はてなキーワード: 日本会議とは
日本の凋落は俺は消費税増税、法人税減税、累進所得税減税で金回りの悪い国にしたことが原因だと思うが、
こうしてみると、アメリカの「今までちょっと対応が良いと思われていた人」対「新しく評価されていた人」との争いに過ぎないと思うな。
あれだ、神道の中の過激派が日本会議みたいなものを持ち上げて「俺ら元上流階級を信仰しているような古き良き日本を!」みたいなのと同じ。
だけども、いざ日本会議や森友の実態が表にでたら、そこから見て「新しく評価されている人」である一般層から「今までちょっと対応が良いと思われていた人」である、旧上流階級がボコボコに叩かれる。
結局ビンボが悪いんや、、、、。
日本って思いやりを元に他人の自己愛を尊重するから。自己愛が暴走しやすい。
本当は上にあげれるような人間でなくても頑張ってるからとか、短期的に成果出したからみたいな理由で上にあげて、自己愛暴走してるような人間がどんどん上にいく。
そうして、上には自分の自己愛を満たしてくれることが、実際技術を満たせること、成果を出すことより優先するやつばかりになる。
最適行動を言うにしても、上のプライドを傷つけるようなことをしてはならないというようになる。
そして、上の人間は評価出来るだけの知識も身につける習慣はない。
正直、下には馬鹿にされるから「上を崇めて自分の自己愛を充たしてくれるようなことが素晴らしい日本でありするべきだ。」みたいな森友や日本会議みたいな腐った儒教を求める。
ほんまの儒教は上がどうあるべきかのほうが多いんだけどね。「子いわく、君子とは」の君子って上に立つ人間。
海外では上位層は人間性と技術力を研鑽し「続けないとならない」ハードワークだから給料いいってこともあるだろう。
多少技術が良くても、人を見れない、自分を抑えて最適な行動が取れない自己愛が暴走してる奴というのは、管理職にはつけてはならないんだろう。
普通に、
すまんが、僕はデモシカ新人教員なので君たちのスポーツに付き合うつもりはない。スポーツがしたいなら河川敷でもいって勝手にやってろ。大人を巻き込むな。
親は黙ってろ、僕はスポーツマンじゃないしそういう専門家でもない。僕を変えようとしても無駄だぞ、僕の対応になっとくできないなら地域のスポーツクラブにでも通わせろ。ここでは僕が顧問で責任者だ。
学校はいい加減、運動部というクソガキ製造装置を廃止しろ。政府は何をやっているのか。誰が生徒をスポーツキチガイの奴隷にしようとしているのか? 経団連か? 日本会議か?
たとえ顧問としてであっても合宿に駆りだされて体育会系のノリに吐き気を覚える。彼らの問答無用の上下関係という習慣と根性重視の精神論には耐えられない。もっと社会に疑問をもて、肩の力を抜いて自分の人生生きろよ。かれらが無自覚に社畜としての洗脳を喜んで引き受けているとしたら、悪夢だね。
あー、すべての生徒と顧問がクソみたいな運動部から開放されて楽しい放課後がおくれますように!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
わかる気がする。
民主党政権のときにチャンネル桜に稲田が出てたの見たことがあるけど、根っからの右翼思想というよりは本人がフワフワしたボンボン嬢ちゃん気質なのかなって感じがしてた。
当時はまだ議員経験も浅くて、もともとちょい左っぽかった思想を日本会議みたいな右翼思想に塗り替えられたばかりっぽかった。
旧司法試験に合格してるし地頭は悪くはないんだろうけど、いかんせん金持ち育ちで根が素直すぎるんだろうなって思う。
周りの意見に左右されてそれらしい理屈があるとすぐにそうかとばかりに主張がブレるのが見ててわかる。
チャンネル桜に出てた頃はまだその柔軟さがいい方向に出てたといえるけど、大臣になってもなおフワフワしてるから結局そこまでの人だったんだろうなって印象。
小池百合子みたいに主張はフワフワしててもやりたい方向がはっきりしてればそれはそれで軸があるように見えるのにね。
田中真紀子を更迭した後に小泉の支持率下がった>気持ち悪かったが分からないでもない。あのおばちゃんのアジテーションが小泉を当選させたところはあるから
