はてなキーワード: ミュージシャンとは
自分にとってはニコ動の登場は衝撃的だったし、コメントの力で動画を後付けで面白くする(可能性がある)ってほんと革命的だと思う。
一時期はゲーム実況やボカロとかが盛り上がってボカロ出身のミュージシャンもいっぱい出てきて文化を作っている感じだったのにいつの間にかYouTube一強や。
はてブでもかわんごの発言はみんなウケててヒーローだったのにいつの間にかぼろくそに言われる対象や。当時はギャグとしてウケてた発言が今掘り起こされて叩かれてたりとか可哀想やで。あの頃を知っている身からすると悲しすぎる。
現実の制度として存在するわけじゃないけども、キャーキャー言われたり街中でサインを求められたりってのが有名税の1つの解釈としてはあると思うの。
その課税対象であるところの有名人、表現の違いはあれど(ミュージシャン、アイドル、ダンサー、俳優etc)広く顔を売る商売をしている人が対象になるんだと思うんだけど、今の世の中だと顔を売る事がビジネスというかメイクマネーに直結してない有名人ってのが存在するようになってるじゃないですか。
ツイッターやインスタでフォロワーめちゃくちゃいる人だけど本業は別にあってみたいな人。
自分がフォローしてる人で、アルファと言われる方をこの前街で見かけて、結果的に見かけただけなんだけどもこれやっぱりサイン下さいとか写真撮って下さいとか握手して下さいみたいな事は、正しい行為ではないよね?
それで金を得てない人には課税しちゃいけないよね?
いや、実際はなんらかの副次的な収入はあるのかもしれないけど確認しようもないし何よりい失礼な行為だよね?
ただこれ対象がメイウェザーだとか千代の富士とかだったら行っちゃうと思うのよ私は。
もちろん失礼な事には変わりないんだけど行っちゃうと思うの。
家に電子ピアノはあったが
tong pooが弾きたくて一生懸命練習しまくった程度である
教授の影響は受けていると思う
当時私は20代前半
(記憶が曖昧だが)確か物販で何かを五千円以上買ったら握手券一枚と引き換え出来て
私は会場限定Blue-rayとスコアを購入して握手券をもらった
握手会の列に並ぶ
前のおじさんのほうが対応は凄く良かった
私の番が来た
無表情で一言も、何も言ってくれなかった
片手でしか私の手を握ってなかった
とても辛かった
なんか好きなのをすべて否定されたのかのような
家に帰ってから前の人と私の扱いが違いすぎることに号泣して凄い落ち込んだ
そっちの方が明らかに対応が良かったし(そのミュージシャンは終始笑顔だった)少しだけだけど会話出来た
未だに握手会のことを思い出しては
思い返せば学校生活から、人とうまくやるのが苦手だった。育った環境は特に劣悪でもなく、23区のあまり裕福ではないほうで、いじめを受けながらも、それなりに義務教育を終えた。ただし、いじめを受けると、それなりに人付き合いが苦手になるが、現在そのことが影響を深く与えているとは考えにくい。
その後勉強のできる都立高校に進んだ。校則が一つもない学校で、当然服装やら髪型の規則もない。しいて言えば、ちゃんと学校にある程度来ることと、補導されないこと、それと校内では下履きに履き替えることくらい。友達とさぼって映画を見に行ったり、年齢制限をゆるく見てくれるお好み焼き屋に行ったり、近所の公園で浪人生に逆ナンパされたりと、人生初のリフレッシュができた。図書館で山ほど本を読んで、週3回剣道をして、ようやく人生が軌道に乗り始めた。
それほど頭は悪くなかったようで、そこそこの大学の英文科に入ることができた。映画サークルに入り、何本か映画を撮ったり出演したり、地味だったがそれなりに楽しく生活できていた。
兄弟が4人もいたので、アルバイトも高校生のころからちょくちょくしていた。多少を家計の足しに、それと自分の物欲のために。高校生のころコンビニで2年弱、大学生からはファミレスで1年、塾講師で3年。
多分、今に至るきっかけはファミレスのころにうまくいかなかったことに起因している。そして大学生活にも一因がある。
ファミレスでは、厨房でドリンクやデザートを出す仕事をしていた。厨房内では仲良く働いていたが、何となくウエイター/ウエイトレスの人とうまく話ができないまま1年が経ち、そこから人と話すのが苦手になっていた。同じくらいの女性とどんな話題を共有すればよいのか、向こうも話しかけてはくれないし、こちらも話すきっかけがない。
厨房の人がとても優しかったのは今でもいい思い出だ。一緒にワカサギ釣りに旅行に行ったのが懐かしい。釣ったワカサギを持って、お店で揚げて食べたのもいい思い出。
大学1年生の性欲やらが多感な時期に、自分の口下手と話題のなさが鬱屈を与えたのだろうか。
