う。少なくとも都市部では、親に経済的余裕があって子ども学力一定以上なら中学受験は当たり前になっている。それも今に始まったことではなく、もう数十年に渡ってそうなのである

中学受験してしまえば周囲は一定以上の学力の子ばかりになる。彼らはそれ以降"そういう子"とはぜんぜん関わらずに過ごすことになる。

もちろん中学受験組も、小学校公立であればその間は読解力の低い子らと一緒くたに過ごすことになる。だが、小学生の段階ではそういう観点から相手客観視するまでには至らないだろう。

そして思春期以降は一定水準以上の仲間たちに囲まれ小学校の頃にいた "(なんとなく)できない子" の多くがその読解や学習上の困難を克服できぬまま中学を巣立っていくことも知らず、やがてそういう子らの存在を忘れてしまう、こういうことがひょっとして起きているのではないか

もしそうだとしたら、それは社会的な分断以外の何物でもない。

学習に困難を抱える子どもをどうケアするかというのはもちろん大きな課題であるが、もし社会にかような分断が生じているとしたら、その克服も一つの社会的課題だろう。

2016-12-05

サンタクロースシュレディンガーの猫的な

観測するまでその場にいるかどうか解らないのだから、つまりは量子を観測して毒ガスを出す箱の中にサンタクロースが居るかは明けてみないと解らないとしても考え方としては生と死が重なってて矛盾をするし、結局マクロ世界ではサンタクロース観測者の存在も含めて存在帰結するのも困難。

また、サンタクロースの移動ベクトルも全てを繋げて地球儀に落としたとしても最終的に出発点に戻るとも言い切れないのだ。

はっきり言えるのはこの世にサンタクロース存在するとは断言できず、また、いないとする論拠もないということで、神も悪魔前世運命も全て都合のいいブラックボックスに他ならない。

プレゼントをねだる君の存在実在を疑うこともないけども、同様にクリスマスのディナーの高値もまた、現実であって、そういえば地球暖かいのは緩やかに核崩壊を行っているからであって、結局生まれてくる子供だってまれてみるまで誰の子供か解らないと言う点では非常にシュレディンガーだよね。

シュレディンガーベイビーと君を置いて僕が宇宙を高速で旅したとすると子供より若い父親存在がね、双子のパラドックスっていうんだけど。

いや、認知とかそういうのはまだ不明未来な訳で、全ての物体ベクトル観測し、予測できる悪魔だってほら、やっぱり解らない事はあるはずだから

仏教的にいえば未来はまだ来ていないのだから今目の前にある現在を精一杯いきる所存というか。

たとえばブラックホールは超高重力なのだから内部は高熱なのかといえばそうなのかも知れないけど、それは絶対重力圏内の全てを吸い込む故に、周囲に大量の反物質を生み出して常にエネルギー的に霧散して消滅に近づいているんだけど、僕らの関係も想いという意味ではブラックホールに似ていて、重いと想いをかけた訳ではないけど、常に目減りを繰り返してって、いつかは何かを生み出すかな。