でも、だから更迭には慎重にならないという思考にもしなってるんだとしたら、いくら落ちこぼれ首相とはいえさすがに頭が悪すぎる。
安倍政権の支持率の基盤は、小泉時代よりも更に強固になった浮動票の固まりがたまたま転がり込んできてるからってだけで、「小泉旋風における田中真紀子的なもの」は存在しない。
加計と南スーダンの件は、菅が会見で強い言葉で抗弁しすぎたせいでにっちもさっちもいかなくなってるから、菅も本来ならかなりやばいはずではあるのだが。
特に南スーダンについては、誰の責任だろうがあの事態が明るみになった時点でヤバすぎる案件。それなのにあの強弁。最初の段階で平謝りして稲田の首を生贄にすりゃ消火できたろうが、残念ながら安倍政権は9条改憲・軍隊明記を目標としてるのでそれはできなかった。それやったら最下層の支持母体である日本会議初めとした極右どもが離れてく可能性あるだろうし。
安倍の母体の極右勢力は9条改憲&侵略戦争も辞さずというキチガイだらけなので、そういう意味では「小泉政権における真紀子」=稲田というか「改憲のための布陣」ではあるのだが、自称穏健右派=浮動票の固まりは、さすがにシビリアンコントロールが効かない体制になってしまってる(南スーダン日報の件がそれを白日の下に晒した)自衛隊を軍隊化して9条改憲することに、100%もろ手を挙げて賛成するとは思えない。
さぁさぁ内閣支持率低下時名物。ポスト安倍予想はっじまっるよ~。
稲田朋美:安倍首相のお気に入り。日本会議系の姫としてもてはやされるも失言&火消し失敗からの壊れたレコード状態と能力不足を露呈し自滅リタイア。ただでさえご贔屓スピード出世で周囲の嫉妬も買ってたのに、現在では都議選惨敗の主犯格扱いに。この状況ではもはや自民党内での再起は不可能ではないか。
石破茂:安倍内閣後の政権譲渡を狙って大人しくしていたのだろうが、都知事選以降安倍内閣の支持率低下すると途端に露出が多くなってきた。批判は大いに結構ですが相手が弱りだしてからイキりだすのはどうなん。総裁選は政権譲渡を理由に撤退したらしいけど、このまま永遠の総理候補で終わるルートが濃厚になってきた。
岸田文雄:能力はあるが影が薄い。総理狙う気あるのか。というのが定評だったが、安倍内閣からの禅譲を狙いつつ支持率下がればこのまましれっと沈みゆく船から脱出するあたり、結構強かに狙ってる感じはする。抜けても世間は気づかないというかいたことも言われないと分からなさそう。ここにきて影の薄さが功を奏すか。
麻生太郎:最近は派閥も拡大して自民党の主導権を握ろうとする動きが顕著。安倍が二回やったなら俺だって二回やりたい。と思ってるのかあるいはキングメーカーなのか。ただ、この人にもう一回首相をやってもらいたいと思ってる自民党の人ってそんなにいない気もする。安倍(→福田)→麻生の流れって自民的には縁起悪いし。
小池百合子:都知事になったし少なくともポスト安倍は狙えないだろう。そもそも今の劇場型では国政に復帰するより先に(河村名古屋市長、橋下徹前大阪市長みたいに)悪役の在庫が切れそう。それでも東京だけなら安泰だろうし都知事やってやっていた方が本人「は」幸せかも分からん。
菅義偉:安倍内閣と共に歩み、どんなに辛い時でも内閣と首相をかばい続けたミスター安倍政権。支持率好調時での禅譲なら目はあっただろうが、現状では総裁選に出ることすら叶わないのでは。
小泉進次郎:安倍内閣長期化予想時には名前が挙がっていたけれど、さすがにまだ総裁選には出れなさそう。今度の内閣改造でどういう処遇を受けるのか。割と長いものに巻かれるタイプなのが分かってきたのと、マスコミ御用達のご意見番ポジが定着してきており、早く永遠の総理候補の風格が漂い始めている。
谷垣禎一:総裁になれど総理になれなかった男。まさかの自転車事故で総理レースから物理的にリタイア。安倍がやるなら、いやそもそも安倍がやらなきゃ俺がやれたのに。と思ってるかどうかは知らないが、とにもかくにも今は療養に専念するしかないだろう。お大事にしてください。
わかる。
ていうか、海外では男女の結婚ということ自体がオワコン化して事実婚を選択するカップルがいる現状において、「結婚」とは何かというところについてあまりにも議論が浅すぎる感じがある。