カート・ヴォネガットの短編小説やチャールズ・ブコウスキー、初めて英語で読めた小説の「クール・ミリオン」、高校生から好きで読み漁っていたアメリカ文学、自分やサークルで作った映画、鉄男や小沢健二やNumber Girlやマイケルジャクソン、クラブでかかっていたNirvanaやStrokes、軽自動車で行ったフジロック、そんなものは誰の興味にもならないと決め込んでしまった自分がよくなかったのだろう。
1年経って結局そのファミレスが潰れてしまったが、「あの人の日とか失敗、つまんないし」といったようなことをぼそっと聞こえるように言われたのが今でもフラッシュバックする。
その後、3年弱塾講師のアルバイトをした。個人指導塾で、入って3日目に、「この研修に行くと5000円がもらえる」と言われて行った研修。一言も発言できなかったことを思い出す。
自分が抱える生徒の多くは、本指名から外れてきた子が多かった。成績もみんなそれほど良くなく、自分にも人を教えるスキルが足りなかった。結局浪人させてしまった生徒のことを時々思い出す。本当に悪いことをした。一人で赤本を解いて、わからないことを聞きに来るというスタンスを取らせればよかったのに、自分が無駄に介入してしまったことが悔やまれる。
そのバイト先で覚えたのが、お酒に頼ることだった。安い居酒屋で終電まで飲んで、げらげら時間を共有できる。それが社会人になってもコミュニケーションの核となってしまう。
文学部ながらも、BBSや簡単なアプリを作ることができたので、ソフトハウスに就職できた。2年半いたが、デスマーチで体調を崩してうつになり、結局辞める。
新人研修のころやその後の付き合いもお酒が基本だった。キックオフ、とりあえずリリース、最終FIX、とかのタイミングでようやっと胸襟を開いた話ができる。それまでは、ほうれんそう以外の会話もなく、とにかくメールに頼るようになっていた。
時々生意気な意見を言ったり、人のプログラムを勝手にリファクタリングしたこともあった。
記憶がないなか、帰巣本能で家に帰るのもよくあった。タクシー代を貯めていれば相当の金額になっていたのではないかと思う。
少し休んで、プログラマとして別会社に復帰した。総務と経理以外はほぼ男性の会社で、よく飲んだ。
その会社でようやっとまともな生活を取り戻すことができ、結婚もできた。
3年ほどプログラマをしていたが、目の前に座っているおじさんプログラマの1/10しか生産性がないことがわかり、社内異動で説明書のライターに転職する。
車好きやキャンプ好き、バイク好き、元ミュージシャンが異様に多い会社で、よく泊まりで出かけていた。自分よりも年上が多いから、みんな自分の事を話してくれる。お酒どうこうもなくその人を知ることができる、いい機会だった。ある人が定期購読していた、日経ソフトウェア数年分を借りてJava以外のスクリプト言語(自分はPython)を学ぶBoot Strapとして使わせてもらったり、ほんとうに幸せな日々を送ることができた。
その会社は、株式公開に伴う人員削減で、半数以上人がいなくなった。自分も窮屈なライターを続けるのが辛くなって辞めて、割増の退職金をもらった。以降半年近く、妻以外の人と話すことなく、引きこもりながら割増退職金に付随する給料をもらっていた。働かずに給料をもらえるのがこんなに苦痛だったのか。
いい加減引きこもりにも飽きて大会社に転職するチャンスをもらった。その間に障碍者手帳をもらい、障碍者枠での就職活動をすることにした。
大会社は大会社だった。エリートはエリートで、二級以下の低級労働者の自分は、その程度の扱いしか受けない。大学のランキングを引きずる社内で、
自分はまず
・学歴劣る
・それまでの成果は劣る
・白髪ばっかり目立つ
・とにかくあいつは劣る
という状態になった。
新卒の指導をしても、まるで彼が改善しない。自分を責め続け、ぎっくり腰になった。みんなが、「彼はそうだから」と言ったが、彼をある程度に育てることができず、結局リリースした。リリースしたらとたんにぎっくり腰がよくなった自分の無責任さにびっくりした。
あと、それほど多く飲み会がない。飲んでも自分のような飲み方は誰もしない。場をわきまえ、何となく優しくやっている。
なんで、しらふで天気の話ができないんだろうとか、自分の好きなことを少しでも話せないんだろうとか、毎日悲しくなる。
行動をしないと、周囲も変わらない。一か月以上、挨拶と仕事の最低限のやりとり以外はしていない。たかだか席替えでこんなに弱ってしまうとは。派遣の期限がきてしまう子がいなくなってしまうことにこんなに心が揺さぶられてしまうとは。
ごめん。こんな人間は、やまゆり園の加害者の気持ちでは必要のない人間だったんだろうね。でも、家族と過ごす時々の時間を過ごしてもいいのかな。