いや、子供ではなくてね。

2016-12-04

小学校先生が「自分意見を言いなさい、思ったことでいいから」な

http://anond.hatelabo.jp/20161204095016

思ったことをそのまま言うのが良いことだって間違った対話の仕方を教育してるんだよね。

一応、考えていないわけではないんだよ?文脈考慮していないだけで。

学術的な対話限定させてもらうけど、俗にいうように西洋議論では「事実を共有し、それを前提として対話を行う」。

から「その話題意図するところを捉え」てからそれを織り込んで喋る、つまり文脈考慮して主張する。

だけど、日本人は「自分がその問題をどうとらえているか」をもって対話を行うし、

何も言わないのは「自分はその問題について何も考えていない」ことになってしまう。

相手との意見見解差異が現れてからそこを論点として、そこから事実確認に入る。

相手意見反論するときだって、実は文脈考慮せず相手の言った言葉のみに反論している。

その結果、日本人の会話には実は文脈が無い。あるいは各々が自分自身文脈を持っていると言ってもいい。

たまに「日本語ハイコンテクストだ」なんて言われるけど、これは各々が持つ文脈たまたま重なったところで会話しているか

背後に大きな文脈があるように見えるだけで、元々文脈を共有していないんだからコンテクストくそもない。

仏教にもそう書いてある。いやマジで龍樹中論によれば人は事実の共有すらできないんだから文脈も当然共有できない。

文脈考慮しない対話にもメリットはある。前提として事実を共有しなくていいからとにかく早い。

会話以前に事実を共有している―例えば同じ体験をしていると滅茶苦茶早く深く対話ができる。

からそれに追加して中学校なりなんなりで西洋式議論練習をすべきなんだけどカリキュラムに入ってないし、多分教えられる先生も多くはない。

なんとかしたほうがいいんだけどね。

2016-12-03

高野山東京別院執事野村懐忍さんの私に対する発言まとめ 続き

http://anond.hatelabo.jp/20160827122113からの続き

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13163510618

言って欲しいか?今回のことはアンタが言ってはいけないことを軽はずみに投稿したことから始まる。

以前「始末書くらいでは済まなくなるぞ」と警告しておいたはずだ。以前のやり取りもプリントアウトして主監に提出だ、あなたバカから自分投稿包囲網をどんどん狭める(大笑)。

退職願の書き方は調べたか?「私は弘法大師信仰していませんでした」とか「私はバカでした」とか、バカ正直に本当のことを書かなくて良い。「一身上の都合」でよい、よかったな、安心して退職願いが書ける。

依願退職から失業保険は無理だがはるかに多い退職金がでる、外道退職するからといって高野山真言宗退職金を払う必要なないと思うけれどあなた人生ではそれなりの大事件なんだからもらっておけ、許す。

バカが騒げば騒ぐほど主監はバカかばえなくなる、自分の首を絞めるだけでなく主監の選択肢を狭める、あなたの愚かさは主監を追い詰める。主監は「信仰者」だが本山は主監に「信仰者」として行動することを期待している。本山が絡むと主監はあなたかばえなくなる。

あなたのように太い人脈はないが本山に知り合いが全然いないわけではないから、本山に知らせておいてやる。

諦めが付いたか??

ファイナルカウントダウンを始めたのはあなただ、自分でまいた種は自分で刈らねばならぬ、ジタバタするな、見苦しい。

日本仏教世界最強の仏教だが欠点もある、inchiki_2004さんのような金持ち寺のバカ息子がいっぱいいて平均点を引き下げていることです。

高野山東京別院へご参詣の皆様にお願い、

金持ち寺のバカ息子に「エサを与えないでください」。

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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10163694695

過去投稿を見ればわかる、頼むからもう少し仏教勉強してくれ。

あなた給料を得るのは普通免許を持っているから、私が給料を得るのは仏教徒からだ。

「要普免」で高野山真言宗に貢献しているのか?釈尊弘法大師の「信仰者」=仏教徒として給料を得ているのか?

世襲の寺に生まれたと言うことしか仏縁がない(本当に仏縁のある人がはたして寺に生まれるか??)住職目標外道と、成仏目標仏教徒とでは勝負にならんのだよ。

「送迎」で役に立てないおのれを恥ずかしく思ってるから、「仏教」で役に立たないあなたを恥ずかしく思ってくれ。

古代インド近国では母音を伸ばす

ヨガは間違い、ヨーガが正しい。

それゆえ、

パーリ語は間違い、パーリー語が正しい。

削除するなよ。

プリントアウトすることは誰でもできる、内容は誰が出しても同じだ。

そんなにまな板の上にいるのが不安なら、自分プリントアウトしてメモもつけて主監のデスクに置いておくか、ご自坊に匿名で郵送すればよい。

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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11164778016