そもそもとして現在の日本で「結婚」とされる制度は江戸時代からの武家のお家制度を明治になって一般人に適用したとともに、それまで一般的だった人前式を無理やり欧州列国に認めさせるために神前式に祀り上げたとかわけのわかんなもので、そういうところを真面目に研究する学者がいない。
同性愛者がいるという事実と、結婚という制度がそもそも社会的・歴史的にどういう位置づけであるかということは全く別の問題なのに、ほとんどの人が平面的に「だってみんなやってるし」で片付けてる。
世界諸国に比べて婚姻制度とかパートナーシップ制度が20年は認識が遅れてる日本において、同性愛者ですら「だって男女の結婚て幸せそうだから」とかふわっとした理由で同性婚を支持していたりする。
一方でラディカルな同性愛者は結婚制度そのものが将来的な家族制度に適しておらず、まして同性愛という人間関係にはそぐわないものであるということを理解しているから「同性婚」という茶番に反対をしていたりする。
日本における同性婚議論で最も欠けているのが宗教的観点で、元祖キリスト教で同性愛を禁止していたこととか男女の結婚も一生何があっても添い遂げることを強制するDV容認男女差別容認という宗教的戒律があったことが理解されていない。
今の日本の結婚制度がもともとあった先祖崇拝とアミニズムと神道を無理やりキリスト教風にミックスしたクソみたいな思想の土台のもとに成り立ってるってことがわかってもらえれば「同性婚」どころか「結婚」がいかに不毛で20年遅れた制度であるかがわかるんだろうけど、まあ日本会議が頑張っているうちは無理かな。
先週から突然、安倍内閣への支持率が下落中だけど、2週間前まではオッケー!安倍ちゃん!言うてて、今はNo!安倍!言うてる人がいるわけだよね。
その人たちになぜ意見を変えたか、なぜ今なのか、を知りたいんだけど、そういうの調べてるメディアってないかしら。
個人的には安倍政権には政権成立時点からずっと反対なので、更に分からないのだが、なぜ今になって?
南スーダン派遣日報問題の時とか、共謀罪の議論で逃げ回ってた時とかならまだ分かるのだが。
仮説としては
A 豊田=眉毛つながるつながる!=真由子議員の恫喝音声がインパクト大だった
D なんか数え役満で
ぐらいが思いつくところなのだが…。数え役満ていうたら、もう就任時点から数え役満だしなぁという感じだし。
経済政策を人質に安倍Yes言うてた人らは、まだまだ支持なのかな。表層的な経済指標「だけ」なら、個人的にはスタグフレーションと思うけどそれを好況と判断する人もいるだろうし、今不支持に変わる理由はやっぱり分からんのよね。
一応増田的には、安倍政権Noの理由は「経済政策を人質にして"日本会議国家"化したいのが見え見えだから」。日本会議的な幻想の家父長制には怖気がたつほどの違和感があるうえに、主に「見え見え」の部分に拒否反応を示しています。
バニラ・エアの件、論点が増えすぎてうやむやになって終わりそうだったので、論点をいくつかに分類した上で私が思う問題点について書いてみます。
長いので結論だけ先にまとめておくと、車椅子利用者のみが自主的な事前連絡を求められていることはバリアフリーでなく、より確実なバリアフリーを目指すために航空会社がシステムの側で対応すべきということです。
ちなみに私は健常者ですが、中学の時にこのエントリと同じような趣旨で卒業レポートを書いたり大学で車椅子利用者向けのインターフェースについて勉強したりしていたので、どちらかと言うと車椅子利用者側の意見になっているかもしれません。
今回の騒動で話題になった記事は http://b.hatena.ne.jp/topic/300611893821289425 が割とよくまとまっています(おそらく自動生成ではありますが)。これらのエントリを見ると、論点は大きく4つに分けられます。
本エントリでは4つめについて主に述べたいのですが、一応私の立場の表明がてら他の3つについても軽く触れておきます。長くて読むのが面倒だという方は飛ばして次のセクションを読んで下さい。
その場の対応についてはバニラ・エア側も謝罪・対応しており、搭乗拒否したことが問題である点については多くの方が同意するところでしょう。「バニラ・エア車いす利用者搭乗拒否に対するDPI日本会議声明 : DPI 日本会議」でも、やはり搭乗拒否についてが問題として指摘されています。