好きなミュージシャンの一人が亡くなった。
ツアー中止が発表されてそれっきり2、3日アナウンスが無かったので何が起こってんだと気にしていていたらボーカルが亡くなったことが発表された。
テレビで有名人が亡くなろうがいつも思うことは一緒だったけど、今回は違った。
公式サイトで訃報の文章を読んだ時、信じる信じないとかではなくハテナマークが頭を埋め尽くした。
亡くなった。ただそれだけのことを理解するだけでいいはずなのに、文章を読み返してもなかなか脳が情報を処理できずにいた。
グランドセフトオートサンアンドレアスで主人公のカールジョンソンが母の訃報を聞き故郷に帰って母親の写真を見たときに似てる。なぜかそんなことを思った。
凄いバンドだった。
時代を先取るとか懐かしむとかではなく、そのバンドが一つの音楽ジャンルとして存在しているようだった。
最近出したアルバムはこれまでの音源と桁違いに良くて寝る前に毎晩聞いていた。
こんな凄い音楽を作れるなんてと一人で勝手に感動してはこれからはもっと凄い音楽を聴かせてくれるんだろうと勝手に期待していた。
亡くなってから一週間くらいは「死にかけました」とか「実は生きてました」とか言ってまた活動が始まるんじゃない?なんて考えては、でもそれだとあまりに不謹慎すぎるから上手いことやってくれよな。なんて考えたりもした。
Twitterを見ればまだ体温があるように感じるし、なんだかんだ曲作ってんじゃないかななんて思っていた。
思うのは、 バンドの音源を聴くたびに「でももういないんだな・・・」くらいだ。
販売自粛が高じて「音楽に罪はない」という言葉が飛び交い、果ては「ピエール瀧の生き方」が再評価される流れになってきた。
いや、音楽に罪はない、ってのはいいよ、僕も曲がりなりにも音楽作ってご飯食べさせてもらってる身なので。
それだからこそ、ピエール瀧までも正当化させようという流れはどうしても許されないし、許せない。
「海外なら薬物で捕まっても販売は続く」とか言うけど、じゃあミュージシャンはやっていいってことに繋がるんか?違うだろ?
変な誤解を与えさせてどうするんよ。
確かにピエール瀧含む電気グルーヴに刺激受けてきた人達にとっちゃ英雄かもしれんけど、やっちゃいけないことまでと正当化させようとするんじゃない。
僕の20歳は、「人生」っていうバンドをやりながら東京で一人暮らしをしてて、医療系の専門学校を中退した年ですね。臨床検査技師の勉強をする学校だったんですけど、1年目の途中であんまり行かなくなって、2回目の1年生の夏に、ドラクエ のやり過ぎで辞めたんです。辞めたからといって地元の静岡に帰っても仕方ないし、仕送りを止められたので、バイトとバンド活動に明け暮れてました。あ、明け暮れてはいないですね。バイトをそこそこやりながら、あとは遊んで暮らしてました。すいません、ちょっと自分を良く言おうとしちゃって。お恥ずかしい。
このころは幡ヶ谷のワンルームマンションに住んでました。いまもバンドを一緒にやっている(石野)卓球が笹塚に住んでいて、ちょうどその中間地点に練習スタジオがあったんです。当時はインディーバンドブームで、僕らも雑誌に取り上げてもらったりして、幾らか知名度はあるインディーバンドっていうようなポジションでしたかね。
仲の良い友達と始めたバンドだから面白かったですけど、僕は部活みたいな感覚でやってましたから、とうていそれで食っていくってことを思いつくはずもな く、とくに将来のことも考えずに基本毎日ぷらぷらしてたんです。夢中でガチャガチャをやり過ぎちゃったり、CDをジャケ買いして失敗したのが痛いとかで、 明日の晩ご飯代がないみたいなことはありましたけど、そういう無目的な若者でもなんとかやれる土壌があったというか、都市の遊びの部分に上手くハマってたんだと思いますけどね。
ただ21歳になるころ、インディブームからバンドブームみたいなものに変わっていって、僕らのバンドでやれることも飽和していたので、「人生」は解散したんです。
当時はちょうどテレビで深夜放送が始まったぐらいのころで、よくバンドのPVが流れてました。「人生」を辞めて僕はもうバンド活動はしないと思ってたから、それを見て、PVの監督になりたいなぁと思ったんですね。それで知り合いが紹介してくれて、バイトで四谷三丁目にある小さな映像制作会社に入ったんです。