ワイワイガヤガヤ楽しく妄語得上人法してますね、ゴミガラクタがお互いをプラチナだ、ダイヤモンドだと言う。

(略)

金持ち寺のバカ息子」の無能ぶり・バカぶり・怠惰放逸恥知らず等々、朝から晩までいやと言うほど現量=直接知覚してる。比量=推測・推理などする必要は全くない、目や耳が汚染され洗いたくなるくらいだ。

(略)

inchiki_2004さんはバカヨガヨーガが正しいのだからパーリ語パーリー語が正しい!!)だから”現量”知覚能力はあるが”比量”推理能力は3歳児、肉体は健常だが精神問題あり。

寺務から「主監からお話がある、ちょっと特別応接まで」と何時言われるか?死刑執行が何時になるか?

多少でも仏教知識があれば自分の犯した【罪】の程度を比量できるんだが、なにせ「金持ち寺のバカ息子」は「パーリー語が正しい」と「積極的に主張」!!する仏教ゼロから、僧籍剥奪か?懲戒解雇か?退職願か?始末書か?退職金は出るかどうか?見当もつかない。

「おねげーでごぜーますだ、教えてください」と土下座リクエストする。

早く早くと死に急ぐな、遅かれ早かれ処分は出る。

他人のせいにするなよ、まな板のうえが心配不安なのは仏教を知らないおのれの自己責任だ。

もう少しビクビク心配させてやる(笑)

(略)

蓋天蓋地!!宇宙が自坊だ!!くらいのこと言えないか!!

テーラワーダ外道いじめ精神年齢3歳児をおちょくるのは面白いが、一人には高野山真言宗当局から泣く子も黙る」厳しい処分??が下され、もう一人は10月15日に懺悔悪口雑言を悔い改めてホンモノの「釈尊仏教」=「日本仏教」に転向するのだから今回はこのくらいで許してやる、ちなみに世親大乗転向したとき大乗を謗り続けてきたおのれの舌を切り裂こうとしたそうだがアンタの舌など別院に置いて行かれても迷惑なだけだからやらないように。

井の中の蛙、牛跡のボウフラ、穴の中でメクソとハナクソ、ゴミガラクタがお互いにプラチナダイヤモンドだと「妄語得上人法」していられるのもあとわずかだ!!

あなたバカ暴走には同志○○さんもフォローのしようがなく困惑してると思う。

金持ち寺のバカ息子のレベルがよく解かる。

(略)

もとの言語サンスクリットであれパーリであれ「短母音」と「長母音」を別の母音として区別する言語なんだから、その区別を反映しようとしない文字表記ローマ字であれカタカナであれデーヴァナーガリーであれ間違いである。

音を文字表記するとき正解はないが間違いはある。「パーリー語」は間違いである。

ちなみにヨーガのオーがオじゃないのはオの長母音からではない、オーは二重母音

梵:Śāriputra シャーリプトラ、巴: Sāriputta サーリプッタ

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2016/11/16より「samantabhadra1611」という別ID投稿を始める。別人を装って以下の発言

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11167211446

高野山東京別院へ参詣してaksobhyavajraさんと会話してきました。

>もう犯人探しはしないがaさん(編注:野村氏の問題行動について高野山東京別院質問状を送った方)から公開質問状の入った封筒スマホ写真に撮っている職員を目撃してビックリした。

とおっしゃっていました。

ちなみに高野山東京別院警視庁高輪警察署と隣接してるんですね、チットモ知らなかった!!別院で悪いことをするとすぐ捕まえてもらえますね。

刑事告発状の書きかたを知ってますか?と訊かれてビックリしました、何かあったんですか?