「LCCに車椅子利用者対応を期待するのは過剰サービスだ」という批判も中にはあるようですが、これは障害者差別解消法でいうところの差別にあたります。コストの理由だけで搭乗拒否することは「合理的な理由」であるとは言えないでしょう。
報道の仕方については、やや見出しが過剰にセンセーショナルであったことは否めないように思います。
「【ラジオ書き起こし】荻上チキ×木島英登×石川准「誰もが暮らしやすいバリアフリー社会を実現するためには何が必要なのか(2017/06/29 TBSラジオより)- "シュプレヒコールを歌え" 」に、「あの、私は、階段を這って上ったことは、僕にとっては屈辱でも何でもなくて。 」とあります。つまり這って上る事自体は木島氏も問題視していません。
一方で最初に話題となった記事のタイトルは「車いす客にタラップはい上がらせる バニラ・エアが謝罪」でした(今は修正されたようです)。このタイトルからは「はい上がらせ」たことが問題であったようにとれる点で、そもそも論点がずれていたと言えます。結果として話題となったのは良いかもしれませんが、論点のずれによって初期の議論が迷走し、木島氏へのバッシングなども引き起こしてしまったのではないかと感じています。
3つ目の木島氏の人格についてですが、私はあまり問題であるとは思っていません。「プロ障害者」という批判があるようですが、当事者として声を上げられるのは当然当事者だけです。「 なぜ声をあげた障害者がバッシングを受けるのか?バニラ・エア問題、本当の争点はどこにある 」にもある通り、「声を上げた」ことは他の車椅子利用者の方にとっても救いとなるのではないかと考えています。
一方で「本来必要とされている事前連絡をしなかった」という非が木島氏にあることはたしかで、この一点のために個人の責任を問われているところがあります。しかしながら、事前連絡が必要であることそれ自体に問題があるのではないでしょうか?すなわち、搭乗拒否が差別であることだけでなく、事前連絡の必要性もまた差別であり解消されるべきものであるということも、今回の件から考えるべきではないでしょうか?これについては次のセクションで詳細に述べたいと思います。
木島氏への批判の理由として、「本来必要とされている事前連絡をしていない」ことがあるようです。今回のケースでは連絡していても搭乗を拒否されていただけであろうことを考えると、この批判は当たらないようにも感じます。しかし一方で、木島氏は普段から事前連絡をしていないようなので、そのことを問題視する方がいるのも理解は出来ます。
特に「車いすで飛行機に乗る時は | いすみ鉄道 社長ブログ」によって、航空会社側の安全管理上の都合が多くの人の知るところになって以降、その傾向が強いようです。
この航空会社側の都合とは、車椅子利用者の方があると事前に分かっていれば対応できるのだから事前連絡をして欲しい、ということのようです。対応できる事自体は素晴らしいのですが、この考えには飛躍があります。その飛躍とは、「航空会社が事前に把握するための負担を、乗客である車椅子利用者が負わさせられている」という点です。
少し話は逸れますが、他のケースとの比較を通じてこの問題点について考えてみましょう。
機内食についての事前連絡の必要性に関して、ベジタリアンや信教、健康上の理由から、マイノリティでも事前に連絡しているという意見がありました。バニラエアで確認してみると、機内食としてベジタリアン用の食事は予約時に選択できるようになっています。バニラ・エアのグループ会社であるANAで確認してみると、さらに多くの種類の食事が選べるようです。
小さなお子さんがいる場合も航空会社は把握する必要があります。この場合も、システムが利用者の誕生日を入力させることによって航空会社は把握することが出来ます。
すなわちこれらの2例では、マイノリティの存在を把握するための仕組みがシステムの中で事前に準備されているということです。
話を戻して、車椅子利用者についてはどうでしょうか?ANAでは「おからだの不自由なかたへの空の旅へのお手伝い|ANA 」にあるように、事前に電話で連絡する必要があります。今回問題となっているバニラ・エアではFAXまたはフォームからの連絡が必要です(「お手伝いが必要なお客様|ご利用ガイド | バニラエア Vanilla Air」)。すなわち、航空会社がシステムとして主体的に車椅子利用者の存在を把握しようとするのではなく、車椅子利用者の方から航空会社に自己主張をするという構図になってしまっています。
もちろん食のマイノリティや幼児に比べて車椅子利用者は少ないという数の問題はあるでしょう。しかし、だからといってその存在を例外として扱って良いわけではなく、存在するのが当然と見なして対応するべきです。マイノリティについて事前に把握する必要があるならば、そのコストは利用者側でなく航空会社側が負担すべきではないでしょうか。実際「障害者への差別的な対応しないよう航空会社に指示へ 国交省 | NHKニュース」でも、「搭乗前に乗客に聞きとる」という航空会社の主体的な行動が要請されています(この記事に対して、やはり木島氏は事前連絡すべきだったとする意見があるようですが、それには前述した飛躍があります)。
一方で、電話で連絡すれば搭乗がスムーズになるというのは、搭乗できないよりは遥かにマシでもあります。それ故この対応を「差別である」と切り捨てることもできません。
つまり重要なことは、「ある行動が差別であるかどうかは0/1で決まるものではなく、比較可能なものである」ということです。今回のような「比較的差別的」な状態は、「比較的バリアフリー」を継続的に目指すことで解決されると私は考えています。
差別が0/1で決まるものではないという話をしましたが、それは「バリアフリー」についても同様です。事前連絡をすれば搭乗できることは、全く搭乗できない場合よりはバリアフリーであるといえます。しかし同時に、事前連絡せずに搭乗できる場合よりはバリアフリーではありません。本当にバリアフリーな社会が目指すべきなのはこの、「事前連絡せずに搭乗できる」という状態でしょう。
1つのバリアフリーな手段が用意されていることだけをもって「バリアフリーだ」と言い張るのは簡単です。しかし、それによって既存のバリアフリー施設の問題点や改善点が見えなくなってしまうという新たな障壁もあります。そのような「なんちゃってバリアフリー」の状態に甘んじることなく、全てのバリアがない「真のバリアフリー」を目指すことが、社会全体としては必要とされています。
もちろん「真のバリアフリー」は理想論であり、全てのバリアを一度に完全になくすことは現実的に不可能です。だからこそ、一つのバリアフリー施策を実施するだけでバリアフリーになったとするのではなく、既存のバリアフリー施策で足りないところを改善しながら一歩一歩「真のバリアフリー」を目指していくことが必要となります。この、漸近的に解消していくプロセスこそが合理的な配慮である、と私は考えています。
今回のバニラエアの場合は、例えば予約時にモビリティ上の特記事項があるか否かのチェックボックスを用意すれば、航空会社は車椅子利用者の利用を把握できる上、ユーザーの手間もそれほど変わらないでしょう。その上で航空会社がどのように対応するか、主体的に決めることも可能になります。多くの種類のマイノリティが存在する中でどれに対応するのかという問題はありますが、サポートする範囲を少しずつ広げながら、差別を減らしていけるはずです。
差別やバリアフリーを0/1で捉えるのではなく、連続的に改善していける社会になればいいなと思います。長い文章でしたが、読んでくださった方ありがとうございました。私より中立的な立場の方からのコメントや、車椅子利用者の方のコメントが頂ければ嬉しいです。
親学コミュニケーション塾なる教育委員会関連の団体が主催する親業講習会ってのの案内が回ってきて、オウさすがわが故郷保守王国愛媛の未開の地今治やなと思ってたら、なんか中身がまともっぽい。なんなんだろうと思って調べたら、親業って親学と全然違うのね。ペアレントトレーニングとかそっち系? んで、ネットで調べたら「親学は親業にとって風評被害与えてるみたいなもん」って話が出てきた。
