はてなキーワード: 商業主義とは
吐き出し
某所に質問として送ろうと思ったけどあんまりにもお気持ちすぎて送るのやめたやつ
●●さんこんにちは
私は今、友人へとてもつもなく嫉妬していて悲しみでいっぱいです
友人はとてもかわいいデフォルメ調の絵を描く新進気鋭のイラストレーターで、もともと人と関わるのも上手で、今沢山の人に囲まれ愛されています
一方私は、デッサン力は友人に劣らずと言う自負がありますが、可愛い絵を描くのが苦手で、人と関わるのが苦手で、友人とは正反対です
本当はかっこいい絵が描きたいけど、友人のような可愛い絵が描ければ私も誰かに愛してもらえるのではと言う思いがあり、(そのことを伝えたわけではないですが)彼女に可愛い絵の指導もしてもらっています
でも一向に評価は増えず、あ、やっぱり私じゃダメなんだと心が折れて寝込むことばかりです
絵のことを相談できる人が友人しかおらず、しかし、こんなことは言うことができず、苦しいです
商業主義で行くならもっと可愛く描けるべき、個性は捨てるべき、3Dでも素材でも何でも使うこととよく言われていますが、最近、その意見に素直に賛同できていない自分に気付きました
私もいずれは友人のような多くの人から愛されるイラストレーターになりたいと思っています
でもこのままでいいのでしょうか
意見に賛同できない友人から指導を受け続けるべきなのか分からなくなってきました
●●さんのご意見をお聞きしたいです
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
自由主義には、大きくわけて2つの側面、社会的自由(個人的自由とも言う)と、経済的自由がある。
経済的自由は、これを推進する場合、いわゆる自由化、民営化、規制緩和、減税、といったように、商業主義的な施策を推し進めて、格差や痛みは生じるがトータルでの経済のパイを拡大して強い国にすることに重点を置く。
これは右派の思考。一般的に右派は保守と言われるが、経済に関しては進歩的なのが本来の右派であり、保守性は主に、社会的自由を伝統や慣習などの堅持によって抑圧する方面を見たときの印象となる。
共産主義においても、実態としては経済的自由に関しては右派的な施策をとっていることも多く、つまり商業主義的なイケイケドンドンで公害のような負の外部性を顧みずパイを広げていこうとしがちだ。
①生成AIの影響で真偽が判断つかない情報や、無意味・無内容な情報が、加速度的にSNSなどに溢れかえる
➁もはや、オープンなSNSやインターネットはスカム情報で溢れかえりナンセンスで役に立たないものになる
➂オンライン/オフライン問わずニッチでフェイス2フェイスなコミュニケーションが流行
④ニッチなコミュニティを横断するミニコミ的媒体の需要が復活する
「意味のある情報」が人の手に戻ってくる時代と考えると、インターネットがより身近になる、人間中心的テクノロジーになる契機なのかもしれないよね。もはや、「ただの情報」がスカム化して意味をなさなくなり、「人とのつながり」みたいなコンテクストが重要になる。
この話はなにも生成AIを話題に出すまでもなく、そもそもインターネット広告モデルの持つ情報流通の脆弱性の話なんだけどね。
つまり、インターネットはすべてをフリーにした。そういったアナーキーな価値観で草の根的に生まれた世界だった(cf.自由ソフトウェア運動)。だけど、それじゃビジネスは成り立たない。
そこで、インターネットがたどってきた道はこうだ。
アナーキストたちは採算度外視で(そもそもそういう商業主義を否定するんだからそりゃそうだ)市場を壊していく。「無料でアクセスできる」情報には誰も金を払いながらない。だって、値段をつけて売られてるものが、ネットならタダではいるから。
そのため、商業主義者たちは考えた。「つまり、エンドユーザーには無料で届けなければ太刀打ちできない。なら、エンドユーザーを商品にして、toBにエンドユーザーを売ればいいんだ」。これが今日まで続く、インターネットで主流の「広告モデル」によるコンテンツ生産だ。
しかし、インターネットの「広告モデル」は、これまでのメディアのそれと大きく異なる。なぜならば、トラフィックのすべてが事細かに分析の対象となり、しかもそれがリアルタイムで見えてしまうから。つまり、ウェブコンテンツは「この特定ページのこの部分にこのくらいの時間滞留する。だから、ここに広告を置けば見えやすい」ということが分かってしまう。