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こちらもどうぞ。

高野山東京別院執事 野村懐忍さん発言集 傑作選 - Togetterまとめ

2016-12-01

君の名は。」に潜む仕掛け―「無常」と「自我」の「対決」の物語

すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。

おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。

また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報パンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。

また、本文の後半でいくつかの仏教用語使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である

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君の名は。」は、大変すばらしい映画だった。

これまで、私は新海誠監督映像作品をいくつか観た(すべてテレビDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。

この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由である確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。

私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である

ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本構成必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。

しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。

さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。

 

夢の記憶は、実体験のそれよりはるかにもろい。

そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。

そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。

 

例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。

それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカである

それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。

 

では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。

それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験たかである

 

ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。

(つまりは、面白かったテレビドラマアニメDVDなどで保管しておこうという行為と同じである

しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。

「感動」は個人の心にとって極めて重要体験であり、その存在保証する「記憶」は、ある意味自分のもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。

すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものけが手元に残るのだ。

この感覚を、自覚している人は多いはずである

 

しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。

なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要からだ。

からこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。

たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。

 

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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来記憶からレプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。

ここまで考えれば、人はもう一つの事実に思い至る。

 

多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。

実は、夢の「記憶」に限らず、人間実体から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。

「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカである可能性すらあるのだ。

 

記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。

そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。

仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。

そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。

 

そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分のものの「はかなさ」にたどり着く。

自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。

さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。

それは人間記憶システム限界であり、そのような「はかない」もの立脚している人間存在限界であり、どうにも抗えない無情な運命である

この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。

 

しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。

それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。

自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。

 

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さて、ひるがえって「君の名は。である

この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いもの体験する。

入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧ものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公祖母経験から示唆される。

また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。

この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしま焦燥感と苦しさを思い出させる。

 

しかさらにその後、この設定の巧妙さが控えている。

この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。

なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものからだ。

ここで視聴者は(特に視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。

そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。

 

 

この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。

この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。

 

そしてさらさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである

自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである普通人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。

 

この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。

確かに、ストーリー上はこの作品恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。

最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである

しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。

 

何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画エピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代視聴者体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常映画ではない。

この点で、私はこの映画日本アニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である

 

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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。

今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである

海監督の特徴である映像意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。

しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。

 

そして、私はやはりこの映画は、10から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。

この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である

それに触れた経験というのは、おそらくそ若者にとってかけがえのないものになるだろう。

2016-11-29

http://anond.hatelabo.jp/20161128185326

いや。

少なくとも伝統仏教には「理解できた天才にすがる」という考え方はないよ。

チベットタイ上座部仏教系では「個人個人が頑張って悟りを開け」が基本。

天才ですら他人悟りに導くことは無理(せいぜい新しい悟りマニュアルを書ける程度)

と考えるんで「一部の超天才しか真髄に届かない」という言い方も間違ってない。

それに対して「いやきっちり理解できない凡人にも確実に救われる方法はあるんだ」

というのが日中大乗仏教系。

例えば「どうすれば一切合財みんな救えるか、と考え続ければ天才でなくてもいずれ悟りには届くはずだ」

とかそういうポジティブ志向。まあ「いずれ」が「100回生まれ変われば」だったりするけど。

さらポジティブになると「南無阿弥陀仏さえ唱えてればOK」なんてとこまでいく。

どっちにせよ「すごい人を崇めてその人に縋って救ってもらおう」っていう

キリスト教聖人みたいな「特別に偉い人を救いの契機として扱う」方向は

仏教に含まれてない。

密教系は良く知らんので、ひょっとするとそういう方向もあるのかもしれんけど。

2016-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20161128224531

結局仏教ってお釈迦さまっていう「人」が思いついただけのことじゃないか正当性根拠はどこにあるんだ。と思ったが、梵天(=神)勧請(=教えを広めるように要請した)があったとすることで、結局正当性を神に求めてるということになるのかな。