これはもう完全に陰謀論なんだけど、今治って偉いさんたちに日本会議入ってますって人多いのね。市議会の議員さんとかめっちゃ書いてる。そしてそこで親学ってもんがあるらしいよ、なんかいいらしいんだけど、って偉いさんが適当に聞いてきたんじゃなかろうか。そしてじゃあ親学って入れてみるか、ってなって、でもよくわかんないし知ってそうな団体にお願いするかーとやったら親業が引っかかった、と、これそういう話なんじゃなかろうか……。
なんかこういう、田舎にトンデモ持ち込まれたものの、持ち込んだ人がそのトンデモに熱心じゃないから既存の、業界的にはまとも寄りの団体がトンデモの看板の下で活動して、みたいなこと、結構あったりするんじゃねーかなーと思った……。
いやー、とにかく批判=オール悪口みたいに取り上げる奴は多いからね。
江戸時代かよ。と思うけど、確かに同調圧力ばかりで、それが強くなれば、偉い人が言うこと、その場の多数意見を推し量って黙ってるってのが正解となりますな。
日本は太平洋戦争に空気で突入したということで戦後連合国側びっくりしてたね。
ああ、そういう戦前みたいに空気で自分の思うどおりになってくれる社会がいいんだエーンエーンみたいな、政治家側の甘ったれが日本会議だと思ってる。
だろうとおもうよ。
リアルでもそういう奴ちらほらいる。
ホンマにやばくてかなりキツメに言うと、後でネチネチ嫌がらせしてくる。
人間みんな自分の好きなようにやりたくて、それを否定されるわけだから。
江戸末期か、明治初期に、日本人が海外行って、「海外では意見が違ってもその後ニコニコしている。日本だと殺し合いになるのに、、、、」
とびっくりしていたが、もうなんか明治以前になってるような気がして仕方ないね。立憲主義を取り巻く「言論人」「政治家」の香ばしい発言を見る限り。
儒教は上が自分のことをわきまえて、下がそれに従えば理想的というもの。むしろ、上がどうあるべきかの話のほうがめちゃくちゃ多い。
だが、上がわきまえなければ上の自己愛を満たすためだけの腐った儒教になって、日本会議系とか森友からはその腐臭がプンプンした。
だって日々問題山積なんだからね。時代が変われば問題ができ、それで利害対立が出来て議論がされ、政治が仲裁する。
だけどね、批判されないってのの最も楽な手段が「言論統制」であって、往々にして使われてるんよ。
現に、ネトサポというかたちでレッテル貼りで、政治に問題ある言論をさせないようにとかしてるじゃない。
日本会議系、森友で見えたのも、「上に言うことは従順に従え」という腐った儒教。
本来の儒教は上は批判を受け止める。そのための心構えもいっぱいあるが、日本会議系は全部無視して「下が従順に従え」だけ切り取る。
更に、それを押し付ける。
とすると、「批判のない政治」と聞いて、ある程度政治の知識、歴史がある人間がみれば、上級階級様が好き放題やっても批判のない社会。
経営者としてや技術者として優秀でも人文的な見識がない人の方が、むしろ日本のビジネス界では多数派。増田の父はごく普通の「有能なジャパニーズ・ビジネスマン」ってだけだと思う。
だから日本会議みたいなトンデモに引っかかっても平然としていられる。見抜くための知識がないから、平然としてられるんだよ。
技術劣化を見抜く力があって、かつトンデモカルトを見抜く力がない人なんて、大企業の管理職や経営者クラスにはそんなのごろごろしとる。もちろんそうじゃない面白いオッサンもいるけどね、多数派は増田父と似たような感じだ
日本人の経営者は、人文的な知識がなさからくるバランス感覚の欠如の方がむしろ、技術力や経営力のなさよりもアキレスの踵になっているケースが少なくない
ヨーロッパだと経営層は殆どの場合上流階級のものに占められていて、彼らの多くはキリスト教に基づく(偏ってはいるが)人文的な智恵を有していたりするが、日本にはそれがない。
昭和の時代だと三国志や戦国武将のエピソードを引いて一家言ぶてて一人前、みたいな風潮があったり、管理職研修でやたらと座禅をさせたがる経営者がいたりしたが、理念が地に足付いてないからついついそういう発露になるんだろう
大学者がリベラルアーツをついうっかり叫びたくなるのもその辺かもしれない。ただし高等教育の姿=その社会の縮図なので、形だけリベラルアーツ方式を取り入れても意味がないけど