そこは、地方のCMや企業の宣伝用の映像とか、そんなにメジャーじゃないバンドのPVを作ったりするような会社でした。20歳そこそこの小僧が見る世界としては、高価な機材とか目新しいものがいっぱいあるし、撮影の現場で「本番!」みたい な感じがすごく面白かったですね。ただ会社が小規模なので、現場に付く下っ端が僕一人しかいないんですね。教えてくれる人もいないのに、現場はどんどん進んでいくわけですから、とにかくしんどかったです。辛くて泣きましたもん。夜中に帰って、当時一緒に住んでた彼女に「仕事が辛い」つって「うぇーん」って 泣いて、その45分後には「仕事行かなきゃ…」って言ってたりとかね。
そこで働き始めてしばらくしたら、卓球から連絡があって「こんど電気グルーヴっていうユニットを新しくやろうと思うんだけど、お前もやんない?」みたいなことを言ってきたんです。なんでまた俺を誘うのかなと思ったんだけど、「良いよ。でもこれは完全に趣味で、部活みたいにやっていこう」って言って、電気グルーヴの活動を始めたんです。
それで2回目か3回目のライブを見たソニーの人から声をかけられて、呼び出されて新宿の寿司屋に行ったら「君たち、プロでやる気はないの?」って言われたんです。そりゃ、やりますよね。だって、部活でお金くれるんですから。とは言っても、条件は月給10万円。ザッツオール(笑)。
ただこのとき、僕は、制作会社の人たちにはお世話になってるし、少人数の制作体制で自分が抜けることの意味が分かってました。かといって二足のわらじはとうていムリですから、最終的には上司に「こういう話があって、すごく迷ってるんです」って切り出したんですね。そうしたら、「若いんだから、絶対音楽の方に行った方が良いよ」って背中を押してくれて、それでデビューすることに決めたんです。僕個人としては「どうせこんなバンド、ポシャるだろうから(笑)、 まあ、3年ぐらいプロのミュージシャンの世界を見てきても、いま21歳だから24歳。まだいけんな」っていうのでデビューしたみたいな感じでした。だからプロになったっていう自覚はあんまりなかったんですけどね。
すぐにレコーディングだってことで「マンチェスターとニューヨーク、どっちがいい?」って言われたんです。「さすがソニー。金持ってんなぁ」みたいな感じでマンチェスターに行くことにしました。昔から好きだったニューウェーブとかギターポッ プみたいなものはマンチェスターのやつが多かったですからね。向こうに2ヶ月ぐらい滞在してファーストアルバムを作りました。当時「マッドチェスター」っ て言葉があって、マンチェスターが狂ってた時期の後半で面白かったですね。ライブを見たりクラブに行ったりすると、イギリス人にもゆるいやつとかメチャクチャなやつがいて、刺激はいっぱい受けましたね。まあ、こちらは21歳でなんも考えてないですからね。それはねぇ、そんなやつを自由にそういうところに行かせたら、やっぱり何色かに染まりますよね(笑)。
電気グルーヴはふつうのバンドと違って、主要な旋律はだいたい機械が出してくれるわけですよ。だから練習よりは、ライブの日のテンションの方が大事だったりするタイプのバンドだったんです。僕は楽器をやるわけじゃなくて、たまにマイクを持ってがなったり、まあ歌ったり、歌を間違えたり、歌わなかったりとかもしますけど、ほとんどステージに出てフラフラしてるだけなんです。バンドって遊びの側面があるじゃないですか。僕の感覚としては、その遊びみたいなことをずっと続けてるのに近かったんですけどね。まあ客の盛り上がり加減を見ては「今日はもうちょっともっていけたのにな」って思うことはあったけど(笑)。だいたい、僕を見てるとは思ってなかったですもん。みんな卓球とかを見てて、たまに見られてる箸休め的な感覚でやってましたから。
なんて言う人がちらほらみられるんだけど、少なくとも自分はそういう観点で一連の騒ぎを批判してはいない。そもそも直接他人に危害を加えない浮気不倫や薬物で報道された人を叩いたことがない。少なくともここ数年は絶対にないし、そういうゴシップにも興味がないし、一般人ならなおさら叩く必要がない。なんとか他人のダブスタをほじくろうとする姿勢が浅ましすぎて気持ち悪い。
特に今回話題になってる人は曲も出演ドラマ・映画も個別認識できないくらいしか知らないし。知っているミュージシャンやアイドル、野球選手の時もわざわざ俺が叩く筋合いがないのでなんのコメントもしてない。自分のブックマーク検索しても出てこない。
きっとそういう勘ぐりをする人って自分の基準がそうなんだろう。自分が好きだから擁護する、自分が嫌いだから(もしくは無関心だったが叩けるものはなんでも)叩く。擁護・叩きの区別無く、こういう行動はあちこちでみられるよね。安倍総理・自民党・共産党・立憲・韓国・中国etc……。
基準が好き嫌いでこういう叩きや擁護してるブクマカは基本NGに入れてる。正直見てもなんの得もしないから。もっともな理由とともに擁護・罵倒がなされていればひとの意見としてみてられるのだが