これは大問題だ。クリエイティブっていうのは、コミュニケーションっていうのはそういうもんじゃない。数字や言葉に現れない絶妙な采配。そこにしかクリエイティブは宿らない。なのに、それが許されなくなってしまった。
そうなるともう、アテンション・エコノミーの問題につながる。さらに注目を、さらに注目を、そんなことをしているうちに「何に注目したらいいか」をゆっくりと捉える時間がなくなり、「安易な刺激」に逃げるようになる。
「タイパ」という言葉が最近は話題らしいが、あんなものは嘘っぱちだ。「安易な刺激」のイテレーション周期をいくら速めたところで、そこに「意味」はない。TikTokを2時間見る時間があれば、映画館に行ったり、コンサートに行ったりして、「意味のある体験」をしたほうがよっぽどパフォーマンスはいいはずだ。
そして、「タイパ」という言葉の流行、さらに「生成AIによる情報のスカム化」は、いわばこの「無意味な加速」の極限であり、ピーク状態である。つまり、このバブルはあっという間に弾ける。徐々にその加速が無意味であることに気が付き始める。(cf.寝そべり族、Doomer、だめライフ)
だからこれからは、「ミニコミの時代」だ。自分たちの時間を大切に、自分たちの価値を大切に、自分たちのいのちの使い方を大切に決められるオルタナティブなライフが求められる。そうした血の通ったネットワークが求められる。そこに必要なのは、内部の結束と、外部への発信としての「ミニコミ」なんだとおもう。
https://somethingorange.jp/entry/otakusabetu
個人の感想です感が強い
何故なら、スプラッタ映画を愛し、アニメを視聴しても、別にイジメられてない層は存在するからだ
忘れられがちだが、例の事件の当時、スプラッタの方が迫害にあっていた
レンタルビデオ屋からホラー映画が消えていたのを覚えてる御仁も要るだろう
イジメの対象となるような人物の共通項は、オタク的趣味であったという方が良い
当時の排斥対象は、今でいう「キモオタ」「チー牛」「コミュ障」であり
嘲笑する論説は巷に溢れているだろう?
同属嫌悪も誤りだ
でな、オタクというのは自認もあるから、オタクがオタクに物申すというシーンは増える
だが考えて欲しい
「私もパチンカスだけど」っていう奴どれだけいる?
この「同族嫌悪」というのは、自認する属性にクズが居るケースでしか起こらない
少なくとも、自認の余地があり、そこに居るヤカラを嫌うから結果同属嫌悪と見えるが
本人の中では「同族」なんぞと思ってない
まだしも、聖地や商業主義に絡めて、オタクは客と認知されたという方がマシだ
でも技術が生まれたら人間みんなそれにこぞって群がるという「歴史」があるじゃん?
歴史から学んでできることなんて人間の愚かさを知ることくらいで、人間の愚かさそれ自体は変わりようがない
歴史を単にで「知ってる」だけじゃそこから何か役立つ発想を抽出できないし、ちゃんと自分の身で豊富な経験をしていろんな人のことを知って現実性のある判断ができることが大事だよ
現状に不満を持っていてもそれに逆行して原始共産制に戻ることなんてできないなんてわかりきってるはず
そして学者が啓蒙なんて幾らし続けてもきりがないしほとんどの人間は自分で経験を積んでいって自然と気づくしかない
どんなに崇高な理念に共感できてもニヒリズムへ、快楽主義へ、権威主義へ、商業主義へ簡単に堕落してしまえるのが人間というもの
本編だけ見るとスレミオとラウペトが成立して終わったなとしか思えない。
でも公式SNSアカウントが最終回後に更新するのはグエスレ、シャディミオ、ラウグエのCM。
グッズが売れるならエラスレにもその他の非成立カプにも日和って、グッズを売ろうと擦り寄る商業主義。
別に商業主義は良いと思う。コンテンツなんか稼いでナンボでしょ。
稼げなければスタッフ食わせられないし会社が潰れて次回作だって作れない。
でも本編と全く方向性の違うカップリングのグッズ売り続けるのってどういう神経してんだ?となる。
本編がボカす終わり方したならまだしも、「結論はこれです」って感じの見せ方しちゃってんのよ。
本編でくっきり結論を見せすぎたうえで、雑誌の記述削除とかで広報部分だけボカしたところで何の意味が?
これは非成立カプの界隈が「財布にするな」と荒れるわとなる。
なんでこういうズレが発生するかな。なんで公式内で足並みが揃わない?