http://anond.hatelabo.jp/20161128213300

分かり易いけど一面的というか予断で書いてる気がする。


釈迦利己的だった(自分だけ悟れれば良かった、救ってくれる超常的存在などないか自分解脱するしかなかった)。

梵天勧請により、「自分が悟る方法」を人に教えるようになった。

それが本来仏教だ。

その数百年後、超常的な存在自分を救ってくれる、という大乗仏教が現れた。

まぁちょっと飛躍してるというか、間を飛ばしすぎてるよね。

http://anond.hatelabo.jp/20161128210308

これ深掘りしたらメンドクサクなるし、

識者から「それちゃうで」って言われる話題だと思うし、

自分で「サルでも分かる仏教の成り立ち」みたいの読んで欲しいけど、

・そもそもシャカの言い分は「この世は苦しい。生きてるだけで苦しい。苦しみから逃れるには悟る(解脱する、ホトケになる)しかない」というもの

シャカは一人で修行して悟ったし、直弟子達もシャカ指導で「自分が」悟った(苦しみから逃れた)。

シャカ死後色々あって、修行して自分が悟る(この世の苦しみから逃れる)というのは利己的じゃねーの?って意見とかが出る。

→そんなこんなで

 ・修行して自分が悟るよ(悟りたい人には教えるよ)派(元々のやつ)

 ・修行過程でみんなの為に尽くして救うよ一緒に幸せになろうよ

に別れました的な。

http://anond.hatelabo.jp/20161128205016

詳しいことは専門家に任せるとして、ざっくり言って

大乗

→頑張って悟り目指して修行して、その過程大衆を救うぞ!

部派仏教

→頑張って悟り開いて仏になって、大衆を救うぞ!

みたいな感じじゃろ。

日本仏教はほぼ全部大乗系で、基本的には「大衆はえらいお坊さんたち(や仏)に救ってもらう」。

http://anond.hatelabo.jp/20161128190718

密教って調べたら「秘密仏教」の略なのか。

あれじゃあ俺の言ってることってそんなに間違ってないんかもしや。

http://anond.hatelabo.jp/20161128185326

艦これだってハイレベルの人は難易度 甲 での攻略方法議論しあって楽しみつつ、新参者レベルの低い人は 丙 でまったり攻略してるわけで。

それは仏教でも同じなんだよ。

仏教関連のエントリを見てて思ったんだけど

仏教ってもしや理解できるのはそもそも超一部の天才だけで、バカ大衆はその人にすがるって感じなの?

2016-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20161127091448

あれもしや仏教って救済されんのが目的じゃないのか。

救済=解脱って理解ももしや違う?

http://anond.hatelabo.jp/20161127002956

仏教ってあれなのか。万人救済はする気はないんか。分かる奴だけ来い、みたいな

「救済」ってどういうことなんですかね?

黄泉の国にでも連れてけっつってんのですか?

んなこと考えてるからオウム真理教とかにコロッと騙されちゃうんじゃないっすか?

 

ヒントはね・・・

むかーしのインドでは・・今もそうらしいですけど・・「輪廻転生」を繰り返す、とかって思われてたらしいんですけど、仏教創始者と思しき人々は輪廻転生なんかないって言っちゃったらしいです。

たったそれだけで、輪廻の苦しみから逃れられますよね。

なんで「輪廻転生なんかない」ってはっきり言えてしまったんでしょうね?

 

ちなみに、インド気候って激しい雨季があって乾季があって、のように繰り返すので洪水や飢えに苦しむのも繰り返し。

その上、バラモン教古代ヒンズー教)、カーストは生まれ変わろうと変わんないとか言われてたので、ぐるぐる繰り返す苦しみだけがあるのが人間、という思い込みが強烈だったそうです。

そういうのが輪廻転生思想の源流です。なのでみんなそこから解脱たかったんですよね。

そういう古代インド思想をそのまま仏教でも引き継いでます用語とかがそのまま使われていると言うような意味でね。

その辺をちょっと理解すると理解の助けになるかもしれません。

 

でも、日本サラリーマンだって似たようなもんですね。毎日毎日仕事の繰り返し・・・宝くじでも一発当てて楽になりたいって気持ち古代インド人のそんなのと一緒ですよねーw

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