百合とかBLとかセクマイとかの「クィア」を客寄せ要素として使ってるけど扱いが不誠実、みたいなのをクィアベンディングと呼んで差別だと指摘する意見がある。
カタカナ語であることからもわかるように英語圏で流行り、最近は日本でもセクマイを扱ったエンタメや芸能人が批判される際に、意識の高い人たちを中心に使われだしている。
百合営業とか腐営業やってるくせに浅いし適当だし失礼なんだよ、みたいなことは昔から日本でも言われてきたが、クィアベンディングという用語を使った場合、倫理面での強い批判というニュアンスになり、批判された側は申し開きが難しくなると思う。
私は百合やBLを楽しんできたオタクであり、同じジャンルのオタク友達の中には、クィアベンディングなどを指摘する人も結構いる。
クィアベンディングにある程度の問題があるということは否定しない。
だが、私は、クィアベンディングであることを理由に何かを責めるつもりにはなならない。私は、客寄せのクィアを散々楽しんできたし今後もそうするだろうからだ。
そして私が認識している友人たち(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス含む)や、世間のほとんどの人もそうだ。
(おそらく異性愛者であろう)アイドル同士がMVでほっぺにキスをしあうところや、キャラクターが不意のボディタッチであわあわするシーンや、役者が作品中ではなくオフショットで共演者にあすなろ抱きや壁ドンしている写真や、Twitterのフォロイーや私たち自身が同性友達とお出かけすることをデートと呼称することを、ニコニコしながら……時にはキャーキャーウォーウォー言いながら私たちは楽しんできた。
それらの半分以上はクィアベンディングと呼ばれてもおかしくなかったと思う。でもそれらは燃えなかったからわだかまりなく楽しんでいます、だけど何かのきっかけで燃えた物に対しては、急に真っ当な顔をしてクィアベンディングで差別的だと全力で怒ります、という気持ちにはならない。
ダブルスタンダードとかブーメランとかの指摘が力を持ちすぎる風潮は歓迎していない。人間は考えを変えたり矛盾したりしてしまう生き物だと思うので。
でもそれにしたって、タチの悪いダブスタをやりつつ倫理的に正しい側に立った態度をするのはよくないだろう。
クィアベンディング的な売り方はよくないと学びました、私も悔い改めて今後それらを楽しむことはしません、ということならばわかる。
だが、先月クィアベンディングで怒ってたのに、翌週には2.5次元俳優の楽屋での距離の近さにときめいてて、来月出る百合萌えゲームも楽しみだけど、今日はまたクィアベンディングに怒りますというのは、よくないよ。
自分自身がセクシャルマイノリティであろうとなかろうとね。
エンターテイメントや芸能業やスポーツ含めた興行というのは多かれ少なかれ外道の商いで、売り手も買い手も、私たちはみんなその悪を背負っている。
それでも、悪すぎるものは程度問題として批判され改善された方がいいと思うが、その時話題になっているモノの悪さの程度はどれだけなのかというのをちゃんと考えた方がいい。話題性だけに引っ張られて怒り、クィアベンディングという使い勝手が良くて非難として強い言葉を使い、自分の普段の行いを棚に上げて善人面していないか。
一般論として読んでほしいから具体名を出すか迷ったけどボカすのも不自然かと思うので名言すると、このエントリを書くきっかけは水星の魔女の話題である。
百合やBLを尊いとか萌えとか言って楽しんできたし今後も楽しむであろうベンディングエンタメ大好き人間が、水星の魔女を批判する際にクィアベンディングという用語を使うのはスジが通らないと思う。
まず前提として、水星の魔女の作中・作外においての結婚の表現の避け方が、余韻を生む効果より、不自然で違和感を生むマイナスになっているとする。この前提に同意せず「作品の質を上げるためには結婚表現の回避が必要だった」という立場もあるかもしれないので。
あの不自然な結婚表現の回避が、誰かの思想によるのであれば(百合を売りにした作品じゃなかったとしても)同性婚冷遇的すぎてよくないし、海外展開の妨げになるからと勘繰られているのが本当にそういうなら商業主義のせいで作品に不自然さという瑕疵を作っていてよくないし、だいたい婚約指輪を描くのはいいし花嫁花婿と言うのもいいけど結婚と言うのはダメみたいなピンポイントの言葉だけ隠せば問題ないという基準は馬鹿らしい、などの批判なら、大いに頷